9.東アジア世界

「9.東アジア世界」の一問一答問題です。

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中国の古典文明(15)

IX-1. 中国の地理的区分

中国の主要部は,華北・華中・華南という3つの地域に区分されるが,どの地域を指すかということに関しては明確なものではない。北部を流れる中国第2の大河である流域を華北という。中国南部の広東省・海南省・広西チワン族自治区の地域を華南というが,福建省を入れる場合もある。華中は漠然とした用語であり,[ 1 ]と中国第1の大河のにはさまれた地域を指す場合もあるし,[ 2 ]の中・下流域をさす場合もある。さらに,歴史的な用語として,「[ 2 ]以南の地域」を指すという語が用いられるが,この語は[ 2 ]下流域の江蘇省や浙江省などの地域を指す語として用いられることが多い。

IX-2. 中国の風土

中国第2の大河である黄河の中・下流域は年間降水量が少なく,あわなどの雑穀を中心とした地帯である。これに対して,中国第1の大河である長江の中・下流域は地帯である。[ 1 ]地帯と[ 2 ]地帯を分ける線は,黄河と長江の中間にある大河のにほぼ重なる。
check_icon6[ 3 ]は,1142年に南宋と金が結んだ和議において国境とされた。

IX-3. 中国古代文明

黄河流域でおこった最古の新石器文化は,黄河中流域に前5000~前4000年頃におこった文化である。この農耕文化は,素焼きの地に赤や黒などの顔料で文様をつけた(彩陶)を用い,豚・犬・鶏などの小型の家畜を飼育した。前2000年代には黄河下流域を中心に,文化がおこった。この文化は,薄手の黒色磨研土器であるを用い,牛・馬などの大型家畜も飼育し始めた。一方,[ 1 ]文化と同じ頃の長江流域でも新石器文化が栄え,浙江省の遺跡などが有名である。
check_icon6黄河中・下流域の黄土地帯では,降雨量が少なく稲は栽培されていない。[ 1 ]文化と[ 3 ]文化の黄河文明は畑作文化,一方[ 5 ]の長江文明は稲作文化である。

IX-4. 邑(ゆう)

黒陶を用いていた文化の末期に集落は大型化し,と呼ばれる壕(ほり)や城壁で囲まれた城郭(じょうかく)都市が現れた。これはのちに大小の都市国家へと発展していった。中国最古の王朝であるやつづくは[ 2 ]の連合体であり,この時代の国家概念を[ 2 ]制国家という。
check_icon6[ 2 ]制国家の時代は,各地に[ 2 ]が点在している状態であった。面としての領土をもつ国家(領域国家)が登場するのは,戦国時代で,趙や燕が築いた長城は国境であり,領土の概念が生じていることが分かる。

IX-5. 殷

伝説では王朝が中国最初の王朝とされるが,その王朝の所在は確認されていないため,最古の王朝は前16世紀頃にできた(商)とされる。[ 2 ]は都市国家であるのひとつであり,宗教的儀礼を通じた政治によって多数の[ 3 ]を統率した。[ 2 ]の王は神意を占い,その結果を亀甲や獣骨に記録する文字を持っていた。この[ 5 ]文字は漢字の原型となった。また,[ 2 ]は高度に発達した製作技術を持っていた。
check_icon6[ 2 ]は中心都市を何度か変えているが,後期の都とされるのが河南省安陽市で20世紀初めに発見された殷墟である。

IX-6. 周の時代区分

黄河の支流の流域におこった周は初め殷に服属していたが,前11世紀頃に殷を滅ぼし,華北を支配した。前770年を境に前半を,後半をと呼ぶ。さらに,[ 3 ]の時代は,前403年を境に前半を時代,後半を時代と呼ぶ。

IX-7. 西周

前11世紀頃に殷を滅ぼした周(西周)は,都を(現在の西安付近)において華北を支配した。周王は一族・功臣や土着の有力首長に(領地)を与えて世襲のに任じ,貢納と軍役を課した。周王や[ 3 ]は,・・という世襲身分の家臣に領地を与え,農民を支配させた。このような[ 2 ]の分与による統治の仕方をと呼ぶ。周の[ 7 ]制は血縁に基づく氏族的関係であり,一族(宗族)の秩序や祭祀の仕方を定めたが作られた。
check_icon6(1)孟子が唱えた王朝交代の理論をという。それによると,王朝交替には二つの形式があり,平和的に政権を譲り受けることを禅譲といい,武力に訴えて奪うことを放伐という。殷から周への交替は放伐とされる。(2)西ヨーロッパ中世の封建制度は,個人間の双務的契約関係であり,周の封建制とは性格が異なる。

IX-8. 周の東遷

周王室の内紛にともなって,都のを異民族である犬戎(けんじゅう)に攻略された周は,年に都を東方の(現在の洛陽)に移した(周の東遷)。これ以降を東周というが,周王室は衰え,年の秦による統一まで諸侯が勢力争いを繰り広げる・時代が続いた。
check_icon6古来より中国には,周辺の異民族に対し,と呼ばれる優越感があった。[ 7 ]では,漢人(漢民族)が住む土地を中華・中国・中原と称し,文明地帯であると美化する一方,周辺の異民族が住む地を未開の地とみなして蔑視した。東に夷(い),西に戎(じゅう),南に蛮,北に狄(てき)と呼ばれる異民族が住むとされ,異民族を総称してと呼んだ。異民族の名称に当てられる漢字には,けものへんや虫などの字が含まれているところに蔑視観が表れている。

IX-9. 春秋時代

年の周の東遷から,年にが韓・・に分裂するまでを時代という。この時代は,の桓公や[ 3 ]のなど有力諸侯が周王の権威の下に多くの諸侯を招集して諸国を束ねた。このような有力諸侯をという。彼らは,周王を尊び,外敵を打ち払うという「」というスローガンを唱えて諸国の盟主となった。
check_icon6代表的な5人の[ 9 ]を春秋の五覇というが,5人の候補者は史料によって異なる。しかし,斉の桓公と晋の文公の二人はすべての史料に含まれる。

IX-10. 戦国時代

前403年にが・魏・趙に分裂してから,年の秦による統一までを時代という。この時代は実力主義・下剋上の時代で,周王の権威がなくなり,諸侯は自ら王を称するようになった。有力諸侯は富国強兵策をすすめ,周辺の小国を併合し,と呼ばれる七つの強国が並び立った。[ 2 ]・魏・趙のほかの四つの国は,長江中流域を根拠としたのが,山東を領有したのが,現在の北京付近を支配したのが,最も西方に位置したのが秦である。秦は前4世紀半ばに,の改革(変法)によって国力を高め,東方の六国を圧倒していった。
check_icon6戦国時代の名称は,この時代の遊説者たちの策などをまとめた漢代の書である『戦国策』に由来す

IX-11. 春秋戦国時代の社会の変動

戦国時代に農具やが普及すると,農業生産力が次第に高まり,それまでの集団農耕に代わって家族単位での農業経営が可能となり,氏族制が崩れていった。また,貨幣も用いられるようになり,新興の商人層が成長した。このような社会経済の変化にともなって,周代の世襲的な身分制度はくずれ,実力本位の傾向が強まった。戦国時代の諸国は,富国強兵につとめ,農業や商工業の振興に努めた。さらに,戸籍を整備して家族単位の小農民を把握し,徴兵や課税を行うようになった。
check_icon6[ 3 ]貨幣には,小刀を模した,農具の形を模した,中央にあながある円形の,楚で用いられた貝貨を模したがある。

IX-12. 諸子百家(1)

春秋戦国時代に世襲的な身分制や氏族制が崩れると,新しい社会秩序を説く思想家や学派が数多く現れ,諸国の君主も有能な人材の登用を図った。これらの思想家や学派を総称してという。[ 1 ]のなかで後世に最も大きな影響を与えたのは,漢代に官学とされ,それ以降正統教義とされたの思想である。[ 2 ]は春秋末期に現れたを祖とするが,[ 3 ]は孝や悌といった家族道徳から出発し,人に自然とそなわる道徳的心情()と規範()による社会秩序の実現を説いた。戦国時代の[ 2 ]であるは,人の本性をでとらえ,王道政治を説いた。また,は,人の本性をでとらえ,[ 5 ]による教化を説いた。[ 2 ]の経典のうち,『論語』はに,中国最古の詩集である『詩経』や魯(ろ)の国の年代記である『春秋』はに属す。

IX-13. 諸子百家(2)

儒家の孔子が説くに基づく愛を「差別的な愛だ」と批判したは無差別の愛()を説いた。また,[ 2 ]は自衛は認めるが,侵略行為を否定するを説いた。[ 2 ]の学派をという。・荘子を祖とするは,儒家や[ 5 ]の説を人為的だと批判し,人為を排して自然に従うを説いた。[ 8 ]を説く老荘思想は,や民間信仰の源流となった。

IX-14. 諸子百家(3)

法を重んじて信賞必罰を励行して,国を治めることを説くのがである。は前4世紀に秦に仕えて改革(変法)を行い,は[ 1 ]思想を大成し,は秦の始皇帝に丞相として仕えた。
check_icon6[ 3 ]と[ 4 ]は儒家である荀子の弟子とされるが,[ 3 ]は[ 4 ]にはかられて獄中で死んだ。

IX-15. 諸子百家(4)

天体の運行と人間生活の関係をとしてまとめたのは,のである。の・は,兵法と国家経営を論じた。外交策を講じたのは秦と対抗する六国を同盟させた合従策を,は秦が六国それぞれと同盟を結ぶ連衡策を説いた。の公孫竜は論理学を説いた。は,君主も民も平等に耕作すべきとする平等説を唱えた。戦国時代の楚の詩文集『』には,の作品などが集められている。
check_icon6[ 10 ]の公孫竜は,「白馬は馬に非ず」と説いたが,これは白と馬という2概念と馬という1概念は同じではないということ。

秦・漢(14)

IX-16. 秦の統一

戦国ののうち最も西に位置していた秦は,前4世紀に法家のの改革で力をつけ,東方の6国を次々に征服していった。年,山東を支配していたを最後に滅ぼし,秦は中国を統一した。統一を果たした秦王は,「王」の称号にかえて「皇帝」の称号を採用し,最初の皇帝としてと呼ばれる。
check_icon6始皇帝の陵墓の周辺には,兵士と馬をかたどった陶製の像であるが埋められていた。

IX-17. 秦の統治

秦のは都の(現在の西安付近)から全土を直接統治する中央集権体制を築こうとした。中央から官僚を派遣して統治させるを全土に施行し,度量衡・文字の統一を図るとともに,銅銭であるを鋳造して貨幣も統一した。また,医薬・占い・農業関係以外の書物をすべて焼くや,数百人の儒者を穴埋めにして殺すによる思想統制を行った。北方からの騎馬遊牧民の侵入に対抗して戦国諸国が築いていたを修築し,南方では華南を征服してなど3郡を置いた。
check_icon6秦の時代には紙はまだないので,焚書で焼かれた「書物」とは細長い木片や竹片の・であることに注意。

IX-18. 秦の滅亡

始皇帝による性急な統一政策や土木工事の負担に対し不満が高まった。始皇帝死後の前209年,中国史上初の農民反乱である・の乱がおきた。「王侯将相いずくんぞ種あらんや」という[ 1 ]の言葉は戦国時代以来の実力主義の風潮を表している。この反乱は鎮圧されたが,これが口火となって各地で反乱が起きた。その勢力のうち農民出身のと楚の名門出身のが相次いで秦の都に入り,秦は統一から15年で滅んだ。その後,[ 3 ]が[ 4 ]を倒して年に王朝を建てた。
check_icon6北アフリカでは,前202年にの戦いでがローマのに敗れた。

IX-19. 漢

年に劉邦がとして建てた漢王朝は,年に滅ぶまで約400年間続くが,漢はが建てたをはさんで前漢・後漢に分かれる。
check_icon6漢と同時代の西アジアには,イラン系遊牧民が建てた(前248頃~後224)が存在していた。

IX-20. 前漢の統治体制

を倒した劉邦は前202年に皇帝の位につき(),(現在の西安)を都として漢(前漢)を建てた。直後,[ 2 ]は北方の騎馬遊牧民のに大敗し,以後70年間にわたって[ 4 ]に貢納を支払い,事実上従属下に置かれた。[ 2 ]は,秦が急激な改革によって滅んだことを教訓として,秦が行ったと封建制を併用するを採用した。しかしその後,漢王朝が諸侯権力の削減を図ったことに対し,年にがおきたが鎮圧された。その結果,第7代のときに実質的に[ 6 ]とかわらない中央集権体制が成立した。

