アメリカの独立と発展

「アメリカの独立と発展」の一問一答問題です。

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V-13. イギリス領13植民地

1607年にできたから始まり,1732年に建設されたを最後に,北アメリカにおけるイギリス領の植民地が成立した。[ 3 ]植民地では,1619年に[ 1 ]で最初のが設けられるなど,自治的な政治体制がつくられていた。北部では,自営農民による農業のほか商工業も発達した。一方,南部では黒人奴隷を使用して,タバコ・米などを栽培する(大農園)が盛んであった。この南北の産業構造の違いは,独立後の19世紀前半に南北間の対立へと発展し,1861年に戦争が勃発する。

V-14. 本国と13植民地との対立(1)

戦争の講和条約である1763年の条約で,フランスがすべての北アメリカにおける領土を失うと,イギリス本国は植民地の商工業の発展を抑えようとする政策を強化した。また,[ 1 ]戦争で大きな財政赤字を負った本国政府は,植民地への課税も強化した。年に出されたに対して13植民地は,「」と主張して抵抗した結果,翌年[ 5 ]は撤廃された。だが,本国政府は1767年からタウンゼンド諸法と呼ばれる茶などへの課税を強制し,植民地側は不買運動でこれに抵抗した。

V-15. 本国と13植民地との対立(2)

東インド会社の財政難を救済する目的で,年に出されたに憤慨した植民地の住民が事件を起こすと,本国政府はボストン港を閉鎖したため,対立はいっそう深まった。植民地側は,植民地ので,1774年に第1回を開いて,本国との通商断絶が決議された。
check_icon6アメリカ独立時の中心都市は,フィラデルフィアであることに注意。ワシントン(コロンビア特別区)は独立後に建設され,1800年に首都となった。

V-16. アメリカ独立戦争(1)

年にとコンコードで武力衝突が起こり,アメリカ独立戦争が始まった。植民地側は,ヴァージニアのプランターであるを最高司令官に任命して戦った。だが,この時点で植民地には独立派のほか,独立に反対する国王派もいたが,が著した『』が独立の気運を高めた。年7月4日に,で開かれた第2回は,らが起草したを採択した。この宣言では,イギリスのが名誉革命を正当化するために唱えたを用いつつ,自然法思想を基盤に独立を正当化した。
check_icon6独立戦争勃発時のイギリス国王は,ジョージ3世である。

V-17. アメリカ独立戦争(2)

アメリカ軍は最初苦戦したが,1777年のサラトガの戦いに勝利すると,翌年が同盟を結んで参戦し,さらになどもアメリカ側に立って参戦した。また,ポーランドの,フランスの「空想的社会主義者」,フランス革命でのちに活躍する自由主義貴族らが,義勇軍に参加した。ロシアのの提唱で,北欧諸国を主とするが結ばれると,イギリスは孤立した。1781年,アメリカ・フランス連合軍がの戦いで勝利して,独立戦争は事実上終了した。
check_icon6(1)アメリカの独立では,基本的人権・人民主権を掲げたことから「独立革命」と呼ばれる。アメリカ独立革命,フランス革命,ラテンアメリカの独立,さらに産業革命は世界の一体化が進行するなかで,相互に影響し合って展開したとする大西洋革命(環大西洋革命)という見方がある。(2)避雷針を発明したことでも知られるフランクリンは駐仏公使としてフランスの援助を獲得することに成功した。

V-18. アメリカ独立の承認:パリ条約

1781年のの戦いで敗れたイギリスは,年の条約でアメリカ合衆国の独立を認め,川以東のを割譲した。
check_icon6イギリスがアメリカに割譲した[ 4 ]川以東の[ 5 ]は,1763年に結ばれた戦争の講和条約条約でイギリスがフランスから獲得した領土である。また,1783年のヴェルサイユ条約で,イギリスはセネガルをフランスへ,フロリダをスペインに返還した。これらの領土も,1763年の[ 7 ]条約でイギリスが獲得したものであった。

V-19. アメリカ合衆国の成立(1):憲法制定会議

「アメリカ合衆国」の名称は,独立戦争中の1777年に採択・承認された連合規約で定められた。連合規約はアメリカ最初の憲法であるが,13州はそれぞれ大幅な主権をもち,中央政府の権力が弱かった。そこで強力な中央政府を樹立しようとする運動が高まった結果,独立後の年ににおいて憲法制定会議が開かれ,憲法が制定された。
check_icon6大陸会議の開催地と同じく,憲法制定会議もフィラデルフィアで開催されたことに注意。ワシントン(コロンビア特別区)は独立後に建設され,1800年に首都となった。

