V-91. 東方問題
19世紀前半以来,[ 1. ]帝国の支配下にあった諸民族は自由主義と[ 2. ]の高まりを背景に,[ 1 ]帝国の衰退に乗じて,独立運動を進めた。これに対して,英・仏・露を中心とする列強が干渉して国際問題が生じた。これを「[ 3. ]問題」という。1820年代の[ 4. ]独立戦争,1830年代の[ 5. ]戦争,1853~56年の[ 6. ]戦争,1877~78年の[ 7. ]戦争を経て,帝国主義時代にはバルカン問題へと,[ 3 ]問題は展開していった。
「東方問題とロシア」の一問一答問題です。
19世紀前半以来,[ 1. ]帝国の支配下にあった諸民族は自由主義と[ 2. ]の高まりを背景に,[ 1 ]帝国の衰退に乗じて,独立運動を進めた。これに対して,英・仏・露を中心とする列強が干渉して国際問題が生じた。これを「[ 3. ]問題」という。1820年代の[ 4. ]独立戦争,1830年代の[ 5. ]戦争,1853~56年の[ 6. ]戦争,1877~78年の[ 7. ]戦争を経て,帝国主義時代にはバルカン問題へと,[ 3 ]問題は展開していった。
エジプトの[ 1. ]はオスマン帝国からの自立を目指し,1830年代に2度にわたる[ 2. ]戦争を起こした。ロシアはオスマン帝国を援助して地中海への[ 3. ]を実現しようとし,1833年のウンキャル=スケレッシ条約で黒海と地中海を結ぶ[ 4. ]・[ 5. ]両海峡の航行権を獲得した。だが,イギリスが巧みな外交を展開し,1840年のロンドン会議でウンキャル=スケレッシ条約は否定され,翌41年の五国海峡協定で[ 4 ]・[ 5 ]両海峡の外国軍艦の航行は禁止された結果,ロシアの[ 3 ]政策は阻止された。
[ 1. ]年,オスマン帝国領内の[ 2. ]の保護を口実にロシアがオスマン帝国に宣戦し,[ 3. ]戦争が始まった。翌年,イギリス・フランスがオスマン帝国側について参戦し,さらにイタリア統一の布石として[ 4. ]王国もオスマン帝国側に立って参戦した。[ 3 ]半島のセヴァストーポリ要塞の攻防戦のすえロシアは敗れ,[ 5. ]年の[ 6. ]条約で[ 7. ]・[ 8. ]両海峡の閉鎖と,黒海の中立化が定められ,ロシアの[ 9. ]はまたしても阻止された。[ 3 ]戦争の結果,19世紀前半からイギリスとロシアの両大国によって支えられていたヨーロッパの国際秩序は崩れ,イタリアおよびドイツの統一をめぐり,プロイセン・オーストリア・フランスが戦火を交えることになる。
19世紀前半のヨーロッパでは勢力均衡に基づくウィーン体制のもと,ナポレオン戦争後の約40年間は大国間の戦争は起きていなかった。[ 3 ]戦争はこの状況を破ったものであり,ウィーン体制の国際秩序の崩壊を意味する。1849年のハンガリー独立運動鎮圧の際にロシアはオーストリアを支援したが,その4年後に勃発した[ 3 ]戦争でオーストリアはロシアを支援せず,中立を保った。ここにそれまでのロシアとオーストリアの提携は崩壊し,イタリアやドイツが統一を目指してオーストリアと戦う環境が整った。
クリミア戦争中の1855年に突然亡くなった皇帝[ 1. ]に代わって即位した[ 2. ]はクリミア戦争の敗北を反省し,自由主義改革に取り組んだ。[ 2 ]は,[ 3. ]年に[ 4. ]を出し,無償で農奴に人格的自由を与えた。だが,土地の分与については高額な有償制とされ,購入資金は政府が農民に融資する形を取ったが,農民は多額の負債を抱え込むこととなった。また,土地は個人ではなく農村共同体([ 5. ])に引き渡されることが多く,農民は[ 5 ]に縛り付けられた。こうして[ 4 ]は農民にとっては不十分な内容であったが,自由な労働力を創出した結果,ロシアの工業化と資本主義化への道が開かれた。
農奴解放令などの自由主義改革を進めた皇帝[ 1. ]は,1863年に[ 2. ]で独立運動が高まると,再び専制政治を強化した。資本主義が十分発達していなかったロシアで,改革の担い手となったのは[ 3. ]と呼ばれる都市の知識人層であった。彼らの一部は農民を啓蒙して社会主義的改革を行うことが必要であると考え,「[ 4. ](人民の中へ)」というスローガンを掲げて,農村に入ったため[ 5. ]と呼ばれた。だが,農民の多くが政治に無関心であり,政府による弾圧を受け,[ 5 ]の運動は挫折した。絶望した彼らの一部は[ 6. ](虚無主義)やテロリズムに走り,[ 1 ]は1881年にテロにより暗殺された。
[ 6 ]は一切の権威と価値を否定する思想であるが,[ 7. ]が小説『父と子』で用いて,この言葉が広まった。
19世紀後半にロシアはスラヴ人の連帯と統一を目指す[ 1. ]主義を掲げ,バルカン半島で勢力拡大を図り,オスマン帝国やオーストリアに対抗した。ボスニア・ヘルツェゴヴィナでギリシア正教徒の反乱がおきると,ロシアは[ 2. ]年にオスマン帝国に宣戦して[ 3. ](露土)戦争が勃発した。勝利したロシアは翌78年に[ 4. ]条約を結び,[ 5. ]・[ 6. ]・[ 7. ]の3国の独立を認めさせ,[ 8. ]をロシアの保護下における自治国とさせた。これに対して,ロシアの[ 9. ]を恐れる[ 10. ]と,バルカン半島におけるロシアの影響力の拡大を恐れた[ 11. ]が猛反発したため,ドイツ帝国宰相[ 12. ]が仲介して[ 13. ]会議が開かれた。
ロシア=トルコ戦争に勝利したロシアが1878年に結んだ[ 1. ]条約にイギリス・オーストリアが反発したため,ドイツ帝国宰相[ 2. ]は[ 3. ]会議を開催し,列国の利害を調整した。その結果,[ 1 ]条約は破棄され,新たに[ 3 ]条約が結ばれた。[ 3 ]条約では,[ 4. ]・[ 5. ]・[ 6. ]の独立は承認され,[ 7. ]はオスマン帝国内の自治国とされた。イギリスは[ 8. ]の行政権を,オーストリアは[ 9. ]・[ 10. ]の行政権を獲得した。この結果,ロシアの地中海への南下は抑えられ,ロシアは中央アジア・東アジアへの進出につとめるようになった。