13.18世紀以降の西アジア世界

「13.18世紀以降の西アジア世界」の一問一答問題です。

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オスマン帝国の衰退と西アジアの変容(24)

XIII-1. オスマン帝国の後退(1)

17世紀までヨーロッパを圧倒してきたオスマン帝国は,1683年の第2次に失敗し,この事件以降,領土が縮小していった。1699年に結ばれたでオスマン帝国は,やトランシルヴァニアなどをに割譲した。一方,17世紀の西ヨーロッパでは,ニュートンやボイルが登場して近代自然科学が発展する「」や,茶・コーヒーや砂糖,綿製品などの新奇な商品が流行して生活文化を大きく変えることとなった「」も進行し,西ヨーロッパの社会を活性化していった。さらに18世紀に資本主義が発達すると,アジアとヨーロッパとの力関係は逆転した。17世紀までは,[ 1 ]に見られるように,アジアがヨーロッパを圧倒していたが,それ以降はヨーロッパ優位の時代へと転換した。
check_icon6第1次[ 1 ]は,1529年にが行ったが,失敗に終わった。

XIII-2. オスマン帝国の後退(2)

オスマン帝国は,1696年にロシアのに黒海東北部分にある海を奪われ,さらに1783年にロシアのにクリム=ハン国を併合され,半島を失った。また,1798年にナポレオン指揮下のフランス軍がエジプトを占領したが,この混乱に乗じてがエジプト総督となり,1805年にオスマン帝国もこの地位を追認し,エジプトに[ 5 ]朝が成立した。
check_icon6[ 4 ]半島は,ソ連時代にロシアからウクライナに割譲されたが,2014年にロシアの大統領は強引にロシア領に編入した。

XIII-3. オスマン帝国の改革(1)

オスマン帝国では18世紀以降,といわれる地方の有力者が徴税請負などを通じて自立化して分権化が進んだ。さらに,バルカン半島のセルビアやギリシアやエジプトがオスマン帝国からの自立をめざした。こうした状況下,オスマン帝国でも改革の必要性が認識されるようになった。セリム3世(位1789~1807)は「新秩序(ニザーム=ジェデッィト)」とよばれる新軍隊を創設したが,それまでの常備軍団であった軍団や保守派官僚の反対に遭って退位し,のちに殺された。マフムト2世(位1808~39)は改革に反対していた[ 2 ]軍団を廃止し,西欧式常備軍の創設,行政制度の改革などを行った。
check_icon61517年に朝を滅ぼしたのは,セリム1世。スレイマン1世の子で,フランスの商人に居住・通商の自由や治外法権などを認める通商特権()を与えたのはセリム2世。また,1453年にコンスタンティノープルを陥落させ,ビザンツ帝国を滅亡させたのは,。似ているので,整理しておこう!!

XIII-4. オスマン帝国の改革(2)

1839年,は勅令を発布し,司法・行政・財政・軍事にわたる本格的な西欧化政策である(恩恵改革)を開始した。この改革によって,宗教の別を問わない法的平等が認められ,法治主義に基づく近代国家へと体制が改められた。しかし,日本の明治維新のような経済改革は行われず,ヨーロッパ工業製品の流入が進み,伝統的な手工業は崩壊し,外国資本に従属するようになった。1853~56年の戦争後に立憲政の要求が高まると,1876年に宰相=パシャが起草した,アジアで最初の憲法である[ 5 ]憲法が発布された。しかし,1877年に戦争が勃発すると,これを口実にスルタンのは議会を閉鎖し,1878年には憲法も停止して専制政治を復活させた。
check_icon6[ 1 ]と[ 3 ],[ 7 ]と[ 5 ]憲法の組合せの覚え方。アブデュルは同じで,時代順に1世,2世。「タンジマート」には「メジト」の2文字が含まれる。「ミドハト」には「ハミト」の3文字が含まれる。

XIII-5. 青年トルコ革命

ロシア=トルコ(露土)戦争を口実に憲法を停止したは,が唱えた,イスラーム教徒の団結を求めるを利用して体制の維持を図った。これに対し,宗教・民族に関わりなく帝国内の人々は平等であるとするオスマン主義の立場をとる知識人は,自らを「」と称し,1889年に「」を結成してスルタンの専制政治を批判した。日露戦争で立憲政の日本が専制政治のロシアに勝利し,またイランで立憲革命が起きると,[ 6 ]は青年将校と結んで年に政権を握った()。[ 2 ]は[ 1 ]憲法を復活させたが,翌年起こった反革命クーデタに関与した疑いで[ 6 ]によって廃位された。しかし,新政権がトルコ民族主義を掲げて帝国内のトルコ人の団結を求めたため,帝国内の非トルコ系民族の反発を招いた。
check_icon6(1)[ 4 ]は,1881年に英仏によるエジプト支配に抵抗したエジプトのや,イランのなどに影響を与えた。(2)[ 8 ]の混乱に乗じて,がオスマン帝国から独立し,オーストリアはを併合した(参照:VI-35)。

