隋・唐

「隋・唐」の一問一答問題です。

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IX-44. 隋の建国

北朝の一王朝であるの外戚であったは,581年に禅譲の形で帝位につき,を建てた。これが[ 3 ]のである。当時,北方にはトルコ系の遊牧国家であるが強勢を誇っていたが,内紛と[ 4 ]による分断策によって東西に分裂した。こうして北方の脅威が弱まると,[ 4 ]は年に南朝のを滅ぼして,南北に分裂していた中国を統一した。[ 4 ]は,新たにを建設して都とした。また[ 4 ]は,北朝で試みられていた制度を取り入れた。土地制度はが始めたを,税制はを,兵制は西魏に始まった兵農一致のをとった。
check_icon6581年と589年はゴロで,「こわい隋,こわくない陳を滅ぼして中国統一」と覚えておこう。

IX-45. 科挙

598年,隋のは,魏が始めた官吏登用法であるを廃し,儒学の試験によるを導入した。これは,広く人材を求めて,貴族による高級官職独占を防止しようとする試みであった。だが,隋・唐代には[ 3 ]によらず,父祖の官職に応じて任官できる蔭位(おんい)の制があり,貴族による高級官職独占は続いた。690年に唐を中断させたが建てたでは科挙官僚が積極的に登用され,政治の担い手が門閥貴族から科挙官僚に移る一つの転機となった。唐末・五代の時代に貴族が没落すると,宋代に皇帝が行う最終試験が導入され,[ 3 ]は完成した。[ 3 ]は元代に一時中断されたが,清末の年まで続いた。

IX-46. 隋の滅亡

隋の建国者の子のときに,南北朝時代に開発が進んだ江南を華北に結びつけるが完成した。しかし,あいつぐ土木事業や外征に徴発された農民の不満が高まり,遠征の失敗を機に,各地で農民反乱が起こり,隋は年に滅んだ。
check_icon6大運河と黄河との接点に位置するは江南からの物資の集散地として繁栄し,後唐を除く五代の王朝・北宋が都を置いた。運河の南端に位置するは南宋・元代に国際貿易で繁栄し,南宋の都として臨安と呼ばれた。

IX-47. 唐の建国と拡大

隋末の混乱に乗じて,挙兵したは年に隋を滅ぼしてを建て,を都とした。第2代のは中国を統一するとともに,北ではトルコ系のを従え,チベットのと和親し,中央アジアへも勢力を伸ばした。3代皇帝は,北はを服属させ,東ではと同盟して,,の順に滅ぼした。唐は周辺異民族を統治するためにを設けたが,実際の統治は異民族の族長に任せて間接統治をするをとった。
check_icon6第2代皇帝[ 5 ]のとき,唐は安定し,繁栄をみせたが,のちに[ 5 ]の治世は「」と讃えられた。

IX-48. 唐の統治制度

唐は,隋の制度を受け継いだ。法制は,刑法である,行政法ないし民法典である,補充改正規定の,施行細則のを整えた。中央官制としては,(中書省・・尚書省)・(吏・戸・礼・兵・刑・工)と,官吏の監察機関であるを設けた。[ 5 ]においては,中書省が詔勅などの草案を作成し,[ 6 ]が審議し,尚書省が執行したが,貴族が牛耳っていた[ 6 ]は拒否権を持っており,貴族が自らの勢力を維持する牙城となっていた。[ 7 ]では,吏部が官吏の任用,戸部が戸籍・財政,礼部が祭祀・文教・科挙を,兵部が軍事,刑部が司法,工部が土木を担当した。官吏登用制度は,隋のを継承・発展させたが,[ 9 ]によらず任官できる蔭位(おんい)の制も存続し,貴族に有利であった。

IX-49. 唐の国内統治

唐は隋で行われた統治体制を引き継ぎ,自作農の増加を図り,それを王朝の財政・軍事基盤とすることをめざした。農民に土地を支給するの給田対象は時代によって異なるが,唐では,成年男性に一代限りのを80畝(ぽ),世襲を許される永業田を20畝の計100畝を与えた。税として,穀物を納めさせる,力役(りきえき)やその代納品を納めさせる,絹などを納めさせるが課せられた。さらに,[ 3 ]・[ 4 ]・[ 5 ]のほかに,地方官庁から課せられる労役であるもあった。また兵制は,北朝のが始めた制度である,兵農一致のを採用した。このように唐は,土地制度・税制・兵制が一体となった制度をしいた。

