五代・宋・元

「五代・宋・元」の一問一答問題です。

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IX-59. 五代十国

年に唐を滅ぼしたは,(現在の開封)を都とするを建国した。[ 4 ]は,トルコ系の勢力に滅ぼされ,その後[ 5 ]出身者が・・を次々に建国した。[ 8 ]はに滅ぼされたが,[ 4 ]・[ 6 ]・[ 7 ]・[ 8 ]・[ 9 ]をという。[ 10 ]の五王朝は[ 6 ]がを都としたほかは,[ 3 ]に都を置いた。華北にできたこれらの五王朝と,華中と華南で興亡した10の国を合わせて,[ 10 ]十国という。この時代に,唐代まで大きな勢力をなしていた貴族は節度使らの武人勢力により追い落とされ,荘園も失って没落し,かわって新興の地主層が力を伸ばしていく。また,北方の諸民族が大きな力をもち,東アジア世界は新たな時代へと入っていく。
check_icon6五代の順番は,[ 4 ]をのぞく四つの王朝は,唐→晋→漢→周と古い時代へさかのぼると覚えよう。

IX-60. 東アジア周辺の変動

唐滅亡後,東アジア周辺では大変動がおきた。北方では,840年にトルコ系のが同じトルコ系のに滅ぼされたのち,トルコ系民族が中央アジアへ移動すると,モンゴル系のが自立した。朝鮮では,にかわりが918年に建国された。9世紀中頃,チベットのが分裂して衰退した。10世紀初めに雲南にあったが滅亡すると,がこれにかわった。ベトナムでも中国からの自立の動きが高まり,11世紀に成立したの李朝は宋軍を撃退した。11世紀に黄河上流域でチベット系のがを建てた。12世紀初め,ツングース系のが[ 3 ]から独立し,を建てた。[ 3 ]・[ 10 ]・[ 12 ]の北方諸民族は,それぞれ宋を攻撃し,苦しめた。10世紀から元が滅亡する14世紀までは,漢人が北方の諸民族に苦しめられる状況が続いた。
check_icon6[ 11 ]の大夏は[ 10 ]側の呼称で,宋では中国古代の夏と区別するため西夏と呼んだ。

IX-61. 遼

モンゴル系の遊牧狩猟民である(キタイ)は,ウイグルと唐の衰退とともにモンゴル高原東部で勢力を強めた。年にが皇帝に即位して(キタイ帝国)を建てた。東方では926年にを滅ぼし,西方ではウイグル崩壊後のモンゴル高原を支配下に置いた。[ 4 ]は,五代の後晋の建国を助けた代償として,長城以南の河北・山西の北部()を獲得した。宋の成立後も華北に侵入し,年に宋を兄,[ 4 ]を弟とし,宋が[ 4 ]に毎年多額の銀と絹を歳幣として贈ることを条件とする和議を結んだ()。[ 4 ]は北方民族に対しては北面官が部族制で統治し,漢人の農耕民に対しては南面官が州県制で統治するを敷いて,性格の異なる社会をまとめようとした。[ 3 ]らによって作られた[ 1 ]文字は,漢字とウイグル文字の影響を受けている。

IX-62. 西夏(大夏)

宋の西北に位置する陝西(せんせい)・甘粛(かんしゅく)方面にいたチベット系のは,1038年,のもとで(西夏は宋の呼称で,一般に西夏を用いる)を建てた。[ 3 ]は東西交易の要衝をおさえ,中継貿易で栄えた。[ 3 ]はしばしば宋に侵入したため,宋は[ 2 ]を冊封し,毎年銀・絹・茶を贈ることで講和した。[ 3 ]では仏教がさかんで,漢字の影響を受けた[ 3 ]文字が作られた。1227年,モンゴルのによって滅ぼされた。
check_icon6中央アジアでは,1038年,朝が成立した。

