12.19世紀以降の東アジア

「12.19世紀以降の東アジア」の一問一答問題です。

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清朝の動揺(24)

XII-1. 清朝の動揺

18世紀の清朝は繁栄が続き,人口も増大した。だが,土地不足による農民の貧困化は社会の緊張を高め,18世紀末に四川・湖北・陝西の3州が境を接する地方から農民反乱であるの乱(1796~1804年)が勃発した。この反乱の鎮圧には,地方に居住する科挙合格者や退職した官僚経験者であるが組織する義勇軍であるや,農村における自衛武装組織である団練が活躍した。この結果,女真人の社会制度から成立した正規軍であるや,正規軍の一つで漢人で編成される治安維持を主に担ったの弱体化を露呈する結果となった。
check_icon6(1)元末にの乱を起こしたのも[ 1 ]であった。(2)西アジアでは,[ 1 ]の乱が起きたとき1796年にカージャール朝が成立した。ゴロで,カージャール朝にかけて「火事や盗難苦労,白蓮教徒の乱」と覚えよう!!

XII-2. イギリスとの貿易問題

清朝とヨーロッパ諸国との海上貿易は,によって1757年以来,一港に限定されていた。しかし,産業革命を進めていたイギリスが18世紀後半に最大の貿易相手国となると,イギリスは産業革命で生産した綿製品の市場を拡大しようと,貿易の自由化を求めるようになった。1792年にイギリスはを派遣して自由貿易を求めたが,[ 1 ]は貿易を恩恵と見なす朝貢貿易の立場を変えることはなかった。さらに,1816年にイギリスはを派遣したが,皇帝に対面する際の儀礼である三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)の礼を拒否したため,嘉慶帝に謁見できずに帰国した。

XII-3. 三角貿易

17~18世紀のヨーロッパで起きた「生活革命」が進むなか,紅茶を飲む習慣が普及し,イギリスにおいても中国茶への需要が急速に高まっていた。だが,産業革命で生産を増大させたは中国では売れず,大量の銀が中国に流出する片貿易の状態に陥っていた。そこで,イギリスは産業革命で生産した[ 1 ]をインドに,インド産のを中国に,中国から茶をイギリスに運ぶを行うようになった。中国国内では密貿易によってもたらされた[ 2 ]の吸引が広がり,大量の銀が国外に流出するようになった。
check_icon6インドはキャラコと呼ばれるインド産綿布を世界中に輸出していたが,イギリスの機械生産による安価な綿布がインドに流入し,1810年代末にはイギリス綿布の輸入が輸出額を上まわるようになり,インドの在来の手工業は崩壊した。その結果,19世紀前半のインドは,綿花や藍などをイギリスに,アヘンを中国に輸出する原料供給地に転落した。なお,三角貿易には大西洋を舞台に17~18世紀に行われた三角貿易(参照:IV-88)があるので,違いを明確にするように。

XII-4. アヘン戦争

吸引が広まり,密輸入が激しくなると,清朝は[ 1 ]厳禁を主張したを臨時の官職である欽差大臣に任命し,1839年にに派遣した。[ 2 ]が[ 1 ]を没収して廃棄し,イギリスが行う[ 1 ]密貿易を厳禁した。麻薬を原因とする戦争に対して国内の反対論もあるなか,イギリス政府はの実現を唱えて遠征軍の派遣を決定し,年に[ 1 ]戦争をおこした。すぐれた兵器をもつイギリスは清軍を破り,1842年にを結んだ。

XII-5. 南京条約

の講和条約として年に調印されたでは次のことが定められた。(1)の廃止による貿易の自由化。(2)・寧波(ニンポー)・福州・厦門(あもい)・広州5港の開港。(3)のイギリスへの割譲。(4)没収アヘンの補償費,および賠償金の支払い。[ 3 ]は清に対する不平等条約の先駆けとなった。
check_icon6(1)[ 1 ]戦争における清の敗北は,日本を含む周辺諸国に大きな影響を与えた。日本では,武力で外国を排除しようという攘夷(じょうい)論が叫ばれる一方,中国の魏源が著した世界地理書『海国図志』が読まれるなど,近代国家建設への道が開かれていった。(2)開港された5港は,広州は別称で広東(カントン)ということを用いて,ゴロで「上海の忍者の服はアカン」と覚えておこう!!

XII-6. 欧米諸国との不平等条約締結

アヘン戦争の講和条約であるが結ばれた翌年の1843年に清は,イギリスと五港(五口)通商章程を結び,外国人犯罪者の裁判を清ではなく外国領事が行うを認めた。また,で次のことを認めた。(1)清がイギリス以外の第三国と結んだ条約の待遇がイギリスにも適用されるという。(2)関税率を協定で定め清は変更できないこと(の喪失)。(3)開港場におけるイギリス人の土地租借権と居住権。清は,1844年にアメリカと,フランスとを結び,イギリスと同様の権利を認めた。これらの条約はのちに不平等条約と呼ばれるようになるが,当時の清は不平等性をまだ強く意識していなかった。また,周辺諸国との古来から続いてきた冊封・朝貢関係もいまだ存続していた。
check_icon6(1)土地租借権と居住権はのちに,清の主権が及ばない外国人居留地であるに発展した。1845年にイギリスが上海に開設したのが最初であった。(2)アメリカと[ 6 ]の組合せは,ゴロで「アメリカは若い国なので望みがある」と覚えよう!!

XII-7. 第2次アヘン戦争

アヘン戦争後も,欧米諸国の中国への輸出は期待していたほどは伸びず,また外交関係においても清は朝貢意識をもったままであった。このような状況に不満を持つイギリスは,条約改定の機会をうかがっていた。1856年,広州でイギリス船籍を主張する船の中国人船員が海賊容疑で逮捕されるという号事件がおきた。イギリスはこれを口実として,広西でおきた事件で清に抗議していたフランスを誘って,清と開戦した([ 1 ]戦争,第2次戦争)。英仏軍はを占領し,1858年に[ 4 ]条約を結んだ。しかし,批准交換に来た英仏使節の入京を清軍が武力で阻止したことを機に,ふたたび戦端が開かれた。英仏軍は[ 5 ]を占領し,離宮であるを略奪・破壊し,1860年に[ 5 ]条約を結んだ。
check_icon6(1)[ 1 ]号のイギリス船籍の期限は実際には切れており,イギリスはそれを隠して開戦した。(2)[ 6 ]を設計したのは,イエズス会宣教師である。なお,[ 6 ]は再建されることなく,現在でも破壊されたままの姿をさらしている。

XII-8. 天津条約・北京条約

年に始まった戦争(第2次アヘン戦争)中の1858年に清は,イギリス・フランス・ロシア・アメリカと条約を締結した。[ 3 ]条約で清は以下のことを認めた。(1)英仏への賠償金の支払い。(2)の北京駐在を認め,[ 4 ]は朝貢使節ではないことを確認。(3)漢口など10港を開港。(4)開港場以外でも商売が出来るようにするため,外国人のの自由。(5)中国人の信仰の自由と内地における。(6)アヘン貿易を公認。しかし,条約に反対する勢力が英仏との批准を阻止しようとしたため再び英仏が軍事行動を起こし,1860年にロシアの仲介により条約が結ばれた。清は[ 3 ]条約の内容を確認した上,[ 7 ]条約で以下のことを認めた。(1)賠償金の増額。(2)[ 3 ]の開港を追加。合わせて11港開港。(3)香港島対岸のの英への割譲。なお,仲介したロシアとは露清間の[ 7 ]条約を結び,ロシアはウスリー川以東のを獲得した。アロー戦争に敗北して,朝貢関係ではない,対等な外交関係を求められた清朝は,北京に駐在する[ 4 ]に対する窓口としてを設置した。

XII-9. ロシアの東方進出(1)

16世紀後半ののときにがシベリアを探検して以来,ロシアはシベリアを東進し,17世紀前半に太平洋岸に到達した。さらに,ロシアは(アムール川)方面への進出を図り,清と衝突した。1689年,清のとロシアののとき,両国は条約を結び,アルグン川とスタノヴォイ山脈(外興安嶺)を国境とした。さらに,1727年,清ののとき条約が結ばれ,モンゴルの国境線が定められ,交易場が設けられた。また,[ 5 ]はベーリングに探検を行わせ,ベーリング海峡とを確認したほか,カムチャッカ半島も探検した。1792年,は鎖国中の日本にを派遣し,日本との通商を求めたが,江戸幕府は拒否した。

XII-10. ロシアの東方進出(2)

