清朝の動揺

「清朝の動揺」の一問一答問題です。

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XII-1. 清朝の動揺

18世紀の清朝は繁栄が続き,人口も増大した。だが,土地不足による農民の貧困化は社会の緊張を高め,18世紀末に四川・湖北・陝西の3州が境を接する地方から農民反乱であるの乱(1796~1804年)が勃発した。この反乱の鎮圧には,地方に居住する科挙合格者や退職した官僚経験者であるが組織する義勇軍であるや,農村における自衛武装組織である団練が活躍した。この結果,女真人の社会制度から成立した正規軍であるや,正規軍の一つで漢人で編成される治安維持を主に担ったの弱体化を露呈する結果となった。
check_icon6(1)元末にの乱を起こしたのも[ 1 ]であった。(2)西アジアでは,[ 1 ]の乱が起きたとき1796年にカージャール朝が成立した。ゴロで,カージャール朝にかけて「火事や盗難苦労,白蓮教徒の乱」と覚えよう!!

XII-2. イギリスとの貿易問題

清朝とヨーロッパ諸国との海上貿易は,によって1757年以来,一港に限定されていた。しかし,産業革命を進めていたイギリスが18世紀後半に最大の貿易相手国となると,イギリスは産業革命で生産した綿製品の市場を拡大しようと,貿易の自由化を求めるようになった。1792年にイギリスはを派遣して自由貿易を求めたが,[ 1 ]は貿易を恩恵と見なす朝貢貿易の立場を変えることはなかった。さらに,1816年にイギリスはを派遣したが,皇帝に対面する際の儀礼である三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)の礼を拒否したため,嘉慶帝に謁見できずに帰国した。

XII-3. 三角貿易

17~18世紀のヨーロッパで起きた「生活革命」が進むなか,紅茶を飲む習慣が普及し,イギリスにおいても中国茶への需要が急速に高まっていた。だが,産業革命で生産を増大させたは中国では売れず,大量の銀が中国に流出する片貿易の状態に陥っていた。そこで,イギリスは産業革命で生産した[ 1 ]をインドに,インド産のを中国に,中国から茶をイギリスに運ぶを行うようになった。中国国内では密貿易によってもたらされた[ 2 ]の吸引が広がり,大量の銀が国外に流出するようになった。
check_icon6インドはキャラコと呼ばれるインド産綿布を世界中に輸出していたが,イギリスの機械生産による安価な綿布がインドに流入し,1810年代末にはイギリス綿布の輸入が輸出額を上まわるようになり,インドの在来の手工業は崩壊した。その結果,19世紀前半のインドは,綿花や藍などをイギリスに,アヘンを中国に輸出する原料供給地に転落した。なお,三角貿易には大西洋を舞台に17~18世紀に行われた三角貿易(参照:IV-88)があるので,違いを明確にするように。

XII-4. アヘン戦争

吸引が広まり,密輸入が激しくなると,清朝は[ 1 ]厳禁を主張したを臨時の官職である欽差大臣に任命し,1839年にに派遣した。[ 2 ]が[ 1 ]を没収して廃棄し,イギリスが行う[ 1 ]密貿易を厳禁した。麻薬を原因とする戦争に対して国内の反対論もあるなか,イギリス政府はの実現を唱えて遠征軍の派遣を決定し,年に[ 1 ]戦争をおこした。すぐれた兵器をもつイギリスは清軍を破り,1842年にを結んだ。

XII-5. 南京条約

の講和条約として年に調印されたでは次のことが定められた。(1)の廃止による貿易の自由化。(2)・寧波(ニンポー)・福州・厦門(あもい)・広州5港の開港。(3)のイギリスへの割譲。(4)没収アヘンの補償費,および賠償金の支払い。[ 3 ]は清に対する不平等条約の先駆けとなった。
check_icon6(1)[ 1 ]戦争における清の敗北は,日本を含む周辺諸国に大きな影響を与えた。日本では,武力で外国を排除しようという攘夷(じょうい)論が叫ばれる一方,中国の魏源が著した世界地理書『海国図志』が読まれるなど,近代国家建設への道が開かれていった。(2)開港された5港は,広州は別称で広東(カントン)ということを用いて,ゴロで「上海の忍者の服はアカン」と覚えておこう!!