IX-63. 金

ツングース系のは中国東北地方の東部で半農・半猟・半牧の生活を営んでいたが,長くモンゴル系の(遼)の支配下にあった。1115年,が独立し,を建てた。[ 4 ]は宋と結んで,1125年に[ 2 ](遼)を滅ぼした。その後,宋が背信行為を働いたこともあり,[ 4 ]はさらに南下し,1127年に宋を滅ぼした()。[ 4 ]は[ 2 ](遼)の二重統治体制を受け継ぎ,漢人には州県制で統治する一方,[ 1 ]人には部族制にもとづくという軍事・行政制度を適用した。[ 4 ]では,[ 2 ]文字と漢字を模した[ 1 ]文字が作られた。

IX-64. 西遼

宋との攻撃によって遼が滅ぼされたとき,中央アジアにのがれた王族のが,イスラーム国家である朝を滅ぼし,1132年にを建国した。間接支配で東西トルキスタンを支配したが,チンギス=ハンにおわれたトルコ系のナイマンに王位を奪われて1211年に滅んだ。
check_icon6西遼は中国での呼称,カラ=キタイ(カラキタイ)はイスラーム側の呼称。

IX-65. 宋

五代最後の王朝の武将(太祖)が960年に宋を建て,第2代が中国の統一を完成させた。女真が建てたが侵入()して1127年に江南に逃れたので,北宋と南宋にわける。北宋は大運河と黄河の合流地点にあたる(現在の開封)を都とし,南宋は大運河の南端に位置するに都を置いた。
check_icon6臨安とは臨時の都という意味。

IX-66. 宋代における君主独裁体制

中国では,安史の乱(755~63年)以降,独立勢力であるが割拠し,武人によるが続いてきた。960年に宋を建てたは,の実権を奪って皇帝に権力を集中するとともに,科挙によって選抜された文人官僚を重用するをとった。[ 3 ]は,科挙の最終試験として皇帝自らが行うを採用した。[ 6 ]が加えられたことで,官僚と皇帝が直接結びつき,君主(皇帝)独裁体制が強化された。

IX-67. 宋代における支配層

科挙は家柄や階層を問わず受験できたが,合格に必要な儒学や詩文の教養を身につけるためには,幼い頃からの受験勉強が必要で,合格出来るのは富裕な家の子弟に限られた。唐末から五代にかけて没落した貴族にかわって,宋代に科挙に合格し,官僚を出した家()となったのは,新興地主層のであった。[ 2 ]は,小作人であるを用いて荘園を経営する地主層であった。儒学の教養を身につけた科挙出身の官僚は,と呼ばれる知識層でもあった。
check_icon6科挙に合格して官僚となったのはほとんど形勢戸だったことから,まとめて官戸形勢戸と呼ばれた。

IX-68. 宋における国家財政の窮乏

文治主義をとった宋は,対外的な軍事力の低下を招いた。宋は,侵入してきた北方諸民族に対して守勢に立ち,講和を結ぶ消極策をとった。モンゴル系のとは,年,宋が兄,[ 1 ]を弟とするを結び,毎年莫大な絹と銀の歳幣を贈ることを約した。また,タングートのとは1044年に,[ 4 ]が臣下の礼をとる代わりに,宋が毎年絹・銀・茶の歳賜(さいし)を贈ることを約した。軍事費の増大と,歳幣・歳賜の出費は宋の財政を圧迫し始めた。さらに,文治主義による官僚の増大と組織の肥大化は,国家財政の窮乏を深刻な状態へと追いやった。こうした状況下,第6代皇帝は,を宰相に登用し,改革(新法)を行った。
check_icon6(1)宋では,唐代に一般民衆に広まったを専売制とした。(2)歳賜とは目下に贈るもの,歳幣は同等のものに贈るもの。1142年の金との講和では,南宋が臣下の礼をとるため,歳貢という。

