ウィーン体制

「ウィーン体制」の一問一答問題です。

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V-59. ウィーン会議(1)

1814年から翌年にかけて,フランス革命とナポレオン戦争が引き起こした混乱を収拾し,新たなヨーロッパの秩序を建設しようとして,オスマン帝国を除く全ヨーロッパ諸国の代表が集まって会議が開かれた。諸国の利害が対立して議事は難航したが,ナポレオンが島を脱出して皇帝に復位したことで,オーストリア外相(のち宰相)を中心に妥協が成立し,の戦いの直前に[ 1 ]議定書が調印された。
check_icon6ウィーン会議における議事が進行せず,舞踏会ばかり開かれることを風刺して,「会議は踊る,されど進まず」と評された。

V-60. ウィーン会議(2)

ウィーン議定書の原則の一つは,フランス外相が唱えたで,フランス革命以前の王朝を復活させようというものである。この原則によりフランス・スペイン・ナポリで朝が復活した。あと一つの原則は,大国間のであり,領土の譲渡に対しては代償がもうけられた。
check_icon6フランス革命前の状態に戻すという[ 1 ]が唱えた[ 2 ]は,フランス革命・ナポレオン戦争の戦争責任を巧妙に回避する意味をもっていた。

V-61. ウィーン議定書(1)

旧の大部分で形成されたポーランド王国が新たに建設されたが,王は皇帝が兼ね,事実上の[ 2 ]領であった。また,[ 2 ]は・ベッサラビアを獲得した。イギリスは,旧領の(スリランカ)・を獲得した。立憲王国となった[ 4 ]は旧領(のちのベルギー)を譲られ,[ 7 ]は・などの北イタリアを獲得した。プロイセンはラインラントなどを獲得した。また,スイスはとして承認された。
check_icon6黒海の北側に位置するベッサラビアは,1917年のロシア革命後にルーマニアが併合したが,第二次世界大戦勃発後の1940年にソ連がルーマニアに軍事的圧力をかけ,割譲させた。

V-62. ウィーン議定書(2)

ドイツでは,35の君主国と4自由市からなるが結成された。オーストリアが議長国として大きな力を得たが,参加各国はそれぞれ独立国としての権能を有していた。[ 1 ]は1848年の革命で一時中断したが,革命後復活して1866年の戦争まで存続した。

V-63. ウィーン体制

1814~15年に開かれた会議で成立した19世紀前半の国際体制を[ 1 ]体制と呼ぶ。この体制は,大国間のを図りつつ,フランス革命とナポレオンによる大陸支配のもとでヨーロッパ各地に広まったとナショナリズムの運動を抑圧して,フランス革命前の状態を維持しようとする復古反動体制であった。この体制を維持・強化する目的で,二つの同盟が結成された。ロシア皇帝が提唱したと,(のちに五国同盟)である。
check_icon6ナポレオンが没落すると,イギリスに対抗できる国はなく,事実上イギリスの覇権が確立した。イギリスの圧倒的な経済力と軍事力によって,比較的平和な状態が続いたことを,と呼ぶ。

V-64. 神聖同盟

ウィーン体制を維持しようと,ロシア皇帝の提唱でできたのがである。この同盟は,キリスト教精神に基づいて諸君主が兄弟のように協力しようというもので多くの君主が参加したが,自由主義的風潮が強くなってきたは曖昧な内容を警戒して参加しなかった。また,新教国との同盟を嫌った,そしてイスラームのは参加しなかった。この同盟は,オーストリア外相(のち宰相)が主導するウィーン体制を支えたが,ラテンアメリカの独立が成功したように限界があった。

V-65. 四国同盟

ロシア皇帝の提唱でできたよりもウィーン体制を実質的に支えたのは,1815年にできたである。原加盟国は・・オーストリア・プロイセンの四か国で,1818年にが加わってとなった。この同盟は,1820年に始まった立憲革命をめぐる対応で,イギリスが脱退して1822年に事実上崩壊した。

V-66. ウィーン体制への反抗(1)

フランス革命とナポレオンの大陸支配のもとで各地に広まったとは,各地でウィーン体制に対する反抗運動を引き起こした。[ 1 ]運動は個人の自由を尊重し,国民主権や私的所有権の確立・経済活動の自由などを求める運動で,資本主義の発達で台頭してきたが運動の中心となった。[ 2 ]は状況に応じて異なる訳語が当てられる。と訳す場合,一体性を持った「国民」から形成されるを目指す運動としてとらえられ,統一国家の形成をめざすドイツ・イタリアの運動に用いられる。と訳す場合,他国・他民族に支配されている民族が自立・独立を求める運動ととらえられ,オーストリアの支配下に置かれていた(ハンガリー)人などの運動に用いられる。

