3.中世ヨーロッパ

「3.中世ヨーロッパ」の一問一答問題です。

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ゲルマン人の大移動(6)

III-1. 大移動前のゲルマン人

海沿岸を現住地とする語族のゲルマン人は,アルプス以北のヨーロッパにいた人を圧迫しながら勢力を拡大し,紀元前後にローマ帝国の国境までいたった。この当時の状況は,カエサルの『』やタキトゥスの『』が明らかにしている。当時のゲルマン社会は,一人の王または複数の首長がいて,貴族・平民・奴隷の身分差がすでにあった。成年男性自由人から構成されるが最高の議決機関であった。ゲルマン人は本来は牧畜を主としていたが,農耕を行うようになって人口が増加すると,耕地が不足するようになった。耕地不足は,大移動の内的原因である。

III-2. ゲルマン人の大移動(1)

アジア系遊牧民の人が西進し,黒海の北にいたゲルマン人の一派である人を征服した。さらに,その西にいた人を攻撃したため,[ 3 ]人は375年に移動を開始し,翌376年にはローマ帝国との国境であった川を渡った。これをきっかけに他のゲルマン諸部族も移動を開始して,ゲルマン人の大移動が始まった。

III-3. ゲルマン人の大移動(2)

375年に移動を開始した人は,翌376年にローマ帝国との国境であった川を越えたのち,ギリシア・イタリア半島を経由し,ローマを略奪したのち,最終的に半島に建国した。人は,イベリア半島を経て最終的に北アフリカに建国し,シチリアやサルデーニャに進攻し,ローマも略奪した。ブルゴーニュという地名の由来となった人はガリア東南部に,人はガリア北部にそれぞれ建国した。

III-4. ゲルマン人の大移動(3)

イタリア半島の支配者は,めまぐるしく代わった。年に西ローマ帝国を滅ぼしたがイタリアを一時支配したが,に率いられた人がこれを倒して5世紀末に建国した。その後[ 4 ]王国は,6世紀半ばにビザンツ皇帝に滅ぼされた。だが,ビザンツ帝国の支配も長続きせず,6世紀後半に北イタリアに王国が建てられた。[ 6 ]王国の建国をもって,ゲルマン人の大移動は終息した。

III-5. ゲルマン諸国家の滅亡

北アフリカに建国された王国と,イタリア半島に建国された王国は,6世紀半ばにビザンツ皇帝によって滅ぼされた。ガリア東南部に建国された王国と,北イタリアに建国された王国は,フランク王国によって滅ぼされた。イベリア半島に建国された王国は,711年にイスラームの朝によって滅ぼされた。イギリスの大ブリテン島にわたった人は(ヘプターキー)を建てたが,9世紀前半にエグバートが統一した。

III-6. フン人

ゲルマン人の大移動のきっかけをつくった人は,現在のハンガリーに大帝国を築き,王のときに強大化した。だが,451年のの戦いで西ローマ・ゲルマンの連合軍に敗れたのち,[ 2 ]はローマを略奪したが,その帰途[ 2 ]が急死してまもなく衰退した。
check_icon6フン人は,中国史で登場する匈奴など,さまざまな民族からなっていたと考えられている。

フランク王国(4)

III-7. フランク王国の発展

481年にフランク人は,家のによって統一された。[ 2 ]は,正統派の派に改宗して,ローマ人貴族層の支持を取り付けた。だが8世紀になると,分割相続などが原因で[ 1 ]家は衰え,行政・財政面の長官である職を世襲化する家に実権が移っていった。732年にの戦いで,[ 4 ]のがフランク領内に侵入してきたイスラームの朝軍を撃退すると,その子は年にローマ教皇の支持を得て[ 1 ]朝を廃して[ 5 ]朝を建てた。
check_icon6カロリング朝ができた751年に,中央アジアでは,の戦いで唐軍がイスラームの朝軍に敗れた。

III-8. フランク王国とローマ教会の提携

ビザンツ皇帝が年に発布したに反発したローマ教会は,新たな保護者を求めてフランクの家に接近して,751年におきたのクーデタを承認した。その返礼に[ 5 ]は,王国を攻め,地方を教皇に寄進した(「[ 5 ]の寄進」)。これが教皇領の始まりとなった。フランク王国とローマ教会の関係が最も深まったのは,年に教皇がにローマ皇帝の冠を授けた時である。

III-9. カール大帝

カールは北イタリアにあった王国を滅ぼし,さらにゲルマン人の一派であるザクセン人を服従させた。また,東では遊牧民の人,南ではイベリア半島の朝を攻撃して後退させ,西ヨーロッパの統一に成功した。彼は,地方の有力者をに任命し,を派遣して監督させて集権的に支配した。ここにおいてローマ教会は,カールをビザンツ帝国に匹敵する政治的保護者とみなし,ローマ皇帝の冠を年に与えた。カールの戴冠によって,西ヨーロッパ世界が誕生し,キリスト教世界は教皇を首長とするローマ=カトリック教会と,ビザンツ皇帝を首長とするギリシア正教会とに分裂していくこととなった。

