フランス革命とナポレオン

「フランス革命とナポレオン」の一問一答問題です。

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V-38. フランス革命前の社会

革命以前のフランス社会は身分制を基盤としていた。が第一身分,が第二身分,人口の9割以上を占めた農民や都市の民衆は第三身分であった。第一身分と第二身分は重要な官職を独占し,中世封建社会における不輸不入権を引き継いでなどの特権を持っていた。このようなフランス革命前の社会を旧制度()という。18世紀になると,富裕な商工業者などの有産市民()が[ 4 ]に反発を強めていた。そこに思想が広まり,『第三身分とは何か』を書いたは,第三身分の権利を主張した。

V-39. フランス革命の展開(1)

フランス革命は,特権の廃止を求める王権に対するの反抗から始まった。その後,旧制度()廃棄を求める有産市民()が指導権を握り,共和政を確立した。一方,農民や都市の下層民衆は[ 3 ]の廃棄に重要な役割を果たしたが,同時に自分たちに特有な規範に反したものに対してシャリヴァリという独自の抗議運動も展開して,資本主義経済にも反対した。このように,フランス革命は貴族・[ 4 ]・農民・下層民衆という社会層が絡み合って進行したため,複雑かつ徹底的な複合的な革命となった。
check_icon6フランス革命を市民革命とする見方もあったが,市民革命という概念自体が否定されつつある。(参照IV-57)

V-40. フランス革命の展開(2)

フランス革命(1789~99年)における議会と政治体制は次のように展開する。
(1)1789年:三部会 →
(2)1791年憲法でが成立:(議会)[ 1 ] →
(3)1792年:(政体)[ 2 ] → :(議会)[ 3 ] →
(4)1795年:[ 4 ] →
(5)1799年:[ 5 ] →
check_icon6革命の進展に伴って中心的な勢力は次のように変化した。富裕市民と自由主義貴族の利害を代表する立憲君主派(派) → 穏健な共和政を主張する,大商人・ブルジョワジーの利害を代表する派 → 農民・下層民衆に支持された急進共和主義の派 → のクーデタで穏健共和派のブルジョワジー支配に回帰

V-41. フランス革命の勃発(1)

18世紀にイギリスとの戦争を繰り返したフランスの国家財政が極度に悪化したため,国王は重農主義者や銀行家を登用して,第一身分と第二身分からなる特権身分の特権の廃止などの財政改革を目指した。だが,特権身分が抵抗したため,1615年以来開催されていなかったが招集されることとなった。[ 5 ]が開催されると,議決方法をめぐって特権身分と第三身分が対立し,第三身分の議員たちはを結成し,憲法制定まで解散しないことを誓った()。[ 6 ]が憲法の起草を求めると,貴族と国王[ 1 ]が弾圧しようとした。これに対して,7月14日にパリの民衆はを攻撃した。この事件を機に,全国的に農民反乱が発生した。

V-42. フランス革命の勃発(2)

1789年7月14日に発生した襲撃事件が誘発した農民反乱を受けて,はを決定し,や教会へのは無償で廃止された。だが,領主に納めるは有償だったため,農民は土地を入手することはできなかった。また,[ 2 ]は自由主義貴族らが起草したを採択した。この宣言は,自然法に基づいて,基本的人権・国民主権・の不可侵などの原理を主張するものであった。10月,食料高騰に苦しんだ民衆がを行って,国王一家をパリのテュイルリー宮殿へ移転させた。1790年には教会財産を没収し,1791年にはを廃止して営業の自由を確立した。

V-43. 立憲君主政の成立:フランス革命

年6月,国王一家は王妃の実家オーストリアへの逃亡を図ったが,国境近くので捕らえられた。この[ 4 ]逃亡事件で国王は国民の信頼を失った。9月,選挙権を有産市民に限定した一院制のを定める[ 1 ]年憲法が発布された。この憲法のもとで成立したでは,革命のこれ以上の進展を望まない派と,富裕市民の利害を代表して共和政を主張する派が対立した。
check_icon6ルイ16世一家がオーストリアに逃亡しようとした背景には,それまで国王と取引して革命の急進化を防いでいたフイヤン派のが急病死したことがあった。

V-44. 革命戦争の開始:フランス革命

フランス最初の憲法である年憲法のもとで成立したでは,国内外で反革命の動きが活発となると,共和派の勢力が強くなり,1792年に派内閣が成立した。[ 3 ]派内閣は,反革命の態度を取るに宣戦して,革命戦争が始まった。だが,貴族が士官をつとめるフランス軍隊は戦意もなく,オーストリア・プロイセン連合軍がフランス国内に侵入した。この危機に際し,全国各地からがパリに集まり,国王を逮捕し,王権を停止した(事件)。
check_icon6マルセイユから来た義勇兵たちの団歌「」が現在のフランス国歌である。