アヘン戦争でのイギリスの勝利に刺激されたロシアのは,1847年にを設置し,初代総督としてを任命した。清がの乱や戦争で苦しんでいるのに乗じ,1858年に[ 3 ]は条約を結び,(アムール川)以北を獲得した。ついで60年,[ 5 ]戦争の調停の見返りとして露清間の条約を結び,ロシアはウスリー川以東のを獲得した。[ 3 ]は[ 9 ]にを建設して極東・太平洋進出の拠点とした。また,ロシアは,(東トルキスタン)における清に対するイスラーム教徒の反乱を機に,地方に出兵し,[ 12 ]を占領した([ 12 ]事件)。1881年,ロシアと清との間で[ 12 ]条約が結ばれ,ロシアは[ 11 ]における通商権を獲得した上で,[ 12 ]を清に返還した。さらにロシアは,19世紀後半,中央アジアに進出し,ウズベク人の・ヒヴァ=ハン国を保護国とし,を併合した。中央アジア進出は,アフガニスタンに勢力を伸ばしていたイギリスとの間に緊張を生むこととなった。
check_icon6[ 10 ]とは,「東方を支配せよ」という意味で,19世紀後半に日本はロシアの圧力を受けることになった。これは,日露戦争に発展する。

XII-11. 太平天国の乱

アヘン戦争の出費と賠償金支払いをまかなうために課された重税は民衆の生活を困窮に追いやり,折からの天災も重なり,地方の治安が悪化した。このようななか,キリスト教の影響を受け,ヤハウェの子,すなわちイエスの弟を名乗るが広西省でを組織し,年に広西省金田村で挙兵してを建てた。この運動は貧困からの救済を求める民衆を巻き込んで広まり,53年にはを占領してここを首都と定め,と改称した。「」を掲げた[ 4 ]は,清朝を倒して漢人の国家を樹立するとすることをめざした。満州人の風習であるを拒んだため,「長髪族」と呼ばれた[ 4 ]は,男女に土地を均分するという土地制度であるを掲げる(実施はされなかった)とともに,女性を動員する目的から,女性の足を変形させて小さく見せる風習であるを廃止した。
check_icon6(1)[ 1 ]は,4世紀の五胡の侵入で混乱した華北を逃れて南方に移住した人々の集団である出身である。孫文や鄧小平らも,[ 11 ]出身である。(2)[ 4 ]は,1851~64年まで続くが,51~64のところはゴロで,「恋しい天国を無視」と覚えよう。反乱が続いていた期間中にあたる1856~60年に戦争がおきたことに注意。[ 4 ]に対し,英・仏・米は当初は中立政策をとっていたが,[ 12 ]戦争終結後には清朝擁護へと転じた。

XII-12. 太平天国の鎮圧

太平天国に応じるように,各地で反乱が起きた。貴州では苗(ミャオ)族が,雲南や陝西(せんせい)・甘粛(かんしゅく)ではムスリムの漢人である回民(かいみん)が蜂起し,安徽では塩の密売人などのアウトロー集団からなるが反乱を起こした。これらの反乱を鎮圧したのは・緑営という清の正規軍ではなく,地方の有力者が自衛のために武装した団練や,漢人官僚が郷里で組織した義勇軍であるであった。率いる湖南省の,[ 4 ]の幕僚だった率いる安徽省のなどがその代表である。欧米列強は1856~60年の戦争後に清朝擁護に転じたが,アメリカ人が組織し,[ 9 ]戦死後にイギリス軍人が指揮したが清軍に協力した。太平天国は内紛で混乱したのち,1864年に都のが陥落して滅亡し,そのほかの反乱も1870年代には鎮圧された。
check_icon6[ 10 ]は,クリミア戦争(1853~56)や[ 8 ]戦争に従軍したのち,太平天国鎮圧に貢献した。その後,1881年にスーダンで起きたの反乱鎮圧に派遣されたが,1885年にハルツームで戦死した。

XII-13. アロー戦争・太平天国後の変化

太平天国の動乱は,清朝政府や,八旗・という正規軍の無力ぶりを明るみに出し,反乱鎮圧に活躍した曾国藩・・左宗棠(さそうとう)らの漢人官僚が政治の中枢に進出するきっかけとなった。反乱鎮圧後の地方秩序の回復も,地方に居住する科挙合格者や退職した官僚経験者であるが主導した。反乱鎮圧後は,帝(位1861~75)のもと,内外ともに一時的な安定がもたらされたので,この時期を[ 4 ]の中興と呼ぶ。曾国藩らの漢人官僚は,富国強兵をめざして,西洋の軍事・技術を導入しようとするを行った。これにより,兵器・紡績・造船などの工場が建設され,鉄道の敷設(ふせつ)や鉱山開発などが行われ,また洋式軍隊が編成された。しかしこの運動は,儒教に基づく中国の伝統的な価値観を維持しつつ,西洋の科学技術を利用するという「」の立場に立つもので,国家や社会の制度を根本的に変革しようとするものではなかった。

XII-14. 冊封体制の崩壊

1883・84年の2度に及ぶフエ(ユエ)条約によってフランスがベトナムを保護国としたのに対し,宗主権を主張する清朝は,これを認めず1884年に戦争が勃発した。敗北した清は,85年に条約を結び,ベトナムに対する宗主権を放棄した。朝鮮で1894年に戦争(東学党の乱)が起こると,日本・清両軍が出兵して,戦争が勃発した。敗北した清は,翌95年に結ばれた条約で,(1)朝鮮の完全独立を認めた上で冊封・朝貢などを廃止し,(2)日本へ半島・・諸島を割譲,(3)日本への賠償金2億両(テール)の支払い,(4)日本に対し西欧列強と同等の通商上の特権を付与することなどを約した。[ 1 ]戦争でベトナムに対する宗主権を,また[ 4 ]戦争で朝鮮に対する宗主権を失ったことで,清は冊封関係にある主な国を失った。この意味において[ 4 ]戦争は,中国の諸王朝が漢代以降築き上げてきた冊封体制を最終的に崩壊させたという意義を持つ。これ以降,東アジアは中国を頂点とする冊封体制のくびきから解き放たれ,西欧諸国が16世紀以降形成してきた主権国家体制という国際秩序へ移行することとなった。
check_icon61885年には,もう一つ別の[ 2 ]条約が結ばれた。朝鮮で,清からの独立をめざす開化派が1884年に起こしたでは,日清両軍が朝鮮に出兵した。これに対し,日清両国が85年に結んだのも,[ 2 ]条約である。

XII-15. 日清戦争が与えた衝撃

1856~60年に起きた戦争以降も,欧米列強は清を「眠れる獅子」とみなし,その潜在的実力を恐れていた。しかし,日清戦争で小国の日本が清を倒したことで,その弱体ぶりが暴露され,列強は領土の一部を期限付きで借り受けるや,敷設権・採掘権などの利権を獲得することを通じて,中国分割を行っていった。また,日清戦争の敗北で,1860年代から行われてきた,体制変革はせずに西洋の科学技術のみを利用しようとするの挫折が決定づけられ,かわって日本の明治維新をモデルに清朝の体制を根本的に変革しようとする,公羊学派のらによる変法運動がおこった。

XII-16. 三国干渉

1890年に独露間のが消滅すると,ロシアはに接近し,1891年から[ 2 ]資本を導入して,ヨーロッパ=ロシアから沿海州にあるにいたる鉄道の建設に着手した。極東での南進の機をうかがっていたロシアは,日本が日清戦争により半島を清から獲得すると,同盟関係にあった[ 2 ]と,皇帝ヴィルヘルム2世のもと対外膨張政策を進めるを誘って日本に干渉し,[ 5 ]半島を清に返還させた()。ロシアは,その代償として中国東北地方(満州)を横切り,[ 3 ]にいたるの敷設権を清から獲得した。

XII-17. 中国分割(1)

日清戦争後,列強は要地を一定期間借り受けるや,敷設権・採掘権などの利権を獲得することで事実上中国を分割した。ロシアは,で遼東半島を返還させた代償としての敷設権を1896年に獲得し,98年には遼東半島南部の・を[ 1 ]した。ドイツは,宣教師殺害事件を口実に1898年,山東半島のを[ 1 ]し,に海軍基地を築いた。イギリスは,ロシアが[ 6 ]・[ 7 ]を[ 1 ]したのに対抗して,山東半島東端のを[ 1 ]し,さらに香港島対岸のを[ 1 ]した。フランス領インドシナ連邦を築いていたフランスは,1899年にを[ 1 ]した。
check_icon6イギリスは,アロー戦争の講和である1860年ので[ 11 ]南部を獲得しており,98年の[ 1 ]は半島の残りの部分にあたるの地域である。イギリスが1997年に香港を返還したのは,[ 14 ]の[ 1 ]の期限が99年間であったことによる。

XII-18. 中国分割(2)

列強は租借地を設定するほか,,敷設権・採掘権などの利権を独占的に保持する勢力圏を設定していった。ロシアは地方(満州),ドイツは半島,イギリスは流域,フランスは・広西・雲南,日清戦争で台湾を獲得した日本は対岸のを勢力圏とした。アメリカは,1898年の戦争で・島を獲得したのちに利権獲得をめざしたが,競争に乗り遅れた。そのため,1899年に国務長官が宣言を発し,[ 12 ]・機会均等・の3原則を提唱して,経済的進出を図った。この原則は,第一次世界大戦後に開かれた会議で条約に盛り込まれた。アメリカによる[ 12 ]政策は,1930年代に中国大陸進出をめざす日本との対立を生み,太平洋戦争の一因となった。