V-20. アメリカ合衆国の成立(2):合衆国憲法

1787年にで開催された憲法制定会議で制定された合衆国憲法は,主権を基礎に据えた。そして,各州には大幅な自治を認めつつ,中央政府の権限を強化するを採用した。その一方,権力の集中を防ぐために,の原則を定めた。だが,この憲法をめぐって,これを支持すると,これを批判するの対立が生じた。
check_icon6制定当初の合衆国憲法では,インディアンや黒人の権利は認められていない。また,女性に参政権はない上,白人男性の参政権も制限されていた。1829年に就任したジャクソン大統領のもとで,白人男性普通選挙制が確立した。

V-21. アメリカ連邦政府の発足

アメリカ合衆国憲法に基づいて,1789年に政府が発足し,が初代大統領に就任した。[ 2 ]は,復興に努めるとともにフランス革命に対しては政策をとった。[ 2 ]は,3選出馬を辞退して引退した結果,大統領は2期までという慣例ができた。1800年に,新たな首都として[ 2 ](コロンビア特別区)が建設された。
check_icon6アメリカ史上では,フランクリン=ローズヴェルト大統領が第二次世界大戦が始まっていたことを理由に,例外的に4選までされた。だが,その後憲法が修正されて,憲法上の規定において2期に制限されている。

V-22. アメリカの領土拡大(1)

13州から始まったアメリカ合衆国は,独立が承認された1783年の条約でイギリスから川以東のを獲得して,領土は倍増した。さらに,1803年に第3代大統領のもとで,フランスから[ 2 ]川以西の[ 3 ]を買収して,また領土が倍増した。1819年,第5代大統領のもとで,スペインからを買収した。さらに,メキシコから独立したを1845年に併合した。西海岸の北方の地は1818年以来イギリスとアメリカの共同領有とされていたが,1846年の条約をもって国境が定められ,アメリカはを併合した。人々が西へ西へと進んでいくことを運動と呼び,未開拓地との境界は(辺境)と呼ばれる。[ 10 ]は,1890年の国勢調査で消滅が宣言された。

V-23. アメリカの領土拡大(2)

アメリカは1840年代に(マニフェスト=ディスティニー)を唱えて,1846~48年の戦争をおこし,・ニューメキシコ地方を獲得した。カリフォルニアで金鉱が発見され,1849年にが起きた結果,人口が急増し,西部開拓が進展した。南北戦争後の1867年,ロシアからを買収した。1898年に起きた戦争をきっかけにハワイを併合した。現在のアメリカ合衆国の50州は以上から成り立っている。
check_icon6ハワイには18世紀後半にイギリス人のクックがヨーロッパ人としては初めて来航した。カメハメハ王朝が18世紀末に成立したが,19世紀後半にアメリカ人による砂糖業が発達し,1893年に親米系市民による臨時政府がつくられたのちにアメリカに併合された。スペインから獲得したものではないことに注意。なお,カメハメハ朝ハワイ王国の最後の女王はである。

V-24. アメリカ=イギリス戦争:第2次独立戦争

アメリカは,フランス革命とナポレオン戦争に対してを守っていたが,イギリスの海上封鎖によって通商が妨害されたことをきっかけに,年に戦争が勃発した。この戦争は1814年には終結したが,戦争中イギリス商品の流入が途絶え,アメリカの工業が発展して,経済的自立が促進されたため,第2次独立戦争と呼ばれる。

V-25. 第3代ジェファソン大統領

ジェファソンは年に出されたの起草者である。独立後のアメリカでは,中央政府の権限強化を主張すると,州権を重視するの対立が続いていたが,1800年の大統領選挙で当選した[ 4 ]のジェファソンは両派の融合に努めた。ジェファソンは,1803年にからミシシッピ川以西のを買収した。この結果,領土は倍増し,西部へのさらなる領土拡大への道を開いた。
check_icon6ミシシッピ川以西のルイジアナは,1763年のパリ条約でフランスがスペインに割譲したが,1800年の密約でフランス領となっていた。