V-45. 共和政の成立:フランス革命

1792年の事件で王権が停止されたのち,選挙によるが成立し,王政の廃止と共和政の樹立が宣言された()。
check_icon6共和政が成立する直前に,フランス軍はにおいて初めてプロイセン・オーストリア連合軍に勝利した。プロイセン軍に従軍していたドイツの文豪は,「ここから,そしてこの日から,世界史の新しい時代が始まる」と記した。

V-46. フランス革命の急進化と対仏大同盟

1792年に,選挙により成立したでは,農民や下層民衆に支持された急進的な派が台頭し,1793年に国王をで処刑した。革命の影響が及ぶことを恐れたイギリス首相は,列強とを結成し,同盟軍はフランス国内に侵入した。1793年に[ 2 ]が国民に兵役を強制するを実施すると,王党派が指導するの農民反乱がおきた。

V-47. 恐怖政治(1):フランス革命

国内外の危機を乗り切ろうと,1793年に派はジロンド派をから追放して,都市の下層民衆や農民の支持を確保する政策をとろうとした。選挙制を定めた憲法の制定(施行は延期された),亡命貴族の土地の競売,による物価統制,さらに農民対策としてを行った。
check_icon6国民議会による1791年の封建的特権の廃止では封建地代は有償廃止であったため,農民は土地を入手できなかった。国民公会による1793年の封建地代の無償廃止では農民が土地を入手して,小土地所有農民が創出された。だが,これらの農民は革命のさらなる急進化で土地を失うことを恐れ,保守化してジャコバン派から離れていった。

V-48. 恐怖政治(2):フランス革命

を中心とするジャコバン(山岳)派政権は,強大な権限を握るを使って独裁を行い,革命裁判所を設置して反対派を多数処刑した。ジャコバン(山岳)派による,このような政治をと呼ぶ。また,ジャコバン(山岳)派政権は,暦や法を制定した。だが,[ 3 ]が人々に不安を与え,有産市民(ブルジョワジー)はによる物価統制政策に不満を感じ,により土地を入手した農民はそれ以上の変化を望まなかった。[ 1 ]はジャコバン派内の急進派エベールや穏健派のダントンを処刑して独裁を強化したが,年,のクーデタで[ 1 ]は権力を失って処刑された。
check_icon6メートル法は1799年に総裁政府の時に正式に採用された。

V-49. 総裁政府の成立:フランス革命

のクーデタでジャコバン(山岳)派が没落したのち,穏健共和派が有力となり,選挙制を復活させた憲法が制定された。この憲法により,5人のからなる[ 4 ]政府が成立した。だが,対外戦争や王党派の反乱で政権は安定せず,私有財産の廃止を唱えるの陰謀事件もおきた。このような社会不安を背景に,商工業者や入手した土地の確保をめざした農民は社会の安定を求め,コルシカ島生まれの軍人に期待をかけた。
check_icon6フランス革命における憲法は,1791年・93年・95年と奇数年に出されていることに注意。

V-50. ナポレオンの台頭:フランス革命の終結

1796年,ナポレオンはイタリア遠征軍司令官として軍を破って,を崩壊させた。さらに,1798年,イギリスとの連絡を絶つ目的でに遠征した。ナポレオンは陸上の戦いでイギリス・オスマン帝国軍を破ったが,海上での戦いに敗れてエジプトに孤立した。この状況下,1799年にイギリスがロシア・オーストリアなどとを結び,政府が危機に陥ると,ナポレオンはエジプトを脱出して帰国し,[ 6 ]政府を倒して,自らを第一とする[ 7 ]政府を樹立した(のクーデタ)。ここに,フランス革命は終了した。
check_icon6ナポレオンのエジプト遠征において,神聖文字(ヒエログリフ)解読の手がかりとなったが発見された。

V-51. ナポレオン時代(1):帝政の開始

1799年ののクーデタでを倒してを樹立したナポレオンは,革命において教会財産を没収したため対立関係にあったローマ教皇と1801年に(コンコルダート)を結んで和解した。さらに翌1802年,イギリスとの和約を結んでを崩壊させ,国民投票によってに就任した。内政においては,フランス銀行を設立して国家財政の安定を図り,公教育制度を確立し,1804年にはの不可侵,法の前の平等などのフランス革命の成果を定着させる民法典『』を制定した。その後,同1804年に国民投票で圧倒的な支持を受けて皇帝に即位し,と称した()。