IX-21. 前漢武帝の対外政策

漢の第7代は北方のに対する反撃を図り,同盟を結ぼうと中央アジアのにを派遣した。同盟を結ぶことはできなかったが,[ 4 ]の報告での事情がもたらされ,汗血馬を求めてに出兵した。西北方面ではなどの4郡を置き,南方ではを滅ぼして南海郡・日南郡など9郡を置いてベトナム中部まで支配した。東北では,を滅ぼしてなど4郡を置いた。
check_icon6(1)[ 3 ]との同盟は成立しなかったが,その後[ 1 ]は[ 4 ]を烏孫(うそん)に派遣し,同盟を成立させ,[ 5 ]進出に成功した。(2)ベトナム中部にある日南郡は9郡のうち最も南にあるが,『後漢書』によると(マルクス=アウレリウス=アントニヌス)の使者が166年に到着した場所である。

IX-22. 前漢武帝の財政再建

武帝の対外積極策によって,漢は財政難に陥った。武帝は,・・を専売制にして財源とし,銅銭であるを発行し,特産物を貢納させて不足している地域に転売する物価調整法である,物価が低い時に物資を買い入れて上がった時に売り出す物価安定法であるといった諸政策を行った。しかし,財政難は解消できなかった。
check_icon6北宋の王安石の新法でも,[ 5 ]が実施された。

IX-23. 漢代の社会

秦・漢代に,家族経営の小農民を皇帝が官僚を用いて直接治めるという体制がほぼ出来上がった。だが,実際には重い税や飢饉のために没落する農民も多く,これらの農民を奴隷や小作人として大土地経営を行うが地方で勢力を築いた。これに対して,大土地所有の制限もたびたび行われたが,成果は上がらなかった。また,前漢武帝が採用した,地方長官が有徳者を中央に推薦して官吏とするにより[ 1 ]が中央政治に進出した。中央では,皇后の親族であるや,後宮に仕えた去勢された男性であるが勢力をもつようになり,皇帝権は弱まった。

IX-24. 新

前漢末に,中央では皇后の親族であるや,後宮に仕えた去勢された男性であるが勢力をもつようになり,やがて[ 1 ]のが皇帝の位を奪って8年にを建てた。[ 3 ]は周代を理想とする儒教に基づく復古主義を強行したが,社会の実情と合わず混乱した。そのため,豪族の反抗や農民反乱であるの乱などが続発して[ 3 ]は倒され,年に漢王室の一族が皇帝の位につき(),を都として漢を復興した(後漢)。

IX-25. 後漢

年にを都として復興された後漢の政権の実態は,地方の有力者であるの連合体というものであり,中央に進出した[ 3 ]と,皇后の親族であるや,後宮に仕えた去勢された男性であるを巻き込んだ権力抗争が深まった。(166,169年)と呼ばれる[ 5 ]による官僚・学者の弾圧によって政治が混乱するなか,が始めたという宗教結社が年に起こした農民反乱であるをきっかけに,各地に群雄が割拠して年に後漢は滅亡した。
check_icon6(1)後漢を建てたは(日本人)の使者に「」の金印を与えた。中国皇帝と周辺諸国が,形式上の君臣関係で結ばれた国際秩序をと呼ぶ。この国際秩序において,周辺諸国は中国の皇帝に対し,使節を派遣して貢ぎ物を贈るを行う。(2)後漢のは西域を統治する官である西域都護として活躍した。[ 17 ]がローマ帝国()に派遣したはシリアまでいたった。(3)「こうきん」の乱は2つある。後漢末に起きたのが「黄巾」で,元末におきたのは「紅巾」である。

IX-26. 後漢末の宗教結社

華北でが始めた宗教結社であるは,年におきた農民反乱であるの乱の主力となった。張陵が四川で始めた宗教結社()は,[ 2 ]とともにのちのの源流となった。

IX-27. 漢代の文化(1)

漢代の初めには,法家の思想が力をもっていたが,武帝の時代にの勧めにより,皇帝権力を正当化する儒学が官学とされた。さらに,儒学の主要な経典としてが定められ,[ 2 ]の教授を行うが設置された。その後,儒教は定着し,以後2000年にわたって王朝を支える正統思想となった。後漢の時代には,経典の注釈を行うがさかんになり,らがあらわれた。
check_icon6五経は,『易教』『書経』,中国最古の詩集である『詩経』,孔子が編纂した魯の年代記である『春秋』,そして『礼記』をいう。

IX-28. 漢代の文化(2)

漢代には,王朝の正統性を裏付けるための歴史書が誕生した。前漢の武帝の怒りに触れて宮刑に処せられたは,帝王の年代記(本紀)と重要人物の伝記(列伝)を中心に構成されるによる『』で,太古から武帝までの時代を記述した。後漢のもこれにならい,漢の高祖から王もう(漢字:莽の大が犬)までの時代を『』に記したことにより,以後[ 2 ]が中国の王朝の正統を明らかにする歴史書(正史)の標準となった。
check_icon6(1)[ 2 ]に対して,年月順に記す形式をといい,宋代のによる『資治通鑑』や,孔子が編纂した魯の年代記『』がその代表である。(2)[ 4 ]は西域都護の班超の兄である。

IX-29. 漢代の文化(3)

漢代までの記録は主に・に書かれたが,後漢の時代に宦官であるが製紙法を改良し,紙が広く普及するようになった。文字は,今日の漢字と大差のない隷書が用いられるようになった。また,西域経由で,漢代に仏教が中国に伝来した。
check_icon6製紙法は,751年のの戦いでイスラームへ伝わった。

魏晋南北朝(14)

IX-30. 三国時代(1)

後漢末の184年におきたののち,各地に群雄が割拠した。華北の実権を握ったは全国統一を目指したが,208年の赤壁の戦いで・連合軍に敗れた。その後,[ 2 ]の子のが年に後漢の皇帝からを受け,華北でを都とするを建てた。

IX-31. 三国時代(2)

220年に曹丕(文帝)がを建てたのに対抗し,翌221年には四川でを都とするを,222年に長江下流域では(現在の)を都とするを建てた。その結果,[ 1 ]・[ 4 ]・[ 8 ]の3国が中国を3分するとなった。3国の中で最も勢力の大きかった[ 1 ]が[ 4 ]を滅ぼしたが,265年に[ 1 ]の将軍が国を奪ってを建てた。

IX-32. 晋による統一と滅亡

を265年に建てたは,年にを破って中国を統一し,三国時代を終わらせた。だが,まもなく一族が帝位を争うがおこった。この内乱のなかで兵力として使われたと総称される遊牧諸民族が活躍した。このうち山西で挙兵したが[ 1 ]の都であった,さらに長安を攻略して[ 1 ]を滅ぼした。これをという。

IX-33. 五胡

西晋末におきた内乱()で,諸王が兵力として使った5つの異民族を総称してという。永嘉の乱によって西晋を滅ぼした,[ 3 ]の別系統とされる,のちに北魏を建国して華北を統一することになる,チベット系の・の5つである。[ 3 ]が[ 1 ]に乗じて華北に侵入して建国した結果,華北で[ 2 ]十六国時代が始まった。

IX-34. 東晋と五胡十六国時代

西晋は匈奴による永嘉の乱により316年に滅んだが,江南にいた晋の一族のが317年に皇帝に即位し,(現在の)を都とするを建てた。華北から多数の漢人の貴族や農民が[ 4 ]に移ってきたため,江南の開発が進んだ。一方,華北では,西晋末におきたをきっかけに侵入してきた遊牧民たちが諸国家を建て,439年のによる華北統一まで,1世紀以上にわたる時代が続いた。
check_icon6(1)建康は呉の時代には建業と呼ばれていた。(2)五胡十六国には,漢人の国が3つ含まれる。すべてが五胡の国ではないことに注意しよう。

IX-35. 南北朝時代(1)

317年にによって建てられた東晋では,武将の劉裕が実権を握り,420年に東晋を倒してを建てた。[ 2 ]以降,江南では・・と短命の王朝が続いた。を都とした,これらの王朝を総称してという。
check_icon6現在の南京に都を置いた,呉・東晋・宋・斉・梁・陳をまとめて六朝という。名称に注意:呉の時代は建業,東晋からは建康

IX-36. 南北朝時代(2)

華北では,鮮卑の氏がを建てた。[ 2 ]の第3代皇帝が439年に華北を統一し,時代を終わらせた。その後,[ 2 ]は東西に分裂し,とに分かれた。さらに[ 5 ]はに,また[ 6 ]はにとってかわられた。その後,[ 8 ]が[ 7 ]を併合し,華北は再統一された。これら[ 2 ]・[ 5 ]・[ 6 ]・[ 7 ]・[ 8 ]の5王朝を総称して,という。
check_icon6[ 6 ]では,均田制で土地を支給された農民を徴兵する兵農一致の制度であるが創始された。

IX-37. 北魏の孝文帝

北魏の第6代皇帝は,国家が農民に公平に土地を配分(給田)して租税や力役(りきえき)を課す土地制度であるを485年に実施した。また,3段階からなる村落制度であるを実施し,土地と農民を把握しようとした。また,[ 1 ]は都を(現在の山西省大同)からに移し,さらに鮮卑本来の服装・姓名・言語を禁止するを行った。[ 6 ]は,中華思想で蔑視される異民族から漢人になる政策だったが,北方に取り残された軍人が反発しておこした反乱を機に北魏は東西に分裂した。
check_icon6[ 2 ]は唐代まで行われるが,時期によって給田対象が異なる。北魏では,成年男性(丁男)と妻のほか,奴婢・耕牛にも支給したため,豪族に有利な側面があった。隋では,耕牛への給田を廃止し,第2代煬帝の時には妻・奴婢への給田を廃止した。唐では,妻・奴婢・耕牛への給田はなく丁男のみに支給した。

IX-38. 魏晋南北朝-社会の変化-

前漢の武帝が採用した官吏登用法()により官僚となって台頭した豪族は,後漢末から魏晋南北朝を通じて各地で力を強めた。魏ののときに,官吏任用制度が[ 1 ]からにかわると,豪族が要職を世襲するようになり,を生むこととなった。この結果,魏晋南北朝から唐末まで,中国は貴族社会の時代となった。
check_icon6[ 2 ]は,中央から派遣された中正官が郷里の評判によって人材を9等級(九品)にわけて推薦し,中央の官吏を登用する制度。中正官は地方で力を持つ豪族を推薦し,豪族が高級官職を独占した結果,「上品に寒門なく,下品に勢族なし」といわれる状況となった。

IX-39. 魏晋南北朝-土地制度-

後漢末の戦乱のなかで土地を失った農民は,故郷を離れて流民となるか,あるいは豪族の隷属民となった。魏は,耕作者の集団を置いて官有地を耕作させるを実施し,魏の有力な財源となった。西晋のは,土地制度としてを発布したが,その内容についてははっきりしない。北魏のが行ったも,大土地所有を抑制し,税収を確保しようという土地制度であった。

IX-40. 魏晋南北朝の文化-仏教-

仏教は1世紀頃に中央アジア経由で中国へもたらされ,魏晋南北朝のころに社会一般に広まるようになった。4世紀初めに,西域の亀茲(クチャ)出身のが洛陽に来て布教し,5世紀初めには西域の亀茲(クチャ)出身のが長安に迎えられて経典を漢訳した。また,東晋の僧は経典を求めて朝時代のインドへ西域経由の陸路で行き,海路で帰国し,のちに『』を著した。仏教の普及とともに華北で,多くの石窟寺院がつくられた。甘粛省のでは4世紀から莫高窟(ばっこうくつ)が開削された。仏教を国家的に保護した北魏の時代には,前期の都である平城近郊のや,後期の都である洛陽近郊のに石窟寺院がつくられた。しかし,北魏の第3代皇帝は道教を国教化し,仏教を弾圧した(廃仏)。

IX-41. 魏晋南北朝の文化-道教-

道教は,仙人や不老不死を信じるや老荘思想,さらに後漢末のや五斗米道などの民間信仰が,仏教の影響を受けて大成された宗教である。道教の大成者として知られる北魏のは,第3代皇帝の信任を受け,国家公認の宗教として教団組織を整え,廃仏を行った。これ以降道教は広く普及し,不老長生と現世的利益を求めるその教えは民衆の間に浸透していった。

IX-42. 魏晋南北朝の文化-文学-

後漢末からの混乱で儒学・儒教の権威が失われ,貴族の間では道徳や規範にとらわれない精神の自由さが重んじられた。魏・晋の時代には,世俗を超越したが流行した。文学では,「帰去来辞(ききょらいのじ)」で知られる東晋の田園詩人とされるや,南朝宋の詩人で山水詩で知られるが有名である。4字・6字の対句と韻を踏み,華麗な形式をもつ(表示している駢の字は簡易慣用字体のもの,教科書を見て正確な字を確認すること)という文体が流行し,梁のが編纂した『』にその代表的な作品がみられる。
check_icon6魏・晋の時代に[ 1 ]にふけったとされる阮籍(げんせき)ら7人を「竹林の七賢」というが,史実であるかどうかわからない。