XIII-6. 第一次世界大戦時におけるオスマン帝国

1911年,ドイツが港に軍艦を派遣して,第2次事件が発生した。独仏関係が悪化したすきに乗じて,同年,イタリアはオスマン帝国に宣戦し,・キレナイカを獲得し(イタリア=トルコ戦争),古名のと改名して植民地とした。さらにイタリア=トルコ戦争に乗じて,ロシアの後押しでセルビア・モンテネグロ・・ギリシア4カ国が結成していた同盟がオスマン帝国を攻撃して[ 6 ]半島のオスマン帝国領土の大半を奪った(第1次[ 6 ]戦争)。しかし,領土配分をめぐり[ 6 ]同盟は分裂し,今度は[ 5 ]がオスマン帝国を含む諸国に攻撃されて大敗した(第2次[ 6 ]戦争)。この結果,[ 6 ]半島の領土を失ったオスマン帝国と,第2次[ 6 ]戦争で敗れた[ 5 ]はドイツ・オーストリアに接近して,第一次世界大戦では側に立ち参戦して敗北した。

XIII-7. オスマン帝国の解体

側に立って第一次世界大戦に参戦して敗北したオスマン帝国は,戦後に解体へと向かった。1919年にギリシア軍が小アジア西部のを占領した。1920年に締結されたでオスマン帝国は,ギリシアに[ 2 ]を奪われ,さらにアラブ地域を喪失した。その後,アラブ地域のうちシリア・レバノンはの,イラク・トランスヨルダン・パレスチナはの[ 5 ]とされた。また[ 3 ]は,トルコの関税自主権を制限し,治外法権を認める不平等条約であった。このため,トルコにとって屈辱的な[ 3 ]はトルコ革命を引き起こす要因となり,革命で成立したトルコ新政権は1923年に連合国とを結び直すこととなった。
check_icon6(1)アラブ地域については,大戦中の1916年に結ばれた英仏露の秘密協定であるで勢力範囲が話し合われており,戦後の国境の画定にも影響を与えている(参照:VI-42)。(2)[ 3 ]で認められた治外法権は,16世紀後半のスルタンであるセリム2世が与えたに基づくものである。(3)[ 3 ]では,現在のトルコ・イラク・イランなどが接する地域に住んでいる人の自治が認められたが,[ 7 ]では撤回された。

XIII-8. トルコ革命

1919年にギリシア軍が小アジア西部のを占領すると,軍人のはでを組織した上で,ギリシア軍を撃退して[ 1 ]を回復した。[ 2 ]が22年にを廃止した結果,オスマン帝国は滅亡した。[ 2 ]は23年,オスマン帝国が20年に結んだに代わり,を結んで,新しい国境を定め,治外法権の廃止,関税自主権の回復にも成功した。[ 2 ]は,[ 3 ]を首都とするを正式に樹立し,初代大統領となった。[ 2 ]は,24年にを廃止して,国家を世俗化し(),太陽暦の採用,女性のベール着用を禁止して女性参政権を実施し,アラビア文字にかわってを採用する文字改革を行った。[ 2 ]は西欧をモデルとした近代国家建設に努め,この世俗主義の路線は以降のトルコ共和国でも維持されてきたが,最近のトルコでは徐々にイスラームが影響を増しつつある。
check_icon61934年に[ 4 ]は,[ 2 ]に「父なるトルコ人」を意味するの称号を与えた。

XIII-9. カージャール朝の成立

18世紀前半に朝が滅亡したのちのイランでは,アフガン人やトルコ系騎馬遊牧民が抗争する混乱が続いたが,1796年にを首都とする朝がおこった。[ 3 ]朝は,黒海とカスピ海にはさまれたをめぐる戦いでロシアに敗れ,1828年の条約で,ロシアに治外法権を認め,関税自主権を失うとともに,東部を割譲した。その後,[ 3 ]朝は北西部における失地を回復するためにロシアの支援を受けてアフガニスタンへの侵攻を繰り返した。しかし,ロシアの南下を恐れるイギリスの参戦を招き,イギリスがアフガニスタンを保護国化し,イランへも干渉するようになった。こうして,[ 3 ]朝イランはイギリスとロシアの勢力争いの場となった。
check_icon61796年に中国では,白蓮教徒の乱が勃発した。ゴロで,カージャール朝にかけて「火事や盗難苦労,白蓮教徒の乱」と覚えよう!!