V-52. ナポレオン時代(2):ナポレオンの大陸支配(1)

年にナポレオンが第一帝政を開始したのを受けて,1805年にイギリス・ロシア・オーストリアなどがを結成し,同年の率いるイギリス艦隊がフランス・スペイン連合艦隊をの海戦で破って,ナポレオンの対英上陸作戦を断念させた。だがナポレオンは大陸において,同1805年にオーストリア・ロシア連合軍をの戦い(三帝会戦)で破り,[ 2 ]を崩壊させた。
check_icon605年にトラファルガーの海戦とアウステルリッツの戦いがおこったことをゴロで「怒った虎,愛してる」と覚えておこう。

V-53. ナポレオン時代(3):ナポレオンの大陸支配(2)

1806年,ナポレオンが西南ドイツ諸国にを結ばせて自らの保護下におくと,神聖ローマ皇帝が帝位を辞退し,神聖ローマ帝国が最終的に消滅した。さらに,プロイセンとロシア連合軍を破ったナポレオンは,1807年にプロイセン・ロシアに条約を結ばせた。この条約でナポレオンは,プロイセンの領土の大半を奪い,ポーランドにを設立させた。ナポレオンは兄弟をスペイン王やオランダ王の地位につけ,ヨーロッパ大陸のほとんどを支配下に置いた。
check_icon6神聖ローマ帝国は,年に結ばれた三十年戦争の講和条約で事実上解体していたことに注意。

V-54. ナポレオン時代(4):ナポレオンの大陸支配(3)

1806年にナポレオンは,フランス産業のために大陸市場を確保しようとしてベルリンでを発布して,大陸諸国にイギリスとの通商を禁じた。だが,広い海外市場を持ち,産業革命が進んでいたイギリスには大きな経済的打撃を与えることはできず,逆にこの命令は大陸諸国に大きな経済的打撃を与え,ナポレオンに対する反抗を招くことになった。
check_icon6ナポレオンの大陸支配に対し,イギリスは海上封鎖をもって対抗したが,これにより通商が妨害されたアメリカは1812年に戦争をおこした。この結果,アメリカは経済的自立が進んだため,第2次独立戦争と呼ばれる。

V-55. ナポレオンに対する反抗

ナポレオンは征服地においては,「ナポレオン法典」などを通じてフランス革命が提起した原理を浸透させようとした。だが,フランスの支配に対する反対運動を引き起こし,各地の民族意識を目覚めさせることにもなった。まず,で反乱が起こり,のちには「1808年5月3日」でこの様子を描いた。プロイセンでは,観念論哲学者が『ドイツ国民に告ぐ』という講演を行って国民意識を呼び覚まそうとし,・らはを行い,の近代化を図った。

V-56. プロイセン改革

1807年にが農奴制を廃止し,後を継いだはギルドの特権を廃止して営業の自由を認め,また農業改革や行政改革に努めた。これらの改革により,農民は農奴身分から解放されたが,自作農となる農民は少なく,解放された農民の多くは農業労働者となり,による資本主義的農場経営を支えた。この結果,[ 3 ]の勢力は強まり,官僚や将校としてプロイセンの政治・経済の中核を担うようになった。
check_icon6ハルデンベルクは1814~15年に開かれた会議の全権代表となり,プロイセンの領土拡大に成功した。

V-57. ナポレオンの没落(1)

ロシアがを無視してイギリスに穀物を輸出すると,ナポレオンは年にロシア遠征を試みたが,失敗した。これを契機に,各地で反フランス闘争がおこった。この一連の戦争を解放戦争と呼ぶ。1813年に諸国はの戦い(戦争)でナポレオン軍を破り,翌14年にパリを占領した。ナポレオンは退位してイタリア半島の西岸にある島に流され,ルイ16世の弟が王位について朝が復活した。

V-58. ナポレオンの没落(2)

フランス革命とナポレオン戦争から生じた混乱を収拾させようとして,諸国は年に会議を開催したが,諸国の利害対立で議事が進行せず,紛糾した。また,ブルボン朝のに対する国民の不満を見たナポレオンは,1815年に島を脱出してパリに戻り,帝位に復位した。しかし,の戦いでナポレオンは大敗し,再び退位した(天下)。その後,ナポレオンは南大西洋の島に流され,1821年に同島で死去した。