III-10. フランク王国の分裂

カール大帝の死後,843年の条約,870年の条約により帝国は,東フランク・西フランク・イタリアの3つに分裂した。東フランク(ドイツ)は,10世紀初めにカロリング家が断絶して,諸侯の選挙により王が選ばれるようになった。その後,朝のが年に戴冠されて,神聖ローマ帝国が始まる。西フランク(フランス)でも10世紀末にカロリング家が断絶し,年にがカペー朝を開いたが,王権はきわめて弱かった。イタリアは,カロリング家が断絶したのち,神聖ローマ皇帝の介入やイスラーム勢力の侵入などがあり,分裂状態が続いた。

ノルマン人(3)

III-11. ノルマン人(1)

スカンディナビア半島やユトランド半島を原住地とするゲルマン人の一派(北ゲルマン人)を人という。彼らは8世紀後半から活動を開始して,商業だけでなく海賊・略奪行為を行ったため,として恐れられた。[ 1 ]人は各地に進出して国を建てたほか,アイスランド・グリーンランド,さらには北アメリカにまで到達したものもいた。

III-12. ノルマン人(2)

に率いられたはスラヴ人地域に進出し,国を建設し,これがロシアの起源となった。ついで,[ 3 ]公が南下して,ドニエプル川流域に公国を建設したが,のちにスラヴ化した。に率いられた一派は,北フランスに上陸して911年に公国を建設した。さらに,ここから分かれた一派が12世紀前半に南イタリア(ナポリ)とシチリアに侵入し,王国を建てた。
check_icon6ナポリ王国とシチリア王国をあわせて両シチリア王国という。

III-13. ノルマン人(3)

イギリスの大ブリテン島にもノルマン(デーン)人が侵入した。9世紀末にアングロ=サクソン系の大王が一時これを撃退したが,1016年にノルマン(デーン)人のに征服され,デーン朝が成立した。その後,アングロ=サクソンが復活したが,年にノルマンディー公が侵入しての戦いでアングロ=サクソン軍を破り(ノルマン=コンクェスト),[ 4 ]1世として,朝を建てた。
check_icon6クヌート(カヌート)はデンマーク・ノルウェーも支配していた。

封建社会の成立(4)

III-14. 封建社会の成立

西ヨーロッパは,古代末期から様々な民族・勢力の侵入があいつぎ,長い混乱期が続いた。この結果,商業と都市は衰え,社会はを基本とする農業経済に移行した。また,度重なる外敵の侵入から我が身を守るために,弱者が強者に保護を求めた結果,(封建的主従関係)が成立した。封建社会は,[ 2 ](封建的主従関係)と,封建的主従関係で結ばれた有力者たちが持つの二つからなるもので,10~11世紀に成立した。

III-15. 西ヨーロッパ封建制の特色

主君が家臣にを与え,家臣は主君にを誓い,軍事的奉仕の義務を負う関係を,という。西ヨーロッパの[ 3 ]は,個人間の関係である。主君が契約に反した場合,家臣は服従を拒否する権利があったし,契約に反しない限り複数の主君を持つこともできた。[ 3 ]の起源は,ローマ末期に行われたと,ゲルマンのにある。[ 5 ]は自分の土地を有力者に献上したのち,有力者から恩貸地として貸与してもらう制度。[ 6 ]は,自由民の戦士が有力者に保護してもらう代わりに忠誠を尽くすという制度であった。
check_icon6周の封建制は,血縁に基づく氏族制的関係である。

III-16. 荘園(1)

封建制度で結ばれた主君も家臣も領地を持ち,それぞれとして農民を支配していた。[ 1 ]の所有地をという。[ 2 ]は,[ 1 ]が直接経営する,農民に貸与されている,および共同利用地からなっていた。農民は,移動の自由のないと呼ばれる不自由民で,[ 3 ]を耕作するや[ 4 ]での収穫物の一部をおさめるの義務があった。さらに,結婚税・死亡税が課せられ,教会にを払った。

III-17. 荘園(2)

荘園を所有していた領主は,国王の役人が荘園に入ることや課税することを拒むを持っていた。領主に支配されていた不自由身分であるは,ローマ帝政末期に登場した,移動の自由のない小作人()や没落した自由農民の子孫で,長い混乱期に自由を失って,領主に保護を求めた人々である。[ 2 ]は,家族・住居・農具などの所有は認められていたが,移転の自由はなかった。さらに,領主はによって[ 2 ]を裁くことができ,[ 2 ]を人格的に支配していた。初期の荘園における領主の収入の大部分は[ 2 ]にを耕作させるによるもので,自給自足的な現物経済が支配的であった。

ローマ=カトリック教会の発展と衰退(10)

III-18. 五本山

ローマ帝国末期にキリスト教会では,と呼ばれる重要な5つの教会が存在した。ローマ,ビザンツ帝国の首都の,シリアの,パレスチナの,エジプトのの5つの教会であるが,ローマと[ 2 ]以外の教会は7世紀に時代のイスラームに支配された。

III-19. 首位権

ローマ帝国末期に成立した五本山のうち有力だったのは,ローマ教会とコンスタンティノープル教会の2つであった。イエスにより使徒の筆頭者とされたと,イエスの死を人間の根源的な罪をあがなった贖罪であると説いたの二人が,ネロ帝の迫害によりローマで殉教したことをもって,ローマ教会は他の教会をしのぐ最高位にあるとする首位権を主張した。ローマ教会は,ゲルマン人の布教を行ったことでも知られる6世紀末に選出されたの時からという称号を用い始めた。