IX-69. 王安石の新法

北方諸民族に対する軍事費・外交費や,官僚組織の肥大化による財政窮乏化を改善するために,第6代皇帝の宰相に登用されたは,富国策と強兵策とからなる改革(新法)を行った。富国策は,植え付け時に貧農に低利貸付を行う,中小商人へ低利貸付を行う,特産物を政府が買い上げ,不足地で転売して物価の安定と商品の流通を図る,農民に課せられた力役のかわりに免役銭を出させ希望者を雇用するなどである。強兵策は,農閑期に軍事訓練を行う兵農一致策である,平時に軍馬を農民に飼育・使役させ,戦時に徴用するである。[ 2 ]の新法により財政は好転したが,[ 3 ]には地主層であるが反発し,また[ 4 ]・[ 5 ]には大商人が反発した。反発する官僚も多く,新法推進派のと,『資治通鑑』の筆者であるらの反対派の対立(党争)が長く続き,政治は混乱した。
check_icon6[ 5 ]は前漢武帝の政策にならったものであるが,前漢武帝は平準法も出していたことに注意!!

IX-70. 北宋の滅亡と南宋の建国

モモンゴル系のとの西夏(大夏)の脅威にさらされてきた宋は,1115年に[ 1 ]から独立したの金を利用しようと画策した。第8代皇帝は,万里の長城以南のを[ 1 ]から奪回するため,それまで[ 1 ]に払っていた歳幣を金に払うことを条件に金と同盟した。1125年に宋と金が挟撃し,[ 1 ]は滅んだ。しかし,宋が約束の歳幣額を払おうとしなかったため,金はさらに南下して首都(べん京:漢字:さんずいに卞)を占領し,譲位して上皇となった[ 4 ]や皇帝らをとらえ,北方に連れ去った。1127年に宋王朝が滅亡したこの事件を(1126~27年)という。1127年,[ 7 ]の弟は江南にのがれて帝位につき,を都とする南宋を建てた。
check_icon6[ 4 ]は文化事業を保護し,豪華な宮殿や庭園を造営し,自らは「桃鳩図」を描き,「風流天子」と称された。

IX-71. 金との屈辱的講和

南宋では,華北全土へと勢力を伸ばし,南宋を攻撃する金に対して,徹底抗戦を唱える主戦派と和平派が対立した。金が北宋を滅ぼしたで金に捕らわれ,のちに解放されて南宋の宰相となったは,金を後ろ盾として主戦派のを捕らえて獄死させ,1142年に金と講和を結んだ。この和議は,を境界とし,南宋が金の臣下となって多額の銀と大量の絹を歳貢として贈るという屈辱的なものであった。このため,[ 2 ]は姦臣(かんしん),売国奴という評価を受けている。
check_icon61142年の和議は紹興の和議というが,金と秦檜にかけて,「金(かね)でいい世になるか心配」と覚えておこう。

IX-72. 宋代における江南の発展

長江下流域の江南の開発が本格化したのは,東晋の成立後,五胡十六国の混乱を避けて多くの人々が江南へ移り住んでからであった。遼や金の支配を逃れた人々が江南へと移住した結果,南宋の時代には中国経済の中心は,長安を中心とする華北から,東南の江蘇・浙江・福建などへと移動した。地主層であるは小作人であるを用いて干拓による水田造成を行った。低湿地では,堤防で囲み干拓する「」などがつくられた。また,ベトナムのチャンパー原産のという日照りに強い生長の早い稲も伝えられた。こうして,宋代には長江下流域の江蘇・浙江の地方が華北をしのぐ大穀倉地帯となり,「」といわれるようになった。また,江南ではの栽培もさかんとなり,喫茶が普及し,[ 6 ]は宋において専売制とされたほか,重要な輸出品ともなった。
check_icon6[ 3 ]は,「う田(漢字:土に于)」や「湖田」とも呼ばれた。

