6.帝国主義と第一次世界大戦

「6.帝国主義と第一次世界大戦」の一問一答問題です。

50件の記事

0 / 307 件の答えを表示中

帝国主義(3)

VI-1. 19世紀後半の変化

19世紀半ばにイギリスは「」と呼ばれ,その経済力・軍事力を背景に覇権を築いていた(「」)。しかし,このイギリスの覇権は1870年代から陰りを見せ始める。1873年から始まった「大不況」と呼ばれる長期的な世界不況は,欧米諸国の経済構造の再編を促した。1870年代から,とを動力源として,重化学工業を主体とするが進行した。しかし,(第1次)産業革命を達成していた先発工業国のイギリスは産業構造の転換に乗り遅れた。[ 5 ]をいち早く達成した国は,南北戦争の危機を乗り越えたと,1871年に統一を達成したであった。1890年代に[ 6 ]の工業生産力はイギリスを抜き,さらに1910年頃にイギリスは[ 7 ]にも追い抜かれた。この状況下,イギリスはもはや「[ 1 ]」ではなくなり,世界各地へ投資することで利益を得る「」となった。経済的に台頭したドイツは,「[ 2 ]」を謳歌するイギリスに挑戦し,第一次世界大戦へ向かうことになる。

VI-2. 資本主義の変容

第2次産業革命で誕生した重化学工業などの新産業は巨額の資本が必要とされたので,少数の大企業は資本の調達と相互の利益を守るために,独占体を形成した。同一業種の企業が独立性を維持しながら価格などに関して協定を結ぶ企業連合()や,同一業種の企業が単一の巨大資本に吸収・合併される企業合同()が展開された。この時期は,産業資本と銀行資本が結びついたの役割が増大し,ドイツや日本では大銀行を中心として異なる業種・企業が結びついたが生まれた。
check_icon6トラストはアメリカで発達し,ロックフェラーが結成したスタンダード石油トラストが代表である。

VI-3. 帝国主義の成立

19世紀後半に資本主義は,自由競争の時代から,少数の巨大企業が市場を支配するの時代に入った。この時期,欧米諸国は国内の余剰資本を後発国や植民地に投資するを行うが,その資本の投下先,原料供給地・市場を求めるようになる。その対象となったのがアジア・アフリカであり,武力をもって植民地や勢力圏を獲得しようとした。この動きが帝国主義である。帝国主義は,当時高まっていた労働運動や社会主義運動に対して,国内統合の手段としても必要とされた。このことは,ケープ植民地首相であったが内乱を防ぐには植民地が必要であると発言していることにあらわれている。欧米諸国が競って軍備を増強して対外膨張政策を展開していった背景としては,1870年代からイギリスの経済力が低下して,」と呼ばれるイギリスの覇権が陰りを見せるようになった結果,イギリスに挑戦することが可能となったことが上げられる。

帝国主義期のイギリス(7)

VI-4. 帝国主義期のイギリスの内政(1)

保守党の首相は,年に女王を皇帝とするインド帝国を成立させた。自由党の首相は,農業労働者と鉱山労働者に選挙権を与える選挙法改正を行ったほか,法案を提出したが,可決されなかった。また,[ 4 ]首相は,70年に公立学校の増設を進めるを制定し,71年には労働組合法で労働組合を法的に承認した。
check_icon6イギリスの選挙法改正では,第3回までは男性のみに選挙権が与えられたことに注意!!第一次世界大戦の総力戦下で,女性が工場などで働いた結果,1918年の第4回選挙法改正で初めて女性参政権が認められた。

VI-5. 帝国主義期のイギリスの内政(2)

イギリスはインドなどの非白人系植民地は直接支配する一方,白人植民者が多い植民地には自治権を与えて,間接的に支配するようになった。1867年に連邦が最初の自治領とされた。その後,1901年に連邦が,07年にニュージーランド,10年に連邦が自治領となった。

VI-6. 帝国主義期のイギリスの内政(3)

イギリスの社会主義運動は穏健な運動が主流となった。バーナード=ショーや夫妻らが活躍した協会と独立労働党が中心になって,1900年にが結成され,06年にとなった。[ 4 ]は権力奪取をめざすマルクス主義の立場はとらず,ゆるやかな社会改革をめざした。

VI-7. 帝国主義期のイギリスの内政(4)

1905年に成立した自由党内閣は,労働党の協力のもと社会改革を実行し,ドイツのビスマルクの社会政策にならい,11年に健康保険と失業保険を含むを制定した。また,同年に下院の上院に対する優位を確立するを成立させた。さらに,自由党内閣は1914年にを成立させたが,第一次世界大戦が勃発したため実施は延期された。

