5.近代ヨーロッパ

「5.近代ヨーロッパ」の一問一答問題です。

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1848年革命(6)

V-74. 二月革命(1)

1830年の革命以降に産業革命が本格化したフランスでは,[ 1 ]王政下で選挙権を与えられていなかった中小資本家や労働者が改革宴会と称する普通選挙を求める選挙法改正運動を行った。政府が改革宴会を禁止すると,年に革命が勃発した。国王はイギリスに亡命し,社会主義者も加わる臨時政府が樹立された(共和政)。臨時政府は,男性普通選挙法を実現したほか,失業者救済のためのも設置された。

V-75. 二月革命(2)

1848年4月に男性普通選挙制による選挙が行われると,農民が社会主義政策で土地を失うことを恐れたため,社会主義者は大敗し,穏健共和派の政府が成立した。これに対して労働者が蜂起した()が,鎮圧された。同年12月の大統領選挙では,ナポレオン1世の甥に当たるがロマン派詩人のラマルティーヌらを破って当選した。1851年に[ 2 ]はクーデタを起こして独裁権を握り,翌52年にで皇帝となってと称した。
check_icon6二月革命では「3人のルイ」が登場することに注意。退位した王がルイ=フィリップ,臨時政府に入閣した社会主義者がルイ=ブラン,大統領に当選したのがルイ=ナポレオンである。

V-76. 1848年革命と「諸国民の春」

1848年にフランスで起きた革命は,ロシアを除くヨーロッパ各地に波及し,自由主義・ナショナリズム,さらには社会主義の運動が拡大する契機となった。西欧諸国では自由主義ブルジョワジー優位の社会へと向かっていったのに対し,東欧地域では民族主義に基づく民族自立が目標となった。また,労働者階級と社会主義運動も有力な政治勢力として台頭した。この一連の動きを,年革命という。さらに,ヨーロッパ各地で1848年の春に自由主義とナショナリズムの運動が高揚したことを「」と呼ぶ。

V-77. 三月革命の性格

1848年にフランスで起きた革命の影響で,ウィーンとベルリンで3月に蜂起が起き(革命),体制を支えてきたオーストリア宰相がイギリスに亡命して[ 3 ]体制が崩壊した。ドイツの[ 2 ]革命には3つの側面がある。(1)憲法制定などの改革を求めたが,保守派が勢力を回復して失敗に終わった。(2)[ 5 ]者によるドイツの統一運動。が開かれたが,ドイツ皇帝に推した王の拒否にあい,49年に武力弾圧で解散させられた。(3)オーストリア帝国内の民族運動。ハンガリー,ベーメン(ボヘミア),北イタリアで民族運動が激化したが,鎮圧された。

V-78. フランクフルト国民議会

1848年のドイツ革命では,の諸邦から成年男性の普通選挙で選ばれた議員からなるが開かれた。議員は,学者・高級官吏・ブルジョワジーを中心とする主義者が多かった。[ 3 ]では,ドイツの統一と憲法制定が議論された。だが,オーストリア中心にドイツ統一を実現しようとする主義と,プロイセン中心に統一を実現しようとする主義が対立して紛糾した。翌49年に[ 6 ]主義が勝利し,[ 4 ]主義的憲法を採択した上でプロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世にドイツ皇帝への就任を要請したが,[ 4 ]主義者が多数を占める国民議会の要請は受けられないとして拒否された。こうして,[ 4 ]主義者による統一運動は挫折し,国民議会も解散させられた。

V-79. 「諸国民の春」

ハンガリーでは1849年に,がオーストリアからの独立を宣言したが,軍の援助を受けたオーストリア軍によって鎮圧された。ベーメン(ボヘミア)では,1848年に人がオーストリアからの独立を求めて蜂起したが,オーストリア軍に鎮圧された。北イタリアでは,ミラノ・ヴェネツィアでオーストリアに対する暴動が起きたのを背景に,王国がイタリア統一を目指しオーストリアと戦ったが,オーストリア軍に大敗した。中部イタリアでは1849年に,「」のがを樹立したが,教皇の要請を受けたフランス軍により鎮圧された。
check_icon618世紀末にポーランド分割反対闘争を行ったコシューシコと,ハンガリー独立運動指導者コシュートを混同しないように。

ウィーン体制(15)

V-59. ウィーン会議(1)

1814年から翌年にかけて,フランス革命とナポレオン戦争が引き起こした混乱を収拾し,新たなヨーロッパの秩序を建設しようとして,オスマン帝国を除く全ヨーロッパ諸国の代表が集まって会議が開かれた。諸国の利害が対立して議事は難航したが,ナポレオンが島を脱出して皇帝に復位したことで,オーストリア外相(のち宰相)を中心に妥協が成立し,の戦いの直前に[ 1 ]議定書が調印された。
check_icon6ウィーン会議における議事が進行せず,舞踏会ばかり開かれることを風刺して,「会議は踊る,されど進まず」と評された。

V-60. ウィーン会議(2)

ウィーン議定書の原則の一つは,フランス外相が唱えたで,フランス革命以前の王朝を復活させようというものである。この原則によりフランス・スペイン・ナポリで朝が復活した。あと一つの原則は,大国間のであり,領土の譲渡に対しては代償がもうけられた。
check_icon6フランス革命前の状態に戻すという[ 1 ]が唱えた[ 2 ]は,フランス革命・ナポレオン戦争の戦争責任を巧妙に回避する意味をもっていた。

V-61. ウィーン議定書(1)

旧の大部分で形成されたポーランド王国が新たに建設されたが,王は皇帝が兼ね,事実上の[ 2 ]領であった。また,[ 2 ]は・ベッサラビアを獲得した。イギリスは,旧領の(スリランカ)・を獲得した。立憲王国となった[ 4 ]は旧領(のちのベルギー)を譲られ,[ 7 ]は・などの北イタリアを獲得した。プロイセンはラインラントなどを獲得した。また,スイスはとして承認された。
check_icon6黒海の北側に位置するベッサラビアは,1917年のロシア革命後にルーマニアが併合したが,第二次世界大戦勃発後の1940年にソ連がルーマニアに軍事的圧力をかけ,割譲させた。

V-62. ウィーン議定書(2)

ドイツでは,35の君主国と4自由市からなるが結成された。オーストリアが議長国として大きな力を得たが,参加各国はそれぞれ独立国としての権能を有していた。[ 1 ]は1848年の革命で一時中断したが,革命後復活して1866年の戦争まで存続した。

V-63. ウィーン体制

1814~15年に開かれた会議で成立した19世紀前半の国際体制を[ 1 ]体制と呼ぶ。この体制は,大国間のを図りつつ,フランス革命とナポレオンによる大陸支配のもとでヨーロッパ各地に広まったとナショナリズムの運動を抑圧して,フランス革命前の状態を維持しようとする復古反動体制であった。この体制を維持・強化する目的で,二つの同盟が結成された。ロシア皇帝が提唱したと,(のちに五国同盟)である。
check_icon6ナポレオンが没落すると,イギリスに対抗できる国はなく,事実上イギリスの覇権が確立した。イギリスの圧倒的な経済力と軍事力によって,比較的平和な状態が続いたことを,と呼ぶ。

V-64. 神聖同盟

ウィーン体制を維持しようと,ロシア皇帝の提唱でできたのがである。この同盟は,キリスト教精神に基づいて諸君主が兄弟のように協力しようというもので多くの君主が参加したが,自由主義的風潮が強くなってきたは曖昧な内容を警戒して参加しなかった。また,新教国との同盟を嫌った,そしてイスラームのは参加しなかった。この同盟は,オーストリア外相(のち宰相)が主導するウィーン体制を支えたが,ラテンアメリカの独立が成功したように限界があった。

V-65. 四国同盟

ロシア皇帝の提唱でできたよりもウィーン体制を実質的に支えたのは,1815年にできたである。原加盟国は・・オーストリア・プロイセンの四か国で,1818年にが加わってとなった。この同盟は,1820年に始まった立憲革命をめぐる対応で,イギリスが脱退して1822年に事実上崩壊した。

V-66. ウィーン体制への反抗(1)

フランス革命とナポレオンの大陸支配のもとで各地に広まったとは,各地でウィーン体制に対する反抗運動を引き起こした。[ 1 ]運動は個人の自由を尊重し,国民主権や私的所有権の確立・経済活動の自由などを求める運動で,資本主義の発達で台頭してきたが運動の中心となった。[ 2 ]は状況に応じて異なる訳語が当てられる。と訳す場合,一体性を持った「国民」から形成されるを目指す運動としてとらえられ,統一国家の形成をめざすドイツ・イタリアの運動に用いられる。と訳す場合,他国・他民族に支配されている民族が自立・独立を求める運動ととらえられ,オーストリアの支配下に置かれていた(ハンガリー)人などの運動に用いられる。

V-67. ウィーン体制への反抗(2)

ドイツでは,学生同盟がとを求めて結成されたが,オーストリア外相により弾圧された。イタリアでは,秘密結社が結成され立憲自由主義運動を展開した。[ 5 ]はイタリア各地における革命運動を指導したが衰退し,運動の中心はが組織したへ移った。ブルボン朝が復活したでは,1820年に立憲革命が起きたが,革命の波及を恐れるフランス軍の干渉で1823年に挫折した。ロシアでは1825年,ナポレオン戦争に従軍して西欧の自由主義に触れてきた青年貴族将校たちが憲法制定や農奴制の廃止を求めて,の即位に際しての乱を起こしたが,鎮圧された。

V-68. ウィーン体制の動揺:ラテンアメリカ諸国の独立(1)

ブラジルは領であるが,ラテンアメリカのほとんどが領であった。また,カリブ海の島々にはイギリスやフランスなどの奴隷制に基づくプランテーションが広がっていた。フランス革命で本国が混乱すると,フランス領で黒人奴隷がを指導者として蜂起した。[ 5 ]はナポレオン軍に捕らえられ獄死したが,年に最初の黒人共和国として[ 4 ]が独立した。メキシコでは司祭の蜂起から独立運動が闘われ,独立が達成された。ブラジルでは[ 1 ]の王子が帝位につき,帝国として独立したが,1889年に共和国となった。

V-69. ウィーン体制の動揺:ラテンアメリカ諸国の独立(2)

ラテンアメリカの住民の構成は,植民地生まれの白人,白人とインディオの混血,白人と黒人の混血,黒人などからなっていた。本国の抑圧に反発して,[ 1 ]が中心となり,独立運動を始めた。ベネズエラ・コロンビア・ボリビアの独立を指導した,アルゼンチン・チリ・ペルーの独立を指導したも[ 1 ]であった。そのため,独立後もラテンアメリカでは,[ 1 ]の大地主による支配が続いた。