XII-19. 戊戌の変法

1860年代から行われてきた,体制変革はせずに西洋の科学技術のみを利用しようとするは,日清戦争の敗北によって挫折した。そのため,若手官僚や知識人の間には,中国の伝統的専制体制の変革をめざし,日本の明治維新をモデルとした立憲君主政を樹立しようという動きがあった。この動きを運動([ 2 ]自強)といい,その中心となったのが,公羊(くよう)学派の儒学者であるであった。1898年,第11代皇帝は[ 3 ]・梁啓超を登用し,国会開設や憲法制定による政治改革を推し進めようとした(の[ 2 ])。しかし,改革に反対する保守派がと結んでクーデタを起こし([ 5 ]の政変),3カ月余りで改革を終結させた。クーデタにより,[ 6 ]を中心とした保守派が政権を握り,[ 4 ]は幽閉され,[ 3 ]・梁啓超は日本に亡命した。

XII-20. 義和団事件

列強による中国進出は,農村部においてもそれまでの秩序を維持しようとする動きを引き起こした。の講和である天津・北京条約でキリスト教布教が公認され,内地にも教会が建てられるようになると,教会・信徒と農村社会の伝統的慣習が対立し,反キリスト教運動である運動がおこった。山東では,白蓮教の流れをくむ宗教結社で,農村の自衛団でもあるが「」を唱え,袁世凱(えんせいがい)の鎮圧を逃れつつ,教会や鉄道・電信などを破壊しながら天津・北京に入り,外国人を攻撃した。これを好機ととらえたらの保守派は,列強に宣戦を布告した。列強か国は共同出兵に踏み切り,北京を占領して在留外国人を救出した。これを[ 3 ]事件または[ 3 ]戦争(1900~01)という。敗れた清は,1901年に[ 6 ]か国を含む11か国と(辛丑(しんちゅう)和約)を締結し,4億5千万両(テール)の賠償金の支払いと,外国軍隊のなどを認めた。
check_icon6(1)太平天国と,[ 3 ]のスローガンの違いに注意。太平天国は,「清(満州)を滅ぼし,漢人の王朝を建てる」=「滅満興漢」。[ 3 ]は,「清朝を扶(たす)け,西洋を滅ぼす」=[ 4 ]。(2)[ 1 ]戦争の講和である天津・北京条約で認められたのは外国公使の北京駐在,[ 7 ]では外国軍隊の北京駐屯である。混同しないように。(3)アメリカもイギリスも[ 3 ]事件に出兵したが,アメリカは(1899~1902),イギリスは(1899~1902)中であったため両国とも大量派兵できず,共同出兵は日本とロシアが中心であった。

XII-21. 光緒新政

1901~01年の事件(戦争)後の清朝では,遅まきながら国政改革の必要性が認識され,延命のための改革が推進された(光緒新政)。立憲君主政の日本が専制国家のロシアを破った日露戦争は,この動きをさらに刺激した。1861年に創設されたにかわり,本格的な外交機関である外務部が1901年に設けられた。と呼ばれる西洋式陸軍が創設され,学校制度の改革を行うとともに,隋以来行われてきた官吏登用法のを1905年に廃止した。さらに1908年,大日本帝国憲法をモデルとしたを公布し,9年後のを公約した。1911年には,軍事行政上の最高機関であったを廃止して,責任内閣制が施行された。

XII-22. 革命運動の進展

清朝政府は海外留学を勧める政策をとり,特に日本には多くの留学生が集まった。彼らは西欧や日本の実情に触れて,清朝の政治体制を批判するようになり,革命運動に接近する者が多く現れた。資金面において,革命運動の後ろ盾となったのは,海外に移住したであった。広東(カントン)出身のは,1894年にで[ 1 ]を中心にを結成し,広東省で清朝打倒の武装蜂起を起こしたが,いずれも失敗した。その後,[ 2 ]は革命諸団体の結集を図り,1905年に日本のでを組織した。[ 6 ]は,清王朝の打倒をめざす,共和国の建設をめざす,貧富の差の抑制をめざすの3つを柱とするを掲げて,武装蜂起を試みたが,いずれも失敗した。清朝打倒をめざす[ 6 ]は,戊戌の政変で日本に亡命したらの立憲君主政をめざす党派と対立し,[ 1 ]や留学生の支持を得ようと争った。
check_icon6[ 4 ]が結成された1894年という年は,日清戦争勃発と同じである。また,[ 6 ]が結成された1905年は,日露戦争で日本が事実上勝利した年であるが,[ 6 ]の結成は日露戦争に刺激されたものでもある。

XII-23. 辛亥革命(1)

20世紀初頭の中国では,日清戦争後に列強に与えられた鉄道や鉱山などの利権を取り戻そうとする,地方エリート層であるや新興資本家層などによるが進められていた。光緒新政のもと1911年に組織された内閣では満州人が閣僚の大半を占め,[ 1 ]や漢人の反感を買った。そのようななか,清朝政府が民間資本で建設されていた幹線鉄道を一方的に国有化し,外国からの借款(しゃっかん)を得て建設しようとした。これは,[ 1 ]層を中心とした地方勢力の自立的な動きを統制しようとする清朝政府の動きでもあったが,地方勢力が反発を強め,省で暴動が発生した。こうした状況下,革命派の影響が強かった湖北の一部が1911年10月10日にで蜂起し清朝からの独立を宣言すると,多くの省がこれにならって独立し,が始まった。

XII-24. 辛亥革命(2)

辛亥革命勃発の知らせをアメリカで聞いて帰国したは,におされ,1912年1月1日ににおいて共和政の成立を宣言した。これに対し,清朝は最強の軍事力を有していたの首領であるを起用して革命派との交渉に当たらせたが,清朝を見限った[ 6 ]は軍事力を背景に,清の第12代皇帝(溥儀ふぎ)の退位と共和政の維持を条件に,[ 1 ]から[ 2 ]の地位を譲り受けた。1912年2月,[ 7 ]が退位して清朝は滅亡し,秦の始皇帝以来2000年以上続いてきた皇帝政治は終わった。
check_icon6辛亥革命を機に,外モンゴルが1911年に独立を宣言し,13年にはチベットのが独立を主張する布告を出した。モンゴルのはソヴィエト政府の赤軍の援助を得て独立を達成し,24年にを成立させた。[ 10 ]は,当時,ソ連以外の唯一の社会主義国となった。

戦間期の中国(14)

XII-25. 袁世凱の独裁

清朝崩壊後に,北京と南京の政府が合流し,袁世凱をとするが北京に成立した。孫文らの革命派は袁世凱が独裁を行わないように議会制民主主義を定めた暫定基本法である臨時約法を成立させた。1905年に結成されたを中心とする革命派は議会政党としてを結成し,1913年初めに行われた国会選挙で[ 4 ]は圧勝して第1党となった。これに対し袁世凱は,[ 4 ]指導者の宋教仁を暗殺するなど強引な手段で[ 4 ]を弾圧した。[ 4 ]はと呼ばれる武装蜂起を行ったが,圧倒的兵力を持つ袁世凱に鎮圧された。袁世凱は,正式大総統に就任し,[ 4 ]を解散させ,大総統の権限を大幅に拡大した新約法を制定した。[ 5 ]に敗れた革命派指導者は亡命を余儀なくされ,孫文らはで秘密結社であるを1914年に結成した。独裁を強めた袁世凱は,1915年に自ら帝位につこうとしたが,[ 4 ]系の地方軍人が起こした第三革命が起こるとともに,列強もこれ以上の混乱を望まず支持しなかったため,翌16年に袁世凱は帝政取り消しの表明を行い,失意のうちに病死した。
check_icon6辛亥革命を第一革命と呼び,それに続く第二,第三革命である。

XII-26. 第一次世界大戦と日本・中国

1914年に第一次世界大戦が勃発すると,日本はを根拠に参戦し,を中心とするドイツの租借地を攻撃・占領した。1915年,日本はの北京政府にをつきつけた。主な内容は,以下である。(1)山東省のドイツ権益の日本への譲渡。(2)旅順・の租借期限と南満州鉄道などの利権期限の延長。(3)中国政府へ日本人の政治・財政・軍事顧問を招聘(しょうへい)すること。[ 3 ]政府の抵抗と,また列強の反発を買うことを恐れ,日本は(3)の条項を削除したが,最後通牒を突きつけることで[ 3 ]政府に承諾させた。これは,受け入れた[ 3 ]政府への批判と,各地に排日運動を巻き起こした。日本は,1917年に海軍艦艇をヨーロッパに派遣して連合国の作戦に協力するとともに,アメリカとは石井=ランシング協定を結び,対中国の利権の確保を図った。一方,1917年,中国は協商国側で参戦し,戦勝国の一員となった。さらに中国は,アメリカ軍・日本軍などとともに,対ソ干渉戦争であるシベリア出兵に参加した。
check_icon6(1)1914年に日本は,赤道以北のドイツ領も占領した。この地域は,ヴェルサイユ条約で日本のとされ,第二次世界大戦終結時まで日本が統治した。(2)石井=ランシング協定で,アメリカは中国における日本の特殊権益を認め,日本は中国の門戸開放・領土保全・機会均等を認めた。1922年のワシントン会議における条約で日本の特殊権益が否認された結果,この協定も廃棄された。

