戦間期の中国

「戦間期の中国」の一問一答問題です。

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XII-25. 袁世凱の独裁

清朝崩壊後に,北京と南京の政府が合流し,袁世凱をとするが北京に成立した。孫文らの革命派は袁世凱が独裁を行わないように議会制民主主義を定めた暫定基本法である臨時約法を成立させた。1905年に結成されたを中心とする革命派は議会政党としてを結成し,1913年初めに行われた国会選挙で[ 4 ]は圧勝して第1党となった。これに対し袁世凱は,[ 4 ]指導者の宋教仁を暗殺するなど強引な手段で[ 4 ]を弾圧した。[ 4 ]はと呼ばれる武装蜂起を行ったが,圧倒的兵力を持つ袁世凱に鎮圧された。袁世凱は,正式大総統に就任し,[ 4 ]を解散させ,大総統の権限を大幅に拡大した新約法を制定した。[ 5 ]に敗れた革命派指導者は亡命を余儀なくされ,孫文らはで秘密結社であるを1914年に結成した。独裁を強めた袁世凱は,1915年に自ら帝位につこうとしたが,[ 4 ]系の地方軍人が起こした第三革命が起こるとともに,列強もこれ以上の混乱を望まず支持しなかったため,翌16年に袁世凱は帝政取り消しの表明を行い,失意のうちに病死した。
check_icon6辛亥革命を第一革命と呼び,それに続く第二,第三革命である。

XII-26. 第一次世界大戦と日本・中国

1914年に第一次世界大戦が勃発すると,日本はを根拠に参戦し,を中心とするドイツの租借地を攻撃・占領した。1915年,日本はの北京政府にをつきつけた。主な内容は,以下である。(1)山東省のドイツ権益の日本への譲渡。(2)旅順・の租借期限と南満州鉄道などの利権期限の延長。(3)中国政府へ日本人の政治・財政・軍事顧問を招聘(しょうへい)すること。[ 3 ]政府の抵抗と,また列強の反発を買うことを恐れ,日本は(3)の条項を削除したが,最後通牒を突きつけることで[ 3 ]政府に承諾させた。これは,受け入れた[ 3 ]政府への批判と,各地に排日運動を巻き起こした。日本は,1917年に海軍艦艇をヨーロッパに派遣して連合国の作戦に協力するとともに,アメリカとは石井=ランシング協定を結び,対中国の利権の確保を図った。一方,1917年,中国は協商国側で参戦し,戦勝国の一員となった。さらに中国は,アメリカ軍・日本軍などとともに,対ソ干渉戦争であるシベリア出兵に参加した。
check_icon6(1)1914年に日本は,赤道以北のドイツ領も占領した。この地域は,ヴェルサイユ条約で日本のとされ,第二次世界大戦終結時まで日本が統治した。(2)石井=ランシング協定で,アメリカは中国における日本の特殊権益を認め,日本は中国の門戸開放・領土保全・機会均等を認めた。1922年のワシントン会議における条約で日本の特殊権益が否認された結果,この協定も廃棄された。

XII-27. 新文化運動

によって清朝は滅亡してが成立したが,政治の主導権はに握られ,民主的な近代国家は実現しなかった。このような状況下,1910年代後半に民主や自由といった新たな思想に触れた中国の知識人たちは,西欧の文化を紹介し,儒教批判を展開して新たな中国を作ろうとするを起こした。らが発刊した『新青年』は「民主と科学」をスローガンに掲げて欧米の新しい思想を紹介した。『新青年』誌上では,わかりやすい文体によるを提唱した。文学におけるこの運動をという。は『狂人日記』や『』を著して,中国人の実態を批判した。さらに,北京大学教授のはマルクス主義の紹介につとめた。これらの[ 4 ]は,北京大学の学生や若い知識人に影響を与え,1921年に[ 5 ]を委員長としてが成立した。
check_icon6[ 11 ]は[ 12 ]の創立に参加したが,[ 6 ]はマルクス主義と対立し,第二次世界大戦後にアメリカに亡命した。

XII-28. 五・四運動

1917年,中国は第一次世界大戦に連合国側に立って参戦し,また対ソ干渉戦争であるにも加わった結果,戦勝国としてに参加した。中国は,大戦中に発表されたアメリカ大統領ウィルソンのに期待し,不平等条約の改正にとどまらず,山東のドイツ利権の返還や日本に押し付けられたの破棄を求めた。しかし[ 2 ]において,列強は山東のドイツ利権の日本への譲渡を容認し,また[ 4 ]の破棄要求は拒否された。そのため,年5月4日,連合国とドイツ間の講和である条約に抗議する運動が北京でおこって全国に広まり,労働者のストライキなどもおきた()。このため中国政府は[ 6 ]条約の調印を拒否した。しかし,連合国とオーストリア間の講和条約には調印した結果,中国は国際連盟の原加盟国となり,非常任理事国に選ばれ,国際的な地位向上に努めた。
check_icon6(1)[ 5 ]年3月1日に朝鮮では日本からの独立を求めるが起きた。[ 7 ]の背景として,[ 9 ]も挙げられる。(2)[ 6 ]条約の調印を拒否したのは,軍閥の段祺瑞(だんきずい)内閣である。