III-20. 聖像崇拝論争

偶像崇拝を厳禁するイスラームに対抗して,年にビザンツ皇帝が発布したにより,ローマ教会とコンスタンティノープル教会の対立と分裂が深まった。ゲルマン人への布教に聖像()を用いていたローマ教会は,聖像は偶像にはあたらないと主張し,聖像禁止令に反発した。この対立は,東西教会の分裂につながっていくこととなった。
check_icon6聖像禁止令についてはその後も論争が続いたが,聖像禁止令はビザンツ帝国において843年に解除された。

III-21. ローマ=カトリック教会の成立

ローマ教会は,8世紀に起きた聖像()をめぐる問題でコンスタンティノープル教会との対立を深めた。この状況下,ビザンツ皇帝に代わる新たな保護者を求めたローマ教皇はフランク王国の家に接近した。その後,年に東西教会は分裂し,教皇を首長とする西方のローマ=カトリック教会と,ビザンツ皇帝を首長とする東方のに分かれた。ローマ=カトリック教会では,教皇を頂点とし大司教・司教・司祭などからなる階層制組織が作られた。

III-22. 教会刷新運動

大司教や修道院長などは,国王や貴族から荘園を寄進されて大領主となった。教会や修道院が荘園を所有するようになると,聖職と付属の荘園を売買するが横行するようになった。また,カトリックにおいては禁じられていた,聖職者のなどの弊害も見られるようになった。11世紀にフランスの修道院が始めた教会刷新運動は,闘争を闘った教皇の改革へと発展した。

III-23. 叙任権闘争

皇帝や国王は封土の授与権を有しており,それにともなって大司教や修道院長を任命する権限である聖職を皇帝がもっていた。聖職売買などの弊害を改革しようとするフランスの修道院による改革運動をおしすすめた教皇は,[ 1 ]を教会の手に取り戻そうとした。皇帝がそれに反発し,[ 1 ]闘争が起きた。教皇[ 3 ]から破門されて孤立した皇帝[ 4 ]は,年にで教皇に謝罪した。その後,年の協約で,皇帝は封土の授与権は持つが,聖職[ 1 ]は教皇が持つという妥協が成立した。
check_icon6叙任権闘争が決着していない1096年に十字軍が始まったことに注意!!

III-24. ローマ教皇権の絶頂期

教会共同体からの除外を宣するという手段で皇帝や国王に対して優位に立った教皇権は,12世紀末に選出されたのときに絶頂期を迎えた。彼は,イングランド王を[ 1 ]して屈服させ,フランス王・神聖ローマ皇帝に対しても干渉し,「教皇権は太陽であり,皇帝権は月である」と主張した。また彼は,南フランスのカタリ派系の異端に対して十字軍を行い,第回十字軍を提唱した。さらに,1215年に開催した第4回ラテラノ公会議において,ユダヤ人への差別的扱いを決めた。
check_icon6カタリ派は,ゾロアスター教をもとにキリスト教と仏教の要素を加えて3世紀にできた教の影響を受けた異端。南フランスでアルビジョワ派と呼ばれた。第4回十字軍はインノケンティウス3世の意に反し,を占領した。

III-25. 西ヨーロッパの修道院

西ヨーロッパの修道院は,6世紀にがイタリアのに開いた修道院に始まる。「」をモットーとする[ 1 ]派の戒律は,労働を奴隷の仕事と考えていた古代の労働観を大きく変えた。11世紀に修道院が始めた教会刷新運動は,叙任権闘争を闘った教皇の改革へと発展した。12~13世紀の西ヨーロッパは大開墾時代であったが,派修道院がその先頭に立った。13世紀には,清貧を重んじて財産所有を否定する修道会として,ドミニコ会や会が創設された。

III-26. ローマ教皇権の衰退(1)

十字軍が失敗に終わると教皇権が傾き始め,各国の王権が伸張すると教皇権はさらに衰えた。13世紀末に教皇となったは問題をめぐって,フランス王と争い,年には[ 3 ]に一時とらえられて屈服した(事件)。[ 3 ]はその後,教皇庁を南フランスのに移転させ,教皇を監視下においた。これを「」(1309-77年)という。その後,教皇庁がローマに戻ると,[ 6 ]に対立教皇が選出され,2人の教皇が相争った。これを(大シスマ)と呼ぶ。

III-27. ローマ教皇権の衰退(2)

14世紀後半に起きたによって教皇と教会の権威は失墜した。これに対して,教会の腐敗や堕落を批判し,改革しようとする動きもおこった。イギリスのは,信仰のよりどころをにのみ求め,[ 3 ]を英訳した。(ボヘミア)のは[ 2 ]の説に共鳴し,教会の世俗化を批判した。神聖ローマ皇帝の提唱で年から開かれた公会議は,[ 2 ]と[ 5 ]を異端とし,[ 5 ]を火刑に処した。また,この公会議で,新教皇が選出されて教会が再統一されて,[ 1 ]は終わった。ベーメンでは,[ 5 ]の火刑後に彼の教説を信じる[ 5 ]派が蜂起し,[ 5 ]戦争が勃発した。
check_icon6教科書では,「[ 7 ]公会議で[ 2 ]と[ 5 ]が異端とされ,[ 5 ]が火刑に処された」というように書いており,上の記述もそのようにしましたが,実は[ 2 ]も火刑に処されています。ただ,[ 2 ]は1384年に死んでいますので,「[ 2 ]も火刑に処された」と書くと,「何それ?」という疑問が出るのを恐れてでしょうが,教科書ではこのことには触れていません。中世の処刑は,命を奪うことが目的ではなく,その存在自体を消し去ることが目的ですから,[ 2 ]も墓が暴かれ,火刑に処されて灰がテムズ川に流されています。

