明・清盛期

「明・清盛期」の一問一答問題です。

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IX-92. 明の成立

14世紀に世界は寒冷化し,世界各地で天候不順による不作や飢饉が続き,自然災害や疫病が多発した。このような状況下,元朝の支配が衰えた。元末に,民間の仏教系宗教結社が起こした農民反乱が拡大し,貧農出身のがその中から頭角を現し,年に(現在の南京)で皇帝の位についた。[ 3 ]は廟号の呼び名で明のと呼ばれるが,明代から皇帝が自らの治世下で元号を変更しないの制が始まったため,元号を用いてとも呼ばれる。明軍に追われた元の朝廷はモンゴル高原に退き,を建てたが,[ 8 ]の攻撃により2代で滅亡した。南京を都として中国を統一した明は,江南からおこって中国を統一した初めての王朝となった。
check_icon6「こうきん」の乱は2つある。後漢末に起きたのが「黄巾」で,元末におきたのは「紅巾」である。

IX-93. 明の制度

明を建てたは元末の混乱をおさめるため,皇帝に権力を集中させたほか,漢民族の文化を重視し,儒教を通じた社会規範の再確立を図った。[ 1 ]は,唐代にできた三省のうち最後まで残っていたとその長官であったを廃止して,を皇帝に直属させ,宋代に始まった君主(皇帝)独裁体制を完成させた。また,を官学とし,官僚はによって選抜した。軍制では,軍戸の戸籍を設けてを編成した。農村では,土地台帳であると戸籍・租税台帳であるをつくり,一家を民戸として登録し,徴税や治安維持の責任を負わせるを実施した。民衆教化のために儒教にもとづくを定め,唐の律・令にならって,明律・明令を制定した。

IX-94. 永楽帝

第2代皇帝が諸王勢力の削減を図ると,1399年にのが挙兵し(),南京を占領して1402年に帝位についた()。洪武帝がを廃止したのに対して,[ 5 ]は皇帝の補佐機関として内閣を組織し,新たにを設置して皇帝の顧問とした。1421年,首都を金陵(南京)から自らの根拠地であった[ 2 ]に移した。[ 5 ]は,積極的な対外政策を展開し,イスラーム教徒のであるの大船団を東南アジア・インド洋に派遣して,朝貢を促した。また,滅亡後のベトナムに出兵し,一時併合した。北方では,自らモンゴルに遠征を繰り返し,また女真人を従えた。[ 5 ]の命により,類書(百科事典)である『』,四書の注釈書である『』,五経の注釈書である『』が編纂された。
check_icon6小アジアでは,1402年にでティムールがを破った。

IX-95. 倭寇と海禁

宋・元代には海上貿易が発展し,明州(明以降は,)やマルコ=ポーロがキンザイと呼んだなどの港市が栄えた。14世紀に入ると,東アジア一帯に動乱が広がった。中国では,元が衰退し,明が成立した。日本では14世紀に,鎌倉幕府が滅亡し,南北朝時代の混乱が続くと,交易を担っていた商人や武士団などが独自の行動をとるようになり,海上や沿岸で略奪行為を働くようになった。彼らは,(前期倭寇)と呼ばれ,朝鮮の沿岸や,元末明初の内乱で混乱する中国沿岸を襲った。明を建国したは,[ 3 ]を力で押さえ込むため,民間の海上交易そのものを禁止し(),対外関係を朝貢・関係に限定した。そこで,室町幕府の将軍足利義満は日本国王に[ 7 ]された上で,[ 3 ]の取り締まりを条件に,朝貢貿易であるに参加した。ヨーロッパ人が世界各地に進出するが始まると,16世紀に国際貿易がさかんとなった。明の周辺でも,[ 6 ]政策を破って貿易の利益を得ようとする動きが活発化し,中国人を主体とする私貿易商人たちが中国や朝鮮の沿岸都市を襲った()。明は従来の貿易統制政策をとることが出来ず,16世紀後半に[ 6 ]を緩和し,[ 3 ]の争乱はおさまった。

