IX-16. 秦の統一
戦国の[ 1. ]のうち最も西に位置していた秦は,前4世紀に法家の[ 2. ]の改革で力をつけ,東方の6国を次々に征服していった。[ 3. ]年,山東を支配していた[ 4. ]を最後に滅ぼし,秦は中国を統一した。統一を果たした秦王[ 5. ]は,「王」の称号にかえて「皇帝」の称号を採用し,最初の皇帝として[ 6. ]と呼ばれる。
始皇帝の陵墓の周辺には,兵士と馬をかたどった陶製の像である[ 7. ]が埋められていた。
「秦・漢」の一問一答問題です。
戦国の[ 1. ]のうち最も西に位置していた秦は,前4世紀に法家の[ 2. ]の改革で力をつけ,東方の6国を次々に征服していった。[ 3. ]年,山東を支配していた[ 4. ]を最後に滅ぼし,秦は中国を統一した。統一を果たした秦王[ 5. ]は,「王」の称号にかえて「皇帝」の称号を採用し,最初の皇帝として[ 6. ]と呼ばれる。
始皇帝の陵墓の周辺には,兵士と馬をかたどった陶製の像である[ 7. ]が埋められていた。
秦の[ 1. ]は都の[ 2. ](現在の西安付近)から全土を直接統治する中央集権体制を築こうとした。中央から官僚を派遣して統治させる[ 3. ]を全土に施行し,度量衡・文字の統一を図るとともに,銅銭である[ 4. ]を鋳造して貨幣も統一した。また,医薬・占い・農業関係以外の書物をすべて焼く[ 5. ]や,数百人の儒者を穴埋めにして殺す[ 6. ]による思想統制を行った。北方からの騎馬遊牧民[ 7. ]の侵入に対抗して戦国諸国が築いていた[ 8. ]を修築し,南方では華南を征服して[ 9. ]など3郡を置いた。
秦の時代には紙はまだないので,焚書で焼かれた「書物」とは細長い木片や竹片の[ 10. ]・[ 11. ]であることに注意。
始皇帝による性急な統一政策や土木工事の負担に対し不満が高まった。始皇帝死後の前209年,中国史上初の農民反乱である[ 1. ]・[ 2. ]の乱がおきた。「王侯将相いずくんぞ種あらんや」という[ 1 ]の言葉は戦国時代以来の実力主義の風潮を表している。この反乱は鎮圧されたが,これが口火となって各地で反乱が起きた。その勢力のうち農民出身の[ 3. ]と楚の名門出身の[ 4. ]が相次いで秦の都[ 5. ]に入り,秦は統一から15年で滅んだ。その後,[ 3 ]が[ 4 ]を倒して[ 6. ]年に[ 7. ]王朝を建てた。
北アフリカでは,前202年に[ 8. ]の戦いで[ 9. ]がローマの[ 10. ]に敗れた。
[ 1. ]年に劉邦が[ 2. ]として建てた漢王朝は,[ 3. ]年に滅ぶまで約400年間続くが,漢は[ 4. ]が建てた[ 5. ]をはさんで前漢・後漢に分かれる。
漢と同時代の西アジアには,イラン系遊牧民が建てた[ 6. ](前248頃~後224)が存在していた。
[ 1. ]を倒した劉邦は前202年に皇帝の位につき([ 2. ]),[ 3. ](現在の西安)を都として漢(前漢)を建てた。直後,[ 2 ]は北方の騎馬遊牧民[ 4. ]の[ 5. ]に大敗し,以後70年間にわたって[ 4 ]に貢納を支払い,事実上従属下に置かれた。[ 2 ]は,秦が急激な改革によって滅んだことを教訓として,秦が行った[ 6. ]と封建制を併用する[ 7. ]を採用した。しかしその後,漢王朝が諸侯権力の削減を図ったことに対し,[ 8. ]年に[ 9. ]がおきたが鎮圧された。その結果,第7代[ 10. ]のときに実質的に[ 6 ]とかわらない中央集権体制が成立した。
漢の第7代[ 1. ]は北方の[ 2. ]に対する反撃を図り,同盟を結ぼうと中央アジアの[ 3. ]に[ 4. ]を派遣した。同盟を結ぶことはできなかったが,[ 4 ]の報告で[ 5. ]の事情がもたらされ,汗血馬を求めて[ 6. ]に出兵した。西北方面では[ 7. ]などの4郡を置き,南方では[ 8. ]を滅ぼして南海郡・日南郡など9郡を置いてベトナム中部まで支配した。東北では,[ 9. ]を滅ぼして[ 10. ]など4郡を置いた。
(1)[ 3 ]との同盟は成立しなかったが,その後[ 1 ]は[ 4 ]を烏孫(うそん)に派遣し,同盟を成立させ,[ 5 ]進出に成功した。(2)ベトナム中部にある日南郡は9郡のうち最も南にあるが,『後漢書』によると[ 11. ](マルクス=アウレリウス=アントニヌス)の使者が166年に到着した場所である。
武帝の対外積極策によって,漢は財政難に陥った。武帝は,[ 1. ]・[ 2. ]・[ 3. ]を専売制にして財源とし,銅銭である[ 4. ]を発行し,特産物を貢納させて不足している地域に転売する物価調整法である[ 5. ],物価が低い時に物資を買い入れて上がった時に売り出す物価安定法である[ 6. ]といった諸政策を行った。しかし,財政難は解消できなかった。
