フランク王国

「フランク王国」の一問一答問題です。

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III-7. フランク王国の発展

481年にフランク人は,家のによって統一された。[ 2 ]は,正統派の派に改宗して,ローマ人貴族層の支持を取り付けた。だが8世紀になると,分割相続などが原因で[ 1 ]家は衰え,行政・財政面の長官である職を世襲化する家に実権が移っていった。732年にの戦いで,[ 4 ]のがフランク領内に侵入してきたイスラームの朝軍を撃退すると,その子は年にローマ教皇の支持を得て[ 1 ]朝を廃して[ 5 ]朝を建てた。
check_icon6カロリング朝ができた751年に,中央アジアでは,の戦いで唐軍がイスラームの朝軍に敗れた。

III-8. フランク王国とローマ教会の提携

ビザンツ皇帝が年に発布したに反発したローマ教会は,新たな保護者を求めてフランクの家に接近して,751年におきたのクーデタを承認した。その返礼に[ 5 ]は,王国を攻め,地方を教皇に寄進した(「[ 5 ]の寄進」)。これが教皇領の始まりとなった。フランク王国とローマ教会の関係が最も深まったのは,年に教皇がにローマ皇帝の冠を授けた時である。

III-9. カール大帝

カールは北イタリアにあった王国を滅ぼし,さらにゲルマン人の一派であるザクセン人を服従させた。また,東では遊牧民の人,南ではイベリア半島の朝を攻撃して後退させ,西ヨーロッパの統一に成功した。彼は,地方の有力者をに任命し,を派遣して監督させて集権的に支配した。ここにおいてローマ教会は,カールをビザンツ帝国に匹敵する政治的保護者とみなし,ローマ皇帝の冠を年に与えた。カールの戴冠によって,西ヨーロッパ世界が誕生し,キリスト教世界は教皇を首長とするローマ=カトリック教会と,ビザンツ皇帝を首長とするギリシア正教会とに分裂していくこととなった。

III-10. フランク王国の分裂

カール大帝の死後,843年の条約,870年の条約により帝国は,東フランク・西フランク・イタリアの3つに分裂した。東フランク(ドイツ)は,10世紀初めにカロリング家が断絶して,諸侯の選挙により王が選ばれるようになった。その後,朝のが年に戴冠されて,神聖ローマ帝国が始まる。西フランク(フランス)でも10世紀末にカロリング家が断絶し,年にがカペー朝を開いたが,王権はきわめて弱かった。イタリアは,カロリング家が断絶したのち,神聖ローマ皇帝の介入やイスラーム勢力の侵入などがあり,分裂状態が続いた。