XIII-10. 19世紀イランにおける民族運動

19世紀半ばの朝下のイランでは,列強の干渉や政治混乱を背景に,イスラーム教シーア派から生まれた,独自の教義をもつ新宗教である教が誕生し,農民や中小商人の間に広まった。1848年,社会改革を唱える[ 2 ]教徒は武装蜂起したが,まもなく政府軍によって鎮圧された。19世紀半ば以降,[ 1 ]朝は近代化のための改革を試みたが失敗に終わり,70年代に財政が破綻した。その結果,様々な利権をイギリスとロシアに譲渡した。1890年にタバコ販売の利権がイギリスの会社に与えられると,商人による反対運動が起きた。これを受けて,パン=イスラーム主義を唱えたがウラマーの指導者に抗議運動をうながした結果,1891~92年にが展開された。92年に国王は利権の供与を取り消したが,多額の違約金支払いをイギリスなどからの借款に頼ったため,イギリスへの従属が深まる結果に終わった。
check_icon6(1)ウラマーとは,イスラームの学者や宗教的指導者層を指す。(2)[ 1 ]教徒の乱が起きた1848年にヨーロッパでは,フランスで,ドイツでが勃発した。

XIII-11. イラン立憲革命

1891~92年におきた以降,イラン人としての民族意識が高まり,ウラマーと民衆が提携して専制に抵抗するようになった。年に日露戦争が勃発すると,ロシアからの輸入量が激減して物価が高騰した。商人を罰することで政府がこれを乗り切ろうとしたことが逆に反感を買い,専制を批判する立憲運動がおこった。この運動には,日露戦争も影響した。それまでイランに圧力をかけ続けた専制国家のロシアが立憲政の日本に敗れたため,立憲運動は力強く展開された。1906年に国民議会が開かれ,07年にフランス人権宣言などの影響を受けた憲法が制定されたが,その後,改革を求める立憲派と保守派が対立した。同07年,イギリスとロシアは,イラン北部をロシアの勢力範囲,南東部をイギリスの勢力範囲とするを結び,イラン立憲革命を牽制した。1911年,ロシア軍が直接介入し,議会が解散され,イラン立憲革命は挫折した。

XIII-12. パフレヴィー朝

第一次世界大戦において朝下のイランは中立の立場をとったが,英露両軍が進駐していたため,オスマン帝国の侵攻を受けて,王朝の権威は失墜した。年にロシア革命がおきると,列強によるが起こされ,イギリスが前線基地としてイランを利用すると,イランは無政府状態に陥った。この状況下,軍人のが1921年にクーデタを起こして実権を握った。[ 4 ]は,25年に皇帝()を名乗り,朝を樹立し,35年に国号をそれまでのからイランに改称した。

XIII-13. アフガニスタン

1747年にドゥッラーニー朝ができ,アフガニスタンはイランから自立した。19世紀になると,アフガニスタンはロシアとの勢力争いの場となり,アフガニスタンと[ 1 ]との3次にわたるが起きた。19世紀前半に起きた第1次[ 2 ]で[ 1 ]は敗れたが,19世紀後半に起きた第2次[ 2 ]で[ 1 ]はアフガニスタンを保護国とした。しかし,第一次世界大戦後の年に起きた第3次[ 2 ]でアフガニスタンがインドに侵攻して[ 1 ]を苦しめた結果,[ 1 ]はアフガニスタンの独立を認めた。

XIII-14. アラブ民族運動

18世紀,オスマン帝国の影響下にあったアラビア半島でがイスラーム改革運動を始めた。[ 1 ]を支持するアラブ人たちはと呼ばれたが,[ 1 ]はイラン人やトルコ人がもたらした神秘主義()や聖者崇拝を徹底的に批判し,預言者の教えに帰れと説いた。[ 2 ]は現代まで続くイスラーム改革運動の始まりであるとともに,オスマン帝国の支配と列強の進出に対するアラブ人の民族運動でもあった。[ 2 ]はアラビア半島中部の豪族と結び,を建設し,のちにリヤドを首都と定めた。[ 6 ]は,1818年にエジプトを支配していたに滅ぼされたが,まもなく復活して19世紀末まで続いた。その後,20世紀初頭に勢力を回復して,今日のにいたっている。

XIII-15. 第一次世界大戦におけるアラブ地域

第一次世界大戦においてイギリスは,オスマン帝国からの独立を求めるアラブ人が反旗を翻すように接触し,1915年にメッカの太守に対して,オスマン帝国への反乱を条件にアラブ国家の独立を認めた([ 1 ]・協定)。1916年,[ 1 ]はアラビア半島西岸にヒジャーズ王国を建てた。しかし,戦後[ 1 ]・[ 2 ]協定は無視されて,アラブ地域は英仏のとして分割された。フランスは・レバノンを統治し,イギリスはアラブ人を懐柔するために[ 1 ]の2人の子をとトランスヨルダンで王位につけ,また運動におされパレスチナをヨルダンから分離してユダヤ人の入植を認めた。これら委任統治下で形成された国は,パレスチナを除いて,1930年代から40年代に独立した。
check_icon6(1)[ 1 ]は,預言者の家系に当たるハーシム家出身である。(2)イギリスはアラブ人と[ 1 ]・[ 2 ]協定を結ぶ一方,1916年に英仏露でを締結し,さらにユダヤ人に対しを出した。(3)レバノンはキリスト教徒が4割ほどを占めている地域であり,フランスにとって統治しやすい地域であったためシリアから分離された。

