第二次大戦後の西アジア

「第二次大戦後の西アジア」の一問一答問題です。

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XIII-25. 第1次中東戦争

1945年,第二次世界大戦終了直前に,アラブの独立国7カ国がアラブの連帯を強めるため,を結成した。一方,イギリスの下にあったパレスチナでは,年にナチス政権が成立したあとユダヤ人移民の流入が激増した。ユダヤ人とアラブ人の対立が激化するなか,統治能力を失ったイギリスは問題解決を国際連合にゆだねた。1947年,国連はパレスチナをユダヤ国家とアラブ国家に分割し,イェルサレムを国際管理下に置くとするを決議し,これを受けてイギリスは紛争解決を図ることなく一方的に撤退した。[ 4 ]は人口の多数を占めるアラブ人には不利な内容であったのでアラブ人はこの決議案を拒否したが,48年にユダヤ国家としての建国が一方的に宣言され,近隣のアラブ諸国との間で(1948~49)が起こった。この戦争で[ 5 ]は[ 4 ]以上の領土を獲得し,占領地域から追放された100万人以上のアラブ人が難民となった()。
check_icon6[ 4 ]および[ 5 ]建国については,アメリカのみならずソ連も支持した。ソ連は,第3次中東戦争以降はアラブ側を支援したが,当初はソ連国内のユダヤ人問題もあり,ユダヤ人寄りの態度をとっていた。

XIII-26. 第2次中東戦争

(1948~49)に敗北したエジプトでは,親英路線をとる朝の王政の腐敗に対する不満が高まっていた。1952年,軍部内の改革派が組織したが革命を起こし(エジプト革命),53年に国王を追放して共和国を樹立した。その後,[ 3 ]の名目的団長であったナギブを失脚させてが政権を握った。[ 4 ]は経済開発のためにの建設をめざしたが,[ 4 ]がソ連に接近する姿勢がアメリカ・イギリスの反発を買い,両国はエジプトへの経済援助を停止した。[ 4 ]は[ 5 ]の建設資金を確保するためにの国有化を宣言した。これに対し,年,イギリス・・イスラエル3国がエジプトに侵攻し,が勃発した。この軍事行動は,アメリカ・ソ連を含む国際世論の批判を招き,3国は撤退した。これ以降,[ 4 ]はアラブ民族主義の英雄となり,アラブ世界の指導的地位に立った。
check_icon6(1)エジプト革命では,土地改革などの社会改革が行われた。(2)[ 9 ]が起きた[ 7 ]年の同時期,における反ソ暴動に対し,ソ連軍が軍事介入した[ 10 ]事件が起きていた。

XIII-27. 中東諸国の分裂

朝イランでは,1951年,民族運動の高まりのなか首相が石油国有化法を施行して,イギリス系のアングロ=イラニアン石油会社の資産を接収した。しかし,53年,国際石油資本に支援された国王はクーデタによって[ 2 ]を追放してアメリカとの関係を強化した。一方,アラブ諸国では,56年に起きた後にアラブ民族主義が高揚した。58年,エジプトとシリアが連合してアラブ連合共和国が成立したが,エジプト主導にシリアが反発して離脱し,61年に解消した。同年,イラクでも革命が勃発して王政が廃止されてイラク共和国となり,新政府は社会主義政策を進めた。こうして中東諸国は,イランやサウジアラビアの親米派と,エジプト・シリア・イラクの親ソ派とに分かれて対立する一方,アメリカが多額の経済・軍事援助を行っていたイスラエルとの緊張関係も続いていた。
check_icon61958年のイラク革命の結果,イラクが中東の集団安全保障機構である(中東条約機構,METO)から脱退したため,59年に(CENTO)と改称された。

XIII-28. 第3次中東戦争

1964年,パレスチナ難民は(PLO)を組織し,イスラエルに対する武装闘争を進めた。アラブ民族主義の高揚や[ 1 ](PLO)の結成を背景に,年,イスラエルがエジプトやシリアなどを先制攻撃し,第3次中東戦争が始まった。この戦争は6日間で停戦となったので六日戦争と呼ばれるが,イスラエルはエジプトから半島・を,シリアからを,ヨルダンからを奪った。この結果,エジプトの大統領の権威が失墜し,アラブ民族主義運動は退潮した。
check_icon6[ 1 ](PLO)では,1969年にが議長に就任し,2004年までイスラエルとの闘争を指導した。

XIII-29. 第4次中東戦争

1970年にエジプトの大統領が急死し,後を継いだ大統領は,第3次中東戦争の失地回復をねらって,年にシリアとともにイスラエルを奇襲攻撃して,第4次中東戦争が始まった。イスラエルは苦戦を強いられたが,まもなく軍を立て直し,停戦に持ち込んだ。第4次中東戦争では,アラブ産油国が結成していた(OAPEC)が親イスラエル国への原油輸出停止や制限を行うを発動して,アラブ諸国の一体性を示した。イスラエルに占領された地域の奪回には成功しなかったが,第4次中東戦争は[ 5 ]の発動もあり,政治的にはアラブ側の勝利であった。
check_icon6(1)国際石油資本(メジャー)による原油価格引き下げに対抗して,サウジアラビアなどの産油国が1960年に(OPEC)を発足したが,68年にそのうちのアラブ産油国が別個に[ 4 ](OAPEC)を結成した。(2)[ 5 ]が発動されると,[ 6 ](OPEC)が原油価格を4倍に引き上げたため,第1次が起きた。