V-70. ウィーン体制の動揺:ラテンアメリカ諸国の独立(3)

ラテンアメリカ諸国の独立運動に対して,アメリカ大統領は1823年に[ 1 ]宣言を発し,アメリカ大陸とヨーロッパの相互不干渉を唱えた。また,イギリス外相はイギリスの商品市場の拡大をねらって独立を認めたため,ウィーン体制を支えてきたオーストリアのもラテンアメリカの独立運動に干渉することができなかった。

V-71. ウィーン体制の動揺:ギリシア独立

1821年,からの独立をめざし,ギリシア独立戦争が始まった。バルカン半島から東地中海にかけて進出することを目指していたイギリス・・フランスがギリシアの独立を支援した。オーストリアは,ギリシアが独立すると自国内での民族運動が激化することを恐れたが,他国との協調を考えて中立を維持した。こうして,1829年に独立が承認され,翌30年のロンドン会議で列強による承認をえた。ギリシアの独立は,ウィーン体制下で新たな国民国家を誕生させたことで,ウィーン体制崩壊の前触れとなった。
check_icon6イギリスのロマン派詩人はギリシア独立戦争に参加し,病死した。フランスのロマン主義画家は,オスマン軍による虐殺事件を題材に「キオス島の虐殺」を描いた。

V-72. フランス復古王政と七月革命

の即位により1814年に成立した朝の復古王政は,厳しい制限選挙制をとる立憲君主政であった。[ 1 ]をついだ弟のは革命期に土地を没収された亡命貴族に多額の保証金を出すなどの反動政治を行ったため,自由主義者のブルジョワジーを中心とする国民の反発を招いた。[ 3 ]は国民の関心を外にそらそうとに出兵したり,自由主義者が多数当選した新議会を解散し,言論・出版の自由の制限を行った。そのため,パリで民衆が蜂起し,[ 3 ]はイギリスに亡命した(革命)。[ 2 ]家にかわって,自由主義者として知られる家のが,王に迎えられて,[ 5 ]王政が成立した。

V-73. 七月革命の影響

1815年に締結されたでオランダ領とされていたは,七月革命に刺激されて独立運動を活発化させ,1830年に独立を宣言し,翌31年に立憲王政が成立した。ポーランド・ドイツ・イタリアでも国家を求める運動が活発化した。ポーランドので起きた蜂起は軍により鎮圧され,中部イタリアにおけるの蜂起は軍により鎮圧された。ドイツではザクセンなどで自由主義者の運動が起きたが,やがて沈静化した。
check_icon6ポーランドの派作曲家であるは1830年におきたワルシャワ蜂起の失敗の報を聞いて,ピアノ練習曲(エチュード)「革命」を作曲した。

フランス革命とナポレオン(21)

V-38. フランス革命前の社会

革命以前のフランス社会は身分制を基盤としていた。が第一身分,が第二身分,人口の9割以上を占めた農民や都市の民衆は第三身分であった。第一身分と第二身分は重要な官職を独占し,中世封建社会における不輸不入権を引き継いでなどの特権を持っていた。このようなフランス革命前の社会を旧制度()という。18世紀になると,富裕な商工業者などの有産市民()が[ 4 ]に反発を強めていた。そこに思想が広まり,『第三身分とは何か』を書いたは,第三身分の権利を主張した。

V-39. フランス革命の展開(1)

フランス革命は,特権の廃止を求める王権に対するの反抗から始まった。その後,旧制度()廃棄を求める有産市民()が指導権を握り,共和政を確立した。一方,農民や都市の下層民衆は[ 3 ]の廃棄に重要な役割を果たしたが,同時に自分たちに特有な規範に反したものに対してシャリヴァリという独自の抗議運動も展開して,資本主義経済にも反対した。このように,フランス革命は貴族・[ 4 ]・農民・下層民衆という社会層が絡み合って進行したため,複雑かつ徹底的な複合的な革命となった。
check_icon6フランス革命を市民革命とする見方もあったが,市民革命という概念自体が否定されつつある。(参照IV-57)

V-40. フランス革命の展開(2)

フランス革命(1789~99年)における議会と政治体制は次のように展開する。
(1)1789年:三部会 →
(2)1791年憲法でが成立:(議会)[ 1 ] →
(3)1792年:(政体)[ 2 ] → :(議会)[ 3 ] →
(4)1795年:[ 4 ] →
(5)1799年:[ 5 ] →
check_icon6革命の進展に伴って中心的な勢力は次のように変化した。富裕市民と自由主義貴族の利害を代表する立憲君主派(派) → 穏健な共和政を主張する,大商人・ブルジョワジーの利害を代表する派 → 農民・下層民衆に支持された急進共和主義の派 → のクーデタで穏健共和派のブルジョワジー支配に回帰

V-41. フランス革命の勃発(1)

18世紀にイギリスとの戦争を繰り返したフランスの国家財政が極度に悪化したため,国王は重農主義者や銀行家を登用して,第一身分と第二身分からなる特権身分の特権の廃止などの財政改革を目指した。だが,特権身分が抵抗したため,1615年以来開催されていなかったが招集されることとなった。[ 5 ]が開催されると,議決方法をめぐって特権身分と第三身分が対立し,第三身分の議員たちはを結成し,憲法制定まで解散しないことを誓った()。[ 6 ]が憲法の起草を求めると,貴族と国王[ 1 ]が弾圧しようとした。これに対して,7月14日にパリの民衆はを攻撃した。この事件を機に,全国的に農民反乱が発生した。

V-42. フランス革命の勃発(2)

1789年7月14日に発生した襲撃事件が誘発した農民反乱を受けて,はを決定し,や教会へのは無償で廃止された。だが,領主に納めるは有償だったため,農民は土地を入手することはできなかった。また,[ 2 ]は自由主義貴族らが起草したを採択した。この宣言は,自然法に基づいて,基本的人権・国民主権・の不可侵などの原理を主張するものであった。10月,食料高騰に苦しんだ民衆がを行って,国王一家をパリのテュイルリー宮殿へ移転させた。1790年には教会財産を没収し,1791年にはを廃止して営業の自由を確立した。

V-43. 立憲君主政の成立:フランス革命

年6月,国王一家は王妃の実家オーストリアへの逃亡を図ったが,国境近くので捕らえられた。この[ 4 ]逃亡事件で国王は国民の信頼を失った。9月,選挙権を有産市民に限定した一院制のを定める[ 1 ]年憲法が発布された。この憲法のもとで成立したでは,革命のこれ以上の進展を望まない派と,富裕市民の利害を代表して共和政を主張する派が対立した。
check_icon6ルイ16世一家がオーストリアに逃亡しようとした背景には,それまで国王と取引して革命の急進化を防いでいたフイヤン派のが急病死したことがあった。

V-44. 革命戦争の開始:フランス革命

フランス最初の憲法である年憲法のもとで成立したでは,国内外で反革命の動きが活発となると,共和派の勢力が強くなり,1792年に派内閣が成立した。[ 3 ]派内閣は,反革命の態度を取るに宣戦して,革命戦争が始まった。だが,貴族が士官をつとめるフランス軍隊は戦意もなく,オーストリア・プロイセン連合軍がフランス国内に侵入した。この危機に際し,全国各地からがパリに集まり,国王を逮捕し,王権を停止した(事件)。
check_icon6マルセイユから来た義勇兵たちの団歌「」が現在のフランス国歌である。

V-45. 共和政の成立:フランス革命

1792年の事件で王権が停止されたのち,選挙によるが成立し,王政の廃止と共和政の樹立が宣言された()。
check_icon6共和政が成立する直前に,フランス軍はにおいて初めてプロイセン・オーストリア連合軍に勝利した。プロイセン軍に従軍していたドイツの文豪は,「ここから,そしてこの日から,世界史の新しい時代が始まる」と記した。

V-46. フランス革命の急進化と対仏大同盟

1792年に,選挙により成立したでは,農民や下層民衆に支持された急進的な派が台頭し,1793年に国王をで処刑した。革命の影響が及ぶことを恐れたイギリス首相は,列強とを結成し,同盟軍はフランス国内に侵入した。1793年に[ 2 ]が国民に兵役を強制するを実施すると,王党派が指導するの農民反乱がおきた。

V-47. 恐怖政治(1):フランス革命

国内外の危機を乗り切ろうと,1793年に派はジロンド派をから追放して,都市の下層民衆や農民の支持を確保する政策をとろうとした。選挙制を定めた憲法の制定(施行は延期された),亡命貴族の土地の競売,による物価統制,さらに農民対策としてを行った。
check_icon6国民議会による1791年の封建的特権の廃止では封建地代は有償廃止であったため,農民は土地を入手できなかった。国民公会による1793年の封建地代の無償廃止では農民が土地を入手して,小土地所有農民が創出された。だが,これらの農民は革命のさらなる急進化で土地を失うことを恐れ,保守化してジャコバン派から離れていった。

V-48. 恐怖政治(2):フランス革命

を中心とするジャコバン(山岳)派政権は,強大な権限を握るを使って独裁を行い,革命裁判所を設置して反対派を多数処刑した。ジャコバン(山岳)派による,このような政治をと呼ぶ。また,ジャコバン(山岳)派政権は,暦や法を制定した。だが,[ 3 ]が人々に不安を与え,有産市民(ブルジョワジー)はによる物価統制政策に不満を感じ,により土地を入手した農民はそれ以上の変化を望まなかった。[ 1 ]はジャコバン派内の急進派エベールや穏健派のダントンを処刑して独裁を強化したが,年,のクーデタで[ 1 ]は権力を失って処刑された。
check_icon6メートル法は1799年に総裁政府の時に正式に採用された。

V-49. 総裁政府の成立:フランス革命

のクーデタでジャコバン(山岳)派が没落したのち,穏健共和派が有力となり,選挙制を復活させた憲法が制定された。この憲法により,5人のからなる[ 4 ]政府が成立した。だが,対外戦争や王党派の反乱で政権は安定せず,私有財産の廃止を唱えるの陰謀事件もおきた。このような社会不安を背景に,商工業者や入手した土地の確保をめざした農民は社会の安定を求め,コルシカ島生まれの軍人に期待をかけた。
check_icon6フランス革命における憲法は,1791年・93年・95年と奇数年に出されていることに注意。

