III-18. 五本山
ローマ帝国末期にキリスト教会では,[ 1. ]と呼ばれる重要な5つの教会が存在した。ローマ,ビザンツ帝国の首都の[ 2. ],シリアの[ 3. ],パレスチナの[ 4. ],エジプトの[ 5. ]の5つの教会であるが,ローマと[ 2 ]以外の教会は7世紀に[ 6. ]時代のイスラームに支配された。
「ローマ=カトリック教会の発展と衰退」の一問一答問題です。
ローマ帝国末期にキリスト教会では,[ 1. ]と呼ばれる重要な5つの教会が存在した。ローマ,ビザンツ帝国の首都の[ 2. ],シリアの[ 3. ],パレスチナの[ 4. ],エジプトの[ 5. ]の5つの教会であるが,ローマと[ 2 ]以外の教会は7世紀に[ 6. ]時代のイスラームに支配された。
ローマ帝国末期に成立した五本山のうち有力だったのは,ローマ教会とコンスタンティノープル教会の2つであった。イエスにより使徒の筆頭者とされた[ 1. ]と,イエスの死を人間の根源的な罪をあがなった贖罪であると説いた[ 2. ]の二人が,ネロ帝の迫害によりローマで殉教したことをもって,ローマ教会は他の教会をしのぐ最高位にあるとする首位権を主張した。ローマ教会は,ゲルマン人の布教を行ったことでも知られる6世紀末に選出された[ 3. ]の時から[ 4. ]という称号を用い始めた。
偶像崇拝を厳禁するイスラームに対抗して,[ 1. ]年にビザンツ皇帝[ 2. ]が発布した[ 3. ]により,ローマ教会とコンスタンティノープル教会の対立と分裂が深まった。ゲルマン人への布教に聖像([ 4. ])を用いていたローマ教会は,聖像は偶像にはあたらないと主張し,聖像禁止令に反発した。この対立は,東西教会の分裂につながっていくこととなった。
聖像禁止令についてはその後も論争が続いたが,聖像禁止令はビザンツ帝国において843年に解除された。
ローマ教会は,8世紀に起きた聖像([ 1. ])をめぐる問題でコンスタンティノープル教会との対立を深めた。この状況下,ビザンツ皇帝に代わる新たな保護者を求めたローマ教皇はフランク王国の[ 2. ]家に接近した。その後,[ 3. ]年に東西教会は分裂し,教皇を首長とする西方のローマ=カトリック教会と,ビザンツ皇帝を首長とする東方の[ 4. ]に分かれた。ローマ=カトリック教会では,教皇を頂点とし大司教・司教・司祭などからなる階層制組織が作られた。
大司教や修道院長などは,国王や貴族から荘園を寄進されて大領主となった。教会や修道院が荘園を所有するようになると,聖職と付属の荘園を売買する[ 1. ]が横行するようになった。また,カトリックにおいては禁じられていた,聖職者の[ 2. ]などの弊害も見られるようになった。11世紀にフランスの[ 3. ]修道院が始めた教会刷新運動は,[ 4. ]闘争を闘った教皇[ 5. ]の改革へと発展した。
皇帝や国王は封土の授与権を有しており,それにともなって大司教や修道院長を任命する権限である聖職[ 1. ]を皇帝がもっていた。聖職売買などの弊害を改革しようとするフランスの[ 2. ]修道院による改革運動をおしすすめた教皇[ 3. ]は,[ 1 ]を教会の手に取り戻そうとした。皇帝[ 4. ]がそれに反発し,[ 1 ]闘争が起きた。教皇[ 3 ]から破門されて孤立した皇帝[ 4 ]は,[ 5. ]年に[ 6. ]で教皇に謝罪した。その後,[ 7. ]年の[ 8. ]協約で,皇帝は封土の授与権は持つが,聖職[ 1 ]は教皇が持つという妥協が成立した。
叙任権闘争が決着していない1096年に十字軍が始まったことに注意!!