V-67. ウィーン体制への反抗(2)

ドイツでは,学生同盟がとを求めて結成されたが,オーストリア外相により弾圧された。イタリアでは,秘密結社が結成され立憲自由主義運動を展開した。[ 5 ]はイタリア各地における革命運動を指導したが衰退し,運動の中心はが組織したへ移った。ブルボン朝が復活したでは,1820年に立憲革命が起きたが,革命の波及を恐れるフランス軍の干渉で1823年に挫折した。ロシアでは1825年,ナポレオン戦争に従軍して西欧の自由主義に触れてきた青年貴族将校たちが憲法制定や農奴制の廃止を求めて,の即位に際しての乱を起こしたが,鎮圧された。

V-68. ウィーン体制の動揺:ラテンアメリカ諸国の独立(1)

ブラジルは領であるが,ラテンアメリカのほとんどが領であった。また,カリブ海の島々にはイギリスやフランスなどの奴隷制に基づくプランテーションが広がっていた。フランス革命で本国が混乱すると,フランス領で黒人奴隷がを指導者として蜂起した。[ 5 ]はナポレオン軍に捕らえられ獄死したが,年に最初の黒人共和国として[ 4 ]が独立した。メキシコでは司祭の蜂起から独立運動が闘われ,独立が達成された。ブラジルでは[ 1 ]の王子が帝位につき,帝国として独立したが,1889年に共和国となった。

V-69. ウィーン体制の動揺:ラテンアメリカ諸国の独立(2)

ラテンアメリカの住民の構成は,植民地生まれの白人,白人とインディオの混血,白人と黒人の混血,黒人などからなっていた。本国の抑圧に反発して,[ 1 ]が中心となり,独立運動を始めた。ベネズエラ・コロンビア・ボリビアの独立を指導した,アルゼンチン・チリ・ペルーの独立を指導したも[ 1 ]であった。そのため,独立後もラテンアメリカでは,[ 1 ]の大地主による支配が続いた。

V-70. ウィーン体制の動揺:ラテンアメリカ諸国の独立(3)

ラテンアメリカ諸国の独立運動に対して,アメリカ大統領は1823年に[ 1 ]宣言を発し,アメリカ大陸とヨーロッパの相互不干渉を唱えた。また,イギリス外相はイギリスの商品市場の拡大をねらって独立を認めたため,ウィーン体制を支えてきたオーストリアのもラテンアメリカの独立運動に干渉することができなかった。

V-71. ウィーン体制の動揺:ギリシア独立

1821年,からの独立をめざし,ギリシア独立戦争が始まった。バルカン半島から東地中海にかけて進出することを目指していたイギリス・・フランスがギリシアの独立を支援した。オーストリアは,ギリシアが独立すると自国内での民族運動が激化することを恐れたが,他国との協調を考えて中立を維持した。こうして,1829年に独立が承認され,翌30年のロンドン会議で列強による承認をえた。ギリシアの独立は,ウィーン体制下で新たな国民国家を誕生させたことで,ウィーン体制崩壊の前触れとなった。
check_icon6イギリスのロマン派詩人はギリシア独立戦争に参加し,病死した。フランスのロマン主義画家は,オスマン軍による虐殺事件を題材に「キオス島の虐殺」を描いた。

V-72. フランス復古王政と七月革命

の即位により1814年に成立した朝の復古王政は,厳しい制限選挙制をとる立憲君主政であった。[ 1 ]をついだ弟のは革命期に土地を没収された亡命貴族に多額の保証金を出すなどの反動政治を行ったため,自由主義者のブルジョワジーを中心とする国民の反発を招いた。[ 3 ]は国民の関心を外にそらそうとに出兵したり,自由主義者が多数当選した新議会を解散し,言論・出版の自由の制限を行った。そのため,パリで民衆が蜂起し,[ 3 ]はイギリスに亡命した(革命)。[ 2 ]家にかわって,自由主義者として知られる家のが,王に迎えられて,[ 5 ]王政が成立した。

V-73. 七月革命の影響

1815年に締結されたでオランダ領とされていたは,七月革命に刺激されて独立運動を活発化させ,1830年に独立を宣言し,翌31年に立憲王政が成立した。ポーランド・ドイツ・イタリアでも国家を求める運動が活発化した。ポーランドので起きた蜂起は軍により鎮圧され,中部イタリアにおけるの蜂起は軍により鎮圧された。ドイツではザクセンなどで自由主義者の運動が起きたが,やがて沈静化した。
check_icon6ポーランドの派作曲家であるは1830年におきたワルシャワ蜂起の失敗の報を聞いて,ピアノ練習曲(エチュード)「革命」を作曲した。