XII-27. 新文化運動

によって清朝は滅亡してが成立したが,政治の主導権はに握られ,民主的な近代国家は実現しなかった。このような状況下,1910年代後半に民主や自由といった新たな思想に触れた中国の知識人たちは,西欧の文化を紹介し,儒教批判を展開して新たな中国を作ろうとするを起こした。らが発刊した『新青年』は「民主と科学」をスローガンに掲げて欧米の新しい思想を紹介した。『新青年』誌上では,わかりやすい文体によるを提唱した。文学におけるこの運動をという。は『狂人日記』や『』を著して,中国人の実態を批判した。さらに,北京大学教授のはマルクス主義の紹介につとめた。これらの[ 4 ]は,北京大学の学生や若い知識人に影響を与え,1921年に[ 5 ]を委員長としてが成立した。
check_icon6[ 11 ]は[ 12 ]の創立に参加したが,[ 6 ]はマルクス主義と対立し,第二次世界大戦後にアメリカに亡命した。

XII-28. 五・四運動

1917年,中国は第一次世界大戦に連合国側に立って参戦し,また対ソ干渉戦争であるにも加わった結果,戦勝国としてに参加した。中国は,大戦中に発表されたアメリカ大統領ウィルソンのに期待し,不平等条約の改正にとどまらず,山東のドイツ利権の返還や日本に押し付けられたの破棄を求めた。しかし[ 2 ]において,列強は山東のドイツ利権の日本への譲渡を容認し,また[ 4 ]の破棄要求は拒否された。そのため,年5月4日,連合国とドイツ間の講和である条約に抗議する運動が北京でおこって全国に広まり,労働者のストライキなどもおきた()。このため中国政府は[ 6 ]条約の調印を拒否した。しかし,連合国とオーストリア間の講和条約には調印した結果,中国は国際連盟の原加盟国となり,非常任理事国に選ばれ,国際的な地位向上に努めた。
check_icon6(1)[ 5 ]年3月1日に朝鮮では日本からの独立を求めるが起きた。[ 7 ]の背景として,[ 9 ]も挙げられる。(2)[ 6 ]条約の調印を拒否したのは,軍閥の段祺瑞(だんきずい)内閣である。

XII-29. 中国における日本とアメリカの対立

1919年に開かれたの結果,日本は旧ドイツ領を国際連盟のとして確保し,また半島の旧ドイツ権益の継承も認められた。日本は国際連盟の常任理事国となり,国際的地位を強めたが,欧米列強は東アジアでの日本の勢力伸長を警戒するようになった。1921~22年に開かれた会議では中国の主張が認められ,条約で中国の主権尊重と領土保全,中国進出の機会均等が確認され,日本がもっていた[ 4 ]半島の利権は中国に返還されることになった。この結果,1917年に日米間で結ばれた石井=ランシング協定は失効し,日本の中国進出は二十一カ条要求以前の状態に後退し,アメリカが外交的勝利を収めた。

XII-30. 1920年代の中国-軍閥vs革命派-

1916年に袁世凱が死ぬと,彼が統轄していたが直隷派と安徽派に分裂して北京政府の実権をめぐって争った。これらの勢力をという。一方,1919年におきたにおける大衆のエネルギーに着目したは,1914年に東京で結成した秘密結社のを改組し,公然活動を行う大衆政党の(以後,国民党と表記)を上海で結成した。1921年には,(共産主義インターナショナル)の指導のもとを初代委員長として上海で(以後,共産党と表記)が結成された。[ 9 ]と反共の立場をとる[ 6 ]とは,本来対立関係にあるが,[ 2 ]と帝国主義の打倒という点において提携することは可能であった。1920年代の中国の政治は,[ 2 ]・[ 6 ]・[ 9 ]を軸に展開していくが,ここに中国東北地方()での権益を守ろうとする日本がからむことになる。

XII-31. 1920年代の中国-国共合作-

1919・20年の二度,ソヴィエト=ロシアは外務人民委員代理カラハンの名で,帝政ロシアが中国と結んだ不平等条約を撤廃することを宣言し,中国各界に大きな反響を呼び起こした。1923年,国民党指導者のは,ソ連外交官のヨッフェと会談して情勢を分析した結果,北方のに対抗するためには共産党との提携が必要であると感じた。そこで,[ 1 ]はソ連の援助と顧問を受け入れ,年の国民党第1回全国代表大会(一全大会)において,「」の方針を掲げ,共産党員が個人の資格で入党することを認めた。これを第1次という。1925年,[ 1 ]が病死すると,士官養成が目的で設立された黄埔(こうほ)軍官学校の校長であったが力を伸ばしていった。

XII-32. 1920年代の中国-北伐開始と国民党内の対立-

1925年,労働争議をきっかけに上海で大規模な反帝国主義運動が起きた()。同年,国民党はを樹立した。1926年に率いるは,北方の政府を打倒して,中国統一をめざすを開始した。しかし[ 6 ]が進行するなか,国民党の左派と右派の主導権争いも激化し,らの左派は共産党と連合して武漢(国民)政府を樹立し,右派の[ 3 ]と対立した。左派および共産党の勢力拡大を警戒したなどの民族資本と列強の支持を得て,[ 3 ]は1927年に共産党を弾圧するを起こし,を建てた。ここに第1次国共合作は解消された。この状況下,武漢(国民)政府内部でも国民党左派が共産党を弾圧し,国民党左派も[ 10 ]に合流した。
check_icon6[ 7 ]は日中戦争中の1940年に南京に親日政権を建てた。

XII-33. 1920年代の中国-北伐の完成-

1928年,国民党内の対立と抗争によって一時中断されていたが再開された。当時,北京政府を掌握していたのは,日本が支援していた軍閥のであった。日本は,中国統一によって強力な政府が成立することを警戒し,1927~29年にかけて3回にわたって[ 1 ]軍の北上を阻止するためにを行った。そのうち1928年に日本軍は済南で[ 1 ]軍と武力衝突を起こしたが,[ 1 ]軍の主力は済南を迂回して北上し,[ 3 ]を破った。敗れた[ 3 ]が[ 2 ]に撤退する途中,中国東北地方()進出をねらっていた日本のは,英米に接近し始めていた[ 3 ]が乗っていた列車を[ 2 ]郊外で爆破した。この事件をというが,[ 3 ]の息子のはしょう(漢字:くさかんむりに將)介石のに従い,ここに[ 9 ]による中国統一は一応完成した。
check_icon6[ 6 ]は,本来,関東州(遼東半島南部の旅順・大連)と南満州鉄道を守備するものであったが,中国東北地方([ 5 ])の支配をねらい,1931年に[ 5 ]事変を起こした。

XII-34. 1930年代前半の中国-日本の中国進出-

日本は第一次世界大戦中の戦時景気で好況を続けたが,大戦後に欧米諸国が貿易力を回復させると貿易が不調となった。その後,1923年の関東大震災,27年の金融恐慌につづき,29年から始まるが追い打ちをかけた。農産物価格の下落と失業者の増大によって社会不安が深刻化するなか,軍部や右翼が勢力を伸ばした。この情勢下,日本のは,中国東北地方()の支配をねらって謀略を進めた。1931年,で鉄道を爆破し,これを中国側のしわざとして[ 3 ]を占領した([ 3 ]事変)。日本政府は軍部の独走を追認し,1932年に清朝最後の皇帝()であったを執政(34年から皇帝)として[ 3 ]国を建てた。中国の提訴によってが国際連盟から派遣されたが,日本軍は華北へも軍事行動を拡大してを起こした。[ 7 ]による報告書では,[ 3 ]における日本の特殊権益は認められたが,[ 3 ]国は承認されなかった。国際連盟総会も[ 7 ]の報告書を支持したので,年,日本は国際連盟を脱退した。
check_icon6(1)日本では,1932年に事件,1936年に事件という軍部によるクーデタが起き,軍部による政治の支配が強まった。(2)[ 9 ]年,ドイツは軍備平等権を主張して国際連盟を脱退した。

XII-35. 1930年代前半の中国-国共内戦-

を都とする国民政府は,国内の政治的安定を優先し,1931年の関東軍によるなどの日本の軍事行動に対して即時抵抗することよりも,共産党軍()との戦いに力を入れた。共産党は,1931年に江西省のを拠点にを主席とするを樹立した。しかし,国民政府軍の攻勢にあい,共産党は[ 4 ]を離れ,(1934~36)を始め,36年に陝西省のに根拠地を定めた。この過程で[ 5 ]は指導権を確立し,また35年に共産党は内戦停止と結成を呼びかけるを出した。
check_icon6[ 10 ]が出される1カ月前からモスクワでが開かれ,ファシズムに対する戦術がうちだされており,[ 10 ]はこの方針に沿ったものである。