V-50. ナポレオンの台頭:フランス革命の終結

1796年,ナポレオンはイタリア遠征軍司令官として軍を破って,を崩壊させた。さらに,1798年,イギリスとの連絡を絶つ目的でに遠征した。ナポレオンは陸上の戦いでイギリス・オスマン帝国軍を破ったが,海上での戦いに敗れてエジプトに孤立した。この状況下,1799年にイギリスがロシア・オーストリアなどとを結び,政府が危機に陥ると,ナポレオンはエジプトを脱出して帰国し,[ 6 ]政府を倒して,自らを第一とする[ 7 ]政府を樹立した(のクーデタ)。ここに,フランス革命は終了した。
check_icon6ナポレオンのエジプト遠征において,神聖文字(ヒエログリフ)解読の手がかりとなったが発見された。

V-51. ナポレオン時代(1):帝政の開始

1799年ののクーデタでを倒してを樹立したナポレオンは,革命において教会財産を没収したため対立関係にあったローマ教皇と1801年に(コンコルダート)を結んで和解した。さらに翌1802年,イギリスとの和約を結んでを崩壊させ,国民投票によってに就任した。内政においては,フランス銀行を設立して国家財政の安定を図り,公教育制度を確立し,1804年にはの不可侵,法の前の平等などのフランス革命の成果を定着させる民法典『』を制定した。その後,同1804年に国民投票で圧倒的な支持を受けて皇帝に即位し,と称した()。

V-52. ナポレオン時代(2):ナポレオンの大陸支配(1)

年にナポレオンが第一帝政を開始したのを受けて,1805年にイギリス・ロシア・オーストリアなどがを結成し,同年の率いるイギリス艦隊がフランス・スペイン連合艦隊をの海戦で破って,ナポレオンの対英上陸作戦を断念させた。だがナポレオンは大陸において,同1805年にオーストリア・ロシア連合軍をの戦い(三帝会戦)で破り,[ 2 ]を崩壊させた。
check_icon605年にトラファルガーの海戦とアウステルリッツの戦いがおこったことをゴロで「怒った虎,愛してる」と覚えておこう。

V-53. ナポレオン時代(3):ナポレオンの大陸支配(2)

1806年,ナポレオンが西南ドイツ諸国にを結ばせて自らの保護下におくと,神聖ローマ皇帝が帝位を辞退し,神聖ローマ帝国が最終的に消滅した。さらに,プロイセンとロシア連合軍を破ったナポレオンは,1807年にプロイセン・ロシアに条約を結ばせた。この条約でナポレオンは,プロイセンの領土の大半を奪い,ポーランドにを設立させた。ナポレオンは兄弟をスペイン王やオランダ王の地位につけ,ヨーロッパ大陸のほとんどを支配下に置いた。
check_icon6神聖ローマ帝国は,年に結ばれた三十年戦争の講和条約で事実上解体していたことに注意。

V-54. ナポレオン時代(4):ナポレオンの大陸支配(3)

1806年にナポレオンは,フランス産業のために大陸市場を確保しようとしてベルリンでを発布して,大陸諸国にイギリスとの通商を禁じた。だが,広い海外市場を持ち,産業革命が進んでいたイギリスには大きな経済的打撃を与えることはできず,逆にこの命令は大陸諸国に大きな経済的打撃を与え,ナポレオンに対する反抗を招くことになった。
check_icon6ナポレオンの大陸支配に対し,イギリスは海上封鎖をもって対抗したが,これにより通商が妨害されたアメリカは1812年に戦争をおこした。この結果,アメリカは経済的自立が進んだため,第2次独立戦争と呼ばれる。

V-55. ナポレオンに対する反抗

ナポレオンは征服地においては,「ナポレオン法典」などを通じてフランス革命が提起した原理を浸透させようとした。だが,フランスの支配に対する反対運動を引き起こし,各地の民族意識を目覚めさせることにもなった。まず,で反乱が起こり,のちには「1808年5月3日」でこの様子を描いた。プロイセンでは,観念論哲学者が『ドイツ国民に告ぐ』という講演を行って国民意識を呼び覚まそうとし,・らはを行い,の近代化を図った。

V-56. プロイセン改革

1807年にが農奴制を廃止し,後を継いだはギルドの特権を廃止して営業の自由を認め,また農業改革や行政改革に努めた。これらの改革により,農民は農奴身分から解放されたが,自作農となる農民は少なく,解放された農民の多くは農業労働者となり,による資本主義的農場経営を支えた。この結果,[ 3 ]の勢力は強まり,官僚や将校としてプロイセンの政治・経済の中核を担うようになった。
check_icon6ハルデンベルクは1814~15年に開かれた会議の全権代表となり,プロイセンの領土拡大に成功した。

V-57. ナポレオンの没落(1)

ロシアがを無視してイギリスに穀物を輸出すると,ナポレオンは年にロシア遠征を試みたが,失敗した。これを契機に,各地で反フランス闘争がおこった。この一連の戦争を解放戦争と呼ぶ。1813年に諸国はの戦い(戦争)でナポレオン軍を破り,翌14年にパリを占領した。ナポレオンは退位してイタリア半島の西岸にある島に流され,ルイ16世の弟が王位について朝が復活した。

V-58. ナポレオンの没落(2)

フランス革命とナポレオン戦争から生じた混乱を収拾させようとして,諸国は年に会議を開催したが,諸国の利害対立で議事が進行せず,紛糾した。また,ブルボン朝のに対する国民の不満を見たナポレオンは,1815年に島を脱出してパリに戻り,帝位に復位した。しかし,の戦いでナポレオンは大敗し,再び退位した(天下)。その後,ナポレオンは南大西洋の島に流され,1821年に同島で死去した。

産業革命(12)

V-1. 近代ヨーロッパの課題

マルクス主義の立場から,17世紀にイギリスで勃発した革命・革命,アメリカ独立革命やフランス革命を市民革命とする見方があった(参照IV-57)。この見解は絶対的な権力を振るう絶対王政を市民(ブルジョワジー)が倒すという視点でとらえるものであるが,現在では絶対王政自体をそのようにはとらえない(参照IV-38)。18世紀半ばから19世紀のヨーロッパが直面する課題は,産業革命という工業化であり,国民国家の形成である。産業革命は農業社会を工業社会に変えるだけでなく,社会生活や人々の行動様式も大きく変えるものであった。また,フランス革命以前には人々はギルドの一員や貴族の一員といった集団の一員として暮らしていたが,フランス革命はこれらの集団や身分を廃して,個々人を平等な国民として国家に結びつけることを求めた。アメリカ独立革命・フランス革命といった民主政治を求める革命と産業革命をあわせて,「二重革命」とするとらえ方もある。

V-2. 産業革命

産業革命は,にの工業に始まり,19世紀に他の国に広まっていった。産業革命は,産業だけにとどまらずに社会構造を大きく変えていった大変革である。産業革命によって,工場制機械工業が行われるようになると,従来の家内工業や手工業は没落し,工場を経営するが台頭した。一方,賃金をもらって工場などで働くが出現した。こうして,資本家が労働者を雇って商品生産を行うことで利潤を追求する体制が確立した。また,産業革命は労働問題や社会問題を生み出し,それを解決する思想として思想なども誕生させた。

V-3. イギリス産業革命の背景

イギリスで最初に産業革命が起きた原因は次のようなものがある。(1)絶対王政期の政策,大西洋三角貿易の一環で行われた,そして(工場制手工業)による資本の蓄積。(2)絶対王政期の戦争において,17世紀に,18世紀にを破って広大な海外市場を確保したこと。(3)農業革命の進行にともなって第2次が進み,土地を失った農民が都市の工業労働者となったこと。(4)石炭・鉄などの資源に恵まれていたこと。(5)17世紀におきた革命以来,自然科学と技術の進歩がめざましかったこと。(6)17世紀以降,会社がインドからもたらした織物が爆発的な人気を呼び,[ 9 ]織物の国産化が図られた。

V-4. 農業革命

18世紀のイギリスで生じた農業上の変革のこと。ヨーロッパの農業では,10~11世紀に普及したが行われていたが,大麦・クローヴァー・小麦・カブの順に4年周期で輪作を行うと休耕地が不要であることがわかった。そこで,18世紀に4つの作物を順に植える四輪作農法である農法が広まり,これにともなってを目的とした第2次(エンクロージャー)が進行した。議会の奨励で進められた[ 4 ]で,農業労働者を雇う的大農場経営が確立した。[ 4 ]で土地を失った農民は,農業労働者や都市の工業労働者となった。こうしてできた都市に流れ込んだ労働力が,産業革命を促進させた。

V-5. 二つの囲い込み

百年戦争後に発展してきたイギリスの工業を背景に,16世紀を中心にのために地主が小作人から土地を取り上げたのが第1次囲い込み。この運動は政府により禁止された的なもので,が『ユートピア』で風刺した。四輪作農法である農法の広まりを背景に,を目的として18~19世紀初頭に行われたのが第2次囲い込み。この運動は,議会が奨励した的運動で,農業労働者を雇う的大農場経営を成立させた。

V-6. イギリス産業革命:機械の発明(1)

大西洋三角貿易でもたらされた綿花を原料として,綿工業が発達した。が毛織物工業用に発明した飛び杼(梭)が綿工業に転用されると,紡績工程と織布工程での発明があいついだ。まず紡績工程において,のジェニー(多軸)紡績機,の水力紡績機,のミュール紡績機が発明され,綿糸が大量に生産された。それを受けて,織布工程においてが蒸気機関を利用したを発明した。初めカリブ海からもたらされた綿花は,アメリカのが綿繰り機を発明したのち,アメリカ合衆国の南部から大量に供給されるようになった。
check_icon6ラテン語で水は「アクア」というので「アクアの水力」。クロンプトン,ハーグリーヴズの方は人名と発明品の最初の一文字を取って,「組の恥」と覚えよう。

V-7. イギリス産業革命:機械の発明(2)

蒸気機関は18世紀初めにが実用化していたが,効率が低く炭鉱の排水用として用いられた。1769年にが蒸気機関を改良すると,カートライトのに使用された。また,1814年にが蒸気機関車を製作し,1825年にストックトン・ダーリントン間の走行に成功した。1830年には,・リヴァプール間で営業運転が始まった。また,アメリカ人のが蒸気船を実用化した。

V-8. イギリス産業革命:交通革命と製鉄法の発明

による蒸気機関車,アメリカ人による蒸気船の発明は,交通・運輸上の一大変革をまきおこした。19世紀におきたこの変革を革命と呼ぶ。産業革命における新たな発明は,機械工業の発達を促し,それは機械の原料である鉄をつくる鉄工業に及んでいった。鉄工業においては,はじめ木炭を燃料に使っていたが,森が伐採されて「森林の枯渇」という環境破壊が進んだ。そこで,は石炭を加工して用いるコークス製鉄法を開発し,鉄の大量生産が可能となった。