XIII-16. 第一次世界大戦後のアラビア半島

預言者の家系に当たるハーシム家出身のはメッカの知事をしていたが,第一次世界大戦中の1915年にイギリスから独立の承認を得て([ 2 ]・マクマホン協定),オスマン帝国に反乱を起こした。[ 2 ]は16年にアラビア半島西岸にヒジャーズ王国を建てたが,25年にワッハーブ派のに敗れて王国は滅んだ。1932年,[ 3 ]は国号を王国とした。
check_icon6[ 4 ]とは,「サウード家のアラビア」の意味。[ 4 ]王国では,現在でもワッハーブ派が国教である。

XIII-17. シオニズム運動

イェルサレムにある丘の名「シオン」に由来するとは,パレスチナにユダヤ人国家を樹立しようとする運動である。1890年代に反ユダヤ主義を背景にフランスで起きたに衝撃を受けたジャーナリストのヘルツルが,1897年にスイスのバーゼルで第1回シオニスト大会を開き,[ 1 ]が拡大していった。第一次世界大戦中の1917年,イギリス外相がユダヤ系金融資本のロスチャイルド家にあてた書簡の中で,イギリスはこの運動を指示した([ 3 ]宣言)。
check_icon6イギリスは[ 3 ]宣言を出した一方,アラブ人に対してでアラブ国家の独立を約していたため,アラブ人(パレスチナ人)とユダヤ人の対立をあおることとなった。

XIII-18. ムハンマド=アリー朝の成立

1517年にオスマン帝国のが朝を滅ぼしたのちエジプトはオスマン帝国の属州となったが,17世紀になると徴税請負権を握った軍人奴隷である[ 2 ]が,社会の特権階級として政治の実権を握った。19世紀にエジプトをめぐる状況が変わった。1798年にナポレオンがエジプトに侵攻したが,オスマン帝国はイギリス軍と結んでフランス軍を撃退した。この混乱に乗じて,傭兵隊を率いていたアルバニア人のが民衆の支持を得て1805年に実権を握り,オスマン帝国もこれを認め総督に任命した結果,[ 3 ]朝が成立した。[ 3 ]は計略を用いて[ 2 ]を虐殺し,徴兵制を導入して西欧式の軍隊を組織した。[ 3 ]は検地を実施して徴税請負制を廃止して農地への直接課税を行い,近代的工場を建設する一方,綿花などの商品作物の作付けを強制して国家独占の下で輸出するなど,富国強兵・殖産興業政策を推進した。
check_icon6ナポレオンのエジプト遠征の際に,が発見された。

XIII-19. ムハンマド=アリーの対外政策

ムハンマド=アリーは,オスマン帝国の命を受けてアラビア半島のメッカをおさえていた王国を1818年に滅ぼした。さらに,南のを征服したほか,オスマン帝国の要請を受けてギリシア独立戦争を鎮圧するためにオスマン軍とともに出兵した。ギリシア独立戦争後,ムハンマド=アリーはクレタ島・キプロス島を得たが,さらにの領有権を主張して2度にわたるが勃発した。
check_icon6ギリシア独立戦争の際に,オスマン軍がエーゲ海のキオス島のギリシア人住民の多数を虐殺した事件を題材に主義絵画のが『キオス島の虐殺(シオの虐殺)』を描いて,ギリシア独立支援への世論をかきたてた。

XIII-20. 第1次エジプト=トルコ戦争

に際し,オスマン帝国はエジプトに出兵を求め,その見返りにエジプトにシリア領有を約束した。しかし,それが実行されなかったため,エジプトのが1831年にシリアに出兵して第1次が勃発した。オスマン帝国がロシアに支援を要請すると,ロシアの南下を警戒する英仏がこれに干渉し,[ 2 ]のシリア領有が認められた。
check_icon6(1)エジプト=トルコ戦争でオスマン帝国が苦境に立ったのは,当時のスルタン・マフムト2世が歩兵常備軍であるを廃止した結果,軍事力が低下していたこともあげられる。(2)第1次[ 3 ]後,オスマン帝国はロシアの支援を得るためにウンキャル=スケレッシ条約を結び,秘密協定でロシアに・ダーダネルス両海峡のロシ軍艦の独占通航権を認めた。この条約は40年ので否定された。