XII-6. 欧米諸国との不平等条約締結

アヘン戦争の講和条約であるが結ばれた翌年の1843年に清は,イギリスと五港(五口)通商章程を結び,外国人犯罪者の裁判を清ではなく外国領事が行うを認めた。また,で次のことを認めた。(1)清がイギリス以外の第三国と結んだ条約の待遇がイギリスにも適用されるという。(2)関税率を協定で定め清は変更できないこと(の喪失)。(3)開港場におけるイギリス人の土地租借権と居住権。清は,1844年にアメリカと,フランスとを結び,イギリスと同様の権利を認めた。これらの条約はのちに不平等条約と呼ばれるようになるが,当時の清は不平等性をまだ強く意識していなかった。また,周辺諸国との古来から続いてきた冊封・朝貢関係もいまだ存続していた。
check_icon6(1)土地租借権と居住権はのちに,清の主権が及ばない外国人居留地であるに発展した。1845年にイギリスが上海に開設したのが最初であった。(2)アメリカと[ 6 ]の組合せは,ゴロで「アメリカは若い国なので望みがある」と覚えよう!!

XII-7. 第2次アヘン戦争

アヘン戦争後も,欧米諸国の中国への輸出は期待していたほどは伸びず,また外交関係においても清は朝貢意識をもったままであった。このような状況に不満を持つイギリスは,条約改定の機会をうかがっていた。1856年,広州でイギリス船籍を主張する船の中国人船員が海賊容疑で逮捕されるという号事件がおきた。イギリスはこれを口実として,広西でおきた事件で清に抗議していたフランスを誘って,清と開戦した([ 1 ]戦争,第2次戦争)。英仏軍はを占領し,1858年に[ 4 ]条約を結んだ。しかし,批准交換に来た英仏使節の入京を清軍が武力で阻止したことを機に,ふたたび戦端が開かれた。英仏軍は[ 5 ]を占領し,離宮であるを略奪・破壊し,1860年に[ 5 ]条約を結んだ。
check_icon6(1)[ 1 ]号のイギリス船籍の期限は実際には切れており,イギリスはそれを隠して開戦した。(2)[ 6 ]を設計したのは,イエズス会宣教師である。なお,[ 6 ]は再建されることなく,現在でも破壊されたままの姿をさらしている。

XII-8. 天津条約・北京条約

年に始まった戦争(第2次アヘン戦争)中の1858年に清は,イギリス・フランス・ロシア・アメリカと条約を締結した。[ 3 ]条約で清は以下のことを認めた。(1)英仏への賠償金の支払い。(2)の北京駐在を認め,[ 4 ]は朝貢使節ではないことを確認。(3)漢口など10港を開港。(4)開港場以外でも商売が出来るようにするため,外国人のの自由。(5)中国人の信仰の自由と内地における。(6)アヘン貿易を公認。しかし,条約に反対する勢力が英仏との批准を阻止しようとしたため再び英仏が軍事行動を起こし,1860年にロシアの仲介により条約が結ばれた。清は[ 3 ]条約の内容を確認した上,[ 7 ]条約で以下のことを認めた。(1)賠償金の増額。(2)[ 3 ]の開港を追加。合わせて11港開港。(3)香港島対岸のの英への割譲。なお,仲介したロシアとは露清間の[ 7 ]条約を結び,ロシアはウスリー川以東のを獲得した。アロー戦争に敗北して,朝貢関係ではない,対等な外交関係を求められた清朝は,北京に駐在する[ 4 ]に対する窓口としてを設置した。

XII-9. ロシアの東方進出(1)

16世紀後半ののときにがシベリアを探検して以来,ロシアはシベリアを東進し,17世紀前半に太平洋岸に到達した。さらに,ロシアは(アムール川)方面への進出を図り,清と衝突した。1689年,清のとロシアののとき,両国は条約を結び,アルグン川とスタノヴォイ山脈(外興安嶺)を国境とした。さらに,1727年,清ののとき条約が結ばれ,モンゴルの国境線が定められ,交易場が設けられた。また,[ 5 ]はベーリングに探検を行わせ,ベーリング海峡とを確認したほか,カムチャッカ半島も探検した。1792年,は鎖国中の日本にを派遣し,日本との通商を求めたが,江戸幕府は拒否した。

