イギリスとフランス

「イギリスとフランス」の一問一答問題です。

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III-40. 王権の強化と中央集権化

14世紀後半におきた農民反乱である,フランスのの乱,イギリスのの乱は鎮圧されたが,領主は地代の増額もできずに没落する者が多く出た。彼らは,傭兵となったり,国王の宮廷で働く官僚であるとなったりした。さらに14~15世紀に大砲・小銃などのが使用されて戦術が変化すると,はますます没落した。一方,商業圏が拡大するにつれ市民は,市場を統一する的な政治権力を望むようになり,国王との提携をはかった。たとえば,百年戦争で勝利した仏王は大商人ジャック=クールと結び,集権化をはかった。こうして封建社会は解体へと向かった。

III-41. イギリス王権の制限(1)

1066年にが建てた朝は征服王朝であり,検地帳をつくるなど封建社会としては例外的に王権が強かった。年に朝を建てたは,フランス国王の家臣伯としてフランス内に広大な所領をもっていた。その子王は,フランス王に敗れて大陸領の大半を失い,さらに教皇と争って破門され,屈服した。その上,戦費をまかなうために重税を課したため,貴族が反抗し,1215年にを[ 7 ]に認めさせた。これは,新たな課税には高位聖職者と大貴族からなる会議の同意が必要であることなどを定めたもので,法による王権の制限であり,イギリス憲法の始まりとされる。

III-42. イギリス王権の制限(2)

ジョン王の子がを無視したため,を中心とする貴族が国王軍を破り,1265年に以前からあった高位聖職者・大貴族の会議に州や都市の代表を加えさせた。これがイギリス議会の起源とされる。さらに,1295年にによって召集された議会は,のちにと呼ばれた。14世紀半ばには,高位聖職者と大貴族からなる貴族院(上院)と,州の騎士と都市代表で構成される庶民院(下院)の二院制となった。
check_icon6(1)「シモン=ド=モンフォール」は英語名ではなく,仏語名で,彼はフランス出身の貴族である。イギリスとフランスがまだ不可分で,人的なものもふくめ密接な関係にあることに注意。(2)イギリスでは,中世末期に騎士や富裕な平民がとなり,都市の代表とならぶ下院の勢力となった。地主であった[ 6 ]は貴族とヨーマン(独立自営農民)の中間に位置し,地方行政を担う名望家となった。

III-43. 身分制議会

身分制議会とは,中世末期以降出現した,各身分の代表からなる議会。国王が行おうとする課税を承認する権限(課税協賛権)をもつ,国王の諮問(しもん)機関であった。イギリスの,1302年に初召集されたフランスの,ドイツのなどがこれにあたる。身分制を基盤としている点において,現在の議会とは異なる。現在の国民国家における国民代表的な性格は身分制議会にはない。

III-44. フランス王権の伸張(1)

年にパリ伯が始めたカペー朝は,成立当初は諸侯の力が強く,王権は弱かった。第3回十字軍に参加したは,英王からフランス内にあるイギリス領の大半を奪って王領地を拡大し,集権化に努めた。また彼は,教皇の要請に応じ,南フランスに広まったカタリ派系の異端に対する十字軍を開始した。第6回・第7回十字軍を行ったは[ 6 ]十字軍を完成させて,南フランス一帯を王領地に編入した。また[ 7 ]は,イスラームに対する十字軍への協力要請とカトリック布教のために,フランチェスコ派修道士のをモンゴルに派遣した。

III-45. フランス王権の伸張(2)

は,問題に関して教皇と争った際に,聖職者・貴族・平民の代表者からなるを1302年に召集し,その支持を得た上で教皇を年にに一時監禁して,王権を強化した。さらに,[ 1 ]は1309年に教皇庁を南フランスのに移させ,監視下に置いた。その後,朝が断絶し,1328年にが朝を建てると,イングランド王が王位継承権を主張して戦争が勃発した。

III-46. 百年戦争の背景

ヴァロワ朝の成立に対し,母親がフィリップ4世の娘で家出身であることを理由に,イングランド王は王位継承権を主張した。また,イギリスが羊毛を輸出していた地方をフランス王が支配下に置こうとしており,イギリスはそれを阻止しようとした。さらに,フランス南西部にあるギュイエンヌ(ギエンヌ)をめぐっても,両国は対立していた。

III-47. 百年戦争の経過

1346年のの戦いにおいてイギリス王とその長子が率いるがフランス軍を破り,イギリスが当初は優勢だった。フランスでは(ペスト)の流行や,1358年に起きた農民一揆の乱もおき,戦場となったフランスは荒廃した。の時にフランス王国は崩壊の危機にあった。そのとき,農民の娘が現れて,イングランド軍に包囲されたを解放し,イギリス軍を大敗させた。これをきっかけにフランス軍は勢いを取り戻し,年に戦争はフランスの勝利に終わり,イギリスはを除く全大陸領を失った。
check_icon6オスマン帝国がを陥落させてビザンツ帝国を滅ぼしたのも1453年のこと。

III-48. バラ戦争

百年戦争が終わったのちに,王位をめぐり,イングランドではバラ戦争(1455-85年)と呼ばれる内乱が勃発した。貴族は家と家を支持する2派に分かれて戦った。結果として両家は共倒れし,[ 1 ]系の家が勝利して,1485年にが[ 3 ]朝を開いた。[ 3 ]朝は国王直属の特別裁判所であるをつくり,王権に逆らう貴族を処罰し,絶対王政への道を開いた。
check_icon6[ 5 ]については,かつては[ 4 ]が設立したとされていたが,現在ではヘンリ8世が整備したとされる。