IX-73. 宋代における商業・都市の発展

商品の売買は,唐代までは都市の内部に設けられた市のみに制限され,夜間営業も禁止されていた(坊市制)。唐末以降,こうした坊市制がくずれ,昼夜の別なく都市の内外で自由に営業が行われるようになった。城外には小規模な定期市であるがあらわれ,それをもとに・市と呼ばれる地方の小商業都市へと発展するものもみられた。海上貿易もさかんとなり,唐代に広州に置かれた海上貿易を担当する役所であるが,臨安()・(明以降,寧波ニンポーという)・泉州などにも置かれた。日本・朝鮮半島・中国との間では,朝貢貿易(参照:IX-50)とは別に民間の私貿易もさかんとなり,とくに,日本の平氏政権がすすめた貿易では,宋で鋳造された銅銭であるなどが大量に日本に輸入された。
check_icon6北宋末の張択端の作である「」は,北宋の都のにぎわいを描いたものである。

IX-74. 宋代における商工業と貨幣経済の発達

陶磁器では,青磁・に代表されるがつくられ,唐代に始まる江西省のが宋代以降,中国第一の窯業(ようぎょう)都市として発展した。これ以外にも,絹織物・製塩業・製糖業などの手工業も発達した。商人は,手工業者はと呼ばれる同業組合を結成し,営業独占や相互扶助を図った。商業が発展した結果,貨幣経済も発達し,銅銭が大量に鋳造されたほか,唐代に飛銭と呼ばれた手形から発生した(北宋)・(南宋)が紙幣として使われるようになった。

IX-75. 宋代の文化-儒学-

儒学では,それまでの経典の字句解釈を重んじるにかわって,道教や仏教の影響を受けて,宇宙の原理や人間の本質などを議論するが北宋のによっておこされた。南宋の(朱子)によって大成されたのでともいわれる。[ 5 ]の理論には,当時の政治状況が色濃く反映された。南宋は金に対して臣下の礼をとったが,これは中華思想(参照:IX-8)にもとづく漢人の自尊心を大いに傷つけたため,漢人の優位を強調する華夷の区別を論じ,また宋代に君主(皇帝)独裁体制が成立したことを背景に,君臣・父子の身分関係を正すが唱えられた。また,[ 5 ]は経典として,五経に代わり,(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)を重視した。その後,[ 5 ]は儒学の正統とされ,明・清や朝鮮,また日本の江戸幕府でも官学とされた。客観的な事物の理を追求する[ 5 ]に対して,南宋の(陸象山)は人間の心性を重視して,心をさぐれば理が見いだされる(心即理)と説き,彼の説は明代のに継承された。

IX-76. 宋代の文化-歴史学・文学-

旧法党の中心人物として知られる,北宋のは,の通史である『』で,戦国時代の始まりから五代の終わりまでの史実を編纂した。唐宋八大家の一人に数えられる,北宋の学者・政治家のは,中華思想にもとづく『新唐書』や『新五代史』を編纂した。また,唐宋八大家の一人に数えられる,北宋の詩人・政治家の(蘇東坡)は「赤壁の賦」で知られる。
check_icon6[ 4 ]と[ 5 ]も,王安石の新法に反対した。

IX-77. 宋代の文化-絵画・工芸・技術-

絵画では,宮廷の絵画制作機関であるを中心に写実的で装飾性の強いが成立したほか,士大夫や文人によるも盛んになった。北宋の第8代皇帝が描いた「桃鳩図」は,[ 2 ]の代表作である。工芸では,江西省のなどで・白磁に代表される陶磁器であるがつくられた。技術では,印刷が宋代に普及した。また,活字印刷術も発明されたが,中国では実用化されなかった。宋代に実用化がすすんだや火薬の技術は,イスラーム世界を経てヨーロッパに伝わった。