XIII-21. 第2次エジプト=トルコ戦争

1839年,エジプトとオスマン帝国の戦端が再び開かれた(第2次エジプト=トルコ戦争)。フランスの支援を受けたエジプト軍が優勢であったが,オスマン帝国の解体を防ぐためイギリス・ロシア・プロイセン・オーストリアが干渉した。40年にフランスも加えてが開かれ,英露普墺4国が結んだロンドン4国条約でのエジプトとスーダンの支配権は認められたが,[ 2 ]のシリア領有は阻止された。
check_icon6(1)第2次エジプト=トルコ戦争勃発前にスルタン・マフムト2世がイギリスの支持を取り付けるために結んだ関税自主権を喪失する不平等条約は,オスマン帝国を植民地化へと向かわせる端緒となった。(2)第2次エジプト=トルコ戦争勃発後,マフムト2世が急病死すると,長男のアブデュル=メジト1世が即位し,英仏の歓心を買って支持を得るために,1839年にを発布して(恩恵改革)を開始した。

XIII-22. 英仏によるエジプトの植民地化

第2次エジプト=トルコ戦争の収拾のために開かれたでムハンマド=アリーはエジプト・スーダンの支配権を得たが,一方では関税自主権を失い,列強の治外法権を認める不平等条約を結ばされて西欧列強への経済的従属が強まった。年にフランス人によって開削された建設資本の約半分をエジプトが引き受けたため,エジプトの国家財政は圧迫された。しかし,1861年に勃発したアメリカのによってアメリカ綿花にかわりエジプト綿花の需要が高まっていた時期は国家財政の破綻を免れていたが,[ 5 ]が終わってアメリカ綿花が輸出されるようになると綿花価格が下落してエジプト国家財政は破綻した。この結果,エジプトは年にエジプト所有の[ 4 ]株をイギリスに売却した。しかし,76年にエジプトの国家財政はイギリスとフランスの管理下に置かれるようになった。
check_icon6[ 2 ]年にアメリカでは,大陸横断鉄道が開通した。

XIII-23. ウラービーの乱(ウラービー運動)

1876年から国家財政がイギリス・フランスの管理下に置かれたエジプトでは,列強による内政干渉に反対する民衆の間に立憲政の確立と外国人支配からの解放を求める運動が広まった。この運動に呼応して,「エジプト人のためのエジプト」をスローガンに掲げた軍人のが1881年に武装蜂起し,翌年[ 1 ]を首班とする内閣が成立した。これに対し,イギリス軍が単独出兵してこの革命運動を鎮圧し,1882年にエジプトを事実上保護国とした。
check_icon6(1)スエズ運河会社の過半数の株をもち,エジプトに大きな利害をもっていたフランスは,1881年に行った出兵で,イタリアと対立する状況であった。(2)イギリスが正式にエジプトを保護国としたのは,1914年に第一次世界大戦が勃発してからであった。

XIII-24. 第一次世界大戦後のエジプト

年に第一次世界大戦が勃発したのち,正式にイギリスの保護国とされたエジプトでは,終戦後ににエジプト代表団を送ろうとする運動が起こり,民族主義政党が結成され,独立運動が展開された。イギリスは1922年にムハンマド=アリー朝のの独立を認め,36年のイギリス=エジプト条約で[ 4 ]は主権をほぼ回復した。しかし,イギリスはスエズ運河の管理権を握り,影響力を保持していた。
check_icon6[ 3 ]のワフドとは,[ 2 ]への「代表」を意味する。[ 3 ]は,1924年に政権につき,それ以降も主導権を握っていたが,52年のエジプト革命後,非合法化されて解散させられた。

第二次大戦後の西アジア(16)

XIII-25. 第1次中東戦争

1945年,第二次世界大戦終了直前に,アラブの独立国7カ国がアラブの連帯を強めるため,を結成した。一方,イギリスの下にあったパレスチナでは,年にナチス政権が成立したあとユダヤ人移民の流入が激増した。ユダヤ人とアラブ人の対立が激化するなか,統治能力を失ったイギリスは問題解決を国際連合にゆだねた。1947年,国連はパレスチナをユダヤ国家とアラブ国家に分割し,イェルサレムを国際管理下に置くとするを決議し,これを受けてイギリスは紛争解決を図ることなく一方的に撤退した。[ 4 ]は人口の多数を占めるアラブ人には不利な内容であったのでアラブ人はこの決議案を拒否したが,48年にユダヤ国家としての建国が一方的に宣言され,近隣のアラブ諸国との間で(1948~49)が起こった。この戦争で[ 5 ]は[ 4 ]以上の領土を獲得し,占領地域から追放された100万人以上のアラブ人が難民となった()。
check_icon6[ 4 ]および[ 5 ]建国については,アメリカのみならずソ連も支持した。ソ連は,第3次中東戦争以降はアラブ側を支援したが,当初はソ連国内のユダヤ人問題もあり,ユダヤ人寄りの態度をとっていた。