封建社会の変容(12)

III-28. 封建社会の安定と成長

11世紀ころに農業生産力が増大し,封建社会は300年ほど続く安定と成長の時代に入った。それをもたらした技術的革新には,水車の改良,鉄製農具の普及,牛や馬に引かせる,そして耕地を春耕地・秋耕地・休耕地に3分して3年周期で利用するがあった。耕地は細長い地条にわかれており,農民に貸与される保有地は,各耕地に分散してあった。だが,耕地を保有者ごとに垣などで仕切ると共同作業が行いにくいので,耕地の仕切りはなかった。これをという。耕地を牛馬に引かせて[ 1 ]で耕す農作業は共同で行われ,農民の結びつきを強めた。
check_icon6封建社会が安定してくると,民衆の聖地巡礼熱が高まった。イェルサレム,ローマ,それとイベリア半島西北部のが三大巡礼地として人気があった。

III-29. 西ヨーロッパの膨張

11~13世紀における農業生産力の増大を背景に,西ヨーロッパは内外に拡大し始めた。派修道会による開墾運動,の干拓,川以東のスラヴ人居住地などへドイツ人が植民する,イベリア半島における対イスラーム戦である(レコンキスタ),そして聖地を回復する聖戦であるが行われた。
check_icon6東方植民では,十字軍の際に結成された宗教騎士団であるが活躍し,[ 7 ]領はのちにプロイセンへと発展する。

III-30. 十字軍(1)

十字軍のきっかけは,トルコ系イスラーム王朝である朝の進出にあった。聖地を支配下に置いた[ 1 ]朝は小アジアに侵入してビザンツ帝国を脅かした。圧迫を受けたビザンツ皇帝がローマ教皇に救援を要請したことに対して,教皇は年に公会議を開催して,聖地[ 2 ]を回復する聖戦を起こすことを呼びかけた。翌1096年に第1回十字軍が出発し,その後,約年にわたり十字軍が行われた。
check_icon67世紀の正統カリフ時代に聖地イェルサレムがイスラーム支配下に置かれたのち,イェルサレムはイスラーム支配下に置かれ続けていた。

III-31. 十字軍(2)

年に始まった第1回十字軍は聖地を占領して王国を建てた。12世紀後半にアイユーブ朝を建てたが聖地を奪還したのに対し,神聖ローマ皇帝・フランス王・イギリス王が参加する第回十字軍が起こされたが,失敗した。教皇の絶頂期を築いたが提唱した第回十字軍は,商人の要求で,聖地に向かわず,その商業上のライバルであるを攻撃して帝国を建てた。フランス王は単独で十字軍を起こし,第6回はエジプトを,第7回はチュニスを攻撃したが,[ 13 ]は陣中で病死した。聖地回復の目的は結局達成されず,1291年に十字軍最後の拠点がマムルーク朝により陥落させられ,十字軍は最終的に終結した。
check_icon6シチリア王を兼ねていた神聖ローマ皇帝は破門されたまま十字軍を行い,外交交渉でイェルサレムを回復した。この十字軍を第6回十字軍とする見解もあるが,高校の世界史では第6回十字軍は[ 13 ]のものをさす。

III-32. 十字軍の影響

遠征の失敗により,十字軍を提唱したの権威は揺らぎ始めた。それに対して,参加して戦死した諸侯や騎士の所領を没収したが権力を伸ばした。十字軍の輸送は地中海貿易を活発化させ,イタリア諸都市の繁栄をもたらし,貨幣経済を普及させた。また,先進文明圏のビザンツやイスラーム圏からギリシアの古典がもたらされ,ラテン語に翻訳された結果,学問が発達した。これは,と呼ばれる。さらに,十字軍に際し,ヨハネ騎士団・テンプル騎士団・などのが結成された。[ 4 ]は十字軍後,川以東のスラヴ人居住地へのに活躍し,その地はのちのプロイセンのもととなった。

III-33. 商業の復活

封建社会が安定して農業生産力が増大すると,が交換されるようになり,都市と商業がふたたび盛んになり始めた。貨幣経済も復活し,十字軍の影響で交通が発達すると,ヨーロッパ全体を商業圏とする遠隔地貿易も行われるようになった。~世紀に起きたこのような現象を,と呼ぶ。

III-34. 遠隔地商業

地中海商業圏では,「アドリア海の女王」と呼ばれたやジェノヴァなどの港市が(レヴァント貿易)により,や南ドイツ産のを輸出し,ビザンツ帝国やムスリム(イスラーム)商人から・絹織物などの奢侈品を得た。また,内陸都市であるフィレンツェは金融業と[ 3 ]工業で栄えた。北海・海の北欧商業圏では,を盟主とする同盟諸都市が,海産物・木材・穀物などの必需品を取引した。これら二つの商業圏を結ぶ交易網も発達し,フランスの地方で定期市が開かれた。また,ガン・ブリュージュなどの地方の都市は,イギリスから輸入した羊毛を用いた[ 3 ]生産で栄えた。