V-26. 第5代モンロー大統領

第5代大統領は,1819年にからを買収した。[ 1 ]はラテンアメリカ諸国の独立に対するヨーロッパ諸国の干渉を排除するために,1823年に[ 1 ]宣言を発した。これは,建国以来の伝統的な主義外交を具体化したもので,ヨーロッパ諸国とアメリカ大陸諸国との相互不干渉を主張した。この宣言は,ラテンアメリカ諸国の独立に対する側面的な支援にとどまらず,ロシアのからの南下も牽制している内容である。[ 4 ]主義は,その後長い間アメリカ外交の基本政策となった。

V-27. 第7代ジャクソン大統領(1)

第7代大統領は,西部農民と都市労働者の支持を得て当選した,初めての西部出身の大統領である。[ 1 ]が資本家の勢力を抑え,民主主義の発展に努め,白人男性普通選挙制を導入したことで,[ 1 ]の時代をと呼ぶ。だが,黒人奴隷制は維持され,先住民(インディアン)に対してはを制定して,ミシシッピ川以西の荒地のに追放した。
check_icon6(1)「西部」に注意。ここでいう「西部」とは,建国13州以外の地を指している。ちなみに,ジャクソンはテネシー出身だが,テネシーは現在は南東部に当たる。(2)[ 3 ]によって西方へ追いやられた先住民は,苦しい悲惨な移動を強いられ,4人に1人が死んだ。この苛酷な移動は,「」と呼ばれる。

V-28. 第7代ジャクソン大統領(2)

反ジャクソン派の政治家は北部を基盤とするホイッグ党を,またジャクソン派は南部を基盤とするを形成した。その後ホイッグ党は,1850年代に入って奴隷問題をめぐって分裂したのち,一部の政治家がを結成した。
check_icon6ジャクソン大統領はエリート階層による世襲的な上級官職独占を打破するために,大統領選で勝った党派の者に連邦政府の官職を与えるスポイルズ・システム(猟官制)を採用した。だが,この制度は適任者ではない者が選ばれるという弊害も生んだ。

V-29. 南北の対立(1)

18世紀末にが綿繰り機を発明すると,アメリカ南部で黒人奴隷を用いる綿花が発達した。綿花をイギリスに輸出する南部は,貿易と,州の自治を求めた。一方,産業革命が進み商工業が発達した北部は,イギリス商品の流入を阻止するために貿易政策と,連邦主義を求めた。また,北部は自由な労働力の創出と人道主義の立場から,奴隷制に反対した。
check_icon6奴隷制廃止論者であるは,人道主義の立場から『アンクル=トムの小屋』で黒人奴隷の悲惨な生涯を描いて,奴隷解放への機運を高めた。

V-30. 南北の対立(2)

西部開拓が進み新たな州が生まれると,その州で奴隷制を認めるかどうかということをめぐって,奴隷制に反対する北部と,奴隷制の維持を求める南部が激しく争った。1820年にを例外的に奴隷制を認める奴隷州とし,今後は[ 1 ]の南の境界である北緯36度30分以北には奴隷州はつくらないと定めた[ 1 ]協定が結ばれて,南北の対立は一時収まった。だが,北緯36度30分以北にあるカンザス・ネブラスカ両準州(准州)について,奴隷州か,奴隷制を認めないかは将来住民が決めるという法律が1854年に制定されて,[ 1 ]協定が無効とされたため,北部は反発した。これを機に,北部は奴隷制反対を唱えるを結成した。

V-31. 南北戦争(1)

1860年,奴隷制拡大反対論者である党のが大統領に当選すると,南部諸州が連邦から離脱し,翌61年にヴァージニアのを首都とするを結成し,ジェファソン=デヴィスを大統領に選んだ。ここに,南北戦争(1861~65年)が始まった。
check_icon6原語で「南北戦争」は,“the (American) Civil War”という。“civil war”は「内乱,内戦」の意味である。

V-32. 南北戦争(2)

1862年に北部は,5年間定住して開墾した開拓者に国有地を160エーカー無償で与えるとする法を制定して,西部の支持を獲得した。さらに,は年,内外世論に向けてを出した。北軍は,同年に戦われたの戦いに勝利して優勢となった。[ 2 ]はこの激戦地で,民主主義を「人民の,人民による,人民のための政治」と定義する有名な演説を行った。年,南軍が降伏して南北戦争は終結した。
check_icon6(1)奴隷解放宣言は,南部の黒人にアピールするだけでなく,南部を支援しようとしたイギリスの国民に向けたものでもあった。(2)リンカンは南北戦争終結後に南部支持者によって暗殺された。

