戦後の中国

「戦後の中国」の一問一答問題です。

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XII-39. 国共内戦の再開

抗日戦争を続けてきた,率いる国民政府(重慶政府)は,大戦中の1942年に米・英との不平等条約撤廃に成功した。[ 1 ]は1943年の会談に参加し(参照:VI-102),さらに中国は国際連合ののになるなど,国際的地位を高めていた。一方,大戦末期から続いていた国民党と共産党との衝突は,戦争終結後再燃し,が再開された。ソ連軍の南下を恐れたアメリカが調停を行い,46年1月に停戦協定が成立した。その後,重慶に国共両党と諸勢力が集まって政治協商会議が開かれ,平和建国綱領などが採択された。しかし,国民党が停戦協定を破棄して内戦が再開された。国民党の党幹部の腐敗にあきれたアメリカは国民党への支援に消極的になり,激しいインフレーションが民衆の生活を圧迫した。一方共産党は,国民党の腐敗を宣伝するとともに,抗日戦争中から勢力圏(解放区)において地主の土地所有を廃止して農民に耕地を分配したことから農民の支持を集めた。[ 1 ]率いる国民党は内戦に敗れ,1949年,台湾に逃れた。

XII-40. 二つの中国

大戦後に再開された国共内戦の戦局は共産党に有利となり,1949年,共産党は国民党と距離を置く勢力とともに人民政治協商会議を開催した上で,10月にの成立を宣言し,首都をに定めた。を主席とし,が首相に就任した。ソ連などの社会主義諸国は[ 1 ]を直ちに承認し,50年には軍事同盟であるが結ばれた。一方,内戦に敗れて台湾に逃れた国民党率いるはアメリカを中心とする西側諸国に支持され,年に国連の代表権が[ 1 ]に代わるまで安全保障理事会の常任理事国であった。こうして,大陸の[ 2 ]と台湾の台北(タイペイ)に二つの中国政府が存在することになり,現在もこの状態は続いている。
check_icon6(1)日本の敗戦後,台湾は[ 6 ]の統治下に置かれることになったが,大陸からやって来た警官と台湾人のタバコ売りとのトラブルから,台湾人(本省人)による大陸人(外省人)への反乱である二・二八事件が1947年に発生した。(2)香港を領有していたイギリスは,西側諸国としては例外的に早く1950年に[ 1 ]を承認した。その他の西側主要国では,64年にフランス(参照:VIII-31),72年に日本が承認し,同72年にアメリカも訪中で事実上承認した(参照VIII-19)。

XII-41. 中華人民共和国の内政(1)-毛沢東のつまずき-

1950年代に中華人民共和国は,諸党派との連合体制から共産党一党独裁体制へと移行した。50年,地主から土地を没収して,農民に土地を分配する土地改革が実施された。しかし,53年からの第1次では一転して農民の土地所有権を否定して農業の集団化を図り,さらにソ連の援助を得て重工業化を進めた。58年からの第2次[ 1 ]で,国家と党の主席を兼ねていたは急激な社会主義建設を目指す政策を指示し,生産組織と行政組織を統合したを農村に設立した。しかし,無理な政策と59年からの凶作により,数千万人に達するといわれる餓死者が出て,第2次[ 1 ]は途中で放棄され,[ 3 ]政策は失敗に終わった。[ 2 ]は国家主席の座をに譲り,[ 5 ]は重工業化のペースを落とし,農民の私有地を増やす調整政策を進めた。
check_icon6(1)1956年のによるスターリン批判から中ソ論争が始まっており,ソ連が援助を停止したことも第2次[ 1 ]が失敗した原因の一つである。(2)[ 2 ]は,党主席の地位は譲っていないことに注意。