V-9. 新興大都市の出現

産業革命は伝統的な生活様式を変えていったばかりか,人口の都市集中を生み出し,新興の商工業大都市が出現した。綿工業都市として発展した,産業革命以後はその外港として発展した,製鉄業・機械工業で発展したなどは,産業革命が始まって以来100年間で人口は10倍以上に増えた。だが,こうして発展した大都市に住んでいた産業資本家や労働者といった新たな住民には選挙権が与えられていなかったため,19世紀前半の改革において選挙法改正が大きな課題の一つとなった。

V-10. 産業革命に伴う社会問題

産業革命は,公害などの環境汚染を生んだだけでなく,労働者が公衆衛生の状態の悪いスラム街にすんだため,コレラなどの伝染病が流行した。19世紀に入り,公衆衛生の意識が高まり,1848年には公衆衛生法が成立した。産業革命の初期には労働者の多くは読み書きができず,初等教育の問題も発生した。この問題に対しては,1870年に党の内閣がを制定して,公立学校の増設をはかった。

V-11. 産業革命に伴う労働問題

産業革命によって工場制機械工業による大量生産が行われるようになると,賃金の安いやが多く雇われるようになり,熟練のは職を失った。機械化によって職を失った[ 3 ]は,1810年代に運動と呼ばれる運動を行ったが,政府の弾圧にあって鎮圧された。産業革命期には,長時間労働などの労働問題を改善しようとたびたびが出された。労働者は,労働条件の改善を目指してを結成したが,当初政府は不安を感じて1799年に団結禁止法を制定して弾圧した。19世紀に入り,の機運が高まると,1824年に団結禁止法は撤廃され,1871年に党の内閣が[ 3 ]法を制定して,[ 3 ]の法的地位が認められた。

V-12. 社会主義思想の誕生

産業革命期の労働問題・社会問題を解決するために,私有財産を廃して生産手段を共有化することをめざす社会主義思想が成立した。イギリスの工場主は工場法の制定や労働組合の設立に努力した。フランスの社会主義者としては,アメリカ独立戦争に義勇兵として参加したことでも知られる,協同組合的理想社会を基礎とする社会を目指した,1848年の革命でできた臨時政府に入閣した,すべての権力を否定する無政府主義を唱えたらがいる。ドイツの社会主義者としては,『資本論』を著した,その協力者が代表である。[ 7 ]・[ 8 ]は自分たちの理論を「社会主義」と称し,ほかの社会主義者の理論を「社会主義」と批判した。
check_icon61848年に[ 7 ]・[ 8 ]は『共産党宣言』を発表した。

アメリカの独立と発展(25)

V-13. イギリス領13植民地

1607年にできたから始まり,1732年に建設されたを最後に,北アメリカにおけるイギリス領の植民地が成立した。[ 3 ]植民地では,1619年に[ 1 ]で最初のが設けられるなど,自治的な政治体制がつくられていた。北部では,自営農民による農業のほか商工業も発達した。一方,南部では黒人奴隷を使用して,タバコ・米などを栽培する(大農園)が盛んであった。この南北の産業構造の違いは,独立後の19世紀前半に南北間の対立へと発展し,1861年に戦争が勃発する。

V-14. 本国と13植民地との対立(1)

戦争の講和条約である1763年の条約で,フランスがすべての北アメリカにおける領土を失うと,イギリス本国は植民地の商工業の発展を抑えようとする政策を強化した。また,[ 1 ]戦争で大きな財政赤字を負った本国政府は,植民地への課税も強化した。年に出されたに対して13植民地は,「」と主張して抵抗した結果,翌年[ 5 ]は撤廃された。だが,本国政府は1767年からタウンゼンド諸法と呼ばれる茶などへの課税を強制し,植民地側は不買運動でこれに抵抗した。

V-15. 本国と13植民地との対立(2)

東インド会社の財政難を救済する目的で,年に出されたに憤慨した植民地の住民が事件を起こすと,本国政府はボストン港を閉鎖したため,対立はいっそう深まった。植民地側は,植民地ので,1774年に第1回を開いて,本国との通商断絶が決議された。
check_icon6アメリカ独立時の中心都市は,フィラデルフィアであることに注意。ワシントン(コロンビア特別区)は独立後に建設され,1800年に首都となった。

V-16. アメリカ独立戦争(1)

年にとコンコードで武力衝突が起こり,アメリカ独立戦争が始まった。植民地側は,ヴァージニアのプランターであるを最高司令官に任命して戦った。だが,この時点で植民地には独立派のほか,独立に反対する国王派もいたが,が著した『』が独立の気運を高めた。年7月4日に,で開かれた第2回は,らが起草したを採択した。この宣言では,イギリスのが名誉革命を正当化するために唱えたを用いつつ,自然法思想を基盤に独立を正当化した。
check_icon6独立戦争勃発時のイギリス国王は,ジョージ3世である。

V-17. アメリカ独立戦争(2)

アメリカ軍は最初苦戦したが,1777年のサラトガの戦いに勝利すると,翌年が同盟を結んで参戦し,さらになどもアメリカ側に立って参戦した。また,ポーランドの,フランスの「空想的社会主義者」,フランス革命でのちに活躍する自由主義貴族らが,義勇軍に参加した。ロシアのの提唱で,北欧諸国を主とするが結ばれると,イギリスは孤立した。1781年,アメリカ・フランス連合軍がの戦いで勝利して,独立戦争は事実上終了した。
check_icon6(1)アメリカの独立では,基本的人権・人民主権を掲げたことから「独立革命」と呼ばれる。アメリカ独立革命,フランス革命,ラテンアメリカの独立,さらに産業革命は世界の一体化が進行するなかで,相互に影響し合って展開したとする大西洋革命(環大西洋革命)という見方がある。(2)避雷針を発明したことでも知られるフランクリンは駐仏公使としてフランスの援助を獲得することに成功した。

V-18. アメリカ独立の承認:パリ条約

1781年のの戦いで敗れたイギリスは,年の条約でアメリカ合衆国の独立を認め,川以東のを割譲した。
check_icon6イギリスがアメリカに割譲した[ 4 ]川以東の[ 5 ]は,1763年に結ばれた戦争の講和条約条約でイギリスがフランスから獲得した領土である。また,1783年のヴェルサイユ条約で,イギリスはセネガルをフランスへ,フロリダをスペインに返還した。これらの領土も,1763年の[ 7 ]条約でイギリスが獲得したものであった。

V-19. アメリカ合衆国の成立(1):憲法制定会議

「アメリカ合衆国」の名称は,独立戦争中の1777年に採択・承認された連合規約で定められた。連合規約はアメリカ最初の憲法であるが,13州はそれぞれ大幅な主権をもち,中央政府の権力が弱かった。そこで強力な中央政府を樹立しようとする運動が高まった結果,独立後の年ににおいて憲法制定会議が開かれ,憲法が制定された。
check_icon6大陸会議の開催地と同じく,憲法制定会議もフィラデルフィアで開催されたことに注意。ワシントン(コロンビア特別区)は独立後に建設され,1800年に首都となった。

V-20. アメリカ合衆国の成立(2):合衆国憲法

1787年にで開催された憲法制定会議で制定された合衆国憲法は,主権を基礎に据えた。そして,各州には大幅な自治を認めつつ,中央政府の権限を強化するを採用した。その一方,権力の集中を防ぐために,の原則を定めた。だが,この憲法をめぐって,これを支持すると,これを批判するの対立が生じた。
check_icon6制定当初の合衆国憲法では,インディアンや黒人の権利は認められていない。また,女性に参政権はない上,白人男性の参政権も制限されていた。1829年に就任したジャクソン大統領のもとで,白人男性普通選挙制が確立した。

V-21. アメリカ連邦政府の発足

アメリカ合衆国憲法に基づいて,1789年に政府が発足し,が初代大統領に就任した。[ 2 ]は,復興に努めるとともにフランス革命に対しては政策をとった。[ 2 ]は,3選出馬を辞退して引退した結果,大統領は2期までという慣例ができた。1800年に,新たな首都として[ 2 ](コロンビア特別区)が建設された。
check_icon6アメリカ史上では,フランクリン=ローズヴェルト大統領が第二次世界大戦が始まっていたことを理由に,例外的に4選までされた。だが,その後憲法が修正されて,憲法上の規定において2期に制限されている。

V-22. アメリカの領土拡大(1)

13州から始まったアメリカ合衆国は,独立が承認された1783年の条約でイギリスから川以東のを獲得して,領土は倍増した。さらに,1803年に第3代大統領のもとで,フランスから[ 2 ]川以西の[ 3 ]を買収して,また領土が倍増した。1819年,第5代大統領のもとで,スペインからを買収した。さらに,メキシコから独立したを1845年に併合した。西海岸の北方の地は1818年以来イギリスとアメリカの共同領有とされていたが,1846年の条約をもって国境が定められ,アメリカはを併合した。人々が西へ西へと進んでいくことを運動と呼び,未開拓地との境界は(辺境)と呼ばれる。[ 10 ]は,1890年の国勢調査で消滅が宣言された。

V-23. アメリカの領土拡大(2)

アメリカは1840年代に(マニフェスト=ディスティニー)を唱えて,1846~48年の戦争をおこし,・ニューメキシコ地方を獲得した。カリフォルニアで金鉱が発見され,1849年にが起きた結果,人口が急増し,西部開拓が進展した。南北戦争後の1867年,ロシアからを買収した。1898年に起きた戦争をきっかけにハワイを併合した。現在のアメリカ合衆国の50州は以上から成り立っている。
check_icon6ハワイには18世紀後半にイギリス人のクックがヨーロッパ人としては初めて来航した。カメハメハ王朝が18世紀末に成立したが,19世紀後半にアメリカ人による砂糖業が発達し,1893年に親米系市民による臨時政府がつくられたのちにアメリカに併合された。スペインから獲得したものではないことに注意。なお,カメハメハ朝ハワイ王国の最後の女王はである。

V-24. アメリカ=イギリス戦争:第2次独立戦争

アメリカは,フランス革命とナポレオン戦争に対してを守っていたが,イギリスの海上封鎖によって通商が妨害されたことをきっかけに,年に戦争が勃発した。この戦争は1814年には終結したが,戦争中イギリス商品の流入が途絶え,アメリカの工業が発展して,経済的自立が促進されたため,第2次独立戦争と呼ばれる。

V-25. 第3代ジェファソン大統領

ジェファソンは年に出されたの起草者である。独立後のアメリカでは,中央政府の権限強化を主張すると,州権を重視するの対立が続いていたが,1800年の大統領選挙で当選した[ 4 ]のジェファソンは両派の融合に努めた。ジェファソンは,1803年にからミシシッピ川以西のを買収した。この結果,領土は倍増し,西部へのさらなる領土拡大への道を開いた。
check_icon6ミシシッピ川以西のルイジアナは,1763年のパリ条約でフランスがスペインに割譲したが,1800年の密約でフランス領となっていた。