IX-43. 魏晋南北朝の文化-書画・実用書-

絵画では,宮廷に仕える女性へのいましめを描いたの「」が有名である。書では,「蘭亭序」で知られる東晋の書家であるが有名である。北魏では,地理書の『』や,中国最古の農書である『』が著された。

隋・唐(15)

IX-44. 隋の建国

北朝の一王朝であるの外戚であったは,581年に禅譲の形で帝位につき,を建てた。これが[ 3 ]のである。当時,北方にはトルコ系の遊牧国家であるが強勢を誇っていたが,内紛と[ 4 ]による分断策によって東西に分裂した。こうして北方の脅威が弱まると,[ 4 ]は年に南朝のを滅ぼして,南北に分裂していた中国を統一した。[ 4 ]は,新たにを建設して都とした。また[ 4 ]は,北朝で試みられていた制度を取り入れた。土地制度はが始めたを,税制はを,兵制は西魏に始まった兵農一致のをとった。
check_icon6581年と589年はゴロで,「こわい隋,こわくない陳を滅ぼして中国統一」と覚えておこう。

IX-45. 科挙

598年,隋のは,魏が始めた官吏登用法であるを廃し,儒学の試験によるを導入した。これは,広く人材を求めて,貴族による高級官職独占を防止しようとする試みであった。だが,隋・唐代には[ 3 ]によらず,父祖の官職に応じて任官できる蔭位(おんい)の制があり,貴族による高級官職独占は続いた。690年に唐を中断させたが建てたでは科挙官僚が積極的に登用され,政治の担い手が門閥貴族から科挙官僚に移る一つの転機となった。唐末・五代の時代に貴族が没落すると,宋代に皇帝が行う最終試験が導入され,[ 3 ]は完成した。[ 3 ]は元代に一時中断されたが,清末の年まで続いた。

IX-46. 隋の滅亡

隋の建国者の子のときに,南北朝時代に開発が進んだ江南を華北に結びつけるが完成した。しかし,あいつぐ土木事業や外征に徴発された農民の不満が高まり,遠征の失敗を機に,各地で農民反乱が起こり,隋は年に滅んだ。
check_icon6大運河と黄河との接点に位置するは江南からの物資の集散地として繁栄し,後唐を除く五代の王朝・北宋が都を置いた。運河の南端に位置するは南宋・元代に国際貿易で繁栄し,南宋の都として臨安と呼ばれた。

IX-47. 唐の建国と拡大

隋末の混乱に乗じて,挙兵したは年に隋を滅ぼしてを建て,を都とした。第2代のは中国を統一するとともに,北ではトルコ系のを従え,チベットのと和親し,中央アジアへも勢力を伸ばした。3代皇帝は,北はを服属させ,東ではと同盟して,,の順に滅ぼした。唐は周辺異民族を統治するためにを設けたが,実際の統治は異民族の族長に任せて間接統治をするをとった。
check_icon6第2代皇帝[ 5 ]のとき,唐は安定し,繁栄をみせたが,のちに[ 5 ]の治世は「」と讃えられた。

IX-48. 唐の統治制度

唐は,隋の制度を受け継いだ。法制は,刑法である,行政法ないし民法典である,補充改正規定の,施行細則のを整えた。中央官制としては,(中書省・・尚書省)・(吏・戸・礼・兵・刑・工)と,官吏の監察機関であるを設けた。[ 5 ]においては,中書省が詔勅などの草案を作成し,[ 6 ]が審議し,尚書省が執行したが,貴族が牛耳っていた[ 6 ]は拒否権を持っており,貴族が自らの勢力を維持する牙城となっていた。[ 7 ]では,吏部が官吏の任用,戸部が戸籍・財政,礼部が祭祀・文教・科挙を,兵部が軍事,刑部が司法,工部が土木を担当した。官吏登用制度は,隋のを継承・発展させたが,[ 9 ]によらず任官できる蔭位(おんい)の制も存続し,貴族に有利であった。

IX-49. 唐の国内統治

唐は隋で行われた統治体制を引き継ぎ,自作農の増加を図り,それを王朝の財政・軍事基盤とすることをめざした。農民に土地を支給するの給田対象は時代によって異なるが,唐では,成年男性に一代限りのを80畝(ぽ),世襲を許される永業田を20畝の計100畝を与えた。税として,穀物を納めさせる,力役(りきえき)やその代納品を納めさせる,絹などを納めさせるが課せられた。さらに,[ 3 ]・[ 4 ]・[ 5 ]のほかに,地方官庁から課せられる労役であるもあった。また兵制は,北朝のが始めた制度である,兵農一致のを採用した。このように唐は,土地制度・税制・兵制が一体となった制度をしいた。

IX-50. 冊封体制

古来より,中国の中華王朝と周辺諸国との交渉は,という独特の方式を通じて行われた。これは,周辺国の使節が貢ぎ物をもって,中国の皇帝に謁見(えっけん)し,その見返りとして皇帝は貢ぎ物以上の品物を贈るもので,外交儀礼であるとともに交易の側面を持っていた。さらに,諸侯に一定の土地を封土として与える封建制の形式を適用して,[ 1 ]国の君主や首長に爵位(しゃくい)や官位を与えて,その統治を認めるを中華王朝は行った。中国皇帝と周辺諸国が,形式上の君臣関係で結ばれたこの国際秩序を[ 2 ]体制と呼ぶ。漢代に形成されたこの体制は,宋・元代のように北方民族が強い時代には消滅するが,その後復活し,19世紀後半に清仏戦争・日清戦争に敗れるまで存続した。
check_icon6[ 1 ]したすべての国が[ 2 ]を受けたわけではない。渤海をたてたは渤海郡王に封じられて冊封を受けているが,遣唐使を派遣した日本は朝貢のみで冊封は受けていない。

IX-51. 唐の動揺-武韋の禍-

690年,第3代皇帝の皇后であったが帝位について,国号をと改めた。科挙官僚を積極的に登用した[ 2 ]は,中国史上唯一の女帝である。[ 2 ]の老いに乗じて中宗が復位し,705年に唐が復活した。だが,その後も中宗の皇后韋后(いこう)が[ 2 ]をまねて政権を奪おうとするなど混乱が続いた(武韋の禍)。韋后を殺して混乱を収めたは政治を引き締め,国政改革に努めた。
check_icon6中国の王朝が著した正史においては,女性が建てた[ 3 ]を認めたくないため,「前唐」「[ 3 ]」「後唐」のように唐を分割することはない。

IX-52. 唐の動揺-8世紀における変化-

8世紀に唐の体制は大きく転換する。商業が発達してくると,農民の間に貧富の差が広まった。また,租庸調や兵役の負担は農民を苦しめた。さらに,慢性的に口分田が不足していたため,が8世紀にゆきづまり,没落して逃亡する農民が増加した。彼らは貴族などの大土地所有者が経営するを耕作する(小作人)となった。こうして[ 1 ]がくずれていくと,以来行われていた均田農民に軍役を課すが維持できなくなり,傭兵を用いるが採用された。その指揮官をという。8世紀初めの設置当初は,[ 7 ]は辺境の防衛に当たっていた。しかし,755~763年の後は内地にも置かれるようになり,[ 7 ]は軍事だけでなく,地方の行政・財政の権限をも握ってと呼ばれる独立勢力となっていった。財政再建のために,租庸調制に代わって,原住地で所有している土地・財産に応じて夏・秋2回課税するを780年に宰相が採用した。

IX-53. 唐の動揺-玄宗と安史の乱-

中宗の皇后韋后(いこう)を倒し,その後帝位についたは,秩序の再建に取り組み,安定をもたらしたので,治世の前半は「開元の治」とたたえられる。しかし,晩年にを寵愛すると,[ 2 ]の一族が実権を握るようになった。それに反発したのとその部下のが反乱を起こした。この(755~63年)は,の援軍を得てようやく鎮圧された。これ以降,内地にも置かれるようになった[ 3 ]が,行政・財政権を握って自立し,と呼ばれる独立勢力となった。また,[ 7 ]やチベットのもしばしば侵入してきて唐の領土は縮小した。
check_icon6(1)[ 4 ]はソグド系で,3節度使を兼ねていた。(2)唐は751年に中央アジアで起こったでアッバース朝に敗れ,中央アジアから後退した。この戦いで捕虜となった唐の紙漉工(かみすきこう)が製紙法をイスラーム世界に伝えた。

IX-54. 唐の滅亡

前漢のが・鉄・酒を専売にして以来,人体にとって必需品の[ 2 ]は歴代王朝にとって重要な財源であったた。財政再建を図る唐も,[ 2 ]の密売人を厳しく取り締まっていた。そのようななか,山東で[ 2 ]の密売人が挙兵すると,これに呼応してが年に挙兵した。[ 4 ]の乱は884年に鎮圧されたが,唐の衰退は決定的となり,年に節度使のによって唐は滅ぼされた。
check_icon6(1)[ 7 ]は初め[ 4 ]の部下であった。唐に降ったのちに節度使となった。(2)[ 5 ]年,中央アジアでイラン系イスラーム王朝朝が成立した。

IX-55. 唐代の社会経済(1)

人口100万を数える大都市であった首都のには,中継商人としてイラン系の人が往来し,また朝が滅亡して多くのイラン人が移住してきた。その結果[ 1 ]は,国際色豊かな都市であり,エフェソス公会議(431年)で異端とされた派キリスト教()や,(ゾロアスター教)・マニ教の寺院もつくられた。一方海上貿易において,アラブ・イラン系の商人(イスラーム教徒の商人)が訪れ,長江の北岸にあるや広東省のが発展した。[ 9 ]には海上貿易を担当した役所であるが初めて置かれた。

IX-56. 唐代の社会経済(2)

唐による統治が安定してくると,農業生産力も一段と上昇した。唐の半ばには華北で,小麦の生産が普及し,粟(あわ)と小麦・大豆を組み合わせた2年三毛作が広まった。江南では,水稲耕作の技術が向上し,さらに南方に水田地帯が広まった。また,四川から栽培が始まったとされるが一般民衆に広まった。首都のでは,商品売買を行う場所は(東市・西市)に限定され,時間も限る坊市制があったが,唐末にはこの規制は崩壊した。

IX-57. 唐代の文化-宗教-

唐代の文化は,東西交易が盛んとなったことを背景に国際色豊かなものであった。当初,主な担い手は貴族だったため,貴族的性格が強かったが,唐代の中期からは貴族趣味を脱した。儒学は,科挙の試験科目となり,経書の字句解釈を主とする漢代以来のが重視され,太宗の命により科挙のテキストとして,が『』をつくった。仏教は帝室・貴族に支持されて栄えた。往復とも陸路でインドにおもむいたや,往復とも海路を用いたが経典を持ち帰り,仏典の翻訳が進められた。しかし,9世紀半ばには会昌の廃仏と呼ばれる仏教弾圧も行われた。唐の後半には,阿弥陀浄土信仰を説くや,座禅によって悟りを得ようとするがさかんとなった。
check_icon6[ 4 ]はインドの朝のハルシャ王の厚遇を得て,僧院で学び,帰国後『』を著した。[ 5 ]は帰国途中にスマトラ島ので『』を著した。

IX-58. 唐代の文化-文学・絵画・書・工芸-

科挙で詩作が重んじられたこともあり,唐詩が隆盛となった。詩人・画家の王維は,自然美を歌い,画家としては山水画を描いた人物で,のちに「南画の祖」とされた。一時玄宗に仕え,「詩仙」と称された,「春望」などで知られ「詩聖」と称される,玄宗と楊貴妃をうたった「長恨歌」で知られるらが活躍した。唐後期の文学者で唐宋八大家に数えられる(韓退之)とは,形式美を追う(表示している駢の字は簡易慣用字体のもの,教科書を見て正確な字を確認すること)に対し,漢以前の力強い古文復興を唱えた。絵画では,人物画や山水画,仏画などあらゆる絵画分野で唐随一とたたえられたが有名である。唐初の書家である,ちょ遂良(漢字:楮の字のきへんがころもへん)は則天武后を皇后とすることに反対したため,高宗から左遷された。また書家では,安史の乱で義勇軍を率いて反乱軍と戦ったが有名である。工芸では,で知られる陶磁器が有名である。
check_icon6[ 4 ]と[ 5 ]の他の唐宋八大家で重要なのは,宋代の次の3人。『新唐書』などを著した,「赤壁賦」で知られる,神宗のもとで改革を実施したである。

五代・宋・元(33)