IX-96. モンゴル諸部族の台頭

明は,海上交易において民間貿易を禁止し(),貿易のみを認めるという厳しい交易管理をとったが,内陸の交易についても同じでモンゴルや女真には[ 2 ]の形式をとらせ,規模や回数も制限した。モンゴル諸部族は,これに不満を持ち,しばしば中国に侵入した。モンゴル高原では,元の残存勢力が建てたが滅んだのち,東部のと,西部のと呼ばれるモンゴル系諸部族が勢力を競っていた。1449年,[ 5 ]のが土木堡(どぼくほ)で明軍を破り,明のをとらえた()。これ以降,守勢に立った明はを築き,モンゴルの侵入に備えた。16世紀になると,モンゴルを統合した[ 4 ]のが侵入を繰り返し,1550年には明の都を包囲した。
check_icon6[ 10 ]は,のチベット仏教(ラマ教)の信者となったことから,以降モンゴル人の間にチベット仏教が広まった。

IX-97. 明による貿易統制政策の動揺

15世紀に始まるにおいて,ヨーロッパ人は世界各地に進出して世界の一体化が始まった。これを背景に,16世紀になると,国際商業が活発化した。これにともない,明による内陸と海上における貿易統制政策を破って貿易の利益を得ようという動きが活発化した。北方では,のが侵入を繰り返し,南方では民間貿易を禁じたを破って海上での密貿易や海賊行為が再び激化した()。これらの明による貿易統制に対抗する動きを「」と呼ぶが,明は従来の貿易統制政策をとることが出来ず,16世紀後半に政策を転換した。北方では,[ 3 ]と講和を結び,[ 3 ]を冊封した上で,交易に応じた。南方では,[ 4 ]をゆるめたが,民間貿易を全面的に認めたものではなく,明から日本への渡航は禁止されたままであった。

IX-98. 明における税制の変化

中国では,モンゴル時代に銀が基本通貨として用いられ,銀の使用がさかんであった。だが,明は小規模自作農に依拠する経済と財政の形成をめざし,当初は貨幣流通も制限され,銀の使用が下火となった。16世紀に入り,明が貿易統制政策をゆるめると,中国をめぐる国際貿易も活発化した。しかし,ヨーロッパや日本には中国に対するめぼしい輸出品はなかったため,生糸や景徳鎮産などのの代価として,石見(いわみ)銀山などで産出されると,スペイン商人がもたらすが大量に明に流入することとなった。これを背景に,税の納入も銀で行われるようになり,各種の税や徭役(ようえき)を一本化して銀で納入するが行われるようになった。16世紀後半,時代初期に改革を行ったが,[ 4 ]を全国的に施行した。
check_icon6[ 4 ]は,唐中期から用いられたにとってかわった。

IX-99. 16~17世紀の東アジアの状況(1)

日本では,石見(いわみ)銀山などの主要銀山と,堺・長崎などの貿易港を掌握した豊臣秀吉が,日本を統一した。秀吉は,軍事力による東アジア交易体制の再編をねらい,朝鮮に対し服属と明出兵への先導を求めた。明の冊封を受けていた朝鮮がこれを拒否すると,秀吉は二度にわたって朝鮮に侵攻した。これを,日本では,と呼び,朝鮮ではと呼ぶ。日本軍は,率いる水軍の活躍や民間の義兵の抵抗に苦しめられ,さらに宗主国である明が援軍を送って反撃したため,秀吉の死とともに日本軍は撤退した。秀吉のこの朝鮮出兵は,朝鮮の国土を荒廃させただけでなく,戦費が大きな負担となって明の財政を悪化させた。明との関係が決定的に悪化し,公式貿易が困難となったため,豊臣氏にかわって政権を握った徳川家康は,認可を与えたを台湾・マカオや東南アジアに渡航させて中国人商人と交易させた。

IX-100. 16~17世紀の東アジアの状況(2)