V-26. 第5代モンロー大統領

第5代大統領は,1819年にからを買収した。[ 1 ]はラテンアメリカ諸国の独立に対するヨーロッパ諸国の干渉を排除するために,1823年に[ 1 ]宣言を発した。これは,建国以来の伝統的な主義外交を具体化したもので,ヨーロッパ諸国とアメリカ大陸諸国との相互不干渉を主張した。この宣言は,ラテンアメリカ諸国の独立に対する側面的な支援にとどまらず,ロシアのからの南下も牽制している内容である。[ 4 ]主義は,その後長い間アメリカ外交の基本政策となった。

V-27. 第7代ジャクソン大統領(1)

第7代大統領は,西部農民と都市労働者の支持を得て当選した,初めての西部出身の大統領である。[ 1 ]が資本家の勢力を抑え,民主主義の発展に努め,白人男性普通選挙制を導入したことで,[ 1 ]の時代をと呼ぶ。だが,黒人奴隷制は維持され,先住民(インディアン)に対してはを制定して,ミシシッピ川以西の荒地のに追放した。
check_icon6(1)「西部」に注意。ここでいう「西部」とは,建国13州以外の地を指している。ちなみに,ジャクソンはテネシー出身だが,テネシーは現在は南東部に当たる。(2)[ 3 ]によって西方へ追いやられた先住民は,苦しい悲惨な移動を強いられ,4人に1人が死んだ。この苛酷な移動は,「」と呼ばれる。

V-28. 第7代ジャクソン大統領(2)

反ジャクソン派の政治家は北部を基盤とするホイッグ党を,またジャクソン派は南部を基盤とするを形成した。その後ホイッグ党は,1850年代に入って奴隷問題をめぐって分裂したのち,一部の政治家がを結成した。
check_icon6ジャクソン大統領はエリート階層による世襲的な上級官職独占を打破するために,大統領選で勝った党派の者に連邦政府の官職を与えるスポイルズ・システム(猟官制)を採用した。だが,この制度は適任者ではない者が選ばれるという弊害も生んだ。

V-29. 南北の対立(1)

18世紀末にが綿繰り機を発明すると,アメリカ南部で黒人奴隷を用いる綿花が発達した。綿花をイギリスに輸出する南部は,貿易と,州の自治を求めた。一方,産業革命が進み商工業が発達した北部は,イギリス商品の流入を阻止するために貿易政策と,連邦主義を求めた。また,北部は自由な労働力の創出と人道主義の立場から,奴隷制に反対した。
check_icon6奴隷制廃止論者であるは,人道主義の立場から『アンクル=トムの小屋』で黒人奴隷の悲惨な生涯を描いて,奴隷解放への機運を高めた。

V-30. 南北の対立(2)

西部開拓が進み新たな州が生まれると,その州で奴隷制を認めるかどうかということをめぐって,奴隷制に反対する北部と,奴隷制の維持を求める南部が激しく争った。1820年にを例外的に奴隷制を認める奴隷州とし,今後は[ 1 ]の南の境界である北緯36度30分以北には奴隷州はつくらないと定めた[ 1 ]協定が結ばれて,南北の対立は一時収まった。だが,北緯36度30分以北にあるカンザス・ネブラスカ両準州(准州)について,奴隷州か,奴隷制を認めないかは将来住民が決めるという法律が1854年に制定されて,[ 1 ]協定が無効とされたため,北部は反発した。これを機に,北部は奴隷制反対を唱えるを結成した。

V-31. 南北戦争(1)

1860年,奴隷制拡大反対論者である党のが大統領に当選すると,南部諸州が連邦から離脱し,翌61年にヴァージニアのを首都とするを結成し,ジェファソン=デヴィスを大統領に選んだ。ここに,南北戦争(1861~65年)が始まった。
check_icon6原語で「南北戦争」は,“the (American) Civil War”という。“civil war”は「内乱,内戦」の意味である。

V-32. 南北戦争(2)

1862年に北部は,5年間定住して開墾した開拓者に国有地を160エーカー無償で与えるとする法を制定して,西部の支持を獲得した。さらに,は年,内外世論に向けてを出した。北軍は,同年に戦われたの戦いに勝利して優勢となった。[ 2 ]はこの激戦地で,民主主義を「人民の,人民による,人民のための政治」と定義する有名な演説を行った。年,南軍が降伏して南北戦争は終結した。
check_icon6(1)奴隷解放宣言は,南部の黒人にアピールするだけでなく,南部を支援しようとしたイギリスの国民に向けたものでもあった。(2)リンカンは南北戦争終結後に南部支持者によって暗殺された。

V-33. 南北戦争後の黒人の状況

南北戦争後,連邦憲法の修正により奴隷制は廃止され,解放黒人に選挙権が与えられた。だが,南部では教育水準が低い黒人に対して識字テストを行って,黒人の選挙権行使を制限するなどの差別が残った。また,解放された黒人の多くは高率の小作料を払う(分益小作人)となって苦しい生活を送った。一部の白人至上主義者は,などの秘密結社を組織して,黒人に暴行を加えた。

V-34. 南北戦争後のアメリカ

南北戦争後,統一を回復したアメリカは西部開拓と工業化が進展した。1869年にが開通し,西部開拓が促され,1890年代にはが消滅した。資源に恵まれたアメリカは,石炭・石油・鉄鋼などを基盤とする工業がめざましく発展し,1890年代にはイギリスを追い抜いて世界一の工業国となった。これに伴って,独占企業の弊害も進んだので,これに対抗する労働組合組織も生まれた。1886年には熟練労働者を組織したが結成された。19世紀後半に急増した東欧・南欧系やアジア系移民の多くは低賃金の不熟練労働者として工業発展を支えた。
check_icon61869年にスエズ運河も開通した。また,ナポレオンのロシア遠征を背景に描かれた,トルストイの『戦争と平和』も同年に完成した。ゴロで,「人はロックこわし~」と覚えておこう。なお,大陸横断鉄道建設の労働力となったのは,アイルランド人とクーリー(苦力)と呼ばれる中国人労働者である。

V-35. アメリカへの移民

アメリカ合衆国は西ヨーロッパからの移民によって建国されたが,1840年代後半から50年代にかけては,1848年のドイツ革命とアイルランドのの影響でドイツとアイルランドからの移民が急増した。1880年代からは,東欧・イタリア系や中南米・アジアからの移民が増え,「新移民」と呼ばれた。中国系の移民は(苦力)とさげすまれ,低賃金で過酷な労働を強いられ,大陸横断鉄道の労働力とされた。アジアからの移民に対しては,人種差別や移民制限の対象とされ,1882年のでは中国人の移民が厳しく制限され,1924年の[ 4 ]では,日本人を含むアジア系の移民は全面禁止された。

V-36. 19世紀半ばのアメリカ外交

1846~48年の戦争でを獲得したのち,太平洋への関心が高まり,1854年にはが条約を結び,日本を開国させた。南北戦争中にメキシコ内乱に干渉していたフランスのに対し,アメリカは南北戦争終結後に抗議し,フランス軍は1867年に撤退した。また,1867年にアメリカはからを買収した。
check_icon6ロシアはクリミア戦争敗北で打撃を被り,アラスカの維持が負担となっておりアメリカへの売却を決めた。だが,アメリカ国内では氷に閉ざされたアラスカを買うことに非難が集まった。ところがその後,アラスカでは金や石油などの地下資源が発見された。さらに,第二次世界大戦後の冷戦下ではアラスカはきわめて重要な役割を果たし,アメリカの勝利に貢献した。

V-37. メキシコ出兵

財政難に陥ったメキシコ政府の外債利子不払い宣言を口実に,アメリカ合衆国の戦争に乗じてフランス・イギリス・スペインが派兵。イギリス・スペインは翌年撤兵したが,フランスのはメキシコの共和政府を倒してオーストリア皇帝の弟のをメキシコ皇帝に擁立した。大統領が率いたメキシコ軍の抵抗と[ 1 ]戦争終結後にアメリカが抗議したことで,1867年にフランス軍が撤兵した。この失敗で[ 2 ]の権威は失墜した。
check_icon6(1)印象派の創始者であるは,スペインのがナポレオン1世のスペイン支配に対する抵抗を描いた「1808年5月3日」の構図に似せて,「皇帝[ 3 ]の銃殺」を描いた。(2)は[ 4 ]の下でフランス軍と戦ったが,のちにフアレスと対立。フアレス死後,クーデタで大統領となって独裁を行ったが,1911年のメキシコ革命で打倒された。

19世紀のイギリス(11)

V-80. 19世紀におけるイギリスの覇権

産業革命をいち早く成し遂げたイギリスでは,資本家が台頭し,19世紀前半に主義改革が行われ,[ 1 ]資本家の利害に即した社会が実現していった。19世紀半ばに「」といわれたイギリスは,圧倒的な海軍力を背景に,世界各地に[ 2 ]貿易を推し進め,世界各地を製品の輸出市場や原料供給地とした。こうして覇権を確立したイギリスによって平和が維持される状態を,「」と呼ぶ。
check_icon6(1)イギリスの最盛期は,女王(位1837-1901年)の治世の前半に当たる。(2)19世紀半ばに,党が保守党,党は自由党と呼ばれるようになった。

V-81. 自由主義

国家が積極的に経済活動に介入した絶対王政時代のに対して,人間の活動,特に経済活動に規制を加えず,自由な活動を認める考え方を自由主義という。18世紀後半に古典派経済学を開いたは『』で(レッセフェール)政策を唱えた。19世紀になると,「最大多数の最大幸福」実現を目標とするのなどが自由主義思想を広め,資本家に支持された。政治面においては,自由主義思想は国家と民主主義を目指した。

V-82. イギリス自由貿易政策(1)

ナポレオン戦争終結後の1815年に,穀物が一定金額以下になった場合は穀物輸入を禁止するというが制定された。のちに一部修正されたが,[ 1 ]はナポレオン戦争終結後に大陸から安価な穀物が流入して穀物価格が低下することを防止した,地主や農業経営者の利益を守る法律であった。資本家は[ 1 ]を貿易の典型と見なし,1839年にやらが参加したを結成し,廃止運動を展開した。1845年にイギリス国内で凶作となり,またアイルランドでが起きたことを背景に,年に保守党ピール内閣が[ 1 ]を廃止した。これは,地主による社会的・政治的な支配が終わったことを意味する。

V-83. イギリス自由貿易政策(2)