IX-59. 五代十国

年に唐を滅ぼしたは,(現在の開封)を都とするを建国した。[ 4 ]は,トルコ系の勢力に滅ぼされ,その後[ 5 ]出身者が・・を次々に建国した。[ 8 ]はに滅ぼされたが,[ 4 ]・[ 6 ]・[ 7 ]・[ 8 ]・[ 9 ]をという。[ 10 ]の五王朝は[ 6 ]がを都としたほかは,[ 3 ]に都を置いた。華北にできたこれらの五王朝と,華中と華南で興亡した10の国を合わせて,[ 10 ]十国という。この時代に,唐代まで大きな勢力をなしていた貴族は節度使らの武人勢力により追い落とされ,荘園も失って没落し,かわって新興の地主層が力を伸ばしていく。また,北方の諸民族が大きな力をもち,東アジア世界は新たな時代へと入っていく。
check_icon6五代の順番は,[ 4 ]をのぞく四つの王朝は,唐→晋→漢→周と古い時代へさかのぼると覚えよう。

IX-60. 東アジア周辺の変動

唐滅亡後,東アジア周辺では大変動がおきた。北方では,840年にトルコ系のが同じトルコ系のに滅ぼされたのち,トルコ系民族が中央アジアへ移動すると,モンゴル系のが自立した。朝鮮では,にかわりが918年に建国された。9世紀中頃,チベットのが分裂して衰退した。10世紀初めに雲南にあったが滅亡すると,がこれにかわった。ベトナムでも中国からの自立の動きが高まり,11世紀に成立したの李朝は宋軍を撃退した。11世紀に黄河上流域でチベット系のがを建てた。12世紀初め,ツングース系のが[ 3 ]から独立し,を建てた。[ 3 ]・[ 10 ]・[ 12 ]の北方諸民族は,それぞれ宋を攻撃し,苦しめた。10世紀から元が滅亡する14世紀までは,漢人が北方の諸民族に苦しめられる状況が続いた。
check_icon6[ 11 ]の大夏は[ 10 ]側の呼称で,宋では中国古代の夏と区別するため西夏と呼んだ。

IX-61. 遼

モンゴル系の遊牧狩猟民である(キタイ)は,ウイグルと唐の衰退とともにモンゴル高原東部で勢力を強めた。年にが皇帝に即位して(キタイ帝国)を建てた。東方では926年にを滅ぼし,西方ではウイグル崩壊後のモンゴル高原を支配下に置いた。[ 4 ]は,五代の後晋の建国を助けた代償として,長城以南の河北・山西の北部()を獲得した。宋の成立後も華北に侵入し,年に宋を兄,[ 4 ]を弟とし,宋が[ 4 ]に毎年多額の銀と絹を歳幣として贈ることを条件とする和議を結んだ()。[ 4 ]は北方民族に対しては北面官が部族制で統治し,漢人の農耕民に対しては南面官が州県制で統治するを敷いて,性格の異なる社会をまとめようとした。[ 3 ]らによって作られた[ 1 ]文字は,漢字とウイグル文字の影響を受けている。

IX-62. 西夏(大夏)

宋の西北に位置する陝西(せんせい)・甘粛(かんしゅく)方面にいたチベット系のは,1038年,のもとで(西夏は宋の呼称で,一般に西夏を用いる)を建てた。[ 3 ]は東西交易の要衝をおさえ,中継貿易で栄えた。[ 3 ]はしばしば宋に侵入したため,宋は[ 2 ]を冊封し,毎年銀・絹・茶を贈ることで講和した。[ 3 ]では仏教がさかんで,漢字の影響を受けた[ 3 ]文字が作られた。1227年,モンゴルのによって滅ぼされた。
check_icon6中央アジアでは,1038年,朝が成立した。

IX-63. 金

ツングース系のは中国東北地方の東部で半農・半猟・半牧の生活を営んでいたが,長くモンゴル系の(遼)の支配下にあった。1115年,が独立し,を建てた。[ 4 ]は宋と結んで,1125年に[ 2 ](遼)を滅ぼした。その後,宋が背信行為を働いたこともあり,[ 4 ]はさらに南下し,1127年に宋を滅ぼした()。[ 4 ]は[ 2 ](遼)の二重統治体制を受け継ぎ,漢人には州県制で統治する一方,[ 1 ]人には部族制にもとづくという軍事・行政制度を適用した。[ 4 ]では,[ 2 ]文字と漢字を模した[ 1 ]文字が作られた。

IX-64. 西遼

宋との攻撃によって遼が滅ぼされたとき,中央アジアにのがれた王族のが,イスラーム国家である朝を滅ぼし,1132年にを建国した。間接支配で東西トルキスタンを支配したが,チンギス=ハンにおわれたトルコ系のナイマンに王位を奪われて1211年に滅んだ。
check_icon6西遼は中国での呼称,カラ=キタイ(カラキタイ)はイスラーム側の呼称。

IX-65. 宋

五代最後の王朝の武将(太祖)が960年に宋を建て,第2代が中国の統一を完成させた。女真が建てたが侵入()して1127年に江南に逃れたので,北宋と南宋にわける。北宋は大運河と黄河の合流地点にあたる(現在の開封)を都とし,南宋は大運河の南端に位置するに都を置いた。
check_icon6臨安とは臨時の都という意味。

IX-66. 宋代における君主独裁体制

中国では,安史の乱(755~63年)以降,独立勢力であるが割拠し,武人によるが続いてきた。960年に宋を建てたは,の実権を奪って皇帝に権力を集中するとともに,科挙によって選抜された文人官僚を重用するをとった。[ 3 ]は,科挙の最終試験として皇帝自らが行うを採用した。[ 6 ]が加えられたことで,官僚と皇帝が直接結びつき,君主(皇帝)独裁体制が強化された。

IX-67. 宋代における支配層

科挙は家柄や階層を問わず受験できたが,合格に必要な儒学や詩文の教養を身につけるためには,幼い頃からの受験勉強が必要で,合格出来るのは富裕な家の子弟に限られた。唐末から五代にかけて没落した貴族にかわって,宋代に科挙に合格し,官僚を出した家()となったのは,新興地主層のであった。[ 2 ]は,小作人であるを用いて荘園を経営する地主層であった。儒学の教養を身につけた科挙出身の官僚は,と呼ばれる知識層でもあった。
check_icon6科挙に合格して官僚となったのはほとんど形勢戸だったことから,まとめて官戸形勢戸と呼ばれた。

IX-68. 宋における国家財政の窮乏

文治主義をとった宋は,対外的な軍事力の低下を招いた。宋は,侵入してきた北方諸民族に対して守勢に立ち,講和を結ぶ消極策をとった。モンゴル系のとは,年,宋が兄,[ 1 ]を弟とするを結び,毎年莫大な絹と銀の歳幣を贈ることを約した。また,タングートのとは1044年に,[ 4 ]が臣下の礼をとる代わりに,宋が毎年絹・銀・茶の歳賜(さいし)を贈ることを約した。軍事費の増大と,歳幣・歳賜の出費は宋の財政を圧迫し始めた。さらに,文治主義による官僚の増大と組織の肥大化は,国家財政の窮乏を深刻な状態へと追いやった。こうした状況下,第6代皇帝は,を宰相に登用し,改革(新法)を行った。
check_icon6(1)宋では,唐代に一般民衆に広まったを専売制とした。(2)歳賜とは目下に贈るもの,歳幣は同等のものに贈るもの。1142年の金との講和では,南宋が臣下の礼をとるため,歳貢という。

IX-69. 王安石の新法

北方諸民族に対する軍事費・外交費や,官僚組織の肥大化による財政窮乏化を改善するために,第6代皇帝の宰相に登用されたは,富国策と強兵策とからなる改革(新法)を行った。富国策は,植え付け時に貧農に低利貸付を行う,中小商人へ低利貸付を行う,特産物を政府が買い上げ,不足地で転売して物価の安定と商品の流通を図る,農民に課せられた力役のかわりに免役銭を出させ希望者を雇用するなどである。強兵策は,農閑期に軍事訓練を行う兵農一致策である,平時に軍馬を農民に飼育・使役させ,戦時に徴用するである。[ 2 ]の新法により財政は好転したが,[ 3 ]には地主層であるが反発し,また[ 4 ]・[ 5 ]には大商人が反発した。反発する官僚も多く,新法推進派のと,『資治通鑑』の筆者であるらの反対派の対立(党争)が長く続き,政治は混乱した。
check_icon6[ 5 ]は前漢武帝の政策にならったものであるが,前漢武帝は平準法も出していたことに注意!!

IX-70. 北宋の滅亡と南宋の建国

モモンゴル系のとの西夏(大夏)の脅威にさらされてきた宋は,1115年に[ 1 ]から独立したの金を利用しようと画策した。第8代皇帝は,万里の長城以南のを[ 1 ]から奪回するため,それまで[ 1 ]に払っていた歳幣を金に払うことを条件に金と同盟した。1125年に宋と金が挟撃し,[ 1 ]は滅んだ。しかし,宋が約束の歳幣額を払おうとしなかったため,金はさらに南下して首都(べん京:漢字:さんずいに卞)を占領し,譲位して上皇となった[ 4 ]や皇帝らをとらえ,北方に連れ去った。1127年に宋王朝が滅亡したこの事件を(1126~27年)という。1127年,[ 7 ]の弟は江南にのがれて帝位につき,を都とする南宋を建てた。
check_icon6[ 4 ]は文化事業を保護し,豪華な宮殿や庭園を造営し,自らは「桃鳩図」を描き,「風流天子」と称された。

IX-71. 金との屈辱的講和

南宋では,華北全土へと勢力を伸ばし,南宋を攻撃する金に対して,徹底抗戦を唱える主戦派と和平派が対立した。金が北宋を滅ぼしたで金に捕らわれ,のちに解放されて南宋の宰相となったは,金を後ろ盾として主戦派のを捕らえて獄死させ,1142年に金と講和を結んだ。この和議は,を境界とし,南宋が金の臣下となって多額の銀と大量の絹を歳貢として贈るという屈辱的なものであった。このため,[ 2 ]は姦臣(かんしん),売国奴という評価を受けている。
check_icon61142年の和議は紹興の和議というが,金と秦檜にかけて,「金(かね)でいい世になるか心配」と覚えておこう。

IX-72. 宋代における江南の発展

長江下流域の江南の開発が本格化したのは,東晋の成立後,五胡十六国の混乱を避けて多くの人々が江南へ移り住んでからであった。遼や金の支配を逃れた人々が江南へと移住した結果,南宋の時代には中国経済の中心は,長安を中心とする華北から,東南の江蘇・浙江・福建などへと移動した。地主層であるは小作人であるを用いて干拓による水田造成を行った。低湿地では,堤防で囲み干拓する「」などがつくられた。また,ベトナムのチャンパー原産のという日照りに強い生長の早い稲も伝えられた。こうして,宋代には長江下流域の江蘇・浙江の地方が華北をしのぐ大穀倉地帯となり,「」といわれるようになった。また,江南ではの栽培もさかんとなり,喫茶が普及し,[ 6 ]は宋において専売制とされたほか,重要な輸出品ともなった。
check_icon6[ 3 ]は,「う田(漢字:土に于)」や「湖田」とも呼ばれた。

IX-73. 宋代における商業・都市の発展

商品の売買は,唐代までは都市の内部に設けられた市のみに制限され,夜間営業も禁止されていた(坊市制)。唐末以降,こうした坊市制がくずれ,昼夜の別なく都市の内外で自由に営業が行われるようになった。城外には小規模な定期市であるがあらわれ,それをもとに・市と呼ばれる地方の小商業都市へと発展するものもみられた。海上貿易もさかんとなり,唐代に広州に置かれた海上貿易を担当する役所であるが,臨安()・(明以降,寧波ニンポーという)・泉州などにも置かれた。日本・朝鮮半島・中国との間では,朝貢貿易(参照:IX-50)とは別に民間の私貿易もさかんとなり,とくに,日本の平氏政権がすすめた貿易では,宋で鋳造された銅銭であるなどが大量に日本に輸入された。
check_icon6北宋末の張択端の作である「」は,北宋の都のにぎわいを描いたものである。

IX-74. 宋代における商工業と貨幣経済の発達

陶磁器では,青磁・に代表されるがつくられ,唐代に始まる江西省のが宋代以降,中国第一の窯業(ようぎょう)都市として発展した。これ以外にも,絹織物・製塩業・製糖業などの手工業も発達した。商人は,手工業者はと呼ばれる同業組合を結成し,営業独占や相互扶助を図った。商業が発展した結果,貨幣経済も発達し,銅銭が大量に鋳造されたほか,唐代に飛銭と呼ばれた手形から発生した(北宋)・(南宋)が紙幣として使われるようになった。