日本と中国との間における日本銀との貿易は,16世紀から17世紀にかけて大きな利益をあげたため,中国人や日本人だけでなく,ポルトガル人やオランダ人などもその利益をめぐって争った。ポルトガル人は,1557年に明により居住が認められたを,オランダ人はを拠点とした。しかし,江戸幕府は諸大名への統制を強めるため,キリスト教を禁止し,日本人の海外渡航とポルトガル人の来航を禁止した。このような管理貿易体制はのちに「」と呼ばれたが,その後も長崎ではや中国と,対馬(つしま)で朝鮮,琉球・薩摩経由で中国,松前でアイヌと交易を行った。一方,中国東北地方では,明の間接統治下にあったツングース系のが16世紀末にのもとで自立した。[ 7 ]は,[ 6 ]を統合し,1616年にを建て,明に対抗した。
check_icon6ポルトガルは,1887年に正式に[ 1 ]を領有したが,1999年に中国に返還した。

IX-101. 明の混乱と滅亡

16世紀後半に明は,北方からのの攻撃と南の後期倭寇による危機()にさらされた上,豊臣秀吉による朝鮮出兵時には朝鮮に援軍を送る必要があった。さらに17世紀前半にかけては,を統合してヌルハチが建てたの攻撃を受けた。これらに対処するため,軍事費は増大し,明は財政難に陥った。万暦帝時代の初期の16世紀後半,は,検地や新たな税制()を全国的に施行するなど,中央集権的に財政を立て直そうとした。しかし,独裁的な[ 5 ]の中央集権的改革は,地方の有力者である層の反発を買った。その後,[ 5 ]に追われたが建てた書院に集まった開明派の[ 7 ]たち([ 9 ]派)と,宦官勢力と結んだ非[ 9 ]派の党争により政治は混乱した。明の政治が混乱するなか,重税と天災によって各地に反乱が起こるなか,の乱で北京を占領され,1644年に明は滅亡した。
check_icon6[ 7 ]は,科挙の合格者や退職した官僚経験者で郷里に居住する有力者を指す。

IX-102. 明代の農業の発達

明は成立当初,小農民に依拠する経済と財政の形成をめざし,人の移動や貨幣流通も制限した。明が農村を統制し,保護したこともあり,農業生産力は高まった。長江下流域の江南では,二毛作が進展し,技術改良で稲作がさらに進展し,16世紀に江南はほぼ開発しつくされた。明の建国者が綿花の栽培を奨励したこともあり,綿花栽培が全国に広まった。16世紀に入り国際商業が活発化すると,江南ではや絹織物などの家内制手工業がさかんとなったほか,絹織物業が発達した江蘇省のや浙江省のが商工業都市として発展した。。宋代に「」といわれた穀倉地帯の江南には,明成立後も重い税や小作料が課せられたため,農民は副業として家内制手工業に精を出すようになった。その結果,明末には長江中流域(現在の湖北・湖南省)が新たな穀倉地帯となり,「」と称せられるようになった

IX-103. 明代の商業・手工業の発達

江西省のに代表される陶磁器も生産をのばし,元末に登場したに加えて,一度焼き上げた白磁の上に多色の顔料で絵を加えて再び焼くも登場した。商業や手工業の発展にともない,商工業者は同郷出身者や同業者の互助や親睦を図るために,都市にやをつくった。また,山西省出身のや安徽省出身のなど,明の政府と結びついて特権を有する遠隔地商人があらわれた。

IX-104. 明代の文化-朱子学-

明の建国者は宋代に始まるを官学として,儒教にもとづく国家体制を築こうと努めた。第3代は勅命をもって,各地の学者を動員し,類書(百科事典)である『』を編纂させた。また[ 3 ]は,四書の注釈書である『』,五経の注釈書である『』を編纂させ,従来の朱子学の学説をまとめさせた。こうした大規模な国家的編纂事業によって[ 2 ]の解釈は統一され,科挙試験の拠り所として用いられたが,思想は固定化され,停滞に向かった。