XII-29. 中国における日本とアメリカの対立

1919年に開かれたの結果,日本は旧ドイツ領を国際連盟のとして確保し,また半島の旧ドイツ権益の継承も認められた。日本は国際連盟の常任理事国となり,国際的地位を強めたが,欧米列強は東アジアでの日本の勢力伸長を警戒するようになった。1921~22年に開かれた会議では中国の主張が認められ,条約で中国の主権尊重と領土保全,中国進出の機会均等が確認され,日本がもっていた[ 4 ]半島の利権は中国に返還されることになった。この結果,1917年に日米間で結ばれた石井=ランシング協定は失効し,日本の中国進出は二十一カ条要求以前の状態に後退し,アメリカが外交的勝利を収めた。

XII-30. 1920年代の中国-軍閥vs革命派-

1916年に袁世凱が死ぬと,彼が統轄していたが直隷派と安徽派に分裂して北京政府の実権をめぐって争った。これらの勢力をという。一方,1919年におきたにおける大衆のエネルギーに着目したは,1914年に東京で結成した秘密結社のを改組し,公然活動を行う大衆政党の(以後,国民党と表記)を上海で結成した。1921年には,(共産主義インターナショナル)の指導のもとを初代委員長として上海で(以後,共産党と表記)が結成された。[ 9 ]と反共の立場をとる[ 6 ]とは,本来対立関係にあるが,[ 2 ]と帝国主義の打倒という点において提携することは可能であった。1920年代の中国の政治は,[ 2 ]・[ 6 ]・[ 9 ]を軸に展開していくが,ここに中国東北地方()での権益を守ろうとする日本がからむことになる。

XII-31. 1920年代の中国-国共合作-

1919・20年の二度,ソヴィエト=ロシアは外務人民委員代理カラハンの名で,帝政ロシアが中国と結んだ不平等条約を撤廃することを宣言し,中国各界に大きな反響を呼び起こした。1923年,国民党指導者のは,ソ連外交官のヨッフェと会談して情勢を分析した結果,北方のに対抗するためには共産党との提携が必要であると感じた。そこで,[ 1 ]はソ連の援助と顧問を受け入れ,年の国民党第1回全国代表大会(一全大会)において,「」の方針を掲げ,共産党員が個人の資格で入党することを認めた。これを第1次という。1925年,[ 1 ]が病死すると,士官養成が目的で設立された黄埔(こうほ)軍官学校の校長であったが力を伸ばしていった。

XII-32. 1920年代の中国-北伐開始と国民党内の対立-

1925年,労働争議をきっかけに上海で大規模な反帝国主義運動が起きた()。同年,国民党はを樹立した。1926年に率いるは,北方の政府を打倒して,中国統一をめざすを開始した。しかし[ 6 ]が進行するなか,国民党の左派と右派の主導権争いも激化し,らの左派は共産党と連合して武漢(国民)政府を樹立し,右派の[ 3 ]と対立した。左派および共産党の勢力拡大を警戒したなどの民族資本と列強の支持を得て,[ 3 ]は1927年に共産党を弾圧するを起こし,を建てた。ここに第1次国共合作は解消された。この状況下,武漢(国民)政府内部でも国民党左派が共産党を弾圧し,国民党左派も[ 10 ]に合流した。
check_icon6[ 7 ]は日中戦争中の1940年に南京に親日政権を建てた。

XII-33. 1920年代の中国-北伐の完成-

1928年,国民党内の対立と抗争によって一時中断されていたが再開された。当時,北京政府を掌握していたのは,日本が支援していた軍閥のであった。日本は,中国統一によって強力な政府が成立することを警戒し,1927~29年にかけて3回にわたって[ 1 ]軍の北上を阻止するためにを行った。そのうち1928年に日本軍は済南で[ 1 ]軍と武力衝突を起こしたが,[ 1 ]軍の主力は済南を迂回して北上し,[ 3 ]を破った。敗れた[ 3 ]が[ 2 ]に撤退する途中,中国東北地方()進出をねらっていた日本のは,英米に接近し始めていた[ 3 ]が乗っていた列車を[ 2 ]郊外で爆破した。この事件をというが,[ 3 ]の息子のはしょう(漢字:くさかんむりに將)介石のに従い,ここに[ 9 ]による中国統一は一応完成した。
check_icon6[ 6 ]は,本来,関東州(遼東半島南部の旅順・大連)と南満州鉄道を守備するものであったが,中国東北地方([ 5 ])の支配をねらい,1931年に[ 5 ]事変を起こした。