XIII-30. エジプトによるアメリカ・イスラエルへの接近

最終的な勝利を得ることは出来なかったが,第4次中東戦争でイスラエル軍に大打撃を与えたエジプトの大統領は国民的英雄となり,権力基盤を確立した。左派勢力を排除した[ 1 ]は,経済を立て直すためにアメリカに接近し,イスラエルとの関係改善を行うという外交政策の大転換を図った。1978年,アメリカの大統領の仲介により,[ 1 ]大統領はイスラエルの首相との間で,イスラエルとの国交正常化と,イスラエルがで占領したをエジプトに返還することを取り決めたキャンプ=デーヴィッド合意を交わした。年,アラブ諸国で初めてイスラエルを承認するが締結された。ほとんどのアラブ諸国と(PLO)は,これを裏切りとしてエジプトと国交を断絶した。1981年,[ 1 ]大統領はイスラーム原理主義者(イスラーム主義者)によって暗殺され,後継者の大統領のもと,82年に[ 5 ]はエジプトに返還された。
check_icon6(1)[ 7 ]が締結された[ 6 ]年,イラン革命が勃発して朝が崩壊し,またソ連軍がアフガニスタン侵攻を行った。(2)[ 9 ]大統領は,「アラブの春」と呼ばれたアラブ諸国における反政府運動の騒乱のさなか起きた2011年のエジプト革命で辞任に追い込まれた。(3)イスラエルによるパレスチナの軍事占領に対し,パレスチナ人の民衆が投石などによる抗議運動を行うが1987年から展開されている。

XIII-31. 中東和平への動き

1991年のでイラクの大統領は,戦争の図式を「キリスト教・ユダヤ教vsイスラーム」に転換させようと,[ 1 ]には関わっていなかったイスラエルをミサイルで攻撃した。アメリカの説得もあってイスラエルはこのときは動かなかったが,これはアメリカにパレスチナ問題の解決の必要性を認識させた。[ 1 ]を戦った共和党の大統領はソ連の大統領に呼びかけ,1991年にスペインのマドリードで中東和平会議が開催された。しかし,この会議では(PLO)が代表と認められなかったこともあり,具体的な成果はなく終わった。しかしその過程で,イスラエルと[ 5 ](PLO)がノルウェーで秘密交渉を行い,1993年に大統領の仲介のもとワシントンで[ 5 ](PLO)の議長とイスラエルの首相がに調印した。この協定はノルウェーでの秘密交渉がもとになっているのでオスロ合意ともいうが,[ 5 ](PLO)とイスラエルが相互承認し,とイェリコにおける[ 5 ](PLO)による5年間の暫定自治が取り決められた。
check_icon61994年にイスラエル=ヨルダン平和条約が結ばれ,ヨルダンが1979年のに続いた。

XIII-32. パレスチナ問題の現状

1993年に(オスロ合意)を締結したイスラエルの首相は,パレスチナとの和平に反対するユダヤ教徒の急進派により95年に暗殺された。その後,イスラエルでは,和平に反対する保守強硬派が台頭した。一方,パレスチナ側においてもイスラーム原理主義の立場をとるハマス(ハマース)が勢力を拡大し,またレバノンで台頭したシーア派民兵組織のヒズボラがイスラエルとの武装闘争を続けて和平に反対している。さらに,イスラエルには現在もヨルダン川西岸におけるユダヤ人入植地の問題があり,ユダヤ教徒の強硬派が入植地の撤去を拒んでおり,和平の行方に暗い影を投げかけている。

XIII-33. イラン革命

イランでは,石油国有化を進めてソ連に接近した首相をクーデタで倒した国王が,アメリカとの結びつきを強め,1963年から農地改革・労働者への利潤配分・女性参政権・識字率向上などをめざすと称する近代化を進めた。しかし,国王の強権的な改革は宗教勢力の反発を呼び,また社会経済のひずみを生んだため,国王専制に反対する運動が広がった。年に[ 2 ]が亡命し,宗教指導者を中心とするが成立した(イラン革命)。その後,[ 2 ]を支援してきたアメリカとイランの対立が険しくなり,イラン革命を契機としてが生じた。
check_icon6(1)西アジアでは[ 4 ]年に,ソ連がに軍事侵攻し,エジプト=イスラエル平和条約が結ばれた。(2)イラン革命の際,急進的な学生がテヘランのアメリカ大使館に乱入し,アメリカ人外交官や海兵隊員たちを人質とする事件が起きた。