IX-78. 宋代の文化-宗教・庶民文化-

宗教では,阿弥陀浄土信仰を説くや,座禅によって悟りを得ようとするが栄えた。また金統治下の華北では,儒教・仏教・道教を調和した道教教団であるをが創始した。都市の経済的発展を背景に庶民文化も発展し,音曲に合わせてうたうが流行し,「唐詩」に対して「宋詞」と呼ばれた。また,と呼ばれる風刺などの簡単な筋書きの演劇が庶民の間に流行し,[ 6 ]は元代にとして完成された。

IX-79. 「唐宋変革」

唐代から宋代にかけての時期は,中国史上でも有数の変革期にあたり,「唐宋変革」と呼ばれることがある。次のような変化が見られる。(1)政治体制:唐では貴族と皇帝による合議体制 → 唐末・五代に貴族が没落, → 宋では科挙の最終試験としてが採用され,にもとづく君主(皇帝)独裁体制。(2)政治制度:唐では三省のうちが貴族の牙城 → 宋では[ 4 ]が中書省に併合されて実権を失う。(3)支配層:唐では → 宋では新興地主層である。(4)経済・都市:唐では坊市制による規制があり政治都市 → 宋では商業・産業が発達し,規制がゆるみ商業都市。(5)文化:唐では,国際色豊か → 宋では士大夫・,中国的。(6)儒学:唐では経典の字句解釈の → 宋では。

IX-80. モンゴル帝国の成立

モンゴル高原では,840年に帝国が崩壊したのちには統一勢力が現れず,さまざまな遊牧部族が割拠し抗争する時代が長らく続いた。12世紀後半にモンゴル高原中央部へ進出したは,モンゴル部族の間で勢力を伸ばして統一を果たした。彼は年,諸部族長がハンの選定や遠征などの重要事項を合議で決定する集会であるでハン位につきと名乗り,モンゴル系・トルコ系諸部族を統一してモンゴル帝国を形成した。[ 5 ]は,服属した全遊牧部族を再編し,軍事・行政組織としてを組織した。
check_icon6ハン(カン,汗)はモンゴルにおける君主の称号。柔然が用いて,突厥・ウイグルでも使われたカガン(ハガン,可汗)が由来。

IX-81. モンゴルの遠征(1)

年,諸部族長がハンの選定や遠征などの重要事項を合議で決定する集会であるでハン位についたは遠征に着手し,西方では,(カラ=キタイ)を奪って勢力を誇っていたトルコ系遊牧民のを倒し,さらに西トルキスタン・イランを支配していた朝を滅ぼした。また,チベット系が中国西北部に建てたを滅ぼした。
check_icon6インドでは,[ 1 ]年にデリー=スルタン朝の最初の王朝であるが成立した。

IX-82. モンゴルの遠征(2)

チンギス=ハンの死後即位した(太宗)は,1234年にツングース系女真人のを滅ぼして華北を領有するとともに,モンゴル高原に都(和林)を建設した。[ 1 ]の命で西方への遠征を行った甥のの率いる軍は,西北ユーラシアの草原を制圧し,882年にノルマン人が建てた公国を滅ぼした。その後,東ヨーロッパに侵入し,ノヴゴロド国などのスラブ系諸侯を服属させた。さらに,年のの戦いでドイツ・ポーランド連合軍を破り,ヨーロッパ世界を脅かした。しかし,[ 1 ]の死の報が届くと,[ 4 ]は南ロシアへと退却した。第4代(憲宗)は弟たちに遠征を行わせた。は中国・チベット方面へ向かい,雲南にあったを滅ぼし,チベットを服属させた。また,次の弟のは西アジアに遠征し,年にバグダードを占領して朝を滅ぼした。
check_icon6[ 4 ]は西征の帰途,南ロシアに国を,[ 11 ]はイラン・イラク方面に国を建てた。