XII-34. 1930年代前半の中国-日本の中国進出-

日本は第一次世界大戦中の戦時景気で好況を続けたが,大戦後に欧米諸国が貿易力を回復させると貿易が不調となった。その後,1923年の関東大震災,27年の金融恐慌につづき,29年から始まるが追い打ちをかけた。農産物価格の下落と失業者の増大によって社会不安が深刻化するなか,軍部や右翼が勢力を伸ばした。この情勢下,日本のは,中国東北地方()の支配をねらって謀略を進めた。1931年,で鉄道を爆破し,これを中国側のしわざとして[ 3 ]を占領した([ 3 ]事変)。日本政府は軍部の独走を追認し,1932年に清朝最後の皇帝()であったを執政(34年から皇帝)として[ 3 ]国を建てた。中国の提訴によってが国際連盟から派遣されたが,日本軍は華北へも軍事行動を拡大してを起こした。[ 7 ]による報告書では,[ 3 ]における日本の特殊権益は認められたが,[ 3 ]国は承認されなかった。国際連盟総会も[ 7 ]の報告書を支持したので,年,日本は国際連盟を脱退した。
check_icon6(1)日本では,1932年に事件,1936年に事件という軍部によるクーデタが起き,軍部による政治の支配が強まった。(2)[ 9 ]年,ドイツは軍備平等権を主張して国際連盟を脱退した。

XII-35. 1930年代前半の中国-国共内戦-

を都とする国民政府は,国内の政治的安定を優先し,1931年の関東軍によるなどの日本の軍事行動に対して即時抵抗することよりも,共産党軍()との戦いに力を入れた。共産党は,1931年に江西省のを拠点にを主席とするを樹立した。しかし,国民政府軍の攻勢にあい,共産党は[ 4 ]を離れ,(1934~36)を始め,36年に陝西省のに根拠地を定めた。この過程で[ 5 ]は指導権を確立し,また35年に共産党は内戦停止と結成を呼びかけるを出した。
check_icon6[ 10 ]が出される1カ月前からモスクワでが開かれ,ファシズムに対する戦術がうちだされており,[ 10 ]はこの方針に沿ったものである。

XII-36. 1930年代後半の中国-第2次国共合作-

1935年,国民政府は世界恐慌の影響による経済混乱をおさめるため,イギリスの支援のもと,通貨としての銀の使用を禁止した上で,全国統一の通貨制度を打ち立てた()。一方,から共産党攻撃を命じられていたは,ひそかに共産党と連絡を取り,に来た[ 2 ]を捕らえ,共産党への攻撃停止と抗日を要求した([ 4 ]事件)。[ 2 ]はこれを受け入れ,国民党と共産党は再び接近した。1937年7月の事件をきっかけに日中戦争が始まると,9月にが成立した。

XII-37. 日中戦争(1)

年7月7日に北平(北京)郊外の付近で日中両軍が衝突し([ 2 ]事件),これをきっかけに宣戦布告のないまま日中戦争が勃発した。9月には第2次国共合作が成立したが,12月に日本軍は国民政府の首都を占領した。真相は明らかになっていないが,この際日本軍は捕虜などを殺したとされる([ 3 ]事件)。率いる国民政府は,まず武漢に逃れ,その後に移転した。日本は,主要都市と鉄道を占領し,占領地に親日政権を作り,1940年には国民政府の要人であるを首班とする政府を[ 3 ]に建て,それらを統合した。しかし,広大な農村地帯は支配しきれなかった。
check_icon6(1)北平(北京)郊外に日本軍が駐屯していたのは,1901年に結ばれた義和団事件の講和であるの北京駐兵権による。(2)当時の日本では,「日中戦争」という語は用いず,「支那(しな)事変」と呼んでいた。中国側も「戦争」の語は用いず,「事変」という語を用いていた。この背景には,1935年に制定されたアメリカの国内法である中立法が交戦国への武器や軍需物資の輸出を禁じていたことがある。

XII-38. 日中戦争(2)

四川省のに移転した率いる国民政府は,ベトナムやビルマを通じて,米・英・ソ連などから援助を受け(援しょう[漢字:くさかんむりに將]ルート),日本が米・英・ソ連と開戦することを期待した。1940年,第二次世界大戦でフランスがドイツに降伏して政府が成立すると,日本は援しょう(漢字:くさかんむりに將)ルートの遮断をねらい,[ 3 ]政府と協定を結び,40年に北部へ,41年に[ 4 ]南部に進駐した。この結果,日本はを植民地とするアメリカとの対立をいっそう深めるようになった。