VI-8. 帝国主義期のイギリスの海外進出(1)

保守党の首相は,1875年にエジプトが保有していたスエズ運河株を買収した。自由党のは,81年にエジプトでおきた運動(革命)を翌82年に単独で鎮圧し,エジプトを保護国とした。スーダンでは,(救世主)を名乗るムハンマド=アフマドが蜂起し,太平天国の討伐に活躍したを戦死させたが,98年にイギリスの支配下に入った。
check_icon6スエズ運河はフランス人外交官により建設されたもので,フランスも株式を保有し,エジプトに利害を持っていた。しかし,1881年にフランスが行った遠征にイタリアが反発し,フランスはイタリアと対立していた。

VI-9. 帝国主義期のイギリスの海外進出(2)

イギリスはエジプトと植民地を結ぶことをめざすアフリカをとった。これに対しフランスは,サハラ砂漠からジブチ・マダガスカルを結ぼうとするアフリカをとっており,両国は1898年スーダンので衝突した。当時のフランスはユダヤ系太尉に対する冤罪(えんざい)事件(事件)による政治的混乱の渦中にあり,また急速に勢力を拡大しつつあったドイツに対抗するためにはイギリスとの関係を悪化させるわけにはいかず,[ 4 ]事件ではフランスが譲歩した。

VI-10. 帝国主義期のイギリスの海外進出(3)

アフリカ南部では,ケープ植民地首相が周辺に侵攻する政策をとっていた。1899年,植民相のもと,オランダ系移民の子孫人に対する戦争をおこし,イギリスは激しい抵抗を受けながらも1902年に共和国と自由国を併合した。イギリスは,エジプトの,南アフリカ共和国の,インドのを結んでインド洋を支配しようとすると呼ばれる帝国主義政策をとったが,をとるドイツと対立した。
check_icon61900~01年に義和団事件が起きたが,[ 4 ]戦争のために,イギリスは中国へ大量派兵できなかった(参照:XII-20)。

帝国主義期のフランス(5)

VI-11. 帝国主義期のフランスの内政(1)

ナポレオン3世によるが1870年に崩壊したのちに成立したは,1875年に憲法が制定されて確立した。だが,対ドイツ強硬派がおこしたクーデタ未遂事件(事件)や,ドイツのスパイの容疑がかけられたユダヤ系太尉に対する冤罪(えんざい)事件(事件)がおき,[ 2 ]は動揺した。[ 4 ]事件では,人権と共和政を擁護する共和派と,反ユダヤ・反共和政をとる軍部・カトリック教会が対立し,[ 2 ]は崩壊の危機に見舞われた。
check_icon6(1)[ 4 ]事件に際し,自然主義作家は[ 4 ]を擁護し,軍部とカトリック教会を批判した。また,この事件を契機に共和政支持勢力がまとまり,1901年に中産階級政党である急進社会党が成立した。(2)[ 4 ]事件における反ユダヤ主義に衝撃を受けたジャーナリストのヘルツルは,パレスチナにユダヤ人国家を建設しようとするを唱えた(参照:XIII-17)。

VI-12. 帝国主義期のフランスの内政(2)

労働運動においては,労働組合が議会主義を否定し,ゼネストや労働者の直接行動による社会革命を求めるが現れた。1905年,第2インターナショナルの決議に沿い社会主義諸団体が結集してフランスが成立した。また同年,急進社会党の主張によりが成立し,カトリック教会の政治介入を防いだ。

VI-13. 帝国主義期のフランスの進出(1)

フランスが1883・84年のユエ条約でベトナムを保護国化したことに対し,84年に戦争が勃発した。清を破ったフランスは条約(1885年)で,ベトナムに対する清のを放棄させた。1887年,ベトナムとカンボジアをあわせてを成立させ,1899年にはをこれに加えた。
check_icon6朝鮮をめぐる甲申政変(1884年)に関して日本と清が結んだ天津条約も1885年に結ばれている。年も名称も同じなので注意!!