教会共同体からの除外を宣する[ 1. ]という手段で皇帝や国王に対して優位に立った教皇権は,12世紀末に選出された[ 2. ]のときに絶頂期を迎えた。彼は,イングランド王[ 3. ]を[ 1 ]して屈服させ,フランス王・神聖ローマ皇帝に対しても干渉し,「教皇権は太陽であり,皇帝権は月である」と主張した。また彼は,南フランスのカタリ派系の異端に対して[ 4. ]十字軍を行い,第[ 5. ]回十字軍を提唱した。さらに,1215年に開催した第4回ラテラノ公会議において,ユダヤ人への差別的扱いを決めた。
カタリ派は,ゾロアスター教をもとにキリスト教と仏教の要素を加えて3世紀にできた[ 6. ]教の影響を受けた異端。南フランスでアルビジョワ派と呼ばれた。第4回十字軍はインノケンティウス3世の意に反し,[ 7. ]を占領した。
西ヨーロッパの修道院は,6世紀に[ 1. ]がイタリアの[ 2. ]に開いた修道院に始まる。「[ 3. ]」をモットーとする[ 1 ]派の戒律は,労働を奴隷の仕事と考えていた古代の労働観を大きく変えた。11世紀に[ 4. ]修道院が始めた教会刷新運動は,叙任権闘争を闘った教皇[ 5. ]の改革へと発展した。12~13世紀の西ヨーロッパは大開墾時代であったが,[ 6. ]派修道院がその先頭に立った。13世紀には,清貧を重んじて財産所有を否定する[ 7. ]修道会として,ドミニコ会や[ 8. ]会が創設された。
十字軍が失敗に終わると教皇権が傾き始め,各国の王権が伸張すると教皇権はさらに衰えた。13世紀末に教皇となった[ 1. ]は[ 2. ]問題をめぐって,フランス王[ 3. ]と争い,[ 4. ]年には[ 3 ]に一時とらえられて屈服した([ 5. ]事件)。[ 3 ]はその後,教皇庁を南フランスの[ 6. ]に移転させ,教皇を監視下においた。これを「[ 7. ]」(1309-77年)という。その後,教皇庁がローマに戻ると,[ 6 ]に対立教皇が選出され,2人の教皇が相争った。これを[ 8. ](大シスマ)と呼ぶ。
14世紀後半に起きた[ 1. ]によって教皇と教会の権威は失墜した。これに対して,教会の腐敗や堕落を批判し,改革しようとする動きもおこった。イギリスの[ 2. ]は,信仰のよりどころを[ 3. ]にのみ求め,[ 3 ]を英訳した。[ 4. ](ボヘミア)の[ 5. ]は[ 2 ]の説に共鳴し,教会の世俗化を批判した。神聖ローマ皇帝の提唱で[ 6. ]年から開かれた[ 7. ]公会議は,[ 2 ]と[ 5 ]を異端とし,[ 5 ]を火刑に処した。また,この公会議で,新教皇が選出されて教会が再統一されて,[ 1 ]は終わった。ベーメンでは,[ 5 ]の火刑後に彼の教説を信じる[ 5 ]派が蜂起し,[ 5 ]戦争が勃発した。
教科書では,「[ 7 ]公会議で[ 2 ]と[ 5 ]が異端とされ,[ 5 ]が火刑に処された」というように書いており,上の記述もそのようにしましたが,実は[ 2 ]も火刑に処されています。ただ,[ 2 ]は1384年に死んでいますので,「[ 2 ]も火刑に処された」と書くと,「何それ?」という疑問が出るのを恐れてでしょうが,教科書ではこのことには触れていません。中世の処刑は,命を奪うことが目的ではなく,その存在自体を消し去ることが目的ですから,[ 2 ]も墓が暴かれ,火刑に処されて灰がテムズ川に流されています。