V-33. 南北戦争後の黒人の状況

南北戦争後,連邦憲法の修正により奴隷制は廃止され,解放黒人に選挙権が与えられた。だが,南部では教育水準が低い黒人に対して識字テストを行って,黒人の選挙権行使を制限するなどの差別が残った。また,解放された黒人の多くは高率の小作料を払う(分益小作人)となって苦しい生活を送った。一部の白人至上主義者は,などの秘密結社を組織して,黒人に暴行を加えた。

V-34. 南北戦争後のアメリカ

南北戦争後,統一を回復したアメリカは西部開拓と工業化が進展した。1869年にが開通し,西部開拓が促され,1890年代にはが消滅した。資源に恵まれたアメリカは,石炭・石油・鉄鋼などを基盤とする工業がめざましく発展し,1890年代にはイギリスを追い抜いて世界一の工業国となった。これに伴って,独占企業の弊害も進んだので,これに対抗する労働組合組織も生まれた。1886年には熟練労働者を組織したが結成された。19世紀後半に急増した東欧・南欧系やアジア系移民の多くは低賃金の不熟練労働者として工業発展を支えた。
check_icon61869年にスエズ運河も開通した。また,ナポレオンのロシア遠征を背景に描かれた,トルストイの『戦争と平和』も同年に完成した。ゴロで,「人はロックこわし~」と覚えておこう。なお,大陸横断鉄道建設の労働力となったのは,アイルランド人とクーリー(苦力)と呼ばれる中国人労働者である。

V-35. アメリカへの移民

アメリカ合衆国は西ヨーロッパからの移民によって建国されたが,1840年代後半から50年代にかけては,1848年のドイツ革命とアイルランドのの影響でドイツとアイルランドからの移民が急増した。1880年代からは,東欧・イタリア系や中南米・アジアからの移民が増え,「新移民」と呼ばれた。中国系の移民は(苦力)とさげすまれ,低賃金で過酷な労働を強いられ,大陸横断鉄道の労働力とされた。アジアからの移民に対しては,人種差別や移民制限の対象とされ,1882年のでは中国人の移民が厳しく制限され,1924年の[ 4 ]では,日本人を含むアジア系の移民は全面禁止された。

V-36. 19世紀半ばのアメリカ外交

1846~48年の戦争でを獲得したのち,太平洋への関心が高まり,1854年にはが条約を結び,日本を開国させた。南北戦争中にメキシコ内乱に干渉していたフランスのに対し,アメリカは南北戦争終結後に抗議し,フランス軍は1867年に撤退した。また,1867年にアメリカはからを買収した。
check_icon6ロシアはクリミア戦争敗北で打撃を被り,アラスカの維持が負担となっておりアメリカへの売却を決めた。だが,アメリカ国内では氷に閉ざされたアラスカを買うことに非難が集まった。ところがその後,アラスカでは金や石油などの地下資源が発見された。さらに,第二次世界大戦後の冷戦下ではアラスカはきわめて重要な役割を果たし,アメリカの勝利に貢献した。

V-37. メキシコ出兵

財政難に陥ったメキシコ政府の外債利子不払い宣言を口実に,アメリカ合衆国の戦争に乗じてフランス・イギリス・スペインが派兵。イギリス・スペインは翌年撤兵したが,フランスのはメキシコの共和政府を倒してオーストリア皇帝の弟のをメキシコ皇帝に擁立した。大統領が率いたメキシコ軍の抵抗と[ 1 ]戦争終結後にアメリカが抗議したことで,1867年にフランス軍が撤兵した。この失敗で[ 2 ]の権威は失墜した。
check_icon6(1)印象派の創始者であるは,スペインのがナポレオン1世のスペイン支配に対する抵抗を描いた「1808年5月3日」の構図に似せて,「皇帝[ 3 ]の銃殺」を描いた。(2)は[ 4 ]の下でフランス軍と戦ったが,のちにフアレスと対立。フアレス死後,クーデタで大統領となって独裁を行ったが,1911年のメキシコ革命で打倒された。