IX-30. 三国時代(1)
後漢末の184年におきた[ 1. ]ののち,各地に群雄が割拠した。華北の実権を握った[ 2. ]は全国統一を目指したが,208年の赤壁の戦いで[ 3. ]・[ 4. ]連合軍に敗れた。その後,[ 2 ]の子の[ 5. ]が[ 6. ]年に後漢の皇帝から[ 7. ]を受け,華北で[ 8. ]を都とする[ 9. ]を建てた。
「魏晋南北朝」の一問一答問題です。
後漢末の184年におきた[ 1. ]ののち,各地に群雄が割拠した。華北の実権を握った[ 2. ]は全国統一を目指したが,208年の赤壁の戦いで[ 3. ]・[ 4. ]連合軍に敗れた。その後,[ 2 ]の子の[ 5. ]が[ 6. ]年に後漢の皇帝から[ 7. ]を受け,華北で[ 8. ]を都とする[ 9. ]を建てた。
220年に曹丕(文帝)が[ 1. ]を建てたのに対抗し,翌221年に[ 2. ]は四川で[ 3. ]を都とする[ 4. ]を,222年に長江下流域で[ 5. ]は[ 6. ](現在の[ 7. ])を都とする[ 8. ]を建てた。その結果,[ 1 ]・[ 4 ]・[ 8 ]の3国が中国を3分する[ 9. ]となった。3国の中で最も勢力の大きかった[ 1 ]が[ 4 ]を滅ぼしたが,265年に[ 1 ]の将軍[ 10. ]が国を奪って[ 11. ]を建てた。
[ 1. ]を265年に建てた[ 2. ]は,[ 3. ]年に[ 4. ]を破って中国を統一し,三国時代を終わらせた。だが,まもなく一族が帝位を争う[ 5. ]がおこった。この内乱のなかで兵力として使われた[ 6. ]と総称される遊牧諸民族が活躍した。このうち山西で挙兵した[ 7. ]が[ 1 ]の都であった[ 8. ],さらに長安を攻略して[ 1 ]を滅ぼした。これを[ 9. ]という。
西晋末におきた内乱([ 1. ])で,諸王が兵力として使った5つの異民族を総称して[ 2. ]という。永嘉の乱によって西晋を滅ぼした[ 3. ],[ 3 ]の別系統とされる[ 4. ],のちに北魏を建国して華北を統一することになる[ 5. ],チベット系の[ 6. ]・[ 7. ]の5つである。[ 3 ]が[ 1 ]に乗じて華北に侵入して建国した結果,華北で[ 2 ]十六国時代が始まった。
西晋は匈奴による永嘉の乱により316年に滅んだが,江南にいた晋の一族の[ 1. ]が317年に皇帝に即位し,[ 2. ](現在の[ 3. ])を都とする[ 4. ]を建てた。華北から多数の漢人の貴族や農民が[ 4 ]に移ってきたため,江南の開発が進んだ。一方,華北では,西晋末におきた[ 5. ]をきっかけに侵入してきた遊牧民たちが諸国家を建て,439年の[ 6. ]による華北統一まで,1世紀以上にわたる[ 7. ]時代が続いた。
(1)建康は呉の時代には建業と呼ばれていた。(2)五胡十六国には,漢人の国が3つ含まれる。すべてが五胡の国ではないことに注意しよう。
317年に[ 1. ]によって建てられた東晋では,武将の劉裕が実権を握り,420年に東晋を倒して[ 2. ]を建てた。[ 2 ]以降,江南では[ 3. ]・[ 4. ]・[ 5. ]と短命の王朝が続いた。[ 6. ]を都とした,これらの王朝を総称して[ 7. ]という。
現在の南京に都を置いた,呉・東晋・宋・斉・梁・陳をまとめて六朝という。名称に注意:呉の時代は建業,東晋からは建康
華北では,鮮卑の[ 1. ]氏が[ 2. ]を建てた。[ 2 ]の第3代皇帝[ 3. ]が439年に華北を統一し,[ 4. ]時代を終わらせた。その後,[ 2 ]は東西に分裂し,[ 5. ]と[ 6. ]に分かれた。さらに[ 5 ]は[ 7. ]に,また[ 6 ]は[ 8. ]にとってかわられた。その後,[ 8 ]が[ 7 ]を併合し,華北は再統一された。これら[ 2 ]・[ 5 ]・[ 6 ]・[ 7 ]・[ 8 ]の5王朝を総称して,[ 9. ]という。
[ 6 ]では,均田制で土地を支給された農民を徴兵する兵農一致の制度である[ 10. ]が創始された。