XII-10. ロシアの東方進出(2)

アヘン戦争でのイギリスの勝利に刺激されたロシアのは,1847年にを設置し,初代総督としてを任命した。清がの乱や戦争で苦しんでいるのに乗じ,1858年に[ 3 ]は条約を結び,(アムール川)以北を獲得した。ついで60年,[ 5 ]戦争の調停の見返りとして露清間の条約を結び,ロシアはウスリー川以東のを獲得した。[ 3 ]は[ 9 ]にを建設して極東・太平洋進出の拠点とした。また,ロシアは,(東トルキスタン)における清に対するイスラーム教徒の反乱を機に,地方に出兵し,[ 12 ]を占領した([ 12 ]事件)。1881年,ロシアと清との間で[ 12 ]条約が結ばれ,ロシアは[ 11 ]における通商権を獲得した上で,[ 12 ]を清に返還した。さらにロシアは,19世紀後半,中央アジアに進出し,ウズベク人の・ヒヴァ=ハン国を保護国とし,を併合した。中央アジア進出は,アフガニスタンに勢力を伸ばしていたイギリスとの間に緊張を生むこととなった。
check_icon6[ 10 ]とは,「東方を支配せよ」という意味で,19世紀後半に日本はロシアの圧力を受けることになった。これは,日露戦争に発展する。

XII-11. 太平天国の乱

アヘン戦争の出費と賠償金支払いをまかなうために課された重税は民衆の生活を困窮に追いやり,折からの天災も重なり,地方の治安が悪化した。このようななか,キリスト教の影響を受け,ヤハウェの子,すなわちイエスの弟を名乗るが広西省でを組織し,年に広西省金田村で挙兵してを建てた。この運動は貧困からの救済を求める民衆を巻き込んで広まり,53年にはを占領してここを首都と定め,と改称した。「」を掲げた[ 4 ]は,清朝を倒して漢人の国家を樹立するとすることをめざした。満州人の風習であるを拒んだため,「長髪族」と呼ばれた[ 4 ]は,男女に土地を均分するという土地制度であるを掲げる(実施はされなかった)とともに,女性を動員する目的から,女性の足を変形させて小さく見せる風習であるを廃止した。
check_icon6(1)[ 1 ]は,4世紀の五胡の侵入で混乱した華北を逃れて南方に移住した人々の集団である出身である。孫文や鄧小平らも,[ 11 ]出身である。(2)[ 4 ]は,1851~64年まで続くが,51~64のところはゴロで,「恋しい天国を無視」と覚えよう。反乱が続いていた期間中にあたる1856~60年に戦争がおきたことに注意。[ 4 ]に対し,英・仏・米は当初は中立政策をとっていたが,[ 12 ]戦争終結後には清朝擁護へと転じた。

XII-12. 太平天国の鎮圧

太平天国に応じるように,各地で反乱が起きた。貴州では苗(ミャオ)族が,雲南や陝西(せんせい)・甘粛(かんしゅく)ではムスリムの漢人である回民(かいみん)が蜂起し,安徽では塩の密売人などのアウトロー集団からなるが反乱を起こした。これらの反乱を鎮圧したのは・緑営という清の正規軍ではなく,地方の有力者が自衛のために武装した団練や,漢人官僚が郷里で組織した義勇軍であるであった。率いる湖南省の,[ 4 ]の幕僚だった率いる安徽省のなどがその代表である。欧米列強は1856~60年の戦争後に清朝擁護に転じたが,アメリカ人が組織し,[ 9 ]戦死後にイギリス軍人が指揮したが清軍に協力した。太平天国は内紛で混乱したのち,1864年に都のが陥落して滅亡し,そのほかの反乱も1870年代には鎮圧された。
check_icon6[ 10 ]は,クリミア戦争(1853~56)や[ 8 ]戦争に従軍したのち,太平天国鎮圧に貢献した。その後,1881年にスーダンで起きたの反乱鎮圧に派遣されたが,1885年にハルツームで戦死した。