III-35. 中世都市(1)

中世都市は最初は封建領主の保護と支配を受けていたが,力をつけた都市は自力で領主権力を排除したり,国王や皇帝からを得て,を獲得した。[ 2 ]を得た中世都市は,城壁を持ち,軍事力も有していた。ドイツでは,皇帝から[ 1 ]を得た都市はとして,諸侯と同等の地位を獲得した。北イタリアでは,領主支配を脱した自治都市()が周辺の農村を支配して,都市国家として独立した。
check_icon6「都市の空気は自由にする」ということわざがあるように,農奴が都市に逃れて一定期間住んだ場合は,農奴身分から解放された。

III-36. 中世都市(2)

共通の利害をもつ諸都市が都市同盟を結成することもあった。ミラノを中心とする北イタリアの諸都市は,神聖ローマ皇帝のに対抗して同盟を結成した。北ドイツ諸都市は,を盟主として同盟を結成し,陸海軍を保有して北海・海の商業圏を支配した。上層市民の中には,南ドイツ産の銀を独占したの家や,フィレンツェの家のように教皇や皇帝などの影響力を及ぼす者も現れた。

III-37. ギルド

中世都市の商人や手工業者はと呼ばれる同業組合を組織した。[ 1 ]は,自由競争を禁じ,品質・価格などを厳しく規制し,非組合員の参入を拒んだ。はじめ市政を独占したのは商人[ 1 ]であったが,これに不満を持つ手工業者は(ツンフト)を組織し,商人[ 1 ]と争いながら市政への参加を勝ち取った(ツンフト闘争)。[ 2 ]には,・職人・という厳格な身分序列があり,[ 3 ]のみが正規の構成員であった。

III-38. 「封建制の危機」

11~13世紀に商業と都市が発展し,経済が浸透すると,荘園制がくずれ始めた。領主は[ 1 ]を手っ取り早く手に入れるために,農奴に課していたをやめて,を分割して農民に貸し与え,生産物や[ 1 ]で地代を納めさせるようになった。農民は地代の残りをたくわえて,経済的に力をつけていった。14世紀に入ると,世界的に寒冷化が進み,西ヨーロッパにおいても天候不順による穀物の不作と飢饉をもたらした。また,(ペスト)の流行や,あいつぐ戦乱で農業人口が減少すると,農民の地位はさらに高まった。[ 1 ]地代が普及していたイギリスでは,農奴身分から脱して,少額の地代を払うだけで身分的には自由な(ヨーマン)となる者が多かった。
check_icon614世紀には,ユーラシア全域で大きな変動がみられる(参照:IX-91)。これらを合わせ,「14世紀の危機」ともいう。

III-39. 封建反動と農民一揆

14世紀に始まる「封建制の危機」において,経済的に困窮した領主はふたたび農民への束縛を強化しようとした。これをと呼ぶ。農民たちはこれに反抗し,農民一揆を起こした。フランスでは1358年にの乱,イギリスでは1381年にの乱が勃発した。イギリスの[ 3 ]の乱では,が,「アダムが耕し,イヴが紡(つむ)いだとき,だれが貴族(領主)だったか」と説いて,封建社会の身分制を批判した。
check_icon6英仏の農民反乱はともに,英仏間で戦われた戦争期間中に勃発している。

イギリスとフランス(9)

III-40. 王権の強化と中央集権化

14世紀後半におきた農民反乱である,フランスのの乱,イギリスのの乱は鎮圧されたが,領主は地代の増額もできずに没落する者が多く出た。彼らは,傭兵となったり,国王の宮廷で働く官僚であるとなったりした。さらに14~15世紀に大砲・小銃などのが使用されて戦術が変化すると,はますます没落した。一方,商業圏が拡大するにつれ市民は,市場を統一する的な政治権力を望むようになり,国王との提携をはかった。たとえば,百年戦争で勝利した仏王は大商人ジャック=クールと結び,集権化をはかった。こうして封建社会は解体へと向かった。

III-41. イギリス王権の制限(1)

1066年にが建てた朝は征服王朝であり,検地帳をつくるなど封建社会としては例外的に王権が強かった。年に朝を建てたは,フランス国王の家臣伯としてフランス内に広大な所領をもっていた。その子王は,フランス王に敗れて大陸領の大半を失い,さらに教皇と争って破門され,屈服した。その上,戦費をまかなうために重税を課したため,貴族が反抗し,1215年にを[ 7 ]に認めさせた。これは,新たな課税には高位聖職者と大貴族からなる会議の同意が必要であることなどを定めたもので,法による王権の制限であり,イギリス憲法の始まりとされる。

III-42. イギリス王権の制限(2)

ジョン王の子がを無視したため,を中心とする貴族が国王軍を破り,1265年に以前からあった高位聖職者・大貴族の会議に州や都市の代表を加えさせた。これがイギリス議会の起源とされる。さらに,1295年にによって召集された議会は,のちにと呼ばれた。14世紀半ばには,高位聖職者と大貴族からなる貴族院(上院)と,州の騎士と都市代表で構成される庶民院(下院)の二院制となった。
check_icon6(1)「シモン=ド=モンフォール」は英語名ではなく,仏語名で,彼はフランス出身の貴族である。イギリスとフランスがまだ不可分で,人的なものもふくめ密接な関係にあることに注意。(2)イギリスでは,中世末期に騎士や富裕な平民がとなり,都市の代表とならぶ下院の勢力となった。地主であった[ 6 ]は貴族とヨーマン(独立自営農民)の中間に位置し,地方行政を担う名望家となった。