IX-75. 宋代の文化-儒学-

儒学では,それまでの経典の字句解釈を重んじるにかわって,道教や仏教の影響を受けて,宇宙の原理や人間の本質などを議論するが北宋のによっておこされた。南宋の(朱子)によって大成されたのでともいわれる。[ 5 ]の理論には,当時の政治状況が色濃く反映された。南宋は金に対して臣下の礼をとったが,これは中華思想(参照:IX-8)にもとづく漢人の自尊心を大いに傷つけたため,漢人の優位を強調する華夷の区別を論じ,また宋代に君主(皇帝)独裁体制が成立したことを背景に,君臣・父子の身分関係を正すが唱えられた。また,[ 5 ]は経典として,五経に代わり,(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)を重視した。その後,[ 5 ]は儒学の正統とされ,明・清や朝鮮,また日本の江戸幕府でも官学とされた。客観的な事物の理を追求する[ 5 ]に対して,南宋の(陸象山)は人間の心性を重視して,心をさぐれば理が見いだされる(心即理)と説き,彼の説は明代のに継承された。

IX-76. 宋代の文化-歴史学・文学-

旧法党の中心人物として知られる,北宋のは,の通史である『』で,戦国時代の始まりから五代の終わりまでの史実を編纂した。唐宋八大家の一人に数えられる,北宋の学者・政治家のは,中華思想にもとづく『新唐書』や『新五代史』を編纂した。また,唐宋八大家の一人に数えられる,北宋の詩人・政治家の(蘇東坡)は「赤壁の賦」で知られる。
check_icon6[ 4 ]と[ 5 ]も,王安石の新法に反対した。

IX-77. 宋代の文化-絵画・工芸・技術-

絵画では,宮廷の絵画制作機関であるを中心に写実的で装飾性の強いが成立したほか,士大夫や文人によるも盛んになった。北宋の第8代皇帝が描いた「桃鳩図」は,[ 2 ]の代表作である。工芸では,江西省のなどで・白磁に代表される陶磁器であるがつくられた。技術では,印刷が宋代に普及した。また,活字印刷術も発明されたが,中国では実用化されなかった。宋代に実用化がすすんだや火薬の技術は,イスラーム世界を経てヨーロッパに伝わった。

IX-78. 宋代の文化-宗教・庶民文化-

宗教では,阿弥陀浄土信仰を説くや,座禅によって悟りを得ようとするが栄えた。また金統治下の華北では,儒教・仏教・道教を調和した道教教団であるをが創始した。都市の経済的発展を背景に庶民文化も発展し,音曲に合わせてうたうが流行し,「唐詩」に対して「宋詞」と呼ばれた。また,と呼ばれる風刺などの簡単な筋書きの演劇が庶民の間に流行し,[ 6 ]は元代にとして完成された。

IX-79. 「唐宋変革」

唐代から宋代にかけての時期は,中国史上でも有数の変革期にあたり,「唐宋変革」と呼ばれることがある。次のような変化が見られる。(1)政治体制:唐では貴族と皇帝による合議体制 → 唐末・五代に貴族が没落, → 宋では科挙の最終試験としてが採用され,にもとづく君主(皇帝)独裁体制。(2)政治制度:唐では三省のうちが貴族の牙城 → 宋では[ 4 ]が中書省に併合されて実権を失う。(3)支配層:唐では → 宋では新興地主層である。(4)経済・都市:唐では坊市制による規制があり政治都市 → 宋では商業・産業が発達し,規制がゆるみ商業都市。(5)文化:唐では,国際色豊か → 宋では士大夫・,中国的。(6)儒学:唐では経典の字句解釈の → 宋では。

IX-80. モンゴル帝国の成立

モンゴル高原では,840年に帝国が崩壊したのちには統一勢力が現れず,さまざまな遊牧部族が割拠し抗争する時代が長らく続いた。12世紀後半にモンゴル高原中央部へ進出したは,モンゴル部族の間で勢力を伸ばして統一を果たした。彼は年,諸部族長がハンの選定や遠征などの重要事項を合議で決定する集会であるでハン位につきと名乗り,モンゴル系・トルコ系諸部族を統一してモンゴル帝国を形成した。[ 5 ]は,服属した全遊牧部族を再編し,軍事・行政組織としてを組織した。
check_icon6ハン(カン,汗)はモンゴルにおける君主の称号。柔然が用いて,突厥・ウイグルでも使われたカガン(ハガン,可汗)が由来。

IX-81. モンゴルの遠征(1)

年,諸部族長がハンの選定や遠征などの重要事項を合議で決定する集会であるでハン位についたは遠征に着手し,西方では,(カラ=キタイ)を奪って勢力を誇っていたトルコ系遊牧民のを倒し,さらに西トルキスタン・イランを支配していた朝を滅ぼした。また,チベット系が中国西北部に建てたを滅ぼした。
check_icon6インドでは,[ 1 ]年にデリー=スルタン朝の最初の王朝であるが成立した。

IX-82. モンゴルの遠征(2)

チンギス=ハンの死後即位した(太宗)は,1234年にツングース系女真人のを滅ぼして華北を領有するとともに,モンゴル高原に都(和林)を建設した。[ 1 ]の命で西方への遠征を行った甥のの率いる軍は,西北ユーラシアの草原を制圧し,882年にノルマン人が建てた公国を滅ぼした。その後,東ヨーロッパに侵入し,ノヴゴロド国などのスラブ系諸侯を服属させた。さらに,年のの戦いでドイツ・ポーランド連合軍を破り,ヨーロッパ世界を脅かした。しかし,[ 1 ]の死の報が届くと,[ 4 ]は南ロシアへと退却した。第4代(憲宗)は弟たちに遠征を行わせた。は中国・チベット方面へ向かい,雲南にあったを滅ぼし,チベットを服属させた。また,次の弟のは西アジアに遠征し,年にバグダードを占領して朝を滅ぼした。
check_icon6[ 4 ]は西征の帰途,南ロシアに国を,[ 11 ]はイラン・イラク方面に国を建てた。

IX-83. 元の成立

第4代が急死すると,相続争いが勃発し,都ので即位した末弟のアリクブケに対し,次弟のが勝利し,第5代ハンに即位した。[ 3 ]は自らの勢力の強い東方に支配の重心を移し,(現在の北京)を築いて都とし,モンゴル高原に連なる草原地帯と中国の農耕地帯の両世界を支配する帝国建設に乗り出した。[ 3 ]は,年に国号を中国風に大元(元)と称し,その後南宋を滅ぼして中国全土を支配した。

IX-84. モンゴル帝国の分裂

弟アリクブケとの相続争いを経て(世祖)は即位したが,[ 1 ]に対する反乱が続いた。第2代の孫が南ロシアの国,および中央アジアの国と同盟して40年にわたって[ 1 ]側と争った。その結果,モンゴル帝国は,中国とモンゴルを支配する元,[ 4 ]国と[ 5 ]国,そしてイラン・イラク方面の国に分裂したが,帝国全体はゆるやかに連携し,陸上と海上による東西交通もとだえることはなかった。
check_icon6(1)かつてはオゴタイ=ハン国も存在したとしていたが,現在ではそのように呼べるまとまりは形成されなかったとされる。(2)[ 6 ]国は,第7代がイスラームに改宗し,イスラーム国家となった。また,[ 4 ]国と[ 5 ]国においてもイスラーム化が進展した。

IX-85. フビライの遠征

元を建てた(世祖)は,即位前に雲南のを滅ぼし,チベットを服属させた。さらに,即位後に朝鮮のを服属させ,南宋を滅ぼした。その結果,元の領土は最大となり,モンゴル高原・中国本土・中国東北地方を直轄地とし,チベット・[ 3 ]を属国とした。[ 1 ]はその後も多くの遠征を行った。[ 1 ]は,ビルマへしばしば侵攻し,朝はのちに滅亡した。次の3つは失敗した遠征。(1)ベトナムへの侵攻は,により撃退された。(2)ジャワにも朝貢を求めて侵攻したが撃退され,その混乱のなかから王国が成立した。(3)日本に対しては,服属を迫って2度侵攻を試みた()。1274年の文永の役は元・[ 3 ]連合軍で,81年の弘安の役は元・[ 3 ]・旧南宋の連合軍で侵攻したが,鎌倉幕府の抵抗にあって敗退した。
check_icon6元の遠征は征服することが目的ではなく,もともと通商の拡大と交易路の確保が目的であったため,遠征後も元との通商関係は保たれた。日本についても,政府間の関係は開かれなかったが,民間の海上貿易は活発に行われた。

IX-86. 元の中国支配

元は,宋・金以来の官僚制や地方行政単位を引き継いだが,実質的な政策決定は,中央政府の要職を占めるモンゴル人によって行われた。少数のモンゴル人が多数の漢人などを支配する征服王朝である元は,協力する異民族を必要とした。これがと総称されるウイグル人やイラン人などの中央アジア・西アジア出身者であり,彼らは財政面で重要な役割を果たした。かつて金の支配下にあった華北の漢人や契丹人・女真人などは,南宋の支配下にあった人々はと呼ばれた。元は儒教を重視せず,1313年まで科挙は行わなかった上,復活後も[ 2 ]・[ 3 ]には不利であったため,[ 3 ]に多い儒学の教養を身につけたのなかには不満を持つものもいた。
check_icon6[ 1 ]とは,「様々な種類の人」という意味。

IX-87. 元の社会

モンゴル帝国と元は,交通路を整備したり,国際商人を保護したり,積極的に交通・貿易振興策を推進し,をしいた。陸上交易で活躍したのは,おもに商人だった。海上貿易では,宋代に引き続き,マルコ=ポーロがキンザイと呼んだ,またザイトンと呼んだや広州などの港市が繁栄した。江南と元の都を結ぶ交通としては,大運河が補修され,新運河も開かれたほか,長江下流から山東半島をまわって[ 5 ]にいたるも発達した。都市の商工業もさかんで,貨幣経済もいっそう発展し,銀が基本通貨として用いられ,その補助として銀との交換が保証された元発行の紙幣が発行された。この紙幣は高額の取引や輸送に便利であったため,元の主要な通貨となった。使われなくなった銅銭は日本などに流出し,各地の貨幣経済の発達をうながした。元は,農耕社会の内部にはあまり干渉せず,宋代以来の大土地所有と小作人を用いるも維持された。

IX-88. モンゴル時代の東西交流(1)

モンゴル帝国が成立して東西の交通路が整備されたため,東西交流が盛んとなった。当時イスラームに対してを行っていた西ヨーロッパは,イスラーム地域を征服したモンゴル帝国に関心を寄せた。ローマ教皇がフランチェスコ修道会の修道士を,フランス王が同じ修道会のを使節としてモンゴル高原のに派遣した。また,が派遣され,元の都の大司教としてカトリックを初めて布教した。『』を口述したヴェネツィアの商人は,陸路で[ 7 ]を訪れ,フビライに仕えたのち海路を利用して帰国した。モロッコ生まれのムスリムの大旅行家は元末に[ 7 ]を訪れ,『』を著した。元からイル=ハン国に中国絵画が伝えられ,それがイスラーム世界で発達したに影響を与えた。
check_icon6(1)「[ 6 ]は初めてキリスト教を布教した」はウソの文章になることに注意。ネストリウス派がすでに中国に入ってきている。(2)[ 9 ]は元の初め,[ 10 ]は元末であることに注意。

IX-89. モンゴル時代の東西交流(2)

フビライの命で,チベット仏教僧がチベット文字をもとに作った[ 1 ]文字は,一般には普及せず,貨幣や,駅伝を利用する際の通行証である牌符(はいふ)などに使用された。イスラーム天文学を取り入れてが作ったは,日本の江戸時代に作られたの基礎となった。磁器では,イスラーム世界からもたらされたコバルトブルーの顔料を用いたが作られた。元からイル=ハン国に中国絵画が伝えられ,イスラーム世界で発達したに影響を与えた。

IX-90. 元の文化

元では,儒学の教養を身につけたの地位が低下したため,儒学はふるわなかった。元は,文化に対しては放任的態度をとったため,庶民文化が発達し,宋代に始まる古典演劇であるがと南曲に分かれて完成した。[ 3 ]の代表作には,封建的束縛にとらわれない自由な恋愛を描く『』や,匈奴に嫁いだ前漢の宮女を描いた『』などがある。南曲には,出世した夫との再会をはたす貞節な妻を描いた『』などがある。小説では,北宋末の義賊の武勇伝を描く『』,玄奘のインド旅行を題材とした『』,三国時代を題材にとった『』などの原型が元代に作られた。