北魏の第6代皇帝[ 1. ]は,国家が農民に公平に土地を配分(給田)して租税や力役(りきえき)を課す土地制度である[ 2. ]を485年に実施した。また,3段階からなる村落制度である[ 3. ]を実施し,土地と農民を把握しようとした。また,[ 1 ]は都を[ 4. ](現在の山西省大同)から[ 5. ]に移し,さらに鮮卑本来の服装・姓名・言語を禁止する[ 6. ]を行った。[ 6 ]は,中華思想で蔑視される異民族から漢人になる政策だったが,北方に取り残された軍人が反発しておこした反乱を機に北魏は東西に分裂した。
[ 2 ]は唐代まで行われるが,時期によって給田対象が異なる。北魏では,成年男性(丁男)と妻のほか,奴婢・耕牛にも支給したため,豪族に有利な側面があった。隋では,耕牛への給田を廃止し,第2代煬帝の時には妻・奴婢への給田を廃止した。唐では,妻・奴婢・耕牛への給田はなく丁男のみに支給した。
前漢の武帝が採用した官吏登用法([ 1. ])により官僚となって台頭した豪族は,後漢末から魏晋南北朝を通じて各地で力を強めた。魏の[ 2. ]のときに,官吏任用制度が[ 1 ]から[ 3. ]にかわると,豪族が要職を世襲するようになり,[ 4. ]を生むこととなった。この結果,魏晋南北朝から唐末まで,中国は貴族社会の時代となった。
[ 2 ]は,中央から派遣された中正官が郷里の評判によって人材を9等級(九品)にわけて推薦し,中央の官吏を登用する制度。中正官は地方で力を持つ豪族を推薦し,豪族が高級官職を独占した結果,「上品に寒門なく,下品に勢族なし」といわれる状況となった。
後漢末の戦乱のなかで土地を失った農民は,故郷を離れて流民となるか,あるいは豪族の隷属民となった。魏は,耕作者の集団を置いて官有地を耕作させる[ 1. ]を実施し,魏の有力な財源となった。西晋の[ 2. ]は,土地制度として[ 3. ]を発布したが,その内容についてははっきりしない。北魏の[ 4. ]が行った[ 5. ]も,大土地所有を抑制し,税収を確保しようという土地制度であった。
仏教は1世紀頃に中央アジア経由で中国へもたらされ,魏晋南北朝のころに社会一般に広まるようになった。4世紀初めに,西域の亀茲(クチャ)出身の[ 1. ]が洛陽に来て布教し,5世紀初めには西域の亀茲(クチャ)出身の[ 2. ]が長安に迎えられて経典を漢訳した。また,東晋の僧[ 3. ]は経典を求めて[ 4. ]朝時代のインドへ西域経由の陸路で行き,海路で帰国し,のちに『[ 5. ]』を著した。仏教の普及とともに華北で,多くの石窟寺院がつくられた。甘粛省の[ 6. ]では4世紀から莫高窟(ばっこうくつ)が開削された。仏教を国家的に保護した北魏の時代には,前期の都である平城近郊の[ 7. ]や,後期の都である洛陽近郊の[ 8. ]に石窟寺院がつくられた。しかし,北魏の第3代皇帝[ 9. ]は道教を国教化し,仏教を弾圧した(廃仏)。
道教は,仙人や不老不死を信じる[ 1. ]や老荘思想,さらに後漢末の[ 2. ]や五斗米道などの民間信仰が,仏教の影響を受けて大成された宗教である。道教の大成者として知られる北魏の[ 3. ]は,第3代皇帝[ 4. ]の信任を受け,国家公認の宗教として教団組織を整え,廃仏を行った。これ以降道教は広く普及し,不老長生と現世的利益を求めるその教えは民衆の間に浸透していった。
後漢末からの混乱で儒学・儒教の権威が失われ,貴族の間では道徳や規範にとらわれない精神の自由さが重んじられた。魏・晋の時代には,世俗を超越した[ 1. ]が流行した。文学では,「帰去来辞(ききょらいのじ)」で知られる東晋の田園詩人とされる[ 2. ]や,南朝宋の詩人で山水詩で知られる[ 3. ]が有名である。4字・6字の対句と韻を踏み,華麗な形式をもつ[ 4. ](表示している駢の字は簡易慣用字体のもの,教科書を見て正確な字を確認すること)という文体が流行し,梁の[ 5. ]が編纂した『[ 6. ]』にその代表的な作品がみられる。
魏・晋の時代に[ 1 ]にふけったとされる阮籍(げんせき)ら7人を「竹林の七賢」というが,史実であるかどうかわからない。
絵画では,宮廷に仕える女性へのいましめを描いた[ 1. ]の「[ 2. ]」が有名である。書では,「蘭亭序」で知られる東晋の書家である[ 3. ]が有名である。北魏では,地理書の『[ 4. ]』や,中国最古の農書である『[ 5. ]』が著された。