XII-13. アロー戦争・太平天国後の変化

太平天国の動乱は,清朝政府や,八旗・という正規軍の無力ぶりを明るみに出し,反乱鎮圧に活躍した曾国藩・・左宗棠(さそうとう)らの漢人官僚が政治の中枢に進出するきっかけとなった。反乱鎮圧後の地方秩序の回復も,地方に居住する科挙合格者や退職した官僚経験者であるが主導した。反乱鎮圧後は,帝(位1861~75)のもと,内外ともに一時的な安定がもたらされたので,この時期を[ 4 ]の中興と呼ぶ。曾国藩らの漢人官僚は,富国強兵をめざして,西洋の軍事・技術を導入しようとするを行った。これにより,兵器・紡績・造船などの工場が建設され,鉄道の敷設(ふせつ)や鉱山開発などが行われ,また洋式軍隊が編成された。しかしこの運動は,儒教に基づく中国の伝統的な価値観を維持しつつ,西洋の科学技術を利用するという「」の立場に立つもので,国家や社会の制度を根本的に変革しようとするものではなかった。

XII-14. 冊封体制の崩壊

1883・84年の2度に及ぶフエ(ユエ)条約によってフランスがベトナムを保護国としたのに対し,宗主権を主張する清朝は,これを認めず1884年に戦争が勃発した。敗北した清は,85年に条約を結び,ベトナムに対する宗主権を放棄した。朝鮮で1894年に戦争(東学党の乱)が起こると,日本・清両軍が出兵して,戦争が勃発した。敗北した清は,翌95年に結ばれた条約で,(1)朝鮮の完全独立を認めた上で冊封・朝貢などを廃止し,(2)日本へ半島・・諸島を割譲,(3)日本への賠償金2億両(テール)の支払い,(4)日本に対し西欧列強と同等の通商上の特権を付与することなどを約した。[ 1 ]戦争でベトナムに対する宗主権を,また[ 4 ]戦争で朝鮮に対する宗主権を失ったことで,清は冊封関係にある主な国を失った。この意味において[ 4 ]戦争は,中国の諸王朝が漢代以降築き上げてきた冊封体制を最終的に崩壊させたという意義を持つ。これ以降,東アジアは中国を頂点とする冊封体制のくびきから解き放たれ,西欧諸国が16世紀以降形成してきた主権国家体制という国際秩序へ移行することとなった。
check_icon61885年には,もう一つ別の[ 2 ]条約が結ばれた。朝鮮で,清からの独立をめざす開化派が1884年に起こしたでは,日清両軍が朝鮮に出兵した。これに対し,日清両国が85年に結んだのも,[ 2 ]条約である。

XII-15. 日清戦争が与えた衝撃

1856~60年に起きた戦争以降も,欧米列強は清を「眠れる獅子」とみなし,その潜在的実力を恐れていた。しかし,日清戦争で小国の日本が清を倒したことで,その弱体ぶりが暴露され,列強は領土の一部を期限付きで借り受けるや,敷設権・採掘権などの利権を獲得することを通じて,中国分割を行っていった。また,日清戦争の敗北で,1860年代から行われてきた,体制変革はせずに西洋の科学技術のみを利用しようとするの挫折が決定づけられ,かわって日本の明治維新をモデルに清朝の体制を根本的に変革しようとする,公羊学派のらによる変法運動がおこった。

XII-16. 三国干渉

1890年に独露間のが消滅すると,ロシアはに接近し,1891年から[ 2 ]資本を導入して,ヨーロッパ=ロシアから沿海州にあるにいたる鉄道の建設に着手した。極東での南進の機をうかがっていたロシアは,日本が日清戦争により半島を清から獲得すると,同盟関係にあった[ 2 ]と,皇帝ヴィルヘルム2世のもと対外膨張政策を進めるを誘って日本に干渉し,[ 5 ]半島を清に返還させた()。ロシアは,その代償として中国東北地方(満州)を横切り,[ 3 ]にいたるの敷設権を清から獲得した。