III-43. 身分制議会

身分制議会とは,中世末期以降出現した,各身分の代表からなる議会。国王が行おうとする課税を承認する権限(課税協賛権)をもつ,国王の諮問(しもん)機関であった。イギリスの,1302年に初召集されたフランスの,ドイツのなどがこれにあたる。身分制を基盤としている点において,現在の議会とは異なる。現在の国民国家における国民代表的な性格は身分制議会にはない。

III-44. フランス王権の伸張(1)

年にパリ伯が始めたカペー朝は,成立当初は諸侯の力が強く,王権は弱かった。第3回十字軍に参加したは,英王からフランス内にあるイギリス領の大半を奪って王領地を拡大し,集権化に努めた。また彼は,教皇の要請に応じ,南フランスに広まったカタリ派系の異端に対する十字軍を開始した。第6回・第7回十字軍を行ったは[ 6 ]十字軍を完成させて,南フランス一帯を王領地に編入した。また[ 7 ]は,イスラームに対する十字軍への協力要請とカトリック布教のために,フランチェスコ派修道士のをモンゴルに派遣した。

III-45. フランス王権の伸張(2)

は,問題に関して教皇と争った際に,聖職者・貴族・平民の代表者からなるを1302年に召集し,その支持を得た上で教皇を年にに一時監禁して,王権を強化した。さらに,[ 1 ]は1309年に教皇庁を南フランスのに移させ,監視下に置いた。その後,朝が断絶し,1328年にが朝を建てると,イングランド王が王位継承権を主張して戦争が勃発した。

III-46. 百年戦争の背景

ヴァロワ朝の成立に対し,母親がフィリップ4世の娘で家出身であることを理由に,イングランド王は王位継承権を主張した。また,イギリスが羊毛を輸出していた地方をフランス王が支配下に置こうとしており,イギリスはそれを阻止しようとした。さらに,フランス南西部にあるギュイエンヌ(ギエンヌ)をめぐっても,両国は対立していた。

III-47. 百年戦争の経過

1346年のの戦いにおいてイギリス王とその長子が率いるがフランス軍を破り,イギリスが当初は優勢だった。フランスでは(ペスト)の流行や,1358年に起きた農民一揆の乱もおき,戦場となったフランスは荒廃した。の時にフランス王国は崩壊の危機にあった。そのとき,農民の娘が現れて,イングランド軍に包囲されたを解放し,イギリス軍を大敗させた。これをきっかけにフランス軍は勢いを取り戻し,年に戦争はフランスの勝利に終わり,イギリスはを除く全大陸領を失った。
check_icon6オスマン帝国がを陥落させてビザンツ帝国を滅ぼしたのも1453年のこと。

III-48. バラ戦争

百年戦争が終わったのちに,王位をめぐり,イングランドではバラ戦争(1455-85年)と呼ばれる内乱が勃発した。貴族は家と家を支持する2派に分かれて戦った。結果として両家は共倒れし,[ 1 ]系の家が勝利して,1485年にが[ 3 ]朝を開いた。[ 3 ]朝は国王直属の特別裁判所であるをつくり,王権に逆らう貴族を処罰し,絶対王政への道を開いた。
check_icon6[ 5 ]については,かつては[ 4 ]が設立したとされていたが,現在ではヘンリ8世が整備したとされる。

ドイツ・イタリア・北欧・イベリア半島(7)

III-49. 神聖ローマ帝国の成立

朝第2代の王はウラル語系の人を破ったのち,北イタリアに遠征し,年に教皇からローマ皇帝の冠を与えられた。以後,ドイツ王に選ばれた者が皇帝となる慣例が生まれ,その国は帝国と呼ばれた。[ 2 ]以降の皇帝は,イタリアをめぐって皇帝と教皇が争うに熱中し,ドイツの諸侯が次第に自立した。その結果,帝国の分裂と衰退が加速した。
check_icon6オットー1世に敗れたマジャール人は王国を建て,信仰を受け入れた。マジャール人は現在の[ 7 ]人の祖である。

III-50. 神聖ローマ帝国の混乱

イタリアを支配下に置こうとするに熱中した朝が13世紀半ばに断絶したのち,事実上皇帝が不在の時代(1256(54)-73年)となり,政治的混乱は頂点に達した。年にルクセンブルク朝の皇帝がを発布し,聖俗からなる7人のによる皇帝選挙を定めた。[ 7 ]には貨幣鋳造権などの特権が認められたが,この特権は他の諸侯にものちに拡大された結果,と呼ばれる小国家が形成され,神聖ローマ帝国は分裂状態に陥った。1438年からは家が皇帝位を事実上独占したが,帝国の統一には失敗した。
check_icon6[ 7 ]の一つであるの所領はエルベ川以東のスラヴ人地域への東方植民によって成立した。15世紀にホーエンツォレルン家領となり,のちにプロイセン王国へと発展していく。

III-51. スイスの独立

スイスは,13世紀末に家の支配に抗して独立闘争を始め,1499年に13州が独立を獲得した。国際的に承認されたのは,三十年戦争の講和として年に結ばれた条約においてである。さらに,フランス革命・ナポレオン戦争後の国際秩序を話し合った会議(1814-15)で,スイスはが認められた。