IX-50. 冊封体制

古来より,中国の中華王朝と周辺諸国との交渉は,という独特の方式を通じて行われた。これは,周辺国の使節が貢ぎ物をもって,中国の皇帝に謁見(えっけん)し,その見返りとして皇帝は貢ぎ物以上の品物を贈るもので,外交儀礼であるとともに交易の側面を持っていた。さらに,諸侯に一定の土地を封土として与える封建制の形式を適用して,[ 1 ]国の君主や首長に爵位(しゃくい)や官位を与えて,その統治を認めるを中華王朝は行った。中国皇帝と周辺諸国が,形式上の君臣関係で結ばれたこの国際秩序を[ 2 ]体制と呼ぶ。漢代に形成されたこの体制は,宋・元代のように北方民族が強い時代には消滅するが,その後復活し,19世紀後半に清仏戦争・日清戦争に敗れるまで存続した。
check_icon6[ 1 ]したすべての国が[ 2 ]を受けたわけではない。渤海をたてたは渤海郡王に封じられて冊封を受けているが,遣唐使を派遣した日本は朝貢のみで冊封は受けていない。

IX-51. 唐の動揺-武韋の禍-

690年,第3代皇帝の皇后であったが帝位について,国号をと改めた。科挙官僚を積極的に登用した[ 2 ]は,中国史上唯一の女帝である。[ 2 ]の老いに乗じて中宗が復位し,705年に唐が復活した。だが,その後も中宗の皇后韋后(いこう)が[ 2 ]をまねて政権を奪おうとするなど混乱が続いた(武韋の禍)。韋后を殺して混乱を収めたは政治を引き締め,国政改革に努めた。
check_icon6中国の王朝が著した正史においては,女性が建てた[ 3 ]を認めたくないため,「前唐」「[ 3 ]」「後唐」のように唐を分割することはない。

IX-52. 唐の動揺-8世紀における変化-

8世紀に唐の体制は大きく転換する。商業が発達してくると,農民の間に貧富の差が広まった。また,租庸調や兵役の負担は農民を苦しめた。さらに,慢性的に口分田が不足していたため,が8世紀にゆきづまり,没落して逃亡する農民が増加した。彼らは貴族などの大土地所有者が経営するを耕作する(小作人)となった。こうして[ 1 ]がくずれていくと,以来行われていた均田農民に軍役を課すが維持できなくなり,傭兵を用いるが採用された。その指揮官をという。8世紀初めの設置当初は,[ 7 ]は辺境の防衛に当たっていた。しかし,755~763年の後は内地にも置かれるようになり,[ 7 ]は軍事だけでなく,地方の行政・財政の権限をも握ってと呼ばれる独立勢力となっていった。財政再建のために,租庸調制に代わって,原住地で所有している土地・財産に応じて夏・秋2回課税するを780年に宰相が採用した。

IX-53. 唐の動揺-玄宗と安史の乱-

中宗の皇后韋后(いこう)を倒し,その後帝位についたは,秩序の再建に取り組み,安定をもたらしたので,治世の前半は「開元の治」とたたえられる。しかし,晩年にを寵愛すると,[ 2 ]の一族が実権を握るようになった。それに反発したのとその部下のが反乱を起こした。この(755~63年)は,の援軍を得てようやく鎮圧された。これ以降,内地にも置かれるようになった[ 3 ]が,行政・財政権を握って自立し,と呼ばれる独立勢力となった。また,[ 7 ]やチベットのもしばしば侵入してきて唐の領土は縮小した。
check_icon6(1)[ 4 ]はソグド系で,3節度使を兼ねていた。(2)唐は751年に中央アジアで起こったでアッバース朝に敗れ,中央アジアから後退した。この戦いで捕虜となった唐の紙漉工(かみすきこう)が製紙法をイスラーム世界に伝えた。