自由貿易政策を求める資本家は,特許状を得て貿易を独占していたの貿易独占を批判した。その結果,1813年には貿易独占権が,さらに33年には貿易独占権が廃止された。また,輸出入はイギリス船と相手国の船に限るとする1651年のも年に廃止され,自由貿易がほぼ実現された。

V-84. 奴隷制廃止

人道的立場からの奴隷制廃止運動が展開されるなか,イギリスでは1807年に奴隷貿易が廃止されたのち,1833年に奴隷制度そのものが廃止された。フランスでは,1848年に共和政下で奴隷制が廃止された。アメリカでは,南北戦争で北部が勝利した結果,年に奴隷制が廃止された。

V-85. イギリス自由主義改革

フランス革命の影響で労働運動が活発化することを恐れて制定された団結(結社)禁止法が,自由主義の高まりの結果,1824年に廃止され労働組合の設立が認められた。また,1833年にが施行され,労働時間が制限されるなど労働者の保護も進んだ。公職就任者を国教徒に限っていたが年に廃止され,さらにアイルランド人のオコンネルらの運動の結果,翌29年にカトリック教徒への差別を撤廃するが施行された。

V-86. イギリス選挙法改正(1)

産業革命で発展した新興商工業都市の産業資本家や労働者には選挙権が与えられていなかったが,ホイッグ党のグレイ内閣のもと年に第1回選挙法改正がなされ,産業資本家をはじめとする中産市民層の成人男性に選挙権が拡大された。同時に,有権者が極端に少なくなったが廃止された。一方,選挙権が与えられなかった労働者は,男性普通選挙制などを求めるを掲げて,運動を展開した。[ 4 ]運動は,フランスの二月革命の影響でヨーロッパ全域で革命の嵐が吹き荒れた年に頂点に達したが,その後衰退した。

V-87. イギリス選挙法改正(2)

19世紀半ばに産業資本家の利害を代表するホイッグ党は,地主の意向を重視するトーリ党はと呼ばれるようになり,交互に政権を担当する二大政党制が確立した。保守党ダービー内閣が年に実施した選挙法改正ではに選挙権が与えられた。さらに,[ 1 ]の内閣が年に実施した選挙法改正では・鉱山労働者に選挙権が与えられた。ただし,[ 8 ]選挙法改正までは,該当する男性のみにしか選挙権は与えられず,女性は除外されていた。

V-88. イギリス選挙法改正(3)

第一次世界大戦の総力戦下で,女性が工場などで働いて社会進出を果たした結果,女性参政権を求める声が高まった。そこで,挙国一致内閣は年に行った選挙法改正で初めて女性参政権を認めたが,男性は21歳以上,女性は30歳以上と男女不平等であった。保守党内閣のもとで年に行われた選挙法改正で21歳以上男女の普通選挙制が確立した。

V-89. アイルランド問題(1)

アイルランドは12世紀以来イングランドによって支配されていたが,ピューリタン革命中の1649年にが土地を没収し,系で教徒のアイルランド人はプロテスタントのイギリス人不在地主に支配される小作人の地位に置かれた。1801年にイギリスはアイルランドを併合し,国名をグレートブリテン(大ブリテン)-アイルランド連合王国とした。その後,アイルランド人は[ 3 ]信仰の自由と政治的自治を求め,1829年にはが出された。1840年代半ばに飢饉がおきると,アイルランドからは100万人以上の移民がにわたった。

V-90. アイルランド問題(2)

1880年代以降に自由党の内閣が提出した案は成立しなかった。[ 2 ]は1914年に成立したが,の勃発で実施は延期された。[ 3 ]中の1916年,独立を求める急進派がおこした蜂起はイギリス軍によって鎮圧された。1918年の総選挙で勝利を収めた急進派の党は19年に独立を宣言した。これに対してイギリスも譲歩し,年にプロテスタントが多数を占めていた北部のアルスターを除いてとして自治領となった。1926年のイギリス帝国議会の決議により,各自治領は本国と対等の地位を得て,31年の憲章でが成立した。だが,アイルランド独立派はこれに反対し,1937年に完全独立を宣言し,と改称した。

東方問題とロシア(7)

V-91. 東方問題

19世紀前半以来,帝国の支配下にあった諸民族は自由主義との高まりを背景に,[ 1 ]帝国の衰退に乗じて,独立運動を進めた。これに対して,英・仏・露を中心とする列強が干渉して国際問題が生じた。これを「問題」という。1820年代の独立戦争,1830年代の戦争,1853~56年の戦争,1877~78年の戦争を経て,帝国主義時代にはバルカン問題へと,[ 3 ]問題は展開していった。

V-92. エジプト=トルコ戦争

エジプトのはオスマン帝国からの自立を目指し,1830年代に2度にわたる戦争を起こした。ロシアはオスマン帝国を援助して地中海へのを実現しようとし,1833年のウンキャル=スケレッシ条約で黒海と地中海を結ぶ・両海峡の航行権を獲得した。だが,イギリスが巧みな外交を展開し,1840年のロンドン会議でウンキャル=スケレッシ条約は否定され,翌41年の五国海峡協定で[ 4 ]・[ 5 ]両海峡の外国軍艦の航行は禁止された結果,ロシアの[ 3 ]政策は阻止された。

V-93. クリミア戦争

年,オスマン帝国領内のの保護を口実にロシアがオスマン帝国に宣戦し,戦争が始まった。翌年,イギリス・フランスがオスマン帝国側について参戦し,さらにイタリア統一の布石として王国もオスマン帝国側に立って参戦した。[ 3 ]半島のセヴァストーポリ要塞の攻防戦のすえロシアは敗れ,年の条約で・両海峡の閉鎖と,黒海の中立化が定められ,ロシアのはまたしても阻止された。[ 3 ]戦争の結果,19世紀前半からイギリスとロシアの両大国によって支えられていたヨーロッパの国際秩序は崩れ,イタリアおよびドイツの統一をめぐり,プロイセン・オーストリア・フランスが戦火を交えることになる。
check_icon619世紀前半のヨーロッパでは勢力均衡に基づくウィーン体制のもと,ナポレオン戦争後の約40年間は大国間の戦争は起きていなかった。[ 3 ]戦争はこの状況を破ったものであり,ウィーン体制の国際秩序の崩壊を意味する。1849年のハンガリー独立運動鎮圧の際にロシアはオーストリアを支援したが,その4年後に勃発した[ 3 ]戦争でオーストリアはロシアを支援せず,中立を保った。ここにそれまでのロシアとオーストリアの提携は崩壊し,イタリアやドイツが統一を目指してオーストリアと戦う環境が整った。

V-94. クリミア戦争敗北の影響

クリミア戦争中の1855年に突然亡くなった皇帝に代わって即位したはクリミア戦争の敗北を反省し,自由主義改革に取り組んだ。[ 2 ]は,年にを出し,無償で農奴に人格的自由を与えた。だが,土地の分与については高額な有償制とされ,購入資金は政府が農民に融資する形を取ったが,農民は多額の負債を抱え込むこととなった。また,土地は個人ではなく農村共同体()に引き渡されることが多く,農民は[ 5 ]に縛り付けられた。こうして[ 4 ]は農民にとっては不十分な内容であったが,自由な労働力を創出した結果,ロシアの工業化と資本主義化への道が開かれた。

V-95. ロシア専制政治に対する19世紀後半の抵抗

農奴解放令などの自由主義改革を進めた皇帝は,1863年にで独立運動が高まると,再び専制政治を強化した。資本主義が十分発達していなかったロシアで,改革の担い手となったのはと呼ばれる都市の知識人層であった。彼らの一部は農民を啓蒙して社会主義的改革を行うことが必要であると考え,「(人民の中へ)」というスローガンを掲げて,農村に入ったためと呼ばれた。だが,農民の多くが政治に無関心であり,政府による弾圧を受け,[ 5 ]の運動は挫折した。絶望した彼らの一部は(虚無主義)やテロリズムに走り,[ 1 ]は1881年にテロにより暗殺された。
check_icon6[ 6 ]は一切の権威と価値を否定する思想であるが,が小説『父と子』で用いて,この言葉が広まった。

V-96. ロシア=トルコ戦争

19世紀後半にロシアはスラヴ人の連帯と統一を目指す主義を掲げ,バルカン半島で勢力拡大を図り,オスマン帝国やオーストリアに対抗した。ボスニア・ヘルツェゴヴィナでギリシア正教徒の反乱がおきると,ロシアは年にオスマン帝国に宣戦して(露土)戦争が勃発した。勝利したロシアは翌78年に条約を結び,・・の3国の独立を認めさせ,をロシアの保護下における自治国とさせた。これに対して,ロシアのを恐れると,バルカン半島におけるロシアの影響力の拡大を恐れたが猛反発したため,ドイツ帝国宰相が仲介して会議が開かれた。

V-97. バルカン半島をめぐるベルリン会議

ロシア=トルコ戦争に勝利したロシアが1878年に結んだ条約にイギリス・オーストリアが反発したため,ドイツ帝国宰相は会議を開催し,列国の利害を調整した。その結果,[ 1 ]条約は破棄され,新たに[ 3 ]条約が結ばれた。[ 3 ]条約では,・・の独立は承認され,はオスマン帝国内の自治国とされた。イギリスはの行政権を,オーストリアは・の行政権を獲得した。この結果,ロシアの地中海への南下は抑えられ,ロシアは中央アジア・東アジアへの進出につとめるようになった。

イタリアとドイツの統一(8)

V-98. イタリアとドイツの統一

イタリアとドイツは19世紀後半に統一されて国民国家が成立したが,両国の統一は似たような経過をたどった。ウィーン体制下におけるによる統一運動が失敗したのち,王国主導の統一運動へと転換し,両国ともとの戦いを経て統一が達成された。

V-99. イタリア統一(1)

ウィーン体制下における自由主義者の統一運動には,秘密結社やの青年イタリアによる運動があったがいずれも失敗した。三月革命を背景に,統一を目指してオーストリアと戦い敗れた王国は,1849年に即位したのもと,が首相となって工業化を推進し,戦争においてフランス側に立って参戦することで友好関係を深めた。オーストリアに対するイタリア統一戦争で,フランスによる支援の代償としてとを割譲するという密約が結ばれ,年にイタリア統一戦争が勃発した。

V-100. イタリア統一(2)

フランスのの支援を得て,と開戦した年のイタリア統一戦争では,[ 1 ]が王国の強大化を恐れて[ 2 ]と単独講和を結んだため,[ 4 ]王国はを獲得するにとどまった。1860年,[ 4 ]王国はとをフランスに割譲することを条件に中部イタリアの併合を認めさせた。同年,「」出身のが千人隊を率いて王国を占領して,[ 4 ]王に献上した。この結果,年にを国王とするイタリア王国が成立した。