III-52. 中世のイタリア

中世のイタリアは多くの国・諸侯・都市共和国にわかれていた。13世紀末に両シチリア王国はシチリア王国と王国に分裂した。シチリアはアラゴン王国の支配下に入り,[ 1 ]は15世紀半ばまでアンジュー家が支配した。中部には教皇領があり,北部には「アドリア海の女王」とたたえられたや,フィレンツェ・ジェノヴァなどの都市共和国があった。神聖ローマ皇帝がをもって介入してくると,(ゲルフ)と(ギベリン)に分かれて抗争を繰り返して政治的混乱が続いた。

III-53. エルベ川以東

12~14世紀にドイツ人によるスラヴ人やマジャール人居住地域への大規模な植民が行われた。これをというが,これにより辺境伯領や領がつくられた。ポーランドでは,植民を進める[ 3 ]に対抗するために,バルト語系の人と西スラヴの人が結び,朝[ 4 ]=[ 5 ]王国が1386年にでき,15世紀初めに[ 3 ]を撃破して強大になった。
check_icon6ブランデンブルク辺境伯領はのちにブランデンブルク選帝侯国となるが,ドイツ騎士団領を継承して,1701年にプロイセン王国ができあがる。

III-54. 北ヨーロッパ

女王が主導して,デンマーク・スウェーデン・ノルウェーの北欧3か国の間に1397年に同盟が結成され,同君連合王国が成立し,ハンザ同盟と海の覇権を争った。だが,この同盟は1523年にが独立して崩壊し,以降[ 5 ]が北欧の強国として台頭した。
check_icon61397年と1523年の年代は,「カールまるまるぐれて父さん苦難,以後兄さんがんばって」とゴロで覚えておこう。

III-55. 中世のイベリア半島

711年に朝によって王国が滅ぼされたのち,イベリア半島はイスラームの支配下に置かれた。これに対してキリスト教徒が,対イスラーム戦であるを行った。この過程でアラゴン王国,王国が建国され,[ 4 ]王国から1143年に王国が独立した。[ 4 ]王女とアラゴン王子の結婚により,1479年に両国は統合されて王国が成立した。共同統治を行った2人は,1492年にイベリア半島最後のイスラーム王朝である朝の都を陥落させて[ 3 ]は終結した。

ビザンツ帝国と東欧(9)

III-56. ビザンツ帝国

ビザンツ帝国は,東ローマ帝国の別称。首都の旧名がであり,東ローマ帝国で7世紀にギリシア化がすすんだために「ビザンツ帝国」と呼ばれるようになった。ビザンツ帝国は西ヨーロッパと異なり,ゲルマン人の大移動で大きな打撃を受けなかったため商業と貨幣経済は衰えることはなかった。また,ローマ帝政末期以降の官僚制にもとづく皇帝専制支配が維持されていた。中世の西ヨーロッパにおいては教皇と皇帝の二つの権力が並び立って争ったが,ビザンツ帝国では皇帝がを直接支配していた。これをという。13世紀前半の第回十字軍により[ 1 ]が占領され,ビザンツ帝国は一時中断した。その後復活したが,以前の繁栄はもどらず,年にオスマン帝国のにより滅ぼされた。

III-57. ユスティニアヌス帝

ユスティニアヌス帝は,6世紀半ばのビザンツ皇帝。北アフリカの王国,イタリアの王国を滅ぼし,イベリア半島の王国から半島の一部を獲得して一時的に地中海の覇権を回復した。法学者トリボニアヌスに命じて『』を編纂させ,聖堂を建立した。また,中国から蚕卵を得てをおこした。
check_icon6ハギア=ソフィア聖堂の四囲に(光塔)が建てられているが,これはオスマン帝国が1453年にビザンツ帝国を滅ぼしたあとに建設したものである。

III-58. ビザンツ帝国の土地制度

ビザンツ帝国の初期には,土地に縛り付けられた小作人()を使った大土地所有制度が行われていたが,イスラームなどの侵入に対処するために7世紀以降,帝国をいくつかのに分けてその司令官に軍事と行政の権限を与える[ 2 ]制(テマ制)がしかれた。[ 2 ]では農民に土地を与える代わりに兵役義務を課すが行われた結果,小土地所有の自由農民が増え,その租税収入が帝国の財政を支えた。11世紀以降,軍役奉仕と引き替えに貴族に国有地の管理権を与える制が行われるようになって,帝国の分裂と衰退がすすんだ。

III-59. 聖像禁止令

の十戒で偶像をつくることを禁止しているように,イスラーム教と同様にユダヤ教・キリスト教も偶像崇拝を禁止している。偶像を厳禁するイスラーム教に対抗することに迫られたビザンツ皇帝は,年にイエスや聖母マリアなどを描いた(聖画像)を禁止する聖像禁止令を発布した。これをきっかけに,ゲルマン布教に[ 4 ](聖画像)を使っていたローマ教皇とビザンツ皇帝の間で,聖像崇拝論争が行われた。ローマ教皇は新たな保護者を求めてフランクの家に接近した結果,この対立は東西教会分裂の契機となった。その後,聖像禁止令自体は843年にビザンツ帝国において解除されたが,年に東西教会は分裂した。