IX-54. 唐の滅亡

前漢のが・鉄・酒を専売にして以来,人体にとって必需品の[ 2 ]は歴代王朝にとって重要な財源であったた。財政再建を図る唐も,[ 2 ]の密売人を厳しく取り締まっていた。そのようななか,山東で[ 2 ]の密売人が挙兵すると,これに呼応してが年に挙兵した。[ 4 ]の乱は884年に鎮圧されたが,唐の衰退は決定的となり,年に節度使のによって唐は滅ぼされた。
check_icon6(1)[ 7 ]は初め[ 4 ]の部下であった。唐に降ったのちに節度使となった。(2)[ 5 ]年,中央アジアでイラン系イスラーム王朝朝が成立した。

IX-55. 唐代の社会経済(1)

人口100万を数える大都市であった首都のには,中継商人としてイラン系の人が往来し,また朝が滅亡して多くのイラン人が移住してきた。その結果[ 1 ]は,国際色豊かな都市であり,エフェソス公会議(431年)で異端とされた派キリスト教()や,(ゾロアスター教)・マニ教の寺院もつくられた。一方海上貿易において,アラブ・イラン系の商人(イスラーム教徒の商人)が訪れ,長江の北岸にあるや広東省のが発展した。[ 9 ]には海上貿易を担当した役所であるが初めて置かれた。

IX-56. 唐代の社会経済(2)

唐による統治が安定してくると,農業生産力も一段と上昇した。唐の半ばには華北で,小麦の生産が普及し,粟(あわ)と小麦・大豆を組み合わせた2年三毛作が広まった。江南では,水稲耕作の技術が向上し,さらに南方に水田地帯が広まった。また,四川から栽培が始まったとされるが一般民衆に広まった。首都のでは,商品売買を行う場所は(東市・西市)に限定され,時間も限る坊市制があったが,唐末にはこの規制は崩壊した。

IX-57. 唐代の文化-宗教-

唐代の文化は,東西交易が盛んとなったことを背景に国際色豊かなものであった。当初,主な担い手は貴族だったため,貴族的性格が強かったが,唐代の中期からは貴族趣味を脱した。儒学は,科挙の試験科目となり,経書の字句解釈を主とする漢代以来のが重視され,太宗の命により科挙のテキストとして,が『』をつくった。仏教は帝室・貴族に支持されて栄えた。往復とも陸路でインドにおもむいたや,往復とも海路を用いたが経典を持ち帰り,仏典の翻訳が進められた。しかし,9世紀半ばには会昌の廃仏と呼ばれる仏教弾圧も行われた。唐の後半には,阿弥陀浄土信仰を説くや,座禅によって悟りを得ようとするがさかんとなった。
check_icon6[ 4 ]はインドの朝のハルシャ王の厚遇を得て,僧院で学び,帰国後『』を著した。[ 5 ]は帰国途中にスマトラ島ので『』を著した。

IX-58. 唐代の文化-文学・絵画・書・工芸-

科挙で詩作が重んじられたこともあり,唐詩が隆盛となった。詩人・画家の王維は,自然美を歌い,画家としては山水画を描いた人物で,のちに「南画の祖」とされた。一時玄宗に仕え,「詩仙」と称された,「春望」などで知られ「詩聖」と称される,玄宗と楊貴妃をうたった「長恨歌」で知られるらが活躍した。唐後期の文学者で唐宋八大家に数えられる(韓退之)とは,形式美を追う(表示している駢の字は簡易慣用字体のもの,教科書を見て正確な字を確認すること)に対し,漢以前の力強い古文復興を唱えた。絵画では,人物画や山水画,仏画などあらゆる絵画分野で唐随一とたたえられたが有名である。唐初の書家である,ちょ遂良(漢字:楮の字のきへんがころもへん)は則天武后を皇后とすることに反対したため,高宗から左遷された。また書家では,安史の乱で義勇軍を率いて反乱軍と戦ったが有名である。工芸では,で知られる陶磁器が有名である。
check_icon6[ 4 ]と[ 5 ]の他の唐宋八大家で重要なのは,宋代の次の3人。『新唐書』などを著した,「赤壁賦」で知られる,神宗のもとで改革を実施したである。