IX-105. 明代の文化-陽明学・考証学-

『四書大全』『五経大全』などの編纂によって,朱子学は固定化・停滞へと向かったが,これを打破して儒学を新たに発展させたのがであった。南宋のの学説を発展させた[ 1 ]は,心そのものが理()であり,無学な庶民や子どもでも心の中に真正なる道徳をそなえていると主張し,その心のままに実践を行う()ことを説く,をおこした。実践と実用を重んじる[ 5 ]は,朱子学に不満を持つ人々に受け入れられ,江戸時代の日本にも影響を与えた。明末の[ 5 ]の急進派である李贄(りし)は,生まれながらの純真な心を「童心」と称して尊び,ついには孔子や儒教経典を不完全なものと否定すると,危険思想として捕らえられ獄死した。陽明学に対する反動として,明末清初に経典に確実な証拠を求めて実証的に研究しようとするがあらわれた。『日知録』を著したや,『明夷待訪録』を著したらが[ 6 ]の基礎を築いた。

IX-106. 明代の文化-実学-

16世紀に入り産業や商業が発展するなか,キリスト教宣教師が西洋の学術をもたらし,また陽明学がしだいに空論化すると,これらを背景に現実社会に役立つ学問を第一とするがおこった。は古今の薬物の総合書である『』を著し,は農政・農業の総合書である『』を,は産業技術書である『』を著した。こうした科学技術の発展の背景にあったのが系の宣教師の来航である。は,世界地図である「」を刊行し,さらに[ 4 ]とともにエウクレイデスの幾何学を翻訳した(『』)。は,[ 4 ]らを指導し,西洋の暦法をもとに『』を編纂した。

IX-107. 明代の文化-庶民文化・美術-

明中期以降の産業・商業の発展により,長江下流域の江南の都市を中心に庶民の生活が豊かになり,小説や講談・劇などが流行した。小説では,三国時代を題材にとった『』,北宋末の義賊の武勇伝を描く『』,玄奘のインド旅行を題材とした『』,豪商の退廃した生活を描く『』の四大奇書といわれる小説が流行した。また,美術・工芸では,明末のは明を代表する画家・書家であるが,政治家としても名高い。

IX-108. 後金の成立

ツングース系の(のちに満洲(州),マンジュと改称)は中国東北地方の東部で半農・半猟・半牧の生活を営み,明の間接統治下にあったが,明の富裕層の間で中国東北地方の特産品である毛皮や薬用ニンジンの需要が高まると,[ 1 ]諸部族間の抗争が激化した。16世紀末に明から自立した(太祖)が[ 1 ]を統合し,1616年にを建国した。[ 2 ]は,[ 1 ]人の社会制度に立脚した軍事組織であるを編成し,モンゴル文字を応用したをつくるなど国家体制を整えて,明軍を破って中国東北地方を支配した。
check_icon6(1)モンゴルのオゴタイ(オゴデイ)に1234年に滅ぼされた金に対して「後金」という。(2)満洲(州)は女真に代わる民族名であるが,のちに中国東北地方をさす地域名として用いられるようになった。

IX-109. 清の成立

第2代は内モンゴルに進出して,チンギス=ハン以来の大ハン位を継承していた部を従えた。[ 1 ]は民族名を女真からに改め,さらに1636年に国号をと改め,チンギス=ハン以来の大ハン位を継承して皇帝を称した。[ 1 ]は,明の冊封を受けていたため[ 3 ]の建国を認めない朝鮮を攻め,朝鮮を服属させた。また,[ 1 ]は満洲人からなる満洲八旗のほか,平定したモンゴルの兵士からなる,投降してきた漢人からなるを編成した。さらに,[ 1 ]はモンゴル平定後,藩部を統括するを設置した。

IX-110. 清の入関

年にが明を滅ぼすと,万里の長城の東端のを守っていた明の武将が清側についた。そこで,清の第3代皇帝は中国本土に入り,[ 2 ]を倒し,に遷都した。清は協力した[ 4 ]ら3人の漢人武将を南方の雲南・広東・福建に封じてとした(三藩)。