VI-14. 帝国主義期のフランスの進出(2)

1830年から北アフリカのを征服していたフランスは,1881年にを保護国とした。フランスはサハラ砂漠から,東海岸のと,アフリカ南東沖にあるを結びつけるアフリカをとり,イギリスのアフリカと対立した。1898年に両国はスーダンで衝突し,事件がおこった。事件の混乱の渦中にあったフランスは,ドイツの進出を恐れてイギリスに歩み寄り譲歩した。
check_icon6フランスによる[ 2 ]出兵はイタリアの反発を買い,1882年に独墺伊による三国同盟ができる契機となった。

VI-15. 帝国主義期のフランスの進出(3)

1898年の事件で譲歩したフランスは,ドイツの進出を恐れ,イギリスに歩み寄った。しかし,1904年に勃発したの図式は両国にとって危うい関係であった。イギリスはを結び,フランスはを結んでいたため,同盟関係からはイギリスとフランスは敵対していた。そこで,[ 2 ]が勃発すると,両国は協議を行い,をイギリスの,をフランスの勢力圏として認め合うを同04年に締結して,ドイツに対抗した。フランスは,1905年と11年の2回にわたる[ 6 ]事件でドイツの進出をおさえて,1912年に[ 6 ]を保護国とした。

帝国主義期のドイツ(7)

VI-16. 帝国主義期のドイツの内政(1)

1871年にドイツ帝国が成立して帝国宰相となったは,南ドイツで有力なカトリック勢力を警戒して,カトリック勢力を抑圧するを行った。さらに[ 1 ]は,1875年にが結成されると,1878年にを制定して社会主義政党を弾圧した。同時に[ 1 ]は,災害保険や疾病保険などの制度を実施して,労働者の統合を試みようとした。

VI-17. 帝国主義期のドイツの内政(2)

ドイツの産業資本家はイギリス商品の流入を阻止するために保護貿易を,大農経営を行っていたはイギリスへ穀物を輸出するために自由貿易を求めていた。ところが,クリミア戦争敗北後にロシアが安値で穀物を輸出するようになると,安価なロシア穀物の流入を警戒した[ 1 ]が保護貿易を求めるようになった。そこで,ドイツ帝国宰相は,1879年にを制定した。これは,産業資本家と[ 1 ]の支持を固めるものであったことから,「鉄と穀物の同盟」といわれた。

VI-18. 帝国主義期のドイツの内政(3)

1890年にビスマルクが皇帝と対立して辞職すると,同年社会主義者鎮圧法が廃止され,社会主義労働者党はと改称した。その後同党は急速に勢力を伸ばし,1912年には第一党となった。だが,[ 3 ]は責任内閣制はとっていなかったため,[ 2 ]の政治的発言権は制限されていた。[ 2 ]は政治権力の奪取をめざすマルクス主義の立場をとっていたが,[ 2 ]の内部では議会活動を通じての漸進的改良を求めるのが主流となっていった。

VI-19. ビスマルク外交(1)

普仏戦争敗北以来,ドイツに対する復讐心に燃えていたフランスを警戒した帝国宰相ビスマルクは,フランスを孤立化させる外交を展開した。「」をとり同盟関係を結ばないイギリスとは協調関係を維持し,また1873年にはドイツ・オーストリア・ロシアを結ぶを結成した。だが,主義を利用してバルカン進出を図るロシアがオーストリアと対立するようになった。1878年,ロシア=トルコ(露土)戦争の講和条約が結ばれると,イギリス・オーストリアが反発して会議が開かれた。[ 5 ]会議はロシアの南下政策を挫折させ,その結果[ 2 ]は崩壊した。その後,81年に新[ 2 ]として復活するが,87年にロシアとオーストリアの対立が激化して消滅した。

VI-20. ビスマルク外交(2)

1881年にフランスがを保護国化したことに不満を持つイタリアをビスマルクが誘って,82年にドイツ・オーストリア・イタリアでが結ばれた。81年に復活したドイツ・オーストリア・ロシア間の新三帝同盟が87年に消滅すると,ビスマルクは同年ドイツ・ロシア間でを結び,フランスの孤立化を維持しようとした。
check_icon6[ 2 ]を結んだオーストリアとイタリアとの間には,「」の問題があり,第一次世界大戦が勃発すると,イタリアは[ 2 ]側ではなく,協商国側に立って参戦することとなった。

VI-21. ヴィルヘルム2世の外交(1)

ビスマルクが採用した1879年の保護貿易政策と第2次産業革命によってドイツは工業国としての力をつけた。1890年のビスマルク辞任後に親政を開始した皇帝は「」という積極的な対外膨張政策をとった。海軍拡張政策はイギリスとの建艦競争をまねき,それまで良好な協調関係にあったイギリスと対立するようになった。また,ビスマルク辞任とともに,ロシアとのが更新されなかったことで,ロシアはフランスに接近することとなり,露仏同盟が生まれた。この結果,ビスマルク外交におけるフランス孤立化政策が崩壊した。
check_icon6ドイツはオスマン帝国から敷設権を獲得し,ベルリン・(イスタンブル)・を結ぶと呼ばれる帝国主義政策をとったが,イギリスのと対立した。

