V-98. イタリアとドイツの統一
イタリアとドイツは19世紀後半に統一されて国民国家が成立したが,両国の統一は似たような経過をたどった。ウィーン体制下における[ 1. ]による統一運動が失敗したのち,王国主導の統一運動へと転換し,両国とも[ 2. ]との戦いを経て統一が達成された。
「イタリアとドイツの統一」の一問一答問題です。
イタリアとドイツは19世紀後半に統一されて国民国家が成立したが,両国の統一は似たような経過をたどった。ウィーン体制下における[ 1. ]による統一運動が失敗したのち,王国主導の統一運動へと転換し,両国とも[ 2. ]との戦いを経て統一が達成された。
ウィーン体制下における自由主義者の統一運動には,秘密結社[ 1. ]や[ 2. ]の青年イタリアによる運動があったがいずれも失敗した。三月革命を背景に,統一を目指してオーストリアと戦い敗れた[ 3. ]王国は,1849年に即位した[ 4. ]のもと,[ 5. ]が首相となって工業化を推進し,[ 6. ]戦争においてフランス側に立って参戦することで友好関係を深めた。オーストリアに対するイタリア統一戦争で,フランスによる支援の代償として[ 7. ]と[ 8. ]を割譲するという[ 9. ]密約が結ばれ,[ 10. ]年にイタリア統一戦争が勃発した。
フランスの[ 1. ]の支援を得て,[ 2. ]と開戦した[ 3. ]年のイタリア統一戦争では,[ 1 ]が[ 4. ]王国の強大化を恐れて[ 2 ]と単独講和を結んだため,[ 4 ]王国は[ 5. ]を獲得するにとどまった。1860年,[ 4 ]王国は[ 6. ]と[ 7. ]をフランスに割譲することを条件に中部イタリアの併合を認めさせた。同年,「[ 8. ]」出身の[ 9. ]が千人隊を率いて[ 10. ]王国を占領して,[ 4 ]王に献上した。この結果,[ 11. ]年に[ 12. ]を国王とするイタリア王国が成立した。
[ 1. ]年に成立したイタリア王国はその後も領土拡大に努めた。1866年に勃発した[ 2. ]戦争でプロイセンと同盟を結び,オーストリア領であった[ 3. ]を併合した。さらに,1870年の[ 4. ]戦争でフランス軍がローマから撤退すると,[ 5. ]を占領した。オーストリア領にとどまった[ 6. ]・[ 7. ]などを,イタリアは「[ 8. ]」と呼んで奪還に努めた。この問題は第一次世界大戦でイタリアが[ 9. ]側に立って参戦する原因となった。
ローマ教皇領の占領によって,イタリア王国とローマ教皇が対立したが,これが解決されたのはムッソリーニ政権下で1929年に結ばれた[ 10. ]条約においてである。
ドイツでは,ライン中流域の工業地帯をもつ[ 1. ]を中心に,[ 2. ]をのぞく大多数のドイツ諸邦が加盟した[ 3. ]が[ 4. ]年に発足し,経済的統合がほぼ実現した。1848年の[ 5. ]革命時の[ 6. ]における自由主義者の統一運動が失敗したのち,統一の主導権はプロイセンの保守的な支配層である[ 7. ]層に移った。プロイセン国王[ 8. ]のもと[ 7 ]出身の[ 9. ]が首相に任命されると,[ 9 ]は軍事力を増大させ,強引に統一を目指す[ 10. ]政策を推し進めた。
[ 3 ]結成には,保護関税政策を主張するドイツの経済学者[ 11. ]の寄与があった。
1864年,プロイセンはオーストリアとともに[ 1. ]を攻め,[ 2. ]・[ 3. ]を奪った。その後,占領した地に関する管理権をめぐってプロイセンとオーストリアが争い,[ 4. ]年にプロイセン=オーストリア戦争が勃発してプロイセンがオーストリアを破った。プロイセン首相[ 5. ]は,ウィーン会議で成立した[ 6. ]を解体し,1867年にプロイセン王[ 7. ]を盟主とする[ 8. ]を組織した。一方,ドイツ統一から除外されたオーストリアは,マジャール人の[ 9. ]王国建設を認めた。これによって,オーストリア皇帝が王を兼ねる同君連合のオーストリア=[ 9 ]帝国が成立した。しかし,多民族国家としての民族問題は残ったままであった。
オーストリアがハンガリーを王国として認めた協定は,ドイツ語で「妥協」を意味するアウスグライヒと呼ばれる。
フランスの[ 1. ]はプロイセンが強大化することを恐れて,反プロイセン感情が強かったバイエルンなどの南ドイツ諸邦を援助して,ドイツ統一に干渉した。そこで,プロイセン首相[ 2. ]は[ 3. ]問題でフランスを挑発し,[ 4. ]年にプロイセン=フランス戦争を起こさせた。外敵の出現で,南ドイツ諸邦もプロイセンが盟主であった[ 5. ]についたためフランスは敗れ,[ 1 ]は[ 6. ]で捕虜となり,フランスの[ 7. ]は廃止された。翌71年にフランスが[ 8. ]・[ 9. ]をドイツに譲り,莫大な賠償金を払うことを約した講和条約をもって戦争は終結した。
[ 1. ]戦争で統一に干渉してきたフランスを破ったのち,プロイセン王[ 2. ]は[ 3. ]宮殿の[ 4. ]でドイツ皇帝の位につき,[ 5. ]を帝国宰相とするドイツ帝国が成立した。ドイツ帝国は,[ 6. ]と[ 7. ]からなる二院制制であった。男性普通選挙制で選ばれた[ 6 ]には予算審議権は与えられたが,責任内閣制は認められておらず,無力であった。ドイツ帝国を構成する諸邦政府の代表からなる[ 7 ]は立法・行政上大きな力を持ち,[ 6 ]に優越していた。また,帝国宰相は皇帝にのみ責任を負った。
ドイツ帝国の宣言が[ 3 ]宮殿において出されたことは,フランスの対ドイツ報復の感情を招いた。その結果,1919年の第一次世界大戦後の対ドイツ講和である[ 3 ]条約の調印式は[ 4 ]で行われた。