XII-17. 中国分割(1)

日清戦争後,列強は要地を一定期間借り受けるや,敷設権・採掘権などの利権を獲得することで事実上中国を分割した。ロシアは,で遼東半島を返還させた代償としての敷設権を1896年に獲得し,98年には遼東半島南部の・を[ 1 ]した。ドイツは,宣教師殺害事件を口実に1898年,山東半島のを[ 1 ]し,に海軍基地を築いた。イギリスは,ロシアが[ 6 ]・[ 7 ]を[ 1 ]したのに対抗して,山東半島東端のを[ 1 ]し,さらに香港島対岸のを[ 1 ]した。フランス領インドシナ連邦を築いていたフランスは,1899年にを[ 1 ]した。
check_icon6イギリスは,アロー戦争の講和である1860年ので[ 11 ]南部を獲得しており,98年の[ 1 ]は半島の残りの部分にあたるの地域である。イギリスが1997年に香港を返還したのは,[ 14 ]の[ 1 ]の期限が99年間であったことによる。

XII-18. 中国分割(2)

列強は租借地を設定するほか,,敷設権・採掘権などの利権を独占的に保持する勢力圏を設定していった。ロシアは地方(満州),ドイツは半島,イギリスは流域,フランスは・広西・雲南,日清戦争で台湾を獲得した日本は対岸のを勢力圏とした。アメリカは,1898年の戦争で・島を獲得したのちに利権獲得をめざしたが,競争に乗り遅れた。そのため,1899年に国務長官が宣言を発し,[ 12 ]・機会均等・の3原則を提唱して,経済的進出を図った。この原則は,第一次世界大戦後に開かれた会議で条約に盛り込まれた。アメリカによる[ 12 ]政策は,1930年代に中国大陸進出をめざす日本との対立を生み,太平洋戦争の一因となった。

XII-19. 戊戌の変法

1860年代から行われてきた,体制変革はせずに西洋の科学技術のみを利用しようとするは,日清戦争の敗北によって挫折した。そのため,若手官僚や知識人の間には,中国の伝統的専制体制の変革をめざし,日本の明治維新をモデルとした立憲君主政を樹立しようという動きがあった。この動きを運動([ 2 ]自強)といい,その中心となったのが,公羊(くよう)学派の儒学者であるであった。1898年,第11代皇帝は[ 3 ]・梁啓超を登用し,国会開設や憲法制定による政治改革を推し進めようとした(の[ 2 ])。しかし,改革に反対する保守派がと結んでクーデタを起こし([ 5 ]の政変),3カ月余りで改革を終結させた。クーデタにより,[ 6 ]を中心とした保守派が政権を握り,[ 4 ]は幽閉され,[ 3 ]・梁啓超は日本に亡命した。

XII-20. 義和団事件

列強による中国進出は,農村部においてもそれまでの秩序を維持しようとする動きを引き起こした。の講和である天津・北京条約でキリスト教布教が公認され,内地にも教会が建てられるようになると,教会・信徒と農村社会の伝統的慣習が対立し,反キリスト教運動である運動がおこった。山東では,白蓮教の流れをくむ宗教結社で,農村の自衛団でもあるが「」を唱え,袁世凱(えんせいがい)の鎮圧を逃れつつ,教会や鉄道・電信などを破壊しながら天津・北京に入り,外国人を攻撃した。これを好機ととらえたらの保守派は,列強に宣戦を布告した。列強か国は共同出兵に踏み切り,北京を占領して在留外国人を救出した。これを[ 3 ]事件または[ 3 ]戦争(1900~01)という。敗れた清は,1901年に[ 6 ]か国を含む11か国と(辛丑(しんちゅう)和約)を締結し,4億5千万両(テール)の賠償金の支払いと,外国軍隊のなどを認めた。
check_icon6(1)太平天国と,[ 3 ]のスローガンの違いに注意。太平天国は,「清(満州)を滅ぼし,漢人の王朝を建てる」=「滅満興漢」。[ 3 ]は,「清朝を扶(たす)け,西洋を滅ぼす」=[ 4 ]。(2)[ 1 ]戦争の講和である天津・北京条約で認められたのは外国公使の北京駐在,[ 7 ]では外国軍隊の北京駐屯である。混同しないように。(3)アメリカもイギリスも[ 3 ]事件に出兵したが,アメリカは(1899~1902),イギリスは(1899~1902)中であったため両国とも大量派兵できず,共同出兵は日本とロシアが中心であった。