XIII-34. 湾岸戦争

1980年,イラクの大統領はイラン革命に乗じてイランに侵攻し,が始まった。イラン革命が拡大することを恐れたアラブ諸国やアメリカがイラクを援助したこともあって,戦争は88年に停戦されるまで続いた。この戦争で巨額の負債を抱えたイラクは,90年に石油資源に富む隣国のに侵攻して武力併合した。これに対し,アメリカの大統領はイラク制裁の国連決議を実現し,翌91年にアメリカ軍を中心としたを組織してイラク軍を[ 3 ]から追い出した。これをという。
check_icon6(1)[ 2 ]中に独立の動きを示していた勢力に対し,[ 1 ]政権は化学兵器を使用して弾圧した。(2)[ 6 ]でイラク軍を攻撃した[ 5 ]にはエジプトやサウジアラビアなどのアラブ諸国の軍隊も含まれていた。このため,[ 1 ]大統領は「イスラエルvsアラブ諸国」の図式に転換させようとイスラエルを攻撃した(参照:XIII-31)。

XIII-35. イラクをめぐる混乱

2001年にによるが起きると,アメリカの大統領はを攻撃して[ 1 ]をかくまっていた政権を倒した。その後,アメリカとイギリスはイラクが大量破壊兵器を保持していると主張して,米英軍を中心とした有志連合軍でイラクを攻撃し(),イラクの政権を崩壊させた。しかし,大量破壊兵器は存在しなかったことが明らかとなり,[ 6 ]を行った米英への批判は高まった。さらに,11年にアメリカの大統領が米軍をイラクから撤兵させると,自称「」が勢力を伸ばし,混乱した状況が続いている。
check_icon6[ 3 ]大統領は,地球温暖化防止のために1997年に合意されたから離脱し,さらに国連における協調を無視して[ 6 ]を開始するなど国際協調主義に反する外交政策を展開した。この外交政策をというが,これを支えたグループを新保守主義(ネオ=コンサーヴァティズム)という。

XIII-36. 北アフリカ諸国の独立

1952年のエジプト革命,54年のによってフランスがインドシナ戦争において敗北したこと,55年の(バンドン会議)などの動きは,アフリカの独立闘争を活発化させた。1911年にイタリアの植民地とされたは,第二次大戦後の英仏による共同統治ののち,51年に独立した。1956年,イギリス・エジプト共同統治からが,フランス・スペインからが,さらにチュニジアがから独立した。フランスの植民地であったでは,54年に(FLN)が結成され,8年間におよぶ独立戦争を戦って,第五共和政の大統領のもと,1962年のエヴィアン協定で独立が認められた。
check_icon62011年,[ 4 ]から南スーダンが分離独立したが,南スーダンでは現在内戦が再燃しそうな状況にある。

XIII-37. サハラ以南のアフリカ諸国独立

1957年,を指導者に最初の黒人共和国としてがイギリスから独立した。58年,セク=トゥーレの指導のもとがフランスから独立した。年には一挙に17の独立国が生まれたので,この年を「」という。74年にポルトガルの軍事独裁体制が軍事クーデタで倒されると,75年に・モザンビークがポルトガルから独立した(参照:VIII-33)。ケープ植民地首相であったが建国したでは,北部が64年にザンビア・マラウイとして黒人政権のもと独立したが,南[ 8 ]には65年に白人政権が成立して本国イギリスからの独立を一方的に宣言した。その後,黒人勢力の武力闘争が展開され,80年に白人政権が倒されてとして独立した。
check_icon6[ 8 ]は「ローズの国」の意。

XIII-38. 独立後のアフリカ諸国の問題

アフリカの独立国の多くには,旧宗主国に従属した経済構造が残り,経済的自立が進まなかった。また,民族・部族対立や権力抗争による内戦が多発した。から1960年に独立したコンゴでは,銅資源をめぐる紛争に旧宗主国[ 1 ]が干渉し,国連軍も派遣された(コンゴ動乱)。60年にイギリスから独立したでは,イボ人がビアフラ共和国として独立を宣言したが,政府軍に制圧された([ 2 ]内戦,ビアフラ戦争)。アフリカ東岸のでは91年に内戦が勃発して無政府状態となり,国際連合による平和維持活動(PKO)も失敗し,現在も混沌とした状態が続いている。アフリカ中部のでは,少数派のツチ人が多数派のフツ人に大量虐殺される[ 4 ]内戦(1990~94)が起きた。

XIII-39. 南アフリカのアパルトヘイト政策

1910年にイギリスの自治領となったは,61年にイギリス連邦を脱退してが成立した。[ 2 ]は,第二次大戦後に導入された有色人種(特に黒人)を隔離する政策を継続して推進した。(ANC)による抵抗や,国際連合による経済制裁を受けた結果,白人の政権が91年に[ 3 ]関連諸法を全廃した。94年にすべての人種が参加する平等な選挙が実施され,[ 4 ](ANC)が過半数を制し,その指導者が大統領に当選した。

XIII-40. アフリカの連帯と統一

1963年にエチオピアのアジスアベバで開かれたアフリカ諸国首脳会議に30カ国が参加し,アフリカの連帯と統一をめざす(OAU)が創設された。2002年,[ 1 ](OAU)は(AU)に発展し,消滅した。
check_icon6[ 1 ](OAU)創設に尽力したエチオピア皇帝ハイレ=セラシュは1974年のエチオピア革命で廃位された。