XII-36. 1930年代後半の中国-第2次国共合作-

1935年,国民政府は世界恐慌の影響による経済混乱をおさめるため,イギリスの支援のもと,通貨としての銀の使用を禁止した上で,全国統一の通貨制度を打ち立てた()。一方,から共産党攻撃を命じられていたは,ひそかに共産党と連絡を取り,に来た[ 2 ]を捕らえ,共産党への攻撃停止と抗日を要求した([ 4 ]事件)。[ 2 ]はこれを受け入れ,国民党と共産党は再び接近した。1937年7月の事件をきっかけに日中戦争が始まると,9月にが成立した。

XII-37. 日中戦争(1)

年7月7日に北平(北京)郊外の付近で日中両軍が衝突し([ 2 ]事件),これをきっかけに宣戦布告のないまま日中戦争が勃発した。9月には第2次国共合作が成立したが,12月に日本軍は国民政府の首都を占領した。真相は明らかになっていないが,この際日本軍は捕虜などを殺したとされる([ 3 ]事件)。率いる国民政府は,まず武漢に逃れ,その後に移転した。日本は,主要都市と鉄道を占領し,占領地に親日政権を作り,1940年には国民政府の要人であるを首班とする政府を[ 3 ]に建て,それらを統合した。しかし,広大な農村地帯は支配しきれなかった。
check_icon6(1)北平(北京)郊外に日本軍が駐屯していたのは,1901年に結ばれた義和団事件の講和であるの北京駐兵権による。(2)当時の日本では,「日中戦争」という語は用いず,「支那(しな)事変」と呼んでいた。中国側も「戦争」の語は用いず,「事変」という語を用いていた。この背景には,1935年に制定されたアメリカの国内法である中立法が交戦国への武器や軍需物資の輸出を禁じていたことがある。

XII-38. 日中戦争(2)

四川省のに移転した率いる国民政府は,ベトナムやビルマを通じて,米・英・ソ連などから援助を受け(援しょう[漢字:くさかんむりに將]ルート),日本が米・英・ソ連と開戦することを期待した。1940年,第二次世界大戦でフランスがドイツに降伏して政府が成立すると,日本は援しょう(漢字:くさかんむりに將)ルートの遮断をねらい,[ 3 ]政府と協定を結び,40年に北部へ,41年に[ 4 ]南部に進駐した。この結果,日本はを植民地とするアメリカとの対立をいっそう深めるようになった。

戦後の中国(11)

XII-39. 国共内戦の再開

抗日戦争を続けてきた,率いる国民政府(重慶政府)は,大戦中の1942年に米・英との不平等条約撤廃に成功した。[ 1 ]は1943年の会談に参加し(参照:VI-102),さらに中国は国際連合ののになるなど,国際的地位を高めていた。一方,大戦末期から続いていた国民党と共産党との衝突は,戦争終結後再燃し,が再開された。ソ連軍の南下を恐れたアメリカが調停を行い,46年1月に停戦協定が成立した。その後,重慶に国共両党と諸勢力が集まって政治協商会議が開かれ,平和建国綱領などが採択された。しかし,国民党が停戦協定を破棄して内戦が再開された。国民党の党幹部の腐敗にあきれたアメリカは国民党への支援に消極的になり,激しいインフレーションが民衆の生活を圧迫した。一方共産党は,国民党の腐敗を宣伝するとともに,抗日戦争中から勢力圏(解放区)において地主の土地所有を廃止して農民に耕地を分配したことから農民の支持を集めた。[ 1 ]率いる国民党は内戦に敗れ,1949年,台湾に逃れた。

XII-40. 二つの中国

大戦後に再開された国共内戦の戦局は共産党に有利となり,1949年,共産党は国民党と距離を置く勢力とともに人民政治協商会議を開催した上で,10月にの成立を宣言し,首都をに定めた。を主席とし,が首相に就任した。ソ連などの社会主義諸国は[ 1 ]を直ちに承認し,50年には軍事同盟であるが結ばれた。一方,内戦に敗れて台湾に逃れた国民党率いるはアメリカを中心とする西側諸国に支持され,年に国連の代表権が[ 1 ]に代わるまで安全保障理事会の常任理事国であった。こうして,大陸の[ 2 ]と台湾の台北(タイペイ)に二つの中国政府が存在することになり,現在もこの状態は続いている。
check_icon6(1)日本の敗戦後,台湾は[ 6 ]の統治下に置かれることになったが,大陸からやって来た警官と台湾人のタバコ売りとのトラブルから,台湾人(本省人)による大陸人(外省人)への反乱である二・二八事件が1947年に発生した。(2)香港を領有していたイギリスは,西側諸国としては例外的に早く1950年に[ 1 ]を承認した。その他の西側主要国では,64年にフランス(参照:VIII-31),72年に日本が承認し,同72年にアメリカも訪中で事実上承認した(参照VIII-19)。

XII-41. 中華人民共和国の内政(1)-毛沢東のつまずき-

1950年代に中華人民共和国は,諸党派との連合体制から共産党一党独裁体制へと移行した。50年,地主から土地を没収して,農民に土地を分配する土地改革が実施された。しかし,53年からの第1次では一転して農民の土地所有権を否定して農業の集団化を図り,さらにソ連の援助を得て重工業化を進めた。58年からの第2次[ 1 ]で,国家と党の主席を兼ねていたは急激な社会主義建設を目指す政策を指示し,生産組織と行政組織を統合したを農村に設立した。しかし,無理な政策と59年からの凶作により,数千万人に達するといわれる餓死者が出て,第2次[ 1 ]は途中で放棄され,[ 3 ]政策は失敗に終わった。[ 2 ]は国家主席の座をに譲り,[ 5 ]は重工業化のペースを落とし,農民の私有地を増やす調整政策を進めた。
check_icon6(1)1956年のによるスターリン批判から中ソ論争が始まっており,ソ連が援助を停止したことも第2次[ 1 ]が失敗した原因の一つである。(2)[ 2 ]は,党主席の地位は譲っていないことに注意。

XII-42. 中華人民共和国の内政(2)-毛沢東の復権-

1959年に国家主席についたは急進的な社会主義建設を緩和する政策をとったが,党主席にとどまっていたはこれに反発し,復権をねらった。[ 2 ]と軍指導者は,[ 1 ]とらを資本主義の道を歩む「走資派」あるいは政権の中枢にいる「」と呼んで非難し,[ 2 ]に忠誠を誓う学生・青年たち()を動員した権力闘争を年から開始した。これをというが,[ 6 ]の過激な運動により,社会は大混乱に陥り,多くの党幹部・知識人が迫害を受け,[ 1 ]らは失脚した。1971年に[ 2 ]の後継者とみられていた[ 3 ]が失脚し,76年に首相のが,その後[ 2 ]が死去すると,華国鋒(かこくほう)首相が[ 2 ]夫人の江青らを中心とする[ 8 ]推進派の「」を逮捕して,77年に[ 8 ]は終結した。
check_icon6[ 3 ]は,1971年に毛沢東に対するクーデタに失敗して失脚し,逃走中に墜落事故でなくなったといわれる。

XII-43. 中華人民共和国の内政(3)-文革後の改革と自由化運動の弾圧-

文化大革命後に実権を握ったは,首相が文化大革命中に提唱した工業・農業・国防・科学技術の「」を推進した。1980年代に[ 1 ]は,「」政策の際に編成されたを解体し,政府に納める分以外の余剰生産物を自由に販売できるの実施,外国資本と技術を導入するを行った。経済体制では,共産党の一党独裁を維持して民主化を抑圧しつつ,資本主義体制の市場経済原理を取り入れるを導入した。しかし,党官僚の腐敗や人権の抑圧,所得格差などの多くの問題が生じた。年,学生や市民が民主化を求めるが勃発すると,[ 1 ]は学生・市民に同情的な趙紫陽総書記を解任してを後任とし,人民解放軍を動員して弾圧し,運動に参加していた学生・市民に多数の死傷者が出た。

XII-44. 中華人民共和国の内政(4)-1990年代以降-

1989年におきたは,ソ連の書記長が訪中していた時期と重なったこともあり,国際的な関心を集めた。西側諸国は経済制裁を加えたが,中華人民共和国は(東南アジア諸国連合)諸国や韓国などと関係を改善させて国際社会での存在感を高めていった。1997年にイギリスからが,99年にはポルトガルからが返還された。97年に鄧小平が死ぬと,が最高指導者となり,2002年からは,12年からが最高指導者となった。急速な経済成長を実現し,2010年には国内総生産(GDP)で日本を抜いて世界第二の経済大国となったが,一人当たりのGDPでは発展途上国に分類されている。また,格差や高齢化の問題を抱えており,チベット自治区や新疆ウイグル自治区では,民族対立が激化して暴動も発生している。
チェック:(1)イギリスは,1842年ので[ 4 ]を,1860年ので九竜半島南部を領有した。国際法の上では,1997年に返還義務が発生するのは1898年に租借した新界のみであったが,イギリスは[ 4 ]を含めた全域を返還した。(2)中華人民共和国は,[ 4 ]返還に際し,50年間は高度な自治と資本主義体制を認める「一国二制度」をとるとしていたが,中国共産党は最近,この約束を無視し,[ 4 ]への統制を強めている。