IX-83. 元の成立

第4代が急死すると,相続争いが勃発し,都ので即位した末弟のアリクブケに対し,次弟のが勝利し,第5代ハンに即位した。[ 3 ]は自らの勢力の強い東方に支配の重心を移し,(現在の北京)を築いて都とし,モンゴル高原に連なる草原地帯と中国の農耕地帯の両世界を支配する帝国建設に乗り出した。[ 3 ]は,年に国号を中国風に大元(元)と称し,その後南宋を滅ぼして中国全土を支配した。

IX-84. モンゴル帝国の分裂

弟アリクブケとの相続争いを経て(世祖)は即位したが,[ 1 ]に対する反乱が続いた。第2代の孫が南ロシアの国,および中央アジアの国と同盟して40年にわたって[ 1 ]側と争った。その結果,モンゴル帝国は,中国とモンゴルを支配する元,[ 4 ]国と[ 5 ]国,そしてイラン・イラク方面の国に分裂したが,帝国全体はゆるやかに連携し,陸上と海上による東西交通もとだえることはなかった。
check_icon6(1)かつてはオゴタイ=ハン国も存在したとしていたが,現在ではそのように呼べるまとまりは形成されなかったとされる。(2)[ 6 ]国は,第7代がイスラームに改宗し,イスラーム国家となった。また,[ 4 ]国と[ 5 ]国においてもイスラーム化が進展した。

IX-85. フビライの遠征

元を建てた(世祖)は,即位前に雲南のを滅ぼし,チベットを服属させた。さらに,即位後に朝鮮のを服属させ,南宋を滅ぼした。その結果,元の領土は最大となり,モンゴル高原・中国本土・中国東北地方を直轄地とし,チベット・[ 3 ]を属国とした。[ 1 ]はその後も多くの遠征を行った。[ 1 ]は,ビルマへしばしば侵攻し,朝はのちに滅亡した。次の3つは失敗した遠征。(1)ベトナムへの侵攻は,により撃退された。(2)ジャワにも朝貢を求めて侵攻したが撃退され,その混乱のなかから王国が成立した。(3)日本に対しては,服属を迫って2度侵攻を試みた()。1274年の文永の役は元・[ 3 ]連合軍で,81年の弘安の役は元・[ 3 ]・旧南宋の連合軍で侵攻したが,鎌倉幕府の抵抗にあって敗退した。
check_icon6元の遠征は征服することが目的ではなく,もともと通商の拡大と交易路の確保が目的であったため,遠征後も元との通商関係は保たれた。日本についても,政府間の関係は開かれなかったが,民間の海上貿易は活発に行われた。

IX-86. 元の中国支配

元は,宋・金以来の官僚制や地方行政単位を引き継いだが,実質的な政策決定は,中央政府の要職を占めるモンゴル人によって行われた。少数のモンゴル人が多数の漢人などを支配する征服王朝である元は,協力する異民族を必要とした。これがと総称されるウイグル人やイラン人などの中央アジア・西アジア出身者であり,彼らは財政面で重要な役割を果たした。かつて金の支配下にあった華北の漢人や契丹人・女真人などは,南宋の支配下にあった人々はと呼ばれた。元は儒教を重視せず,1313年まで科挙は行わなかった上,復活後も[ 2 ]・[ 3 ]には不利であったため,[ 3 ]に多い儒学の教養を身につけたのなかには不満を持つものもいた。
check_icon6[ 1 ]とは,「様々な種類の人」という意味。

IX-87. 元の社会

モンゴル帝国と元は,交通路を整備したり,国際商人を保護したり,積極的に交通・貿易振興策を推進し,をしいた。陸上交易で活躍したのは,おもに商人だった。海上貿易では,宋代に引き続き,マルコ=ポーロがキンザイと呼んだ,またザイトンと呼んだや広州などの港市が繁栄した。江南と元の都を結ぶ交通としては,大運河が補修され,新運河も開かれたほか,長江下流から山東半島をまわって[ 5 ]にいたるも発達した。都市の商工業もさかんで,貨幣経済もいっそう発展し,銀が基本通貨として用いられ,その補助として銀との交換が保証された元発行の紙幣が発行された。この紙幣は高額の取引や輸送に便利であったため,元の主要な通貨となった。使われなくなった銅銭は日本などに流出し,各地の貨幣経済の発達をうながした。元は,農耕社会の内部にはあまり干渉せず,宋代以来の大土地所有と小作人を用いるも維持された。