XIII-26. 第2次中東戦争

(1948~49)に敗北したエジプトでは,親英路線をとる朝の王政の腐敗に対する不満が高まっていた。1952年,軍部内の改革派が組織したが革命を起こし(エジプト革命),53年に国王を追放して共和国を樹立した。その後,[ 3 ]の名目的団長であったナギブを失脚させてが政権を握った。[ 4 ]は経済開発のためにの建設をめざしたが,[ 4 ]がソ連に接近する姿勢がアメリカ・イギリスの反発を買い,両国はエジプトへの経済援助を停止した。[ 4 ]は[ 5 ]の建設資金を確保するためにの国有化を宣言した。これに対し,年,イギリス・・イスラエル3国がエジプトに侵攻し,が勃発した。この軍事行動は,アメリカ・ソ連を含む国際世論の批判を招き,3国は撤退した。これ以降,[ 4 ]はアラブ民族主義の英雄となり,アラブ世界の指導的地位に立った。
check_icon6(1)エジプト革命では,土地改革などの社会改革が行われた。(2)[ 9 ]が起きた[ 7 ]年の同時期,における反ソ暴動に対し,ソ連軍が軍事介入した[ 10 ]事件が起きていた。

XIII-27. 中東諸国の分裂

朝イランでは,1951年,民族運動の高まりのなか首相が石油国有化法を施行して,イギリス系のアングロ=イラニアン石油会社の資産を接収した。しかし,53年,国際石油資本に支援された国王はクーデタによって[ 2 ]を追放してアメリカとの関係を強化した。一方,アラブ諸国では,56年に起きた後にアラブ民族主義が高揚した。58年,エジプトとシリアが連合してアラブ連合共和国が成立したが,エジプト主導にシリアが反発して離脱し,61年に解消した。同年,イラクでも革命が勃発して王政が廃止されてイラク共和国となり,新政府は社会主義政策を進めた。こうして中東諸国は,イランやサウジアラビアの親米派と,エジプト・シリア・イラクの親ソ派とに分かれて対立する一方,アメリカが多額の経済・軍事援助を行っていたイスラエルとの緊張関係も続いていた。
check_icon61958年のイラク革命の結果,イラクが中東の集団安全保障機構である(中東条約機構,METO)から脱退したため,59年に(CENTO)と改称された。

XIII-28. 第3次中東戦争

1964年,パレスチナ難民は(PLO)を組織し,イスラエルに対する武装闘争を進めた。アラブ民族主義の高揚や[ 1 ](PLO)の結成を背景に,年,イスラエルがエジプトやシリアなどを先制攻撃し,第3次中東戦争が始まった。この戦争は6日間で停戦となったので六日戦争と呼ばれるが,イスラエルはエジプトから半島・を,シリアからを,ヨルダンからを奪った。この結果,エジプトの大統領の権威が失墜し,アラブ民族主義運動は退潮した。
check_icon6[ 1 ](PLO)では,1969年にが議長に就任し,2004年までイスラエルとの闘争を指導した。

XIII-29. 第4次中東戦争

1970年にエジプトの大統領が急死し,後を継いだ大統領は,第3次中東戦争の失地回復をねらって,年にシリアとともにイスラエルを奇襲攻撃して,第4次中東戦争が始まった。イスラエルは苦戦を強いられたが,まもなく軍を立て直し,停戦に持ち込んだ。第4次中東戦争では,アラブ産油国が結成していた(OAPEC)が親イスラエル国への原油輸出停止や制限を行うを発動して,アラブ諸国の一体性を示した。イスラエルに占領された地域の奪回には成功しなかったが,第4次中東戦争は[ 5 ]の発動もあり,政治的にはアラブ側の勝利であった。
check_icon6(1)国際石油資本(メジャー)による原油価格引き下げに対抗して,サウジアラビアなどの産油国が1960年に(OPEC)を発足したが,68年にそのうちのアラブ産油国が別個に[ 4 ](OAPEC)を結成した。(2)[ 5 ]が発動されると,[ 6 ](OPEC)が原油価格を4倍に引き上げたため,第1次が起きた。