XII-45. 中華人民共和国の外政(1)-朝鮮戦争と第三世界との関係-

年に成立した中華人民共和国は,50年に日本およびアメリカに対抗する軍事同盟であるをソ連と結んだ。50年に勃発したでアメリカ軍を主体とする国連軍が中国国境付近まで進出すると,中華人民共和国は北朝鮮を支援してを派遣して国連軍を押し返した。54年,周恩来首相がインドを訪問し,インドの首相と会談し,「領土と主権の尊重・相互不侵略・内政不干渉・平等互恵・平和共存」からなるを発表した。冷戦下における国際政治のあり方を示したこの原則は,翌55年にインドネシアので開かれた([ 7 ]会議)においてへと発展させられた。

XII-46. 中華人民共和国の外政(2)-ソ連・インドとの関係-

年の第一書記によるスターリン批判をきっかけに,中国共産党はソ連がとった西側との路線を修正主義として批判し,(中ソ対立)が始まった。ソ連は中国への核兵器開発への技術援助を破棄し,60年に中ソ技術協定を破棄して技術者を中国から引き揚げた。62年に起きたでソ連が譲歩し,63年に米・英・ソがを締結すると,中国はソ連を批判して63年に[ 4 ]は公開論争となって対立は抜き差しならないものとなった。中国は1964年に核実験に成功したが,69年には中ソ国境の珍宝島(ダマンスキー島)で両国軍が武力衝突を起こした。一方,インドと中国の関係は50年代半ばは良好だった(参照:XII-45)が,1959年にチベット反乱が勃発してがインドに亡命すると,59~62年に中印国境紛争が起き,現在に至ってもインドと中国の対立は続いている。
check_icon6(1)1950年に中ソ間で結ばれた軍事同盟であるは60年代の中ソ対立のもとで有名無実化し,80年に破棄された。(2)1989年にソ連の書記長が訪中し,中ソ関係は正常化した。

XII-47. 中華人民共和国の外政(3)-西側諸国への接近-

1969年に中ソ国境紛争が発生して中ソ対立が激化すると中華人民共和国は西側への接近を図った。一方,戦争で苦境に立ったアメリカはキッシンジャー大統領補佐官を北京に派遣して中国への接近を図った(参照:VIII-19)。71年に中華人民共和国が中国のを獲得し,翌72年にアメリカ大統領が訪中して,米中の関係正常化に合意した。この米中の接近は日本に大きな衝撃を与え,同年田中角栄首相が訪中し,日中共同声明が発表された。声明により,日本は中華人民共和国が唯一の合法政府であることを認め,日中国交正常化がなされた。日本は台湾()と断行したが,経済や文化面での関係は現在でも維持されている。1978年,日本と中華人民共和国は72年の日中共同声明の原則を確認した上で,を締結した。アメリカは,政権のもと,1979年に中華人民共和国と正式に国交を樹立したが,台湾([ 4 ])と事実上の軍事同盟である台湾関係法を結んで,中華人民共和国による台湾への軍事侵攻を牽制している。

XII-48. 中華人民共和国の外政(4)-ベトナム・東南アジア諸国との関係-

ベトナム戦争終結後の1976年にカンボジアでは,親中国の立場をとるが指導する政府が成立したが,閉鎖的な共産主義社会の建設を強行し,反対する者を虐殺した。1978年にベトナム軍がカンボジアに侵攻し,[ 1 ]政権を追放すると,79年に中華人民共和国は懲罰と称して,ベトナムを攻撃したがベトナム軍に撃退された()。
check_icon6現在,中国は国際法を無視して南シナ海の大部分が自国の領海だと主張して,フィリピンやベトナムなどの東南アジア諸国と対立している。アメリカ海軍は艦船を南シナ海に派遣して中国を牽制しており,武力衝突の恐れもある。

XII-49. 中華民国(台湾)

国共内戦に敗れた率いるは,1949年,台湾に政府を樹立した。その後,[ 3 ]は戒厳令下の[ 2 ]一党独裁体制が続いた。この時期は,1949年に中国大陸から移住した「外省人」が主流派を占めていたが,台湾生まれの「本省人」であったが1988年に総統となると,戒厳令を解除して自由化を進めた。2000年の総統選挙では,台湾の独立をめざす民主進歩党(民進党)のが総統に就任し,半世紀に及んだ[ 2 ]支配が終焉した。2008年には[ 2 ]の馬英九が総統となり,[ 2 ]が政権を奪還したが,2016年の選挙で民進党の蔡英文が総統に就任した。
check_icon6台湾には,「外省人」と「本省人」(漢族系と先住系の2系統に別れる)の対立とともに,台湾独立問題が存在する。「大陸反攻」を掲げていた[ 1 ]に率いられた[ 2 ]は基本的に「一つの中国」の立場である。しかし,台湾では台湾人ナショナリズムが勃興し,民進党は台湾の独立をめざしている。大陸の中華人民共和国は「一つの中国」の立場で,台湾への武力侵攻をもちらつかせているが,1979年に[ 3 ]との国交を断絶したアメリカは台湾へ軍事援助を行い,中華人民共和国を牽制している。

東アジア国際秩序の再編(12)

XII-50. 日本の開国と明治維新

1846~48年の戦争でカリフォルニアを獲得したアメリカは,太平洋での捕鯨などの活動のために日本に補給基地を求め,1853年,率いるアメリカ艦隊が来航し,開国を迫った。江戸幕府は,翌54年に再び来航した[ 2 ]とを結び,鎖国体制は崩壊した。さらに1858年,を結び,自由貿易を認めて本格的に開国した。対外的危機のなか,下級武士層を中心とする討幕運動が起き,幕府の大政奉還を経て,年に天皇を中心とする明治政府が成立した(明治維新)。明治政府は,富国強兵をめざして工業や軍事の近代化を進め,ドイツ憲法にならって1889年に(明治憲法)を発布し,翌90年に議会を開設して立憲君主政を整えた。立憲君主政のもと近代化をとげて欧米の圧力をはね返した明治維新は,アジア諸国にとって成功モデルとみなされるようになった。
check_icon6「アジア最初の憲法」は,オスマン帝国で1876年に発布された憲法。正誤問題では,「[ 6 ]がアジア最初の憲法」というウソに注意!!

XII-51. 明治維新後の日本と近隣諸国の関係

(1)1871年に日本は清朝と平等条約であるを結んで国交を樹立した。(2)は日本と清にしていたが,明治政府は1872年に[ 2 ]藩とし,清との冊封・朝貢関係を断絶させ,79年にを設置した。1871年に清の領土であるに漂着した宮古島島民が[ 5 ]先住民に殺害されたことを理由に,日本は[ 5 ]出兵を行ったが,駐清イギリス公使の仲介で協定が結ばれ,日本軍は撤兵した。(3)1875年にロシアと・交換条約を結び,[ 6 ]をロシア領,[ 7 ]列島を日本領とした。
check_icon6[ 5 ]出兵では,[ 2 ]人は日本人か,また[ 5 ]先住民は清の支配下にあるのかが問題となった。

XII-52. 朝鮮をめぐる情勢(1)

朝鮮では,1863年にが即位したが,その父が摂政として実権を握っていた。17世紀以降,朝鮮は清と日本の2国としか外交関係をもっていなかった。しかし,19世紀後半になると欧米列強の圧力は朝鮮にもおよび,1860年代にアメリカやフランスが開国を求めたが,[ 2 ]は開国を拒否していた。1873年に[ 2 ]は王妃(閔妃びんひ)一族により失脚させられたが,対外政策は変わらなかった。1875年,日本は軍艦を派遣して圧力をかけ,を起こし,翌76年に領事裁判権を認める不平等条約であるを結び,釜山など3港を開港させた。こうして開国させられた朝鮮では,清との関係を重んじる保守・排外的な事大党と,明治維新をモデルに近代化をめざそうとする勢力が争うようになった。
check_icon6朝鮮は,江戸幕府の将軍が替わるごとに祝賀をかねて,を日本に派遣して,交渉を行っていた。

XII-53. 朝鮮をめぐる情勢(2)