IX-91. モンゴル帝国の解体

14世紀に入ると,世界的に寒冷化が進み,天候不順による穀物の不作と飢饉をもたらし,モンゴル支配下の各地においても,動揺が見られた。中央アジアの国は,14世紀半ばに東西に分裂し,西[ 1 ]国の混乱に乗じてが台頭,国を征服し,イラン・イラクにまで領土を広げた。南ロシアの国では,14世紀半ば頃から内紛で統一が揺らぐなか,[ 2 ]の侵攻によって弱体化した。1480年,が[ 4 ]から独立し,16世紀初めに[ 4 ]は滅亡した。元は,チベット仏教(ラマ教)を熱狂的に信仰して財政を悪化させ,14世紀に入り貿易が縮小するとさらに財政が窮乏した。紙幣であるを乱発すると,経済が一層混乱した。商業を重視してきた元の政策に不満をもってきた農民は,白蓮教を中心とするをはじめとする農民反乱を各地でおこし,元は明軍に追われてモンゴル高原に退いた。これ以降を,というが,明を建国したの攻撃で2代で滅んだ。
check_icon614世紀には,西ヨーロッパでも大きな変容がみられた(参照:III-38,III-39)。これらを合わせ,「14世紀の危機」ともいう。

明・清盛期(27)

IX-92. 明の成立

14世紀に世界は寒冷化し,世界各地で天候不順による不作や飢饉が続き,自然災害や疫病が多発した。このような状況下,元朝の支配が衰えた。元末に,民間の仏教系宗教結社が起こした農民反乱が拡大し,貧農出身のがその中から頭角を現し,年に(現在の南京)で皇帝の位についた。[ 3 ]は廟号の呼び名で明のと呼ばれるが,明代から皇帝が自らの治世下で元号を変更しないの制が始まったため,元号を用いてとも呼ばれる。明軍に追われた元の朝廷はモンゴル高原に退き,を建てたが,[ 8 ]の攻撃により2代で滅亡した。南京を都として中国を統一した明は,江南からおこって中国を統一した初めての王朝となった。
check_icon6「こうきん」の乱は2つある。後漢末に起きたのが「黄巾」で,元末におきたのは「紅巾」である。

IX-93. 明の制度

明を建てたは元末の混乱をおさめるため,皇帝に権力を集中させたほか,漢民族の文化を重視し,儒教を通じた社会規範の再確立を図った。[ 1 ]は,唐代にできた三省のうち最後まで残っていたとその長官であったを廃止して,を皇帝に直属させ,宋代に始まった君主(皇帝)独裁体制を完成させた。また,を官学とし,官僚はによって選抜した。軍制では,軍戸の戸籍を設けてを編成した。農村では,土地台帳であると戸籍・租税台帳であるをつくり,一家を民戸として登録し,徴税や治安維持の責任を負わせるを実施した。民衆教化のために儒教にもとづくを定め,唐の律・令にならって,明律・明令を制定した。

IX-94. 永楽帝

第2代皇帝が諸王勢力の削減を図ると,1399年にのが挙兵し(),南京を占領して1402年に帝位についた()。洪武帝がを廃止したのに対して,[ 5 ]は皇帝の補佐機関として内閣を組織し,新たにを設置して皇帝の顧問とした。1421年,首都を金陵(南京)から自らの根拠地であった[ 2 ]に移した。[ 5 ]は,積極的な対外政策を展開し,イスラーム教徒のであるの大船団を東南アジア・インド洋に派遣して,朝貢を促した。また,滅亡後のベトナムに出兵し,一時併合した。北方では,自らモンゴルに遠征を繰り返し,また女真人を従えた。[ 5 ]の命により,類書(百科事典)である『』,四書の注釈書である『』,五経の注釈書である『』が編纂された。
check_icon6小アジアでは,1402年にでティムールがを破った。

IX-95. 倭寇と海禁

宋・元代には海上貿易が発展し,明州(明以降は,)やマルコ=ポーロがキンザイと呼んだなどの港市が栄えた。14世紀に入ると,東アジア一帯に動乱が広がった。中国では,元が衰退し,明が成立した。日本では14世紀に,鎌倉幕府が滅亡し,南北朝時代の混乱が続くと,交易を担っていた商人や武士団などが独自の行動をとるようになり,海上や沿岸で略奪行為を働くようになった。彼らは,(前期倭寇)と呼ばれ,朝鮮の沿岸や,元末明初の内乱で混乱する中国沿岸を襲った。明を建国したは,[ 3 ]を力で押さえ込むため,民間の海上交易そのものを禁止し(),対外関係を朝貢・関係に限定した。そこで,室町幕府の将軍足利義満は日本国王に[ 7 ]された上で,[ 3 ]の取り締まりを条件に,朝貢貿易であるに参加した。ヨーロッパ人が世界各地に進出するが始まると,16世紀に国際貿易がさかんとなった。明の周辺でも,[ 6 ]政策を破って貿易の利益を得ようとする動きが活発化し,中国人を主体とする私貿易商人たちが中国や朝鮮の沿岸都市を襲った()。明は従来の貿易統制政策をとることが出来ず,16世紀後半に[ 6 ]を緩和し,[ 3 ]の争乱はおさまった。

IX-96. モンゴル諸部族の台頭

明は,海上交易において民間貿易を禁止し(),貿易のみを認めるという厳しい交易管理をとったが,内陸の交易についても同じでモンゴルや女真には[ 2 ]の形式をとらせ,規模や回数も制限した。モンゴル諸部族は,これに不満を持ち,しばしば中国に侵入した。モンゴル高原では,元の残存勢力が建てたが滅んだのち,東部のと,西部のと呼ばれるモンゴル系諸部族が勢力を競っていた。1449年,[ 5 ]のが土木堡(どぼくほ)で明軍を破り,明のをとらえた()。これ以降,守勢に立った明はを築き,モンゴルの侵入に備えた。16世紀になると,モンゴルを統合した[ 4 ]のが侵入を繰り返し,1550年には明の都を包囲した。
check_icon6[ 10 ]は,のチベット仏教(ラマ教)の信者となったことから,以降モンゴル人の間にチベット仏教が広まった。

IX-97. 明による貿易統制政策の動揺

15世紀に始まるにおいて,ヨーロッパ人は世界各地に進出して世界の一体化が始まった。これを背景に,16世紀になると,国際商業が活発化した。これにともない,明による内陸と海上における貿易統制政策を破って貿易の利益を得ようという動きが活発化した。北方では,のが侵入を繰り返し,南方では民間貿易を禁じたを破って海上での密貿易や海賊行為が再び激化した()。これらの明による貿易統制に対抗する動きを「」と呼ぶが,明は従来の貿易統制政策をとることが出来ず,16世紀後半に政策を転換した。北方では,[ 3 ]と講和を結び,[ 3 ]を冊封した上で,交易に応じた。南方では,[ 4 ]をゆるめたが,民間貿易を全面的に認めたものではなく,明から日本への渡航は禁止されたままであった。

IX-98. 明における税制の変化

中国では,モンゴル時代に銀が基本通貨として用いられ,銀の使用がさかんであった。だが,明は小規模自作農に依拠する経済と財政の形成をめざし,当初は貨幣流通も制限され,銀の使用が下火となった。16世紀に入り,明が貿易統制政策をゆるめると,中国をめぐる国際貿易も活発化した。しかし,ヨーロッパや日本には中国に対するめぼしい輸出品はなかったため,生糸や景徳鎮産などのの代価として,石見(いわみ)銀山などで産出されると,スペイン商人がもたらすが大量に明に流入することとなった。これを背景に,税の納入も銀で行われるようになり,各種の税や徭役(ようえき)を一本化して銀で納入するが行われるようになった。16世紀後半,時代初期に改革を行ったが,[ 4 ]を全国的に施行した。
check_icon6[ 4 ]は,唐中期から用いられたにとってかわった。

IX-99. 16~17世紀の東アジアの状況(1)

日本では,石見(いわみ)銀山などの主要銀山と,堺・長崎などの貿易港を掌握した豊臣秀吉が,日本を統一した。秀吉は,軍事力による東アジア交易体制の再編をねらい,朝鮮に対し服属と明出兵への先導を求めた。明の冊封を受けていた朝鮮がこれを拒否すると,秀吉は二度にわたって朝鮮に侵攻した。これを,日本では,と呼び,朝鮮ではと呼ぶ。日本軍は,率いる水軍の活躍や民間の義兵の抵抗に苦しめられ,さらに宗主国である明が援軍を送って反撃したため,秀吉の死とともに日本軍は撤退した。秀吉のこの朝鮮出兵は,朝鮮の国土を荒廃させただけでなく,戦費が大きな負担となって明の財政を悪化させた。明との関係が決定的に悪化し,公式貿易が困難となったため,豊臣氏にかわって政権を握った徳川家康は,認可を与えたを台湾・マカオや東南アジアに渡航させて中国人商人と交易させた。

IX-100. 16~17世紀の東アジアの状況(2)

日本と中国との間における日本銀との貿易は,16世紀から17世紀にかけて大きな利益をあげたため,中国人や日本人だけでなく,ポルトガル人やオランダ人などもその利益をめぐって争った。ポルトガル人は,1557年に明により居住が認められたを,オランダ人はを拠点とした。しかし,江戸幕府は諸大名への統制を強めるため,キリスト教を禁止し,日本人の海外渡航とポルトガル人の来航を禁止した。このような管理貿易体制はのちに「」と呼ばれたが,その後も長崎ではや中国と,対馬(つしま)で朝鮮,琉球・薩摩経由で中国,松前でアイヌと交易を行った。一方,中国東北地方では,明の間接統治下にあったツングース系のが16世紀末にのもとで自立した。[ 7 ]は,[ 6 ]を統合し,1616年にを建て,明に対抗した。
check_icon6ポルトガルは,1887年に正式に[ 1 ]を領有したが,1999年に中国に返還した。

IX-101. 明の混乱と滅亡

16世紀後半に明は,北方からのの攻撃と南の後期倭寇による危機()にさらされた上,豊臣秀吉による朝鮮出兵時には朝鮮に援軍を送る必要があった。さらに17世紀前半にかけては,を統合してヌルハチが建てたの攻撃を受けた。これらに対処するため,軍事費は増大し,明は財政難に陥った。万暦帝時代の初期の16世紀後半,は,検地や新たな税制()を全国的に施行するなど,中央集権的に財政を立て直そうとした。しかし,独裁的な[ 5 ]の中央集権的改革は,地方の有力者である層の反発を買った。その後,[ 5 ]に追われたが建てた書院に集まった開明派の[ 7 ]たち([ 9 ]派)と,宦官勢力と結んだ非[ 9 ]派の党争により政治は混乱した。明の政治が混乱するなか,重税と天災によって各地に反乱が起こるなか,の乱で北京を占領され,1644年に明は滅亡した。
check_icon6[ 7 ]は,科挙の合格者や退職した官僚経験者で郷里に居住する有力者を指す。

IX-102. 明代の農業の発達

明は成立当初,小農民に依拠する経済と財政の形成をめざし,人の移動や貨幣流通も制限した。明が農村を統制し,保護したこともあり,農業生産力は高まった。長江下流域の江南では,二毛作が進展し,技術改良で稲作がさらに進展し,16世紀に江南はほぼ開発しつくされた。明の建国者が綿花の栽培を奨励したこともあり,綿花栽培が全国に広まった。16世紀に入り国際商業が活発化すると,江南ではや絹織物などの家内制手工業がさかんとなったほか,絹織物業が発達した江蘇省のや浙江省のが商工業都市として発展した。。宋代に「」といわれた穀倉地帯の江南には,明成立後も重い税や小作料が課せられたため,農民は副業として家内制手工業に精を出すようになった。その結果,明末には長江中流域(現在の湖北・湖南省)が新たな穀倉地帯となり,「」と称せられるようになった

IX-103. 明代の商業・手工業の発達

江西省のに代表される陶磁器も生産をのばし,元末に登場したに加えて,一度焼き上げた白磁の上に多色の顔料で絵を加えて再び焼くも登場した。商業や手工業の発展にともない,商工業者は同郷出身者や同業者の互助や親睦を図るために,都市にやをつくった。また,山西省出身のや安徽省出身のなど,明の政府と結びついて特権を有する遠隔地商人があらわれた。

IX-104. 明代の文化-朱子学-

明の建国者は宋代に始まるを官学として,儒教にもとづく国家体制を築こうと努めた。第3代は勅命をもって,各地の学者を動員し,類書(百科事典)である『』を編纂させた。また[ 3 ]は,四書の注釈書である『』,五経の注釈書である『』を編纂させ,従来の朱子学の学説をまとめさせた。こうした大規模な国家的編纂事業によって[ 2 ]の解釈は統一され,科挙試験の拠り所として用いられたが,思想は固定化され,停滞に向かった。