XIII-30. エジプトによるアメリカ・イスラエルへの接近

最終的な勝利を得ることは出来なかったが,第4次中東戦争でイスラエル軍に大打撃を与えたエジプトの大統領は国民的英雄となり,権力基盤を確立した。左派勢力を排除した[ 1 ]は,経済を立て直すためにアメリカに接近し,イスラエルとの関係改善を行うという外交政策の大転換を図った。1978年,アメリカの大統領の仲介により,[ 1 ]大統領はイスラエルの首相との間で,イスラエルとの国交正常化と,イスラエルがで占領したをエジプトに返還することを取り決めたキャンプ=デーヴィッド合意を交わした。年,アラブ諸国で初めてイスラエルを承認するが締結された。ほとんどのアラブ諸国と(PLO)は,これを裏切りとしてエジプトと国交を断絶した。1981年,[ 1 ]大統領はイスラーム原理主義者(イスラーム主義者)によって暗殺され,後継者の大統領のもと,82年に[ 5 ]はエジプトに返還された。
check_icon6(1)[ 7 ]が締結された[ 6 ]年,イラン革命が勃発して朝が崩壊し,またソ連軍がアフガニスタン侵攻を行った。(2)[ 9 ]大統領は,「アラブの春」と呼ばれたアラブ諸国における反政府運動の騒乱のさなか起きた2011年のエジプト革命で辞任に追い込まれた。(3)イスラエルによるパレスチナの軍事占領に対し,パレスチナ人の民衆が投石などによる抗議運動を行うが1987年から展開されている。

XIII-31. 中東和平への動き

1991年のでイラクの大統領は,戦争の図式を「キリスト教・ユダヤ教vsイスラーム」に転換させようと,[ 1 ]には関わっていなかったイスラエルをミサイルで攻撃した。アメリカの説得もあってイスラエルはこのときは動かなかったが,これはアメリカにパレスチナ問題の解決の必要性を認識させた。[ 1 ]を戦った共和党の大統領はソ連の大統領に呼びかけ,1991年にスペインのマドリードで中東和平会議が開催された。しかし,この会議では(PLO)が代表と認められなかったこともあり,具体的な成果はなく終わった。しかしその過程で,イスラエルと[ 5 ](PLO)がノルウェーで秘密交渉を行い,1993年に大統領の仲介のもとワシントンで[ 5 ](PLO)の議長とイスラエルの首相がに調印した。この協定はノルウェーでの秘密交渉がもとになっているのでオスロ合意ともいうが,[ 5 ](PLO)とイスラエルが相互承認し,とイェリコにおける[ 5 ](PLO)による5年間の暫定自治が取り決められた。
check_icon61994年にイスラエル=ヨルダン平和条約が結ばれ,ヨルダンが1979年のに続いた。

XIII-32. パレスチナ問題の現状

1993年に(オスロ合意)を締結したイスラエルの首相は,パレスチナとの和平に反対するユダヤ教徒の急進派により95年に暗殺された。その後,イスラエルでは,和平に反対する保守強硬派が台頭した。一方,パレスチナ側においてもイスラーム原理主義の立場をとるハマス(ハマース)が勢力を拡大し,またレバノンで台頭したシーア派民兵組織のヒズボラがイスラエルとの武装闘争を続けて和平に反対している。さらに,イスラエルには現在もヨルダン川西岸におけるユダヤ人入植地の問題があり,ユダヤ教徒の強硬派が入植地の撤去を拒んでおり,和平の行方に暗い影を投げかけている。

XIII-33. イラン革命

イランでは,石油国有化を進めてソ連に接近した首相をクーデタで倒した国王が,アメリカとの結びつきを強め,1963年から農地改革・労働者への利潤配分・女性参政権・識字率向上などをめざすと称する近代化を進めた。しかし,国王の強権的な改革は宗教勢力の反発を呼び,また社会経済のひずみを生んだため,国王専制に反対する運動が広がった。年に[ 2 ]が亡命し,宗教指導者を中心とするが成立した(イラン革命)。その後,[ 2 ]を支援してきたアメリカとイランの対立が険しくなり,イラン革命を契機としてが生じた。
check_icon6(1)西アジアでは[ 4 ]年に,ソ連がに軍事侵攻し,エジプト=イスラエル平和条約が結ばれた。(2)イラン革命の際,急進的な学生がテヘランのアメリカ大使館に乱入し,アメリカ人外交官や海兵隊員たちを人質とする事件が起きた。

XIII-34. 湾岸戦争

1980年,イラクの大統領はイラン革命に乗じてイランに侵攻し,が始まった。イラン革命が拡大することを恐れたアラブ諸国やアメリカがイラクを援助したこともあって,戦争は88年に停戦されるまで続いた。この戦争で巨額の負債を抱えたイラクは,90年に石油資源に富む隣国のに侵攻して武力併合した。これに対し,アメリカの大統領はイラク制裁の国連決議を実現し,翌91年にアメリカ軍を中心としたを組織してイラク軍を[ 3 ]から追い出した。これをという。
check_icon6(1)[ 2 ]中に独立の動きを示していた勢力に対し,[ 1 ]政権は化学兵器を使用して弾圧した。(2)[ 6 ]でイラク軍を攻撃した[ 5 ]にはエジプトやサウジアラビアなどのアラブ諸国の軍隊も含まれていた。このため,[ 1 ]大統領は「イスラエルvsアラブ諸国」の図式に転換させようとイスラエルを攻撃した(参照:XIII-31)。