III-60. 中世のロシア(1)

ロシアの起源は,スウェーデン系人が建てたの成立にある。ついで,その一部が南下してドニエプル川流域に公国を建てたが,両国はまもなくスラヴ化した。10世紀末に[ 3 ]大公がギリシア皇帝の妹と結婚し,ギリシア正教に改宗した結果,ロシアのビザンツ化が進んだ。その後,貴族が農民を化して大土地所有制を広めると,国内は分裂するようになった。

III-61. 中世のロシア(2)

13世紀にの率いるモンゴル人が侵入し,国を建てると,ロシアはその後約240年間モンゴルの支配に服した(「タタールのくびき」)。15世紀にが台頭し,1480年に大公のときにモンゴル支配から脱した。彼はビザンツ最後の皇帝の姪と結婚し,ローマ帝国の後継者を自ら任じ,皇帝の称号であるを初めて用いた。
check_icon6ツァーリはローマ帝国で皇帝の称号として使われていた「カエサル」のロシア語の形である。16世紀ののときに正式の称号となった。またモスクワは,ローマ・コンスタンティノープルにつぐ「第3のローマ」と称された。

III-62. 西スラヴ人

ポーランド人・チェック人・スロヴァキア人からなる西スラヴ人は,西ヨーロッパの影響を受けてに改宗した。ポーランド人は,ドイツ騎士団に対抗するためバルト語系の人と合体して朝[ 2 ]=ポーランド王国をつくり,15世紀に強大化した。チェック人は,10世紀に王国を形成したが,11世紀以降,帝国に編入された。

III-63. 南スラヴ人

南スラヴ系のセルビア人は帝国に服属し,に改宗したが,12世紀に独立してセルビア王国を建設した。その後,14世紀末以降,帝国の支配下に置かれた。旧ユーゴスラヴィア北西部に居住する人・人はフランク王国の影響下でに改宗した。

III-64. 非スラヴ系諸民族

アジア系遊牧民の人は7世紀にバルカン半島北部で第1次帝国を建国し,その後スラヴ化してに改宗した。その後,ビザンツ帝国に併合されたが,12世紀に再び独立して第2次帝国を建国したが,14世紀に帝国に併合された。オットー1世に敗れた人はパンノニアに定住し,10世紀末に王国を建国し,を受け入れたが,16世紀に帝国の支配下に入った。ラテン系のルーマニア人は14世紀にワラキア公国とモルダヴィア公国を建てたが,15世紀にオスマン帝国に服属した。

中世ヨーロッパ文化(5)

III-65. 中世ヨーロッパ文化:教会の影響

中世の西ヨーロッパはキリスト教の時代で,教会が社会全般を律していた。学問もキリスト教の支配下にあり,が最高の学問とされ,哲学や自然科学はその下に置かれた。学問の担い手は聖職者・修道士で,彼らは当時の共通の学術語として語を用いていた。大学は教会・修道院の付属学校を母体に,教授と学生の自治団体として12世紀に成立した。イタリアの大学は法学で,大学は医学で有名であった。神学で有名だったのは,フランスの大学,イギリスの大学である。

III-66. 中世ヨーロッパ文化:スコラ学

中世の神学・哲学は,信仰を論理的に体系化しようとした学で,普遍論争が中心的な議論であった。普遍が実体として存在するとする立場がで,に代表される。これに対して,実在するものは個々の事物のみで普遍は名にすぎないとするのがでフランスのやイギリスのに代表される。13世紀の神学者は『』を著し,イスラーム経由でもたらされた哲学とキリスト教神学との調和を図って[ 1 ]学を大成した。

III-67. 中世ヨーロッパ文化:中世のルネサンス

フランク王国のカール大帝は,アーヘンの宮廷にイギリスからを招き,語による文芸の復興運動を保護・奨励した。これをという。さらに,十字軍をきっかけに東方との交流が盛んになると,ビザンツやイスラーム圏からギリシアの古典がもたらされ,学問や文芸が発達した。これをという。この時期にスペインのトレドでアラビア語の学術書やギリシアの古典が語に翻訳された。(ラテン名アヴェロエス)の注釈も翻訳されて,学の完成に大きな影響を与えた。なお,大学が成立するのも12世紀頃のことである。

III-68. 中世ヨーロッパ文化:文学

中世の文学の多くは学術語でもあった語で書かれたが,11世紀頃から口語(俗語)で書かれたが登場した。カール大帝の対イスラーム戦を舞台にした『』や,ケルト人の英雄をうたった『』などがその代表である。また,ゲルマンの民族的英雄叙事詩である『』が残されている。叙情詩では,(トゥルバドゥール)が宮廷をめぐって,騎士道的恋愛を主題とする叙情詩をうたった。

III-69. 中世ヨーロッパ文化:教会建築

ビザンツ帝国では,円蓋(ドーム)と,石や貝殻などで描く壁画が特徴のビザンツ様式がおこった。この様式は,コンスタンティノープルの聖堂やラヴェンナの聖堂などにみられる。11世紀には半円状アーチと厚い石壁に特徴を持つ様式が生み出された。この様式では,イタリアの大聖堂やドイツのヴォルムス大聖堂などが有名である。12世紀には,尖頭アーチを用いて高さを強調し,窓をで飾る様式が出現し,パリの大聖堂やドイツの大聖堂などがその典型である。