1876年のにより開国した朝鮮では,清との関係を重んじる事大党と,日本に接近して急進的な改革を図ろうとする(独立党)が優勢となった。1882年に開化政策に不満を抱く旧式軍隊が高宗の父を擁立して反乱を起こす()と,清軍がこれを制圧し,清が後ろ盾となって一族が優勢となった。[ 2 ]の中でも急進的なは,1884年に日本の武力を借りて[ 5 ]政権を倒そうとした()が,清朝軍に鎮圧されて,朝鮮に対する清の影響力は強まった。朝鮮は,清を牽制するため,ロシアへの接近を図ったが成功せず,清によって派遣された袁世凱が大きな権限を振るった。
check_icon6(1)[ 7 ]に際し,日清両国軍が朝鮮に派遣されたため,1885年に両国はを結び,両国軍の撤兵と,将来出兵する際における事前通告などを約した。(2)[ 6 ]は福沢諭吉のもとで学び,福沢は[ 7 ]を支持していた。しかし,これが失敗に終わると福沢諭吉は,清や朝鮮との連帯は困難だと見なし,独力で西洋を目標として進むべきだとする「脱亜論」を説いた。

XII-54. 日清戦争

19世紀半ばの朝鮮では,儒教・仏教・道教の3教を融合したを創始した。[ 1 ]は民を惑わす者として逮捕・処刑されたが,19世紀末に[ 2 ]は広がり,1894年に[ 2 ]の指導者が立ち上がり,農民を主体とした([ 2 ]党の乱)が勃発した。この反乱の鎮圧のために日清両国軍が出兵し,が勃発した。清朝の北洋艦隊は日本海軍に敗れ,日本が勝利を収めて1895年に結ばれた条約で,清朝は(1)朝鮮の完全独立を認めた上で冊封・朝貢などを廃止し,(2)日本へ半島・・諸島を割譲,(3)日本への賠償金2億両(テール)の支払い,(4)日本に対し西欧列強と同等の通商上の特権を付与することなどを約した。朝鮮の独立により,清は冊封関係にあった主要国を失い,古来から続いてきた冊封体制は崩壊し,東アジアも近代ヨーロッパが作り上げた国際法の体制の下に置かれることとなった。
check_icon6[ 7 ]半島に関しては,南下を狙うロシアが,フランスとドイツを誘って日本に圧力を加えて返還させ(),ロシアはの敷設権を得た。

XII-55. 日露戦争(1)

朝鮮は,日清戦争の最中から身分制や科挙制度の廃止するなどの近代化を進めた。日清戦争後,政権はロシアに接近して親日派を排除したため,日本公使らが[ 1 ]を殺害した。1897年,朝鮮は国号をと改めて皇帝の称号をもちい,清や日本と対等であることを示した。中国で1900~01年に起きたに際し,ロシアは中国東北地方(満洲)を占領し,(辛丑和約)が結ばれたのちも撤兵しなかった。中央アジアと中国でロシアの南下の圧力を受けていたイギリスは,(ボーア戦争)を戦っていて余力がなかったため,1902年にを結んでロシアに対抗した。を唱え,ロシアの南下を警戒していたアメリカも日本を支援した。この情勢下,ロシアが朝鮮半島に対する圧力を強めたため,日本の安全保障が脅かされた。その結果,日本はロシアとの開戦を決意し,年に日露戦争が勃発した。イギリス・アメリカは財政面などで日本を支援した。一方,を結んでいたフランスはロシアを支援した。
check_icon6(1)[ 6 ]を結んでいたイギリスと,[ 9 ]を結んでいたフランスは,同盟関係において敵対していたため,日露戦争が勃発すると協議を行い,を締結した(参照:VI-15)。(2)[ 9 ]はドイツに対抗するものであったが,ドイツはバルカン半島でロシアと対立していたため,ロシアの関心をヨーロッパからアジアに向けさせるため密かにロシアの極東政策を支援していた。

XII-56. 日露戦争(2)

日露戦争で日本は,ロシアの租借地であった・大連を占領し,奉天会戦および日本海海戦でロシアを破った。ロシアでは,1905年にをきっかけにが勃発して戦争継続が困難となっていた。一方,日本も長期戦を戦う経済力がなかった。そこで日露両国は,アメリカ大統領の調停に応じ,年にを締結した。日本はロシアから,北緯50度以南の,[ 1 ]・大連の租借権,東清鉄道の南半分(長春~大連間)を獲得した。また,[ 6 ]で日本は,韓国に対する指導・監督権をロシアに認めさせた。
check_icon6(1)日本は[ 6 ]で賠償金を得られなかったため,これに反発した民衆による日比谷焼打ち事件が起こった。(2)東清鉄道の南半分を日本はとして経営した。(3)日本は[ 1 ]・大連に関東州を置いたが,関東州と[ 8 ]を守備する部隊としてが置かれた。(4)日本とロシアは1907年に結んだで,満洲における両国の権益を調整(北部はロシア,南部は日本)した。また,英露も接近し,同年英露協商が結ばれた(参照:VI-26)。

XII-57. 韓国併合

日本は,日露戦争中の1904年に日本人の財政と外交の顧問をおくことなどを大韓帝国(韓国)に認めさせた第1次を結んだ。日露戦争の講和で日本は韓国における優越権をロシアに認めさせ,同年05年の第2次[ 1 ]で韓国の外交権を奪って保護国化し,を初代の韓国として派遣した。これに対し韓国は,1907年に皇帝のがオランダので開催されていた万国平和会議に使節を派遣して,第2次[ 1 ]の無効を訴えようとしたが失敗した([ 6 ]密使事件)。これに対し,日本は[ 5 ]を退位させ,第3次[ 1 ]で韓国政府はすべてにおいて[ 4 ]の指導を受けることとし,韓国軍隊を解散させた。韓国では,日本に武力で抵抗するや,教育によって救国をめざす愛国啓蒙運動がおこった。そのようななか,1909年にハルビンで[ 3 ]がによって暗殺されると,日本は年に韓国を併合した。日本はソウル(京城)にを置いて,と呼ばれる強圧的な統治を行った。

XII-58. 朝鮮統治政策の変更

第一次世界大戦中にアメリカ大統領がを発表しての気運が高まると,年に「独立万歳」を叫ぶデモがソウルから全土に広まった。これをという。は軍隊も動員して鎮圧したが,この事件に衝撃を受けた日本はそれまでの強圧的なをゆるめて,と呼ばれる同化政策に転換した。年に日中戦争が始まると,神社の参拝や皇居の方向に敬礼(遙拝)する皇居(宮城)遙拝などを強要するを展開した。また,日本の家族制度を持ち込む,も行われた。
check_icon6[日本国内の動き]第一次世界大戦を背景としておきた物価騰貴に対して,と呼ばれる民衆騒動がおきた。大正デモクラシーの風潮のもと,1925年には,25才以上の男性に選挙権を与える男性普通選挙法が成立したが,同時に労働運動・大衆運動を弾圧するが制定された。

XII-59. 東アジアをめぐる日本とアメリカの対立

日露戦争を境に,日本とアメリカの関係は大きく変わった。日露戦争時はロシアの南下を警戒したアメリカは,日本を支援していた。1907年,日仏協約で日本の韓国における優越権・フランスのインドシナにおける優越権を日仏双方が相互承認し,またで日露両国が中国東北地方(満洲)における利権を分け合った。この結果,日本と英・仏・露の提携が成立し,満洲への米資本の参入をうかがっていたアメリカは孤立した。第一次世界大戦中の1915年に日本が政府に突きつけたは,欧米列強の日本に対する警戒心を強めた。そのため,日本は海軍艦艇をヨーロッパに派遣して連合国の作戦に協力し,アメリカとは石井=ランシング協定を1917年に結んだ(参照:XII-26)。1921~22年のは米英が日本を抑えようとするものであった(参照:VI-58)。この状況下,アメリカで1924年に成立したでは,日本人を含むアジア系の移民が事実上禁止されて日米関係が悪化する原因となった。

XII-60. 太平洋戦争の開始

年に日中戦争が勃発すると,アメリカは援しょう(漢字:くさかんむりに將)ルートを通じて国民政府を援助した。40年,フランスがドイツに敗れて政府が成立すると,[ 2 ]政府と協定を結び,日本は北部に進駐した。さらに同年,英米との対立をもくろむが締結されると,アメリカと日本の対立は深まった(参照:XII-38)。東南アジアへの進出をもくろむ南進論が有力となるなか,日本は41年の4月に北方の安全確保のためにを結び,7月には[ 3 ]南部にも進出した。この結果,アメリカとの対立がさらに深まり,アメリカは在米日本資産の凍結と石油の対日輸出禁止を行い,イギリス・中国・オランダも共同歩調をとった。これを「」という。この間,日米交渉が行われたが,アメリカは中国・[ 3 ]からの全面撤兵と,満州事変前に戻すことを日本に要求し,交渉は決裂した。1941年12月8日,日本軍がハワイのを攻撃して,太平洋戦争が始まった。
check_icon6(1)Aはアメリカ,Bはイギリス,Cは中国,Dはオランダを指す。(2)「太平洋戦争」とは戦後,アメリカ側が命名したもの。日本では,「大東亜戦争」と呼んでいた。