XIII-35. イラクをめぐる混乱

2001年にによるが起きると,アメリカの大統領はを攻撃して[ 1 ]をかくまっていた政権を倒した。その後,アメリカとイギリスはイラクが大量破壊兵器を保持していると主張して,米英軍を中心とした有志連合軍でイラクを攻撃し(),イラクの政権を崩壊させた。しかし,大量破壊兵器は存在しなかったことが明らかとなり,[ 6 ]を行った米英への批判は高まった。さらに,11年にアメリカの大統領が米軍をイラクから撤兵させると,自称「」が勢力を伸ばし,混乱した状況が続いている。
check_icon6[ 3 ]大統領は,地球温暖化防止のために1997年に合意されたから離脱し,さらに国連における協調を無視して[ 6 ]を開始するなど国際協調主義に反する外交政策を展開した。この外交政策をというが,これを支えたグループを新保守主義(ネオ=コンサーヴァティズム)という。

XIII-36. 北アフリカ諸国の独立

1952年のエジプト革命,54年のによってフランスがインドシナ戦争において敗北したこと,55年の(バンドン会議)などの動きは,アフリカの独立闘争を活発化させた。1911年にイタリアの植民地とされたは,第二次大戦後の英仏による共同統治ののち,51年に独立した。1956年,イギリス・エジプト共同統治からが,フランス・スペインからが,さらにチュニジアがから独立した。フランスの植民地であったでは,54年に(FLN)が結成され,8年間におよぶ独立戦争を戦って,第五共和政の大統領のもと,1962年のエヴィアン協定で独立が認められた。
check_icon62011年,[ 4 ]から南スーダンが分離独立したが,南スーダンでは現在内戦が再燃しそうな状況にある。

XIII-37. サハラ以南のアフリカ諸国独立

1957年,を指導者に最初の黒人共和国としてがイギリスから独立した。58年,セク=トゥーレの指導のもとがフランスから独立した。年には一挙に17の独立国が生まれたので,この年を「」という。74年にポルトガルの軍事独裁体制が軍事クーデタで倒されると,75年に・モザンビークがポルトガルから独立した(参照:VIII-33)。ケープ植民地首相であったが建国したでは,北部が64年にザンビア・マラウイとして黒人政権のもと独立したが,南[ 8 ]には65年に白人政権が成立して本国イギリスからの独立を一方的に宣言した。その後,黒人勢力の武力闘争が展開され,80年に白人政権が倒されてとして独立した。
check_icon6[ 8 ]は「ローズの国」の意。

XIII-38. 独立後のアフリカ諸国の問題

アフリカの独立国の多くには,旧宗主国に従属した経済構造が残り,経済的自立が進まなかった。また,民族・部族対立や権力抗争による内戦が多発した。から1960年に独立したコンゴでは,銅資源をめぐる紛争に旧宗主国[ 1 ]が干渉し,国連軍も派遣された(コンゴ動乱)。60年にイギリスから独立したでは,イボ人がビアフラ共和国として独立を宣言したが,政府軍に制圧された([ 2 ]内戦,ビアフラ戦争)。アフリカ東岸のでは91年に内戦が勃発して無政府状態となり,国際連合による平和維持活動(PKO)も失敗し,現在も混沌とした状態が続いている。アフリカ中部のでは,少数派のツチ人が多数派のフツ人に大量虐殺される[ 4 ]内戦(1990~94)が起きた。

XIII-39. 南アフリカのアパルトヘイト政策

1910年にイギリスの自治領となったは,61年にイギリス連邦を脱退してが成立した。[ 2 ]は,第二次大戦後に導入された有色人種(特に黒人)を隔離する政策を継続して推進した。(ANC)による抵抗や,国際連合による経済制裁を受けた結果,白人の政権が91年に[ 3 ]関連諸法を全廃した。94年にすべての人種が参加する平等な選挙が実施され,[ 4 ](ANC)が過半数を制し,その指導者が大統領に当選した。

XIII-40. アフリカの連帯と統一

1963年にエチオピアのアジスアベバで開かれたアフリカ諸国首脳会議に30カ国が参加し,アフリカの連帯と統一をめざす(OAU)が創設された。2002年,[ 1 ](OAU)は(AU)に発展し,消滅した。
check_icon6[ 1 ](OAU)創設に尽力したエチオピア皇帝ハイレ=セラシュは1974年のエチオピア革命で廃位された。