IX-111. 清の版図拡大

清が長城以南の華北に入ることに協力したを初めとする3人の漢人武将は,南方の雲南・広東・福建に封じられ,となった(三藩)。しかし,清の第4代皇帝が三藩の撤廃をはかると,[ 1 ]らは三藩の乱を1673年に起こしたが,[ 3 ]に鎮圧された。一方,東シナ海域では鄭氏一族が日明間の中継貿易を握っていたが,明が滅びると,が人を駆逐して1661年にを占領し,ここを拠点に清に抵抗した。これに対して,[ 3 ]は民間貿易を禁じるを強め,さらに沿岸部の住民を海岸線から離れた地へ強制移住させる遷界令をしいて,鄭氏の活動を抑制した。1683年,鄭氏は[ 3 ]にくだり,台湾が清の版図に加えられた。その後,清は1684年に[ 7 ]を解除し,広州や上海などに税関である海関を設置し,民間貿易を認める開放策に転じた。しかし,この貿易は朝貢貿易の立場はとっていないが,自由な貿易ではない。第6代皇帝は,1757年に貿易港を一港に限定し,という特権商人組合に貿易を管理させた。貿易を恩恵であるとみなす中華の立場は一貫して維持しているのである。貿易をめぐる問題は,18世紀末,イギリスとの衝突を生む。
check_icon6[ 4 ]は鄭芝竜と日本人との間に生まれた。また,異名を,という。

IX-112. 清朝の最盛期

の乱を鎮圧し,を領有した第4代皇帝は,(アムール川)方面に進出してきたロシアと戦い,年に条約を結び,川と(スタノヴォイ山脈)を両国の国境とした。また,オイラト系の部族である部と対決し,[ 3 ]は自ら遠征して外モンゴルを支配した。第5代皇帝は軍事機密を保持する目的でを設けるとともに,八旗制に改変を加えて君主(皇帝)独裁体制を整えた。対外的には,1727年にロシアと条約を結び,モンゴル方面の国境を画定し,交易場の設置などを決めた。第6代皇帝は,[ 9 ]部を滅ぼして東トルキスタン全域を占領し,これを「」(新しい領土)と名付けた。[ 13 ]のもと,18世紀半ばに清朝の領域は最大に達したが,これが今日の中国の領土の原型をなしている。第4代皇帝[ 3 ]から第6代皇帝[ 13 ]までが清の最盛期である。
check_icon6(1)イギリスでは,[ 5 ]年にが制定された。(2)[ 11 ]はのちに政治の最高決定機関となった。(3)モンゴル・青海・チベット・[ 14 ]はとされ,理藩院によって統轄された。

IX-113. 清朝の中国統治

清朝は,中国統治にあたっては科挙や官制などは明の制度をほぼ受け継ぎ,儒教を尊重した。中央官制の要職には満洲(満州)人と漢人を同数置くを採用した。また,現存するものとしては中国史上最大の類書(百科事典)である『』,第4代皇帝が編纂させた字書である『』,第6代皇帝が編纂させた一大叢書である『』などの大規模な編纂事業をおこして学者を優遇した。一方,漢人男性には満洲(満州)人の風習であるを強制し,反満洲(満州)的な言論に対してはで厳しく弾圧し,また反満洲(満州)的な図書はとした。外来のヨーロッパ文化には寛容で,宣教師がもたらした暦学・数学・絵画などを重用したが,中国布教の方針をめぐるがおこると,第5代皇帝はキリスト教布教を禁止した。軍制では,満洲(満州)人・モンゴル人・漢人からなるを編成したほか,漢人で編成する治安維持部隊であるをおいた。

IX-114. 清代の社会

清はモンゴル人を体制内に取り込んでいたため,北方防衛の負担は少なく,また第4代が漢人藩王によるを鎮圧し,を占領すると清朝による支配が安定した。[ 3 ]占領後に,民間貿易を禁じていたを解除する(1684年)と,海上貿易が再び活発となった。清からは,明代までの輸出品である・陶磁器のほか,ヨーロッパでの「生活革命」に応じても輸出されるようになり,多量の外国銀が流入した。1757年,第6代は貿易港を一港に限定し,特許商人組合であるに貿易を請け負わせた。これに対し,18世紀後半に[ 6 ]の輸入が増大したイギリスは,自由な貿易を求め,18世紀末に貿易問題が生じる。
check_icon6「生活革命」とは,大航海時代以降,タバコ・茶・砂糖・コーヒー・綿織物などの新奇な商品が流入し,17~18世紀にヨーロッパのライフスタイルが変化したことをいう。