V-101. イタリア統一(3)

年に成立したイタリア王国はその後も領土拡大に努めた。1866年に勃発した戦争でプロイセンと同盟を結び,オーストリア領であったを併合した。さらに,1870年の戦争でフランス軍がローマから撤退すると,を占領した。オーストリア領にとどまった・などを,イタリアは「」と呼んで奪還に努めた。この問題は第一次世界大戦でイタリアが側に立って参戦する原因となった。
check_icon6ローマ教皇領の占領によって,イタリア王国とローマ教皇が対立したが,これが解決されたのはムッソリーニ政権下で1929年に結ばれた条約においてである。

V-102. ドイツ統一(1)

ドイツでは,ライン中流域の工業地帯をもつを中心に,をのぞく大多数のドイツ諸邦が加盟したが年に発足し,経済的統合がほぼ実現した。1848年の革命時のにおける自由主義者の統一運動が失敗したのち,統一の主導権はプロイセンの保守的な支配層である層に移った。プロイセン国王のもと[ 7 ]出身のが首相に任命されると,[ 9 ]は軍事力を増大させ,強引に統一を目指す政策を推し進めた。
check_icon6[ 3 ]結成には,保護関税政策を主張するドイツの経済学者の寄与があった。

V-103. ドイツ統一(2)

1864年,プロイセンはオーストリアとともにを攻め,・を奪った。その後,占領した地に関する管理権をめぐってプロイセンとオーストリアが争い,年にプロイセン=オーストリア戦争が勃発してプロイセンがオーストリアを破った。プロイセン首相は,ウィーン会議で成立したを解体し,1867年にプロイセン王を盟主とするを組織した。一方,ドイツ統一から除外されたオーストリアは,マジャール人の王国建設を認めた。これによって,オーストリア皇帝が王を兼ねる同君連合のオーストリア=[ 9 ]帝国が成立した。しかし,多民族国家としての民族問題は残ったままであった。
check_icon6オーストリアがハンガリーを王国として認めた協定は,ドイツ語で「妥協」を意味するアウスグライヒと呼ばれる。

V-104. ドイツ統一(3)

フランスのはプロイセンが強大化することを恐れて,反プロイセン感情が強かったバイエルンなどの南ドイツ諸邦を援助して,ドイツ統一に干渉した。そこで,プロイセン首相は問題でフランスを挑発し,年にプロイセン=フランス戦争を起こさせた。外敵の出現で,南ドイツ諸邦もプロイセンが盟主であったについたためフランスは敗れ,[ 1 ]はで捕虜となり,フランスのは廃止された。翌71年にフランスが・をドイツに譲り,莫大な賠償金を払うことを約した講和条約をもって戦争は終結した。

V-105. ドイツ帝国の成立

戦争で統一に干渉してきたフランスを破ったのち,プロイセン王は宮殿のでドイツ皇帝の位につき,を帝国宰相とするドイツ帝国が成立した。ドイツ帝国は,とからなる二院制制であった。男性普通選挙制で選ばれた[ 6 ]には予算審議権は与えられたが,責任内閣制は認められておらず,無力であった。ドイツ帝国を構成する諸邦政府の代表からなる[ 7 ]は立法・行政上大きな力を持ち,[ 6 ]に優越していた。また,帝国宰相は皇帝にのみ責任を負った。
check_icon6ドイツ帝国の宣言が[ 3 ]宮殿において出されたことは,フランスの対ドイツ報復の感情を招いた。その結果,1919年の第一次世界大戦後の対ドイツ講和である[ 3 ]条約の調印式は[ 4 ]で行われた。

国際諸機関(5)

V-109. 第1インターナショナル

1864年,ロンドンで世界初の労働者の国際組織である(国際労働者協会)が結成された。マルクス派は無政府主義者と対立し,ロシアの無政府主義者バクーニンが除名された。1871年にフランスで成立したを支持した[ 1 ]は,各国政府から弾圧されて1872年に事実上活動を停止し,76年に解散した。

V-110. 第2インターナショナル

フランス革命百周年祭が開かれたパリで年に結成された社会主義政党の国際組織がである。1890年代に無政府主義者が排除され,マルクス主義が優勢となり,が主導的地位を占めた。年に第一次世界大戦が勃発すると,各国の社会主義政党が自国政府の戦争政策を支持したため,事実上崩壊した。

V-111. 国際赤十字社

戦時における傷病兵の救護活動を目的に,1863年にジュネーヴに前身の団体が創設され,64年にが設立された。これを提唱したのは,スイスの銀行家である。[ 2 ]は,1853~56年に戦われた戦争におけるイギリスの看護師の活動に影響を受けていたとともに,1859年におきたの悲惨さを見て必要性を訴えていた。[ 2 ]は1901年に最初のノーベル平和賞を受賞した。

V-112. 国際オリンピック大会

フランスのクーベルタンの提唱で1894年に委員会(IOC)が組織され,1896年にギリシアので第1回大会が開催された。以降,年毎に開催されているが,世界大戦中の1916,40,44年は中止された。オリンピックが世界的大イベントに成長すると,政治に左右されるようになった。1972年のミュンヘン大会では,パレスチナ武装組織がイスラエル選手を人質とする事件が起きた。また,1979年にソ連が行った侵攻に反発して,80年に開かれたモスクワ大会ではアメリカ・日本・西ドイツなどの西側諸国がボイコットした。これに対して,84年のロサンゼルス大会ではソ連・東欧諸国がボイコットした。

V-113. 万国博覧会

万国博覧会は世界各国が参加して開かれる国際博覧会。第1回は,年にで開催された。ハイドパークに建設された総ガラス張りの水晶宮(クリスタルパレス)がメイン会場として開催され,またトマス=クックが団体旅行を提供したことでも知られる。53年に第2回がニューヨークで,第3回が55年にで開催された。89年のパリ万国博覧会ではエッフェル塔が建設された。
check_icon61889年のパリ万国博覧会はフランス革命100年記念の大会だったが,同年パリで社会主義政党の国際組織である第2インターナショナルが設立された。

19世紀文化(20)

V-114. 世界の一体化

19世紀半ば以降,ヨーロッパが主導して世界を相互に結びつける「世界の一体化」が進行した。背景には,ヨーロッパにおける資本主義体制の確立にともなう,人・商品・資本・情報の移動があった。年にはスエズ運河・アメリカ大陸横断鉄道が開通し,アメリカのが開発した電信機は世界の情報を結ぶ海底通信ケーブルの敷設へとつながり,情報面で世界の一体化が進む「情報革命」を生んだ。19世紀半ばにロンドンに設立された通信社ロイターは,海底通信ケーブル網を軸に20世紀初めまで国際通信の独占的地位を占めた。「情報革命」でイギリスに情報が集中し,ロンドンのシティーは貿易・金融面で世界の中心的地位を占めるようになった。

V-115. 19世紀文化-文芸・芸術の変遷-

17世紀にフランスで始まった,古代ギリシア・ローマの文化を理想とするが18世紀中期から19世紀初めにドイツで盛んになった。形式を重んじる[ 1 ]と,18世紀に支配的であった啓蒙思想に対する反発から,19世紀前半にが生まれた。啓蒙思想の理性と合理主義に対して,[ 2 ]は感情と非合理性を重視し,さらに個別の歴史や民族文化を尊重し,形式よりも内容を重んじた。[ 2 ]への反動として19世紀半ばのフランスで,客観的観察により現実を忠実に再現しようとするが現れた。それをさらに進めて,社会の矛盾や醜悪な現実をも描こうとするのがである。19世紀後半,光に関する科学的研究が深まるなか,光の変化を表現しようとするが現れた。また19世紀後半に,[ 4 ]への反発から,善悪の価値判断を避けて美を追究しようとする,イギリスのワイルドらを代表とする耽美(たんび)主義が現れた。さらに,[ 3 ]と[ 4 ]への反発として,暗示的な表現と詩句の音楽性を重視する象徴主義が生まれ,『悪の華』を著したフランスのがその先駆とされる。

V-116. 19世紀文化-古典主義:文学-

古代ギリシア・ローマを理想とする古典主義文学は,17世紀のフランスの悲劇作家・ラシーヌ,喜劇作家らによって確立された。1770~80年代のドイツでは(シュトュルム=ウント=ドランク)と呼ばれる文学運動がおき,『若きウェルテルの悩み』『ファウスト』を書いたや,『ヴィルヘルム=テル』『群盗』などの戯曲を書いたが活躍した。
check_icon6フランス革命における革命戦争でフランス軍はヴァルミーの戦い(1792年)で初めて勝利を得たが,プロイセン軍の陣中にいた[ 4 ]は「ここから,そしてこの日から,世界史の新しい時代が始まる」と書き記した。

V-117. 19世紀文化-古典主義:美術-

古代ギリシア・ローマを理想とする古典主義の画家であるフランスのの作品には,ジャコバン派のマラーの暗殺現場を描いた「マラーの死」,ナポレオンのイタリア遠征を描いた「サンベルナール越えのナポレオン」や,年にとりおこなわれた皇帝戴冠式をナポレオン1世の宮廷画家として描いた「ナポレオンの戴冠式」などがある。[ 1 ]の弟子に「グランド・オダリスク」「トルコ風呂」を描いたアングルがいる。

V-118. 19世紀文化-古典主義:音楽ー

18世紀後半~19世紀初めにウィーンを中心に,それまでの音楽に代わり古典派音楽が広まった。「交響曲の父」と呼ばれた,「魔笛」「フィガロの結婚」を作曲したによって古典派音楽は確立した。交響曲「運命」「田園」「第九」を作曲したは古典派音楽を集大成し,派音楽への道を開いた。

V-119. 19世紀文化-ロマン主義:文学(1)-

感情と非合理性を重視し,個別の歴史や民族文化を尊重する派の文学者は自由主義とナショナリズムに共鳴する者が多かった。イギリスのロマン派詩人は1821~29年に戦われたに義勇兵として参戦した。『歌の本』で知られるドイツのユダヤ系ロマン派詩人は,1830年に起きたフランスのにあこがれてパリに移住したため,「革命詩人」と呼ばれる。1773年に起きたを舞台とする『大尉の娘』で知られるロシアのロマン派詩人・作家は,1825年に勃発したの青年貴族将校に共鳴した。『レ=ミゼラブル』で知られるフランスのロマン派詩人・作家は共和主義者として,の第二帝政に反対して,その期間は亡命生活を送った。