北宋の王安石の新法でも,[ 5 ]が実施された。
秦・漢代に,家族経営の小農民を皇帝が官僚を用いて直接治めるという体制がほぼ出来上がった。だが,実際には重い税や飢饉のために没落する農民も多く,これらの農民を奴隷や小作人として大土地経営を行う[ 1. ]が地方で勢力を築いた。これに対して,大土地所有の制限もたびたび行われたが,成果は上がらなかった。また,前漢武帝が採用した,地方長官が有徳者を中央に推薦して官吏とする[ 2. ]により[ 1 ]が中央政治に進出した。中央では,皇后の親族である[ 3. ]や,後宮に仕えた去勢された男性である[ 4. ]が勢力をもつようになり,皇帝権は弱まった。
前漢末に,中央では皇后の親族である[ 1. ]や,後宮に仕えた去勢された男性である[ 2. ]が勢力をもつようになり,やがて[ 1 ]の[ 3. ]が皇帝の位を奪って8年に[ 4. ]を建てた。[ 3 ]は周代を理想とする儒教に基づく復古主義を強行したが,社会の実情と合わず混乱した。そのため,豪族の反抗や農民反乱である[ 5. ]の乱などが続発して[ 3 ]は倒され,[ 6. ]年に漢王室の一族[ 7. ]が皇帝の位につき([ 8. ]),[ 9. ]を都として漢を復興した(後漢)。
[ 1. ]年に[ 2. ]を都として復興された後漢の政権の実態は,地方の有力者である[ 3. ]の連合体というものであり,中央に進出した[ 3 ]と,皇后の親族である[ 4. ]や,後宮に仕えた去勢された男性である[ 5. ]を巻き込んだ権力抗争が深まった。[ 6. ](166,169年)と呼ばれる[ 5 ]による官僚・学者の弾圧によって政治が混乱するなか,[ 7. ]が始めた[ 8. ]という宗教結社が[ 9. ]年に起こした農民反乱である[ 10. ]をきっかけに,各地に群雄が割拠して[ 11. ]年に後漢は滅亡した。
(1)後漢を建てた[ 12. ]は[ 13. ](日本人)の使者に「[ 14. ]」の金印を与えた。中国皇帝と周辺諸国が,形式上の君臣関係で結ばれた国際秩序を[ 15. ]と呼ぶ。この国際秩序において,周辺諸国は中国の皇帝に対し,使節を派遣して貢ぎ物を贈る[ 16. ]を行う。(2)後漢の[ 17. ]は西域を統治する官である西域都護として活躍した。[ 17 ]がローマ帝国([ 18. ])に派遣した[ 19. ]はシリアまでいたった。(3)「こうきん」の乱は2つある。後漢末に起きたのが「黄巾」で,元末におきたのは「紅巾」である。
華北で[ 1. ]が始めた宗教結社である[ 2. ]は,[ 3. ]年におきた農民反乱である[ 4. ]の乱の主力となった。張陵が四川で始めた宗教結社([ 5. ])は,[ 2 ]とともにのちの[ 6. ]の源流となった。
漢代の初めには,法家の思想が力をもっていたが,武帝の時代に[ 1. ]の勧めにより,皇帝権力を正当化する儒学が官学とされた。さらに,儒学の主要な経典として[ 2. ]が定められ,[ 2 ]の教授を行う[ 3. ]が設置された。その後,儒教は定着し,以後2000年にわたって王朝を支える正統思想となった。後漢の時代には,経典の注釈を行う[ 4. ]がさかんになり,[ 5. ]らがあらわれた。
五経は,『易教』『書経』,中国最古の詩集である『詩経』,孔子が編纂した魯の年代記である『春秋』,そして『礼記』をいう。
漢代には,王朝の正統性を裏付けるための歴史書が誕生した。前漢の武帝の怒りに触れて宮刑に処せられた[ 1. ]は,帝王の年代記(本紀)と重要人物の伝記(列伝)を中心に構成される[ 2. ]による『[ 3. ]』で,太古から武帝までの時代を記述した。後漢の[ 4. ]もこれにならい,漢の高祖から王もう(漢字:莽の大が犬)までの時代を『[ 5. ]』に記したことにより,以後[ 2 ]が中国の王朝の正統を明らかにする歴史書(正史)の標準となった。
(1)[ 2 ]に対して,年月順に記す形式を[ 6. ]といい,宋代の[ 7. ]による『資治通鑑』や,孔子が編纂した魯の年代記『[ 8. ]』がその代表である。(2)[ 4 ]は西域都護の班超の兄である。
漢代までの記録は主に[ 1. ]・[ 2. ]に書かれたが,後漢の時代に宦官である[ 3. ]が製紙法を改良し,紙が広く普及するようになった。文字は,今日の漢字と大差のない隷書が用いられるようになった。また,西域経由で,漢代に仏教が中国に伝来した。
製紙法は,751年の[ 4. ]の戦いでイスラームへ伝わった。