XII-21. 光緒新政

1901~01年の事件(戦争)後の清朝では,遅まきながら国政改革の必要性が認識され,延命のための改革が推進された(光緒新政)。立憲君主政の日本が専制国家のロシアを破った日露戦争は,この動きをさらに刺激した。1861年に創設されたにかわり,本格的な外交機関である外務部が1901年に設けられた。と呼ばれる西洋式陸軍が創設され,学校制度の改革を行うとともに,隋以来行われてきた官吏登用法のを1905年に廃止した。さらに1908年,大日本帝国憲法をモデルとしたを公布し,9年後のを公約した。1911年には,軍事行政上の最高機関であったを廃止して,責任内閣制が施行された。

XII-22. 革命運動の進展

清朝政府は海外留学を勧める政策をとり,特に日本には多くの留学生が集まった。彼らは西欧や日本の実情に触れて,清朝の政治体制を批判するようになり,革命運動に接近する者が多く現れた。資金面において,革命運動の後ろ盾となったのは,海外に移住したであった。広東(カントン)出身のは,1894年にで[ 1 ]を中心にを結成し,広東省で清朝打倒の武装蜂起を起こしたが,いずれも失敗した。その後,[ 2 ]は革命諸団体の結集を図り,1905年に日本のでを組織した。[ 6 ]は,清王朝の打倒をめざす,共和国の建設をめざす,貧富の差の抑制をめざすの3つを柱とするを掲げて,武装蜂起を試みたが,いずれも失敗した。清朝打倒をめざす[ 6 ]は,戊戌の政変で日本に亡命したらの立憲君主政をめざす党派と対立し,[ 1 ]や留学生の支持を得ようと争った。
check_icon6[ 4 ]が結成された1894年という年は,日清戦争勃発と同じである。また,[ 6 ]が結成された1905年は,日露戦争で日本が事実上勝利した年であるが,[ 6 ]の結成は日露戦争に刺激されたものでもある。

XII-23. 辛亥革命(1)

20世紀初頭の中国では,日清戦争後に列強に与えられた鉄道や鉱山などの利権を取り戻そうとする,地方エリート層であるや新興資本家層などによるが進められていた。光緒新政のもと1911年に組織された内閣では満州人が閣僚の大半を占め,[ 1 ]や漢人の反感を買った。そのようななか,清朝政府が民間資本で建設されていた幹線鉄道を一方的に国有化し,外国からの借款(しゃっかん)を得て建設しようとした。これは,[ 1 ]層を中心とした地方勢力の自立的な動きを統制しようとする清朝政府の動きでもあったが,地方勢力が反発を強め,省で暴動が発生した。こうした状況下,革命派の影響が強かった湖北の一部が1911年10月10日にで蜂起し清朝からの独立を宣言すると,多くの省がこれにならって独立し,が始まった。

XII-24. 辛亥革命(2)

辛亥革命勃発の知らせをアメリカで聞いて帰国したは,におされ,1912年1月1日ににおいて共和政の成立を宣言した。これに対し,清朝は最強の軍事力を有していたの首領であるを起用して革命派との交渉に当たらせたが,清朝を見限った[ 6 ]は軍事力を背景に,清の第12代皇帝(溥儀ふぎ)の退位と共和政の維持を条件に,[ 1 ]から[ 2 ]の地位を譲り受けた。1912年2月,[ 7 ]が退位して清朝は滅亡し,秦の始皇帝以来2000年以上続いてきた皇帝政治は終わった。
check_icon6辛亥革命を機に,外モンゴルが1911年に独立を宣言し,13年にはチベットのが独立を主張する布告を出した。モンゴルのはソヴィエト政府の赤軍の援助を得て独立を達成し,24年にを成立させた。[ 10 ]は,当時,ソ連以外の唯一の社会主義国となった。