XII-61. 太平洋戦争の経過

年12月8日の攻撃で始まった太平洋戦争で日本は,香港,マレー半島,シンガポール,ジャワ,スマトラ,フィリピン,ビルマと東南アジアのほぼ全域を占領し,戦争の目的を,欧米列強による植民地支配を終わらせ,日本を盟主とする「」を建設することにあるとした。このため,インドのチャンドラ=ボースなど日本に協力する指導者も現れた。しかし,日本軍が厳しい軍制を敷いたため,フィリピンやベトナムなどで抗日運動も起きた。1942年に戦局が転換した。6月に日本軍は,海戦で大敗を喫し,太平洋での主導権を失った。44年7月に島が陥落し,この地は米軍による日本本土爆撃の基地とされた。45年2月に硫黄島(いおうとう)が占領され,4~6月の沖縄戦で日本軍は敗れた。8月6日に,9日にに原爆が投下され,さらにソ連がを一方的に破棄して対日参戦し,満州・朝鮮・樺太へ侵攻した。この情勢下,日本は8月14日にを受諾して降伏し,15日に国民に告げられた。
check_icon6日本は9月2日に降伏文書に調印し,戦争は終結した。しかし,ソ連軍はその後も攻撃を続け北方領土を奪い,中国東北地方(満洲)にいた日本人をシベリアに抑留し,奴隷的な強制労働を課して多くの日本人が死亡した。

第二次大戦後の日本・朝鮮半島(8)

XII-62. 朝鮮の南北分断

第二次世界大戦中の1943年に行われたで戦後の独立が了承されていた朝鮮は,日本の敗戦の結果,日本による統治から解放された。独立政府を求めるいくつかの動きも見られたが,1945年,を境に南にアメリカ軍,北にソ連軍が進駐して朝鮮は分割占領され,5年間は米英中ソ4カ国による信託統治下のもと独立国家建設の準備を進めることとされた。しかし,冷戦の進行にともなって米ソ対立が激化した結果,年,南部にを大統領とする(韓国),北部にを首相(72年以降主席)とする(北朝鮮)が成立して,朝鮮は南北に分裂した。
check_icon6ドイツが,西のと,東のに分裂したのは年のことである(参照:VIII-11)。

XII-63. 朝鮮戦争

1948年,を境に,朝鮮半島南部に,北部に(北朝鮮)が成立した。年,北朝鮮軍が統一をめざして突如境界線である[ 1 ]度線を越えて[ 2 ]へ侵攻し,半島の南端に迫った。国連のは,中国代表権問題でソ連が欠席するなか,北朝鮮による侵略であると断定してアメリカ軍を中心とする国連軍の派遣を決定した。国連軍が中国国境に迫ると,中華人民共和国が北朝鮮を支援してを派遣した。その後,[ 1 ]付近で戦局が膠着し,年にが成立し,[ 1 ]を軍事境界線として朝鮮半島の分断が固定化した。
check_icon6(1)国連軍派遣が決定された際,ソ連は,中華民国(台湾)と中華人民共和国をめぐる中国代表権問題で,[ 5 ]をボイコットしていた。(2)韓国は休戦に反対したため,[ 8 ]に調印したのは国連軍を代表とするアメリカ,北朝鮮,中華人民共和国の3者である。

XII-64. 朝鮮戦争が日本に与えた影響(1)

戦後,日本はアメリカを中心とする連合国軍総司令部(GHQ)による占領の下に置かれたが,当初アメリカは日本の民主化と非武装化を進めていた。しかし,冷戦が進むなか朝鮮半島が分断され,中華人民共和国が成立すると,アメリカは日本を反共産主義陣営の一員とする政策に転じた。朝鮮戦争が勃発すると,日本はアメリカ軍に軍需物資を提供し(),日本には好景気がもたらされた。その結果,日本にとって朝鮮戦争は,戦後復興のきっかけとなった。また,日本の治安維持と防衛のため,連合国軍総司令部(GHQ)の最高司令官マッカーサーの要請を受けて1950年にが発足し,これが52年に保安隊,54年にとなった。

XII-65. 朝鮮戦争が日本に与えた影響(2)

朝鮮戦争が勃発したことでアメリカは日本との講和を急いだ。1951年,日本は,社会主義国やインドなど一部のアジア諸国が参加しないなか,米英など48カ国と講和条約(平和条約)を締結して独立を回復し,朝鮮・台湾・南樺太・千島列島を正式に放棄した。同時に,日本はを結び,アメリカ軍の駐留を認め,アメリカが日本の防衛義務を負うこととなった。これにより日本は,冷戦下,アメリカを中心とする自由主義陣営の一員となった。
check_icon6(1)アメリカは[ 1 ]講和会議に中華民国のみを招待しようとしたが,中華人民共和国を承認していたイギリスが中華人民共和国の参加も主張したため,どちらとも招待されなかった。(2)日本の領土は,ポツダム宣言に基づいて,本州・北海道・九州・四国とその周辺の島々に限られた。終戦間際にソ連が占領した歯舞・色丹・国後・択捉の北方4島は,現在もロシアが占領し続けている。(3)[ 1 ]講和条約後も,奄美,小笠原,沖縄はアメリカの施政権下に置かれ,奄美は1953年,小笠原は68年,沖縄は年に日本に復帰した。

XII-66. 日本とソ連との関係

ソ連は1951年に開催された講和会議には参加したが,講和条件に反対して講和条約には調印しなかった。56年,日本はに調印し,ソ連と国交を回復した。[ 2 ]ではソ連が日本の国連加盟を支持することがうたわれており,同年日本の国連への加盟が認められ,日本は国際社会に復帰した。
check_icon6[ 2 ]では,日本とソ連が将来平和条約を締結したのちに,北方4島のうち歯舞・色丹2島の日本への返還を約していた。しかし,平和条約は未だ締結されておらず,北方4島はソ連崩壊後もロシアが占領したままになっている。

XII-67. 韓国の動向(1)

大韓民国(韓国)の初代大統領は独裁的な反共親米政策をとっていたが,学生を中心とする民主化運動が高まり1960年に辞任した。翌61年に軍事クーデタで政権を掌握したは,経済開発を名目に強権的な独裁体制を維持するを行った。[ 2 ]は,65年に韓国内の反対を押し切ってを締結して日本との国交を樹立するとともに,日本からの莫大な経済援助を得た。また[ 2 ]は,外資を導入して輸出工業の育成を図った結果,韓国は70年代に経済発展を遂げ,(NIES)の一員となった。79年に[ 2 ]が部下によって暗殺されると,軍部によって戒厳令が敷かれた。80年に韓国南西部の市で学生や労働者による民主化を要求する運動が起きたが([ 6 ]事件),軍部によって弾圧され,軍人の全斗煥(チョンドゥホアン)が大統領になり,[ 3 ]を継続した。
check_icon6(1)[ 5 ]は1970年代に急速に経済成長を遂げた国や地域を指すが,韓国のほかに,香港・台湾・シンガポール・ブラジル・メキシコ・アルゼンチンなどが含まれる。(2)1998年に大統領となるは,[ 6 ]事件の首謀者とされて死刑判決を受けたが,国際世論の批判を受けのちに減刑され,釈放された。

XII-68. 韓国の動向(2)

1980年に起きたを弾圧して大統領となった全斗煥(チョンドゥホアン)が退陣すると,軍出身の盧泰愚(ノテウ)が民主化を掲げ,大統領選挙で大統領に当選した。盧泰愚は,1988年にソウル=オリンピックを開催し,90年にソ連と,92年には中国と国交を回復した。また,盧泰愚のもと91年に,南北朝鮮は国連に同時加盟した。93年には,文民政権である政権が成立し,98年にそれをついだ政権は北朝鮮に対話を呼びかける太陽政策を行って2000年に北朝鮮のとピョンヤンで南北首脳会談を実施した。盧武鉉(ノムヒョン),李明博(イミョンバク)のあとを受け,2013年に朴正煕(パクチョンヒ)元大統領の娘,朴槿恵(パククネ)が大統領となった。朴槿恵は不祥事の責任を追及され、弾劾が成立して2017年に罷免された。それを受け、2017年に文在寅(ムンジェイン)が大統領になった。

XII-69. 北朝鮮の動向

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)初代首相は朝鮮戦争を戦ったのち,政治・経済・軍事の自立・自主を掲げる主体(チュチェ)思想を確立し,72年に主席となった。94年に[ 1 ]が死去すると,息子のが権力を継承し,朝鮮労働党総書記の地位についた。[ 2 ]は核兵器開発を進め,国際連合軍として韓国に駐留するアメリカ軍との対立を深めた。2011年に[ 2 ]が死去すると,息子のが権力を継承し,核兵器開発とともに,ミサイル開発を進め,アメリカや韓国・日本と対立している。また,北朝鮮は100人を超えるといわれる日本人を拉致したままで,核・ミサイル開発とともに,日朝間の大きな問題となっている。