XII-42. 中華人民共和国の内政(2)-毛沢東の復権-

1959年に国家主席についたは急進的な社会主義建設を緩和する政策をとったが,党主席にとどまっていたはこれに反発し,復権をねらった。[ 2 ]と軍指導者は,[ 1 ]とらを資本主義の道を歩む「走資派」あるいは政権の中枢にいる「」と呼んで非難し,[ 2 ]に忠誠を誓う学生・青年たち()を動員した権力闘争を年から開始した。これをというが,[ 6 ]の過激な運動により,社会は大混乱に陥り,多くの党幹部・知識人が迫害を受け,[ 1 ]らは失脚した。1971年に[ 2 ]の後継者とみられていた[ 3 ]が失脚し,76年に首相のが,その後[ 2 ]が死去すると,華国鋒(かこくほう)首相が[ 2 ]夫人の江青らを中心とする[ 8 ]推進派の「」を逮捕して,77年に[ 8 ]は終結した。
check_icon6[ 3 ]は,1971年に毛沢東に対するクーデタに失敗して失脚し,逃走中に墜落事故でなくなったといわれる。

XII-43. 中華人民共和国の内政(3)-文革後の改革と自由化運動の弾圧-

文化大革命後に実権を握ったは,首相が文化大革命中に提唱した工業・農業・国防・科学技術の「」を推進した。1980年代に[ 1 ]は,「」政策の際に編成されたを解体し,政府に納める分以外の余剰生産物を自由に販売できるの実施,外国資本と技術を導入するを行った。経済体制では,共産党の一党独裁を維持して民主化を抑圧しつつ,資本主義体制の市場経済原理を取り入れるを導入した。しかし,党官僚の腐敗や人権の抑圧,所得格差などの多くの問題が生じた。年,学生や市民が民主化を求めるが勃発すると,[ 1 ]は学生・市民に同情的な趙紫陽総書記を解任してを後任とし,人民解放軍を動員して弾圧し,運動に参加していた学生・市民に多数の死傷者が出た。

XII-44. 中華人民共和国の内政(4)-1990年代以降-

1989年におきたは,ソ連の書記長が訪中していた時期と重なったこともあり,国際的な関心を集めた。西側諸国は経済制裁を加えたが,中華人民共和国は(東南アジア諸国連合)諸国や韓国などと関係を改善させて国際社会での存在感を高めていった。1997年にイギリスからが,99年にはポルトガルからが返還された。97年に鄧小平が死ぬと,が最高指導者となり,2002年からは,12年からが最高指導者となった。急速な経済成長を実現し,2010年には国内総生産(GDP)で日本を抜いて世界第二の経済大国となったが,一人当たりのGDPでは発展途上国に分類されている。また,格差や高齢化の問題を抱えており,チベット自治区や新疆ウイグル自治区では,民族対立が激化して暴動も発生している。
チェック:(1)イギリスは,1842年ので[ 4 ]を,1860年ので九竜半島南部を領有した。国際法の上では,1997年に返還義務が発生するのは1898年に租借した新界のみであったが,イギリスは[ 4 ]を含めた全域を返還した。(2)中華人民共和国は,[ 4 ]返還に際し,50年間は高度な自治と資本主義体制を認める「一国二制度」をとるとしていたが,中国共産党は最近,この約束を無視し,[ 4 ]への統制を強めている。

XII-45. 中華人民共和国の外政(1)-朝鮮戦争と第三世界との関係-

年に成立した中華人民共和国は,50年に日本およびアメリカに対抗する軍事同盟であるをソ連と結んだ。50年に勃発したでアメリカ軍を主体とする国連軍が中国国境付近まで進出すると,中華人民共和国は北朝鮮を支援してを派遣して国連軍を押し返した。54年,周恩来首相がインドを訪問し,インドの首相と会談し,「領土と主権の尊重・相互不侵略・内政不干渉・平等互恵・平和共存」からなるを発表した。冷戦下における国際政治のあり方を示したこの原則は,翌55年にインドネシアので開かれた([ 7 ]会議)においてへと発展させられた。