IX-105. 明代の文化-陽明学・考証学-

『四書大全』『五経大全』などの編纂によって,朱子学は固定化・停滞へと向かったが,これを打破して儒学を新たに発展させたのがであった。南宋のの学説を発展させた[ 1 ]は,心そのものが理()であり,無学な庶民や子どもでも心の中に真正なる道徳をそなえていると主張し,その心のままに実践を行う()ことを説く,をおこした。実践と実用を重んじる[ 5 ]は,朱子学に不満を持つ人々に受け入れられ,江戸時代の日本にも影響を与えた。明末の[ 5 ]の急進派である李贄(りし)は,生まれながらの純真な心を「童心」と称して尊び,ついには孔子や儒教経典を不完全なものと否定すると,危険思想として捕らえられ獄死した。陽明学に対する反動として,明末清初に経典に確実な証拠を求めて実証的に研究しようとするがあらわれた。『日知録』を著したや,『明夷待訪録』を著したらが[ 6 ]の基礎を築いた。

IX-106. 明代の文化-実学-

16世紀に入り産業や商業が発展するなか,キリスト教宣教師が西洋の学術をもたらし,また陽明学がしだいに空論化すると,これらを背景に現実社会に役立つ学問を第一とするがおこった。は古今の薬物の総合書である『』を著し,は農政・農業の総合書である『』を,は産業技術書である『』を著した。こうした科学技術の発展の背景にあったのが系の宣教師の来航である。は,世界地図である「」を刊行し,さらに[ 4 ]とともにエウクレイデスの幾何学を翻訳した(『』)。は,[ 4 ]らを指導し,西洋の暦法をもとに『』を編纂した。

IX-107. 明代の文化-庶民文化・美術-

明中期以降の産業・商業の発展により,長江下流域の江南の都市を中心に庶民の生活が豊かになり,小説や講談・劇などが流行した。小説では,三国時代を題材にとった『』,北宋末の義賊の武勇伝を描く『』,玄奘のインド旅行を題材とした『』,豪商の退廃した生活を描く『』の四大奇書といわれる小説が流行した。また,美術・工芸では,明末のは明を代表する画家・書家であるが,政治家としても名高い。

IX-108. 後金の成立

ツングース系の(のちに満洲(州),マンジュと改称)は中国東北地方の東部で半農・半猟・半牧の生活を営み,明の間接統治下にあったが,明の富裕層の間で中国東北地方の特産品である毛皮や薬用ニンジンの需要が高まると,[ 1 ]諸部族間の抗争が激化した。16世紀末に明から自立した(太祖)が[ 1 ]を統合し,1616年にを建国した。[ 2 ]は,[ 1 ]人の社会制度に立脚した軍事組織であるを編成し,モンゴル文字を応用したをつくるなど国家体制を整えて,明軍を破って中国東北地方を支配した。
check_icon6(1)モンゴルのオゴタイ(オゴデイ)に1234年に滅ぼされた金に対して「後金」という。(2)満洲(州)は女真に代わる民族名であるが,のちに中国東北地方をさす地域名として用いられるようになった。

IX-109. 清の成立

第2代は内モンゴルに進出して,チンギス=ハン以来の大ハン位を継承していた部を従えた。[ 1 ]は民族名を女真からに改め,さらに1636年に国号をと改め,チンギス=ハン以来の大ハン位を継承して皇帝を称した。[ 1 ]は,明の冊封を受けていたため[ 3 ]の建国を認めない朝鮮を攻め,朝鮮を服属させた。また,[ 1 ]は満洲人からなる満洲八旗のほか,平定したモンゴルの兵士からなる,投降してきた漢人からなるを編成した。さらに,[ 1 ]はモンゴル平定後,藩部を統括するを設置した。

IX-110. 清の入関

年にが明を滅ぼすと,万里の長城の東端のを守っていた明の武将が清側についた。そこで,清の第3代皇帝は中国本土に入り,[ 2 ]を倒し,に遷都した。清は協力した[ 4 ]ら3人の漢人武将を南方の雲南・広東・福建に封じてとした(三藩)。

IX-111. 清の版図拡大

清が長城以南の華北に入ることに協力したを初めとする3人の漢人武将は,南方の雲南・広東・福建に封じられ,となった(三藩)。しかし,清の第4代皇帝が三藩の撤廃をはかると,[ 1 ]らは三藩の乱を1673年に起こしたが,[ 3 ]に鎮圧された。一方,東シナ海域では鄭氏一族が日明間の中継貿易を握っていたが,明が滅びると,が人を駆逐して1661年にを占領し,ここを拠点に清に抵抗した。これに対して,[ 3 ]は民間貿易を禁じるを強め,さらに沿岸部の住民を海岸線から離れた地へ強制移住させる遷界令をしいて,鄭氏の活動を抑制した。1683年,鄭氏は[ 3 ]にくだり,台湾が清の版図に加えられた。その後,清は1684年に[ 7 ]を解除し,広州や上海などに税関である海関を設置し,民間貿易を認める開放策に転じた。しかし,この貿易は朝貢貿易の立場はとっていないが,自由な貿易ではない。第6代皇帝は,1757年に貿易港を一港に限定し,という特権商人組合に貿易を管理させた。貿易を恩恵であるとみなす中華の立場は一貫して維持しているのである。貿易をめぐる問題は,18世紀末,イギリスとの衝突を生む。
check_icon6[ 4 ]は鄭芝竜と日本人との間に生まれた。また,異名を,という。

IX-112. 清朝の最盛期

の乱を鎮圧し,を領有した第4代皇帝は,(アムール川)方面に進出してきたロシアと戦い,年に条約を結び,川と(スタノヴォイ山脈)を両国の国境とした。また,オイラト系の部族である部と対決し,[ 3 ]は自ら遠征して外モンゴルを支配した。第5代皇帝は軍事機密を保持する目的でを設けるとともに,八旗制に改変を加えて君主(皇帝)独裁体制を整えた。対外的には,1727年にロシアと条約を結び,モンゴル方面の国境を画定し,交易場の設置などを決めた。第6代皇帝は,[ 9 ]部を滅ぼして東トルキスタン全域を占領し,これを「」(新しい領土)と名付けた。[ 13 ]のもと,18世紀半ばに清朝の領域は最大に達したが,これが今日の中国の領土の原型をなしている。第4代皇帝[ 3 ]から第6代皇帝[ 13 ]までが清の最盛期である。
check_icon6(1)イギリスでは,[ 5 ]年にが制定された。(2)[ 11 ]はのちに政治の最高決定機関となった。(3)モンゴル・青海・チベット・[ 14 ]はとされ,理藩院によって統轄された。

IX-113. 清朝の中国統治

清朝は,中国統治にあたっては科挙や官制などは明の制度をほぼ受け継ぎ,儒教を尊重した。中央官制の要職には満洲(満州)人と漢人を同数置くを採用した。また,現存するものとしては中国史上最大の類書(百科事典)である『』,第4代皇帝が編纂させた字書である『』,第6代皇帝が編纂させた一大叢書である『』などの大規模な編纂事業をおこして学者を優遇した。一方,漢人男性には満洲(満州)人の風習であるを強制し,反満洲(満州)的な言論に対してはで厳しく弾圧し,また反満洲(満州)的な図書はとした。外来のヨーロッパ文化には寛容で,宣教師がもたらした暦学・数学・絵画などを重用したが,中国布教の方針をめぐるがおこると,第5代皇帝はキリスト教布教を禁止した。軍制では,満洲(満州)人・モンゴル人・漢人からなるを編成したほか,漢人で編成する治安維持部隊であるをおいた。

IX-114. 清代の社会

清はモンゴル人を体制内に取り込んでいたため,北方防衛の負担は少なく,また第4代が漢人藩王によるを鎮圧し,を占領すると清朝による支配が安定した。[ 3 ]占領後に,民間貿易を禁じていたを解除する(1684年)と,海上貿易が再び活発となった。清からは,明代までの輸出品である・陶磁器のほか,ヨーロッパでの「生活革命」に応じても輸出されるようになり,多量の外国銀が流入した。1757年,第6代は貿易港を一港に限定し,特許商人組合であるに貿易を請け負わせた。これに対し,18世紀後半に[ 6 ]の輸入が増大したイギリスは,自由な貿易を求め,18世紀末に貿易問題が生じる。
check_icon6「生活革命」とは,大航海時代以降,タバコ・茶・砂糖・コーヒー・綿織物などの新奇な商品が流入し,17~18世紀にヨーロッパのライフスタイルが変化したことをいう。

IX-115. 清代における税制の変化

税制は,明からのを受け継いでいたが,第4代の時代の18世紀初頭に,(人頭税)を(土地税)に繰り入れるが採用され,制度が簡略化された。[ 5 ]によって人頭税が消滅すると,税を逃れるために隠れていた人口も表に出た。このことと,17世紀中頃からアメリカ大陸原産のやサツマイモが荒れ地・山地で栽培されるようになると,明末清初に1億人程度だった中国の人口は18世紀に急増し,18世紀末には3億人を超えた。農民や地主による抵抗運動も見られた。小作料をめぐるの地主に対するが明末清初以来頻発した。また,土地所有者(地主)が納税を拒否する抗糧も行われ,これは19世紀に多発し,清朝の財政を脅かした。

IX-116. 清代の文化

明末清初という政治の激動を経験したや黄宗羲らは,陽明学に見られるような空論ではなく,より現実的な学問が必要だと主張し,の道を開いた。[ 1 ]や黄宗羲らは,清に抵抗したが,清が厳しく思想統制を行った結果,[ 2 ]は純粋な学問的な古典研究へと性格を変えた。清中期,は,厳密な史料批判を行う[ 2 ]的な史学を確立した。明代の庶民文化の繁栄を受けて,清代においても長編小説と戯曲を中心に庶民文化が都市で栄えた。長編小説では,栄華を極めた貴族家庭の没落を描いた,中国小説史上の最高傑作の一つともいわれる『』や,科挙を風刺して官僚の腐敗を描いた『』が有名である。短編小説では,怪談を集めた『』がある。戯曲では,唐の玄宗と楊貴妃を主題とした『長生殿伝奇』が有名である。

IX-117. イエズス会宣教師の布教

1534年にらによって創立されたの宣教師が,16世紀半ばから中国に来航した。[ 2 ]宣教師は,孔子崇拝や祖先祭祀といった中国伝統の儀礼()を認め,中国名を名乗るなど柔軟な態度で布教した。[ 2 ]宣教師は,布教の手段として西洋の科学技術を伝えたこともあって,『農政全書』を著したらの士大夫がカトリックに改宗した。また,[ 2 ]宣教師は,中国の政治体制や科挙の制度をほめたたえてヨーロッパに伝えた結果,啓蒙思想家が中国と比較してヨーロッパの国家体制を論じる風潮が起き,芸術の上でも(中国趣味)が流行した。しかし,[ 2 ]宣教師が[ 3 ]を認めたことに反対したドミニコ会などの他の宣教師がローマ教皇に訴えた結果,カトリック内部で論争が起こった([ 3 ]問題)。ローマ教皇が[ 2 ]宣教師の布教を異端とすると,第4代皇帝は[ 2 ]以外の布教を禁じ,ついでは1724年にキリスト教の布教を全面的に禁止した。

IX-118. イエズス会宣教師と科学技術

16世紀半ばに中国に来た(利瑪竇りまとう)は,世界地図である「」を刊行し,さらに『農政全書』を著したとともにエウクレイデスの幾何学を翻訳した(『』)。(湯若望)は[ 3 ]らを指導し,西洋の暦法をもとに『』を編纂した。[ 6 ]は,清で『時憲暦』として実施された。(南懐仁)は大砲鋳造や暦法を伝え,康煕帝に仕えた(白進)は中国初の実測の中国地図『』を作成した。(郎世寧)は西洋の絵画技法を伝え,北京郊外につくられたの設計に参画した。
check_icon6[ 11 ]は,アロー戦争中の1860年,英仏連合軍によって破壊され,現在も廃墟をさらしている。

内陸アジア(12)

IX-119. 騎馬遊牧文化の誕生

内陸アジアの草原地帯は乾燥した気候のため,農耕はむずかしく,羊・牛・馬などの家畜群とともに移動生活を行う遊牧民が活躍した。前9世紀頃に騎馬戦術を身につけたが登場し,前6世紀頃に南ロシアの草原地帯を支配したイラン系のが最初の遊牧国家をつくった。[ 2 ]の文化は,動物文様をほどこした馬具や装身具を特徴とするが,これが他の地域でも見られる騎馬遊牧文化の基礎となった。
check_icon6[ 2 ]はアケメネス朝の第3代の遠征軍を退け,またマケドニアのフィリッポス2世とも戦った。ペルシア戦争の歴史を著したギリシアの歴史家は,著書『歴史』で[ 2 ]の風俗・習慣についてくわしく書いている。