IX-88. モンゴル時代の東西交流(1)

モンゴル帝国が成立して東西の交通路が整備されたため,東西交流が盛んとなった。当時イスラームに対してを行っていた西ヨーロッパは,イスラーム地域を征服したモンゴル帝国に関心を寄せた。ローマ教皇がフランチェスコ修道会の修道士を,フランス王が同じ修道会のを使節としてモンゴル高原のに派遣した。また,が派遣され,元の都の大司教としてカトリックを初めて布教した。『』を口述したヴェネツィアの商人は,陸路で[ 7 ]を訪れ,フビライに仕えたのち海路を利用して帰国した。モロッコ生まれのムスリムの大旅行家は元末に[ 7 ]を訪れ,『』を著した。元からイル=ハン国に中国絵画が伝えられ,それがイスラーム世界で発達したに影響を与えた。
check_icon6(1)「[ 6 ]は初めてキリスト教を布教した」はウソの文章になることに注意。ネストリウス派がすでに中国に入ってきている。(2)[ 9 ]は元の初め,[ 10 ]は元末であることに注意。

IX-89. モンゴル時代の東西交流(2)

フビライの命で,チベット仏教僧がチベット文字をもとに作った[ 1 ]文字は,一般には普及せず,貨幣や,駅伝を利用する際の通行証である牌符(はいふ)などに使用された。イスラーム天文学を取り入れてが作ったは,日本の江戸時代に作られたの基礎となった。磁器では,イスラーム世界からもたらされたコバルトブルーの顔料を用いたが作られた。元からイル=ハン国に中国絵画が伝えられ,イスラーム世界で発達したに影響を与えた。

IX-90. 元の文化

元では,儒学の教養を身につけたの地位が低下したため,儒学はふるわなかった。元は,文化に対しては放任的態度をとったため,庶民文化が発達し,宋代に始まる古典演劇であるがと南曲に分かれて完成した。[ 3 ]の代表作には,封建的束縛にとらわれない自由な恋愛を描く『』や,匈奴に嫁いだ前漢の宮女を描いた『』などがある。南曲には,出世した夫との再会をはたす貞節な妻を描いた『』などがある。小説では,北宋末の義賊の武勇伝を描く『』,玄奘のインド旅行を題材とした『』,三国時代を題材にとった『』などの原型が元代に作られた。

IX-91. モンゴル帝国の解体

14世紀に入ると,世界的に寒冷化が進み,天候不順による穀物の不作と飢饉をもたらし,モンゴル支配下の各地においても,動揺が見られた。中央アジアの国は,14世紀半ばに東西に分裂し,西[ 1 ]国の混乱に乗じてが台頭,国を征服し,イラン・イラクにまで領土を広げた。南ロシアの国では,14世紀半ば頃から内紛で統一が揺らぐなか,[ 2 ]の侵攻によって弱体化した。1480年,が[ 4 ]から独立し,16世紀初めに[ 4 ]は滅亡した。元は,チベット仏教(ラマ教)を熱狂的に信仰して財政を悪化させ,14世紀に入り貿易が縮小するとさらに財政が窮乏した。紙幣であるを乱発すると,経済が一層混乱した。商業を重視してきた元の政策に不満をもってきた農民は,白蓮教を中心とするをはじめとする農民反乱を各地でおこし,元は明軍に追われてモンゴル高原に退いた。これ以降を,というが,明を建国したの攻撃で2代で滅んだ。
check_icon614世紀には,西ヨーロッパでも大きな変容がみられた(参照:III-38,III-39)。これらを合わせ,「14世紀の危機」ともいう。