V-120. 19世紀文化-ロマン主義:文学(2)-

ドイツの言語学者は民間伝承を収集して童話を集大成した。ドイツのロマン派詩人・作家は『青い花』を書いた。イギリスのロマン派詩人は『叙情歌謡集』で知られる。『草の葉』で知られるアメリカのロマン派詩人は民主主義を讃えた。アメリカのロマン派作家ホーソンは,ピューリタン社会において姦通の罪を犯した女性を通して罪の意識を描いた『緋文字』を書いた。

V-121. 19世紀文化-ロマン主義:美術-

フランスのロマン主義画家は,1821~29年に戦われたを題材に「キオス島の虐殺」を,1830年に勃発したフランスのを題材に「民衆をみちびく自由の女神」を描いた。

V-122. 19世紀文化-ロマン主義:音楽-

オーストリアのロマン派作曲家は「冬の旅」「未完成交響曲」などで知られる。ポーランドのロマン派作曲家は,1830年におきたワルシャワ蜂起の失敗の報を聞いて,ピアノ練習曲(エチュード)「革命」を作曲した。ドイツのロマン派作曲家は音楽と演劇を一体化した楽劇を創始し,ゲルマンの英雄叙事詩『ニーベルンゲンの歌』を素材に「ニーベルングの指輪」を作曲した。ハンガリーのロマン派作曲家リストは,「ハンガリー狂詩曲」を作曲した。
check_icon6リストには同姓で,ドイツ関税同盟を提唱した歴史学派経済学者がいる。ただし,名は異なっており,音楽家はフランツ,経済学者はフリードリヒである。

V-123. 19世紀文化-写実主義:文学-

ナポレオン軍の軍人としてロシア(モスクワ)遠征にも参加したことでも知られる,フランスの写実主義の先駆的作家は『赤と黒』を書いた。フランスの写実主義作家は『人間喜劇』を書いた。『ボヴァリー夫人』を書いたフランスのは,フランス写実主義文学を確立した。イギリスの写実主義作家は『二都物語』を著した。

V-124. 19世紀文化-写実主義:絵画-

「石割り」で知られるフランスの写実主義画家は,1871年にできた革命的自治政権に参加して投獄され,のちにスイスに亡命した。なお,「石割り」は第二次世界大戦中の1945年2月のドレスデン大空襲で焼失した。また,写実主義の画家・版画家のドーミエは共和主義の立場から,政治や社会を風刺し,七月王政の国王を風刺したことで投獄された。

V-125. 19世紀文化-自然主義-

『居酒屋』などで知られるフランスの自然主義作家は,ユダヤ系軍人に対する冤罪(えんざい)事件である事件で[ 2 ]を擁護し,軍部とカトリック教会を批判した。フランスの自然主義作家は『女の一生』を書いた。ノルウェーの自然主義劇作家は,女性解放問題を題材とした『人形の家』を書いた。フランスの自然主義の画家は農民の姿を描いた「落ち穂拾い」「晩鐘(ばんしょう)」で知られる。

V-126. 19世紀文化-印象派-

「草上の昼食」を描いたは印象派の創始者とされる。フランスの印象派を代表する画家が描いた「印象・日の出」が印象派の語源となった。[ 2 ]は晩年に連作「睡蓮」を描いた。フランスの印象派画家は「ムーラン=ド=ラ=ギャレット」で知られる。フランス後期印象派の画家は,南太平洋のタヒチ島に移り住み,「タヒチの女」を描いた。「ひまわり」「糸杉」で知られるは,オランダ出身の後期印象派の画家である。「牧神の午後への前奏曲」や「海」で知られるフランスの作曲家は印象派音楽を創始した。
check_icon6[ 1 ]と[ 2 ]は一字違い。注意しよう。ナポレオン3世のメキシコ出兵を題材に[ 1 ]が描いた「皇帝マクシミリアンの銃殺」は,スペインの画家ゴヤの「1808年5月3日」の構図をまねしているし,「草上の昼食」はラファエロの「パリスの審判」をまねしてるよ。「まねするマネ(関西弁なら:まねしぃのマネ)」と覚えておこう。

V-127. 19世紀文化-絵画・彫刻・音楽-

スペインの画家は,ナポレオン軍によってマドリード市民が銃殺される場面を描いた「1808年5月3日」で知られる。フランスの彫刻家は「考える人」で知られる。「わが祖国」で知られるチェコのや,「新世界から」で知られるドヴォルザークは民族主義の立場に立つ国民楽派の音楽家である。ロシアのチャイコフスキーは「白鳥の湖」「くるみ割り人形」で知られる。

V-128. 19世紀文化-ドイツ哲学-

ドイツの哲学者は,合理論と経験論を批判的に総合してを創始した。[ 2 ]は,連続講演「ドイツ国民に告ぐ」で愛国心の高揚をめざしたに継承され,ついで哲学を提唱したによって完成された。後世の社会主義運動に大きな影響を与えたは,[ 5 ]学派左派の哲学者フォイエルバッハの唯物論を批判的に継承して,[ 4 ]的唯物論を確立した。[ 6 ]は,歴史学においては史的唯物論(唯物史観)の立場で資本主義経済を分析した。

V-129. 19世紀文化-哲学・思想-

イギリスの哲学者は,「」を標語として,個人の幸福と社会の福利を調和させようとする哲学を創始した。[ 3 ]を発展させたは男女普通選挙法を提唱した。また,イギリスのスペンサーはダーウィンの進化論の立場から,適者生存を社会に適用する社会進化論を説いた。フランスのは,経験的事実のみに立脚するをとなえ,社会学を創始した。デンマークのキェルケゴールは哲学の先駆者とされ,「神は死んだ」と唱えたドイツの哲学者は超人思想を説いた。

V-130. 19世紀文化-経済学・歴史学・法学-

『諸国民の富』を著したによって創始された経済学の流れを引くイギリスのは,『人口論』を著し,食料増加が人口増加に追いつかないため貧困は避けられないと説いた。イギリスの[ 2 ]経済学者は,『経済学および課税の原理』を著し,労働価値説を大成した。ドイツ関税同盟を提唱したドイツの経済学者は,経済発展を歴史的に考察する歴史学派経済学の先駆者となった。史的唯物論(唯物史観)で資本主義社会を分析したドイツのは,『』を著した。ドイツの歴史家は,厳密な史料批判にもとづく近代歴史学の基礎を確立した。ドイツの法学者サヴィニーは,法の歴史性・民族性を強調するを創始した。

V-131. 19世紀文化-自然科学-

物理学では,ドイツのとヘルムホルツがを提唱した。イギリスのは電磁誘導現象を発見し,電磁気学の基礎を築いた。ドイツのはX線を発見し,キュリー夫妻(夫はフランス出身,妻はポーランド出身)は放射性元素を発見した。生物学では,イギリスのが1859年に『種の起源』でを提唱すると,社会科学の諸分野に大きな影響を与えた。オーストリアのメンデルは遺伝の法則を発見した。医学では細菌学や予防医学が発展し,フランスのは狂犬病の予防接種に成功した。ドイツのは結核菌・コレラ菌などを発見した。

V-132. 19世紀文化-科学技術-

スウェーデンのはダイナマイトを発明し,彼の遺産を基金にして[ 1 ]賞が創設された。アメリカのは電信機とモールス信号を発明した。アメリカのは電話機を発明した。アメリカの発明家は,蓄音機・電灯・映画などを発明した。イタリアのは無線電信を発明した。ドイツのは,[ 6 ]=エンジンを完成させた。現在の自動車エンジンの原型となる内燃機関はドイツの機械技術者が1883年に発明し,86年にガソリン自動車を完成させた。アメリカのは,1903年に動力飛行機の飛行に初めて成功し,飛行機は第一次世界大戦・第二次世界大戦で兵器として急速に発達した。

V-133. 探検

17世紀にオランダの航海者タスマンは,タスマニア・ニュージーランド・フィジーに到達し,オーストラリア沿岸を探検した。18世紀にイギリスの探検家は太平洋のほぼ全域を探検し,オーストラリアのイギリス領有を宣言した。アフリカの内陸部は,19世紀半ばまではヨーロッパにとって未知の地域であったが,イギリス宣教師と彼を捜索にいったアメリカのジャーナリストの探検により,大陸内部の状況が明らかになった。南極・北極の極地探検も展開された。1909年,アメリカのが北極点に初到達した。1911年,ノルウェーのが南極点に初めて到達し,それより1カ月遅れてイギリスのが南極点に到達した。スウェーデンのは中央アジアを探検し,楼蘭(ろうらん)の遺跡を発掘した。イギリスのスタインは,敦煌などを調査した。
check_icon6[ 4 ],[ 5 ],[ 6 ]は頭の文字をとって,「ピアリのピアス」と覚えておこう。

パリ=コミューンと北欧諸国(3)

V-106. フランス第二帝政

1852年にで皇帝になったが始めた帝政は,資本家・労働者・農民といった利害が異なる勢力に支えられていたため,[ 2 ]は国内産業の育成に努める一方,国民の人気を維持するために対外戦争を繰り返した。1853~56年の戦争・1856~60年の戦争・1859年の戦争・インドシナ出兵を行った。しかし,アメリカ合衆国で南北戦争が起きたのに乗じて行った出兵が失敗に終わると,国民の支持を失った。1870年に起きた戦争で敗退すると,[ 3 ]帝政は崩壊して共和政が成立した。
check_icon6[ 2 ]は保護貿易主義がフランス産業の近代化を遅らせていると考え,1860年に自由貿易主義に基づく英仏通商条約を結び,関税率を大幅に引き下げた。この政策により産業資本家は帝政反対派へと転じる。

V-107. パリ=コミューン

1871年に戦争で敗れたフランスは,・を失い,莫大な賠償金が課された仮講和を結んだが,これを認めないパリ民衆はを樹立した。これは労働者を中心とする史上初の自治政府であったが,ドイツ軍の支援を受けた共和派のティエールを首班とする臨時政府軍によって2ヶ月あまりで鎮圧された。
check_icon6(1)「石割り」などで知られる写実主義画家は[ 4 ]に参加して投獄され,スイスに亡命した。(2)ドイツとの休戦条約締結後にボルドーで国民議会が成立し,ティエールを行政長官とする臨時政府が成立した。ティエールはのちに第三共和政初代大統領となった。

V-108. 北欧諸国

スウェーデンは戦争(1700-21)でロシアに敗れて海の制海権を失った。さらにナポレオン戦争中の1809年にをロシアに割譲した。スウェーデンは,ウィーン会議でデンマークからを割譲させて同君連合としたが,[ 4 ]は1905年の国民投票で平和的に分離独立した。ロシア領とされた[ 3 ]では民族運動が高まり,ロシア革命中の年に独立した。