IX-115. 清代における税制の変化

税制は,明からのを受け継いでいたが,第4代の時代の18世紀初頭に,(人頭税)を(土地税)に繰り入れるが採用され,制度が簡略化された。[ 5 ]によって人頭税が消滅すると,税を逃れるために隠れていた人口も表に出た。このことと,17世紀中頃からアメリカ大陸原産のやサツマイモが荒れ地・山地で栽培されるようになると,明末清初に1億人程度だった中国の人口は18世紀に急増し,18世紀末には3億人を超えた。農民や地主による抵抗運動も見られた。小作料をめぐるの地主に対するが明末清初以来頻発した。また,土地所有者(地主)が納税を拒否する抗糧も行われ,これは19世紀に多発し,清朝の財政を脅かした。

IX-116. 清代の文化

明末清初という政治の激動を経験したや黄宗羲らは,陽明学に見られるような空論ではなく,より現実的な学問が必要だと主張し,の道を開いた。[ 1 ]や黄宗羲らは,清に抵抗したが,清が厳しく思想統制を行った結果,[ 2 ]は純粋な学問的な古典研究へと性格を変えた。清中期,は,厳密な史料批判を行う[ 2 ]的な史学を確立した。明代の庶民文化の繁栄を受けて,清代においても長編小説と戯曲を中心に庶民文化が都市で栄えた。長編小説では,栄華を極めた貴族家庭の没落を描いた,中国小説史上の最高傑作の一つともいわれる『』や,科挙を風刺して官僚の腐敗を描いた『』が有名である。短編小説では,怪談を集めた『』がある。戯曲では,唐の玄宗と楊貴妃を主題とした『長生殿伝奇』が有名である。

IX-117. イエズス会宣教師の布教

1534年にらによって創立されたの宣教師が,16世紀半ばから中国に来航した。[ 2 ]宣教師は,孔子崇拝や祖先祭祀といった中国伝統の儀礼()を認め,中国名を名乗るなど柔軟な態度で布教した。[ 2 ]宣教師は,布教の手段として西洋の科学技術を伝えたこともあって,『農政全書』を著したらの士大夫がカトリックに改宗した。また,[ 2 ]宣教師は,中国の政治体制や科挙の制度をほめたたえてヨーロッパに伝えた結果,啓蒙思想家が中国と比較してヨーロッパの国家体制を論じる風潮が起き,芸術の上でも(中国趣味)が流行した。しかし,[ 2 ]宣教師が[ 3 ]を認めたことに反対したドミニコ会などの他の宣教師がローマ教皇に訴えた結果,カトリック内部で論争が起こった([ 3 ]問題)。ローマ教皇が[ 2 ]宣教師の布教を異端とすると,第4代皇帝は[ 2 ]以外の布教を禁じ,ついでは1724年にキリスト教の布教を全面的に禁止した。

IX-118. イエズス会宣教師と科学技術

16世紀半ばに中国に来た(利瑪竇りまとう)は,世界地図である「」を刊行し,さらに『農政全書』を著したとともにエウクレイデスの幾何学を翻訳した(『』)。(湯若望)は[ 3 ]らを指導し,西洋の暦法をもとに『』を編纂した。[ 6 ]は,清で『時憲暦』として実施された。(南懐仁)は大砲鋳造や暦法を伝え,康煕帝に仕えた(白進)は中国初の実測の中国地図『』を作成した。(郎世寧)は西洋の絵画技法を伝え,北京郊外につくられたの設計に参画した。
check_icon6[ 11 ]は,アロー戦争中の1860年,英仏連合軍によって破壊され,現在も廃墟をさらしている。