IX-120. 秦・漢代のモンゴル高原

イラン系のがつくった騎馬遊牧文化を摂取したは,前3世紀末に即位したのもと,西方にいたを追ってタリム盆地を支配下に置き,東では漢のを破って漢に和親策をとらせた。しかし,漢の第7代の反撃にあって東西交易の利益を失って衰え,前1世紀半ばに東西に分裂した。西[ 2 ]は前漢に敗れ,滅亡した。一方,,東[ 2 ]は漢に服属したのち,勢力を回復したが,後1世紀半ばに南北に再び分裂した。南[ 2 ]は後漢に降伏する一方,北[ 2 ]は後漢に敗れたのち西方に移動した。
check_icon6[ 4 ]はアム川上流域に移ってと呼ばれた。[ 6 ]は[ 2 ]を挟撃するために,を[ 7 ]に派遣した。

IX-121. 魏晋南北朝から唐代までのモンゴル高原

匈奴が衰えたのち,2世紀半ばにがモンゴル高原を支配したが,4世紀になると南下して華北にを建てた。[ 1 ]にかわって,5世紀にモンゴル高原を支配したは,6世紀にトルコ系のに滅ぼされた。[ 4 ]は,ササン朝のと同盟して中央アジアのを滅ぼして中央アジアまで支配したが,内紛と隋の離間策によって東西に分裂した。中央アジアを支配した西[ 4 ]は,唐に敗れたのち滅亡した。モンゴル高原を支配した東[ 4 ]は,一時唐に服属したのち,独立したが,744年にトルコ系のに滅ぼされた。[ 7 ]はの乱で唐を支援したが,840年にトルコ系のに敗れて滅んだ。
check_icon6[ 4 ]文字は,騎馬遊牧民最古の文字とされる。

IX-122. ウイグル

ウイグルは,モンゴル高原を支配した系の騎馬遊牧民。744年に[ 1 ]系のを滅ぼして建国し,755年に勃発したでは唐に援軍を送るなど,強勢を誇った。往来したイラン系の商人の影響で教を信奉した。また,[ 4 ]文字に由来するウイグル文字を使ったが,ウイグル文字はモンゴル文字・満州文字のもととなった。内乱に乗じて侵入した[ 1 ]系のにより840年に滅亡した。滅亡後に四散したが,天山方面に逃れた一派が建てた西ウイグル王国はこの地域がトルコ化する始まりとなった。
check_icon6[ 5 ]教は,3世紀前半に[ 5 ]が教をもとに,キリスト教・仏教の要素を融合して開いたもの。

IX-123. トルキスタン

トルキスタンは,パミール高原を境に東西に広がる地域。トルキスタンとはペルシア語で「トルコ人の土地」という意味であるが,9世紀半ばにトルコ系の騎馬遊牧民がやってきたときからトルコ化が始まり,10世紀半ばにトルコ系イスラーム王朝朝が成立したのちにイスラーム化した。現在の中央アジア5か国とアフガニスタン北部にあたるパミール高原以西が西トルキスタンであるが,古くはイラン系の人が住んでいたにあたる。現在の中国の新疆ウイグル自治区にあたるパミール高原以東が東トルキスタンで,清の第6代皇帝が征服し,に加えた地域である。

IX-124. 明・清代のモンゴル高原

840年にが崩壊したのち,13世紀にモンゴル帝国が登場するまでモンゴル高原を統一する勢力は現れなかった。北元が崩壊したのち,モンゴル系諸部族のうち,とモンゴル高原の支配者はかわった(参照:IX-92,IX-96)。1550年に北京を包囲した[ 3 ]のが黄帽派の(ラマ教)に帰依して以降,モンゴル人の間に[ 5 ]が広まった。明代に,モンゴルの部族が内モンゴルを支配したが,1635年に清の第2代に征服された。17~18世紀半ばに[ 2 ]の一部族が現在の新疆ウイグル自治区の北部を支配したが,18世紀半ばに清の第6代に滅ぼされた。

IX-125. チベットの動向

7世紀にがチベットを統一し,を都とする初の統一王朝を建国した。この王朝を中国ではと呼んだ。[ 1 ]はチベット文字を制定し,唐の太宗の皇女を迎えて唐と親交を結んだ。安史の乱に乗じて,[ 3 ]は一時唐の都のを占領した。その後も唐と抗争を繰り返したが,9世紀前半に唐との和平が結ばれて[ 2 ]に唐蕃会盟碑が建立された。しかし,[ 3 ]は9世紀後半に東西に分裂して衰えた。その後,チベットは明に服属したのち,清のとされた。1911年に起きた辛亥革命を機に,1913年にダライ=ラマ13世が独立を主張する布告を出し,チベットは事実上独立した。中華人民共和国成立後,1951年に中国の人民解放軍が進駐し,チベットは中国に併合された。1959年に起きたチベット反乱を中国の人民解放軍が制圧した際に,ダライ=ラマ14世はインドへ亡命した。
check_icon6[ 2 ]には,という歴代のダライ=ラマの宮殿がある。

IX-126. チベット仏教(ラマ教)

チベット仏教(ラマ教)は,インドから伝わった大乗仏教とチベット固有の民間信仰が融合して8世紀に成立した大乗仏教の一派である。チベット最初の統一王朝であるの国教とされた。元朝の保護を受けたのち,14世紀にが改革を行い,を開いた。韃靼(タタール)のが[ 3 ]に帰依したのち,[ 3 ]はモンゴル人に広まった。[ 4 ]が高僧に贈った称号がで,その後チベット仏教の最高権威者の称号として用いられてきた。[ 5 ]は転生するものとされ,現在は[ 5 ]14世である。[ 5 ]14世は,1959年に起きたチベット反乱を中国の人民解放軍が制圧した際にインドへ亡命し,1989年にノーベル平和賞を受賞した。

IX-127. 雲南地方の動向

雲南は中国南西部に当たる地域。チベット=ビルマ系の人々が雲南に建てた王国は唐に朝貢していたが,755年に勃発した以降,唐との関係が悪化し,チベットのと組んで唐に侵攻した。独特の仏教文化を持っていたが,902年に漢人の家臣によって簒奪され滅んだ。[ 1 ]滅亡後,白蛮系の豪族がを建てた。[ 4 ]は宋に朝貢していたが,モンゴル帝国の第4代皇帝(憲宗)に派遣されたによって1254年に滅ぼされた。

IX-128. 中央アジア-大月氏-

騎馬遊牧民であるはモンゴル高原西部を支配していたが,前2世紀前半にの冒頓単于の攻撃を受けてイリ地方へ移動した。しかし,の攻撃を受け,アム川上流域に移ったのち,(前140頃~後1世紀)を名乗った。前漢の第7代皇帝は[ 2 ]を挟撃しようとを派遣したが,[ 4 ]は漢との同盟は断った。

IX-129. 中央アジア-烏孫-

烏孫(うそん)は,前2世紀後半以降,天山山脈北方にいたトルコ系とみられる遊牧民である。前2世紀前半に匈奴の支援を得て,を追ってイリ地方に移った。漢の第7代皇帝はを派遣し,匈奴挟撃のための同盟をに求めたが[ 4 ]に断られた。その後,[ 2 ]は[ 3 ]を烏孫に派遣し,烏孫と同盟を結び,西域進出に成功した。烏孫は,5世紀後半にの攻撃を受け,西方に移動したのちは不明である。

IX-130. 3つの東西交易路

乾燥した中央アジアの砂漠地帯にも,地下水を利用し,農業が発展した都市が点在した。[ 1 ]都市は,イラン系の商人などがラクダを用いて行うの拠点となり,中国から中央アジアの[ 1 ]都市を経由して地中海東岸を結ぶ「[ 1 ]の道」が形成された。この交易では中国産の絹が主要商品であったため,「[ 1 ]の道」は一般に「」と呼ばれる。一方,さらに北方の草原地帯では,遊牧民が東西を結ぶ交易に活躍しており,このルートは「」と呼ばれる。さらに,地中海から紅海・アラビア海・インド洋を経て,東南アジア・中国にいたる「」が,古代から東西を結びつけた。明代以降,このルートを用いて産などの陶磁器が大量に輸送されたので「陶磁の道」とも呼ばれる。
check_icon6[ 2 ]人は,文字をもとに[ 2 ]文字を作った。[ 2 ]文字はウイグル文字のもととなった。

朝鮮半島と日本(6)

IX-131. 古代の朝鮮半島

前2世紀初めに燕から亡命してきたがを建てた。漢の第7代は前108年に[ 2 ]を倒し,などの朝鮮4郡を置いた。しかし,[ 4 ]以外は漢の支配はゆるみ,長続きしなかった。後漢末に遼東半島で自立した公孫氏が[ 4 ]を支配し,その南部を分離して帯方郡を置いた。3世紀半ば,公孫氏は魏に滅ぼされ,その後[ 4 ]は朝鮮半島北部を支配するに313年に滅ぼされ,帯方郡は朝鮮半島南部の韓族によって滅ぼされた。

IX-132. 朝鮮半島の三国時代

朝鮮半島南部では,韓族の諸国が馬韓・弁韓・辰韓にまとまり,4世紀半ばに半島南西部の馬韓の地に,半島南東部の辰韓の地にが成立した。さらに,中国東北地方から半島北部をが支配した。[ 1 ]・[ 2 ]・[ 3 ]が抗争を繰り広げたのが,朝鮮の三国時代である。[ 3 ]は313年にを滅ぼし,のときに全盛を迎えた。[ 1 ]・[ 2 ]・[ 3 ]の3国は,北朝・南朝に朝貢して冊封を受け,7世紀まで抗争を続けた。突厥と結んだ[ 3 ]に対して,隋のが大軍を送ったが,[ 3 ]はこの侵攻を撃退した。唐が[ 2 ]と連合して,660年に[ 1 ]を,ついで668年に[ 3 ]を滅ぼして三国時代は終わった。
check_icon6(1)辰韓 → 新羅は最初の音が「しん,しん」と同じであると覚えよう。(2)新羅は半島の南東部に位置するが,唐と同盟すると,百済に対しても,高句麗に対しても挟み撃ちが出来る位置に当たると覚えよう。

IX-133. 新羅による統一

唐と新羅が連合して,百済・を滅ぼしたのち,唐は朝鮮半島を直接支配下に置こうとした。新羅は,唐に抵抗して唐の勢力を退け,676年に朝鮮半島で最初の統一国家を樹立した。新羅は,改めて唐の冊封を受けた上で,唐の官僚制を導入し,中央集権体制を作り上げ,と呼ばれる身分制度によって貴族中心の秩序を整えた。新羅はを保護し,都のではなどで仏教文化が栄えた。9世紀末以降分裂し,935年にに投降して滅んだ。
check_icon6[ 4 ]は新羅の時代には,金城と呼ばれた。

IX-134. 日本の動向

西南日本では弥生時代から稲作技術が進み,前2~前1世紀頃に「」と総称される小国家が形成された。その中の「奴国(なこく)」が後漢の建国者に朝貢し,「」の金印を与えられた。3世紀には邪馬台国のが三国のに朝貢し,「親魏倭王」の称号を与えられた。5世紀には倭国の王(倭の五王)が南朝にたびたび朝貢し,また朝鮮半島南西部にあったや加耶(加羅)諸国と結んで朝鮮半島の抗争に介入した。半島南東部にあったが6世紀半ばに加耶(加羅)を滅ぼし,さらに660年に唐と結んで[ 6 ]を滅ぼすと,日本は百済を支援して軍隊を送った。しかし,663年に唐と[ 7 ]連合軍にで敗れて,朝鮮から撤退した。その後も日本は,唐に朝貢使節()を派遣したが,755年に勃発した以降唐が衰退すると,894年に[ 9 ]は停止され,日本独自のが形成された。

IX-135. 高麗

朝鮮半島では,新羅が衰えると,918年にがを都としてを建てた。[ 3 ]は宋の冊封を受け,科挙を採用して官僚制を整備した。国家の保護を受けて仏教がさかんとなり,が木版印刷で2回刊行された。世界最古といわれるがつくられ,陶磁器では宋磁にならいが開発された。[ 3 ]の官僚が文班と武班に区分されていたことにちなんで,と呼ばれる,官位・官職を世襲化する特権階級が形成されていった。

IX-136. 朝鮮(李朝,李氏朝鮮)

元が明によって北方に追いやられ,が建てられると,元に服属していたでは親元派と親明派の対立が続いた。倭寇を破って名声を高めた親明派のは[ 2 ]を倒して1392年に(李朝)を建て,(現在のソウル)に都を置いた。[ 4 ]は,明の冊封を受け,科挙と朱子学を取り入れ,明の制度にならった。15世紀前半ののとき,独自の表音文字であるが制定され,銅活字などの金属活字による出版もさかんに行われた。高級官職を独占した特権階級であるが土地所有を拡大し,党争を繰り返し,政局は混乱した。
check_icon6知識人は漢字を重視し,[ 7 ]を軽視した。1910~45年の日本統治下で,[ 7 ]が学校教育でも教えられるようになって広く使われるようになった。