XII-46. 中華人民共和国の外政(2)-ソ連・インドとの関係-

年の第一書記によるスターリン批判をきっかけに,中国共産党はソ連がとった西側との路線を修正主義として批判し,(中ソ対立)が始まった。ソ連は中国への核兵器開発への技術援助を破棄し,60年に中ソ技術協定を破棄して技術者を中国から引き揚げた。62年に起きたでソ連が譲歩し,63年に米・英・ソがを締結すると,中国はソ連を批判して63年に[ 4 ]は公開論争となって対立は抜き差しならないものとなった。中国は1964年に核実験に成功したが,69年には中ソ国境の珍宝島(ダマンスキー島)で両国軍が武力衝突を起こした。一方,インドと中国の関係は50年代半ばは良好だった(参照:XII-45)が,1959年にチベット反乱が勃発してがインドに亡命すると,59~62年に中印国境紛争が起き,現在に至ってもインドと中国の対立は続いている。
check_icon6(1)1950年に中ソ間で結ばれた軍事同盟であるは60年代の中ソ対立のもとで有名無実化し,80年に破棄された。(2)1989年にソ連の書記長が訪中し,中ソ関係は正常化した。

XII-47. 中華人民共和国の外政(3)-西側諸国への接近-

1969年に中ソ国境紛争が発生して中ソ対立が激化すると中華人民共和国は西側への接近を図った。一方,戦争で苦境に立ったアメリカはキッシンジャー大統領補佐官を北京に派遣して中国への接近を図った(参照:VIII-19)。71年に中華人民共和国が中国のを獲得し,翌72年にアメリカ大統領が訪中して,米中の関係正常化に合意した。この米中の接近は日本に大きな衝撃を与え,同年田中角栄首相が訪中し,日中共同声明が発表された。声明により,日本は中華人民共和国が唯一の合法政府であることを認め,日中国交正常化がなされた。日本は台湾()と断行したが,経済や文化面での関係は現在でも維持されている。1978年,日本と中華人民共和国は72年の日中共同声明の原則を確認した上で,を締結した。アメリカは,政権のもと,1979年に中華人民共和国と正式に国交を樹立したが,台湾([ 4 ])と事実上の軍事同盟である台湾関係法を結んで,中華人民共和国による台湾への軍事侵攻を牽制している。

XII-48. 中華人民共和国の外政(4)-ベトナム・東南アジア諸国との関係-

ベトナム戦争終結後の1976年にカンボジアでは,親中国の立場をとるが指導する政府が成立したが,閉鎖的な共産主義社会の建設を強行し,反対する者を虐殺した。1978年にベトナム軍がカンボジアに侵攻し,[ 1 ]政権を追放すると,79年に中華人民共和国は懲罰と称して,ベトナムを攻撃したがベトナム軍に撃退された()。
check_icon6現在,中国は国際法を無視して南シナ海の大部分が自国の領海だと主張して,フィリピンやベトナムなどの東南アジア諸国と対立している。アメリカ海軍は艦船を南シナ海に派遣して中国を牽制しており,武力衝突の恐れもある。

XII-49. 中華民国(台湾)

国共内戦に敗れた率いるは,1949年,台湾に政府を樹立した。その後,[ 3 ]は戒厳令下の[ 2 ]一党独裁体制が続いた。この時期は,1949年に中国大陸から移住した「外省人」が主流派を占めていたが,台湾生まれの「本省人」であったが1988年に総統となると,戒厳令を解除して自由化を進めた。2000年の総統選挙では,台湾の独立をめざす民主進歩党(民進党)のが総統に就任し,半世紀に及んだ[ 2 ]支配が終焉した。2008年には[ 2 ]の馬英九が総統となり,[ 2 ]が政権を奪還したが,2016年の選挙で民進党の蔡英文が総統に就任した。
check_icon6台湾には,「外省人」と「本省人」(漢族系と先住系の2系統に別れる)の対立とともに,台湾独立問題が存在する。「大陸反攻」を掲げていた[ 1 ]に率いられた[ 2 ]は基本的に「一つの中国」の立場である。しかし,台湾では台湾人ナショナリズムが勃興し,民進党は台湾の独立をめざしている。大陸の中華人民共和国は「一つの中国」の立場で,台湾への武力侵攻をもちらつかせているが,1979年に[ 3 ]との国交を断絶したアメリカは台湾へ軍事援助を行い,中華人民共和国を牽制している。