VI-22. ヴィルヘルム2世の外交(2)

ヴィルヘルム2世はフランスによるモロッコの保護国化に挑戦し,2度にわたるモロッコ事件をおこした。1905年,ヴィルヘルム2世がモロッコのを訪問し,前年04年にを結んだフランスがモロッコに進出したことに反対を表明した(第1次モロッコ事件)。06年に国際会議が開かれたが,イギリスがフランスを支援した結果,ドイツの要求は退けられた。11年,ドイツは軍艦を港に派遣して,フランスを牽制した(第2次モロッコ事件)が,フランスからコンゴの一部を得ただけに終わり,12年にモロッコはフランスの保護国となった。
check_icon6第1次モロッコ事件が起きたのは,日露戦争中であることに注意!!

帝国主義期のロシア(4)

VI-23. 帝国主義期のロシアの内政(1)

1861年にがを発布して以降,ロシアでは資本主義が発展した。1890年代になるとの成立(1894年)を背景にフランス資本が導入され,工業化が進展した。91年から建設が始まった鉄道は国内開発を進めただけでなく,東アジア進出の手段となった。ツァーリズムによる専制政治に対する批判も強まり,マルクス主義をとるや,ナロードニキの流れを引くが結成された。[ 5 ]は創設直後に分裂した。少数の革命家からなるのが,が率いた,「多数派」を意味するである。一方,大衆に基礎をおき,ゆるやかな革命をすすめようとするのが,らに率いられた,「少数派」を意味するである。

VI-24. 帝国主義期のロシアの内政(2)-第1次ロシア革命-

1905年1月,の戦況が不利になるなか,飢餓の救済と和平を皇帝に訴えようとした,聖職者ガポンに率いられた民衆に軍隊が発砲したがおこった。これを機に各地にストライキが広がり,労働者は自らの代表を選んで(評議会)を組織した。皇帝は条約で日本と講和する一方,を発し,国会()の開設を約束し,自由主義者のを首相として事態を沈静化させた。だが,翌06年にが首相になると,自由主義的改革は後退させられた。[ 9 ]は支持基盤を広げるため,農村共同体()を解体して自作農を創出しようとしたが,多数の農民が貧困化して社会不安が高まった。
check_icon6[ 6 ]発布後に自由主義者は(カデット)を結成し,開設された国会では第一党となった。

VI-25. 帝国主義期のロシアの進出

中央アジアにおいてロシアは,国・ヒヴァ=ハン国・国を併合してロシア領を形成し,81年には清と条約を結んで,新疆への進出を図った。ロシア=トルコ(露土)戦争後に開かれた会議(1878年)でロシアのバルカン半島への進出が阻止されると,中央アジア・東アジア進出を図ったロシアとイギリスが対立するようになった。中央アジア方面においてロシアは,イランとをめぐってイギリスと対立した。

VI-26. 帝国主義期のロシアの進出(2)

東アジア方面におけるロシアの進出は,日本・イギリスと対立した。(1900-01年)後に中国東北地方(満州)からロシア軍が撤退しなかったため,1902年にが結成され,1904年にが勃発した。[ 3 ]に敗北したロシアは,東アジア進出を断念し,イギリスに接近した。ロシアは,1907年にを結び,バルカン半島進出へ再び転じることとなったが,これは第一次世界大戦勃発の背景となった。
check_icon6(1)[ 4 ]では,イラン北部をロシア,イラン南東部をイギリスの勢力範囲とし,はイギリスの勢力範囲,に関しては清の宗主権を認め,内政不干渉を守るとされた。(2)ロシアが東アジア進出を断念した結果,日本は1907年に,満洲における日露両国の権益を調整(北部はロシア,南部は日本)するを結ぶとともに,ロシアと同盟国のフランスとの間にも日仏協約を結び,日本の韓国における優越と,フランスのインドシナにおける優越を相互に承認した。

帝国主義期のアメリカ(5)

VI-27. 帝国主義期のアメリカの内政

1890年代にイギリスを追い抜いて世界最大の工業国となったアメリカでは,同一業種の企業が単一の巨大資本に吸収・合併される企業合同()が発展し,巨大企業による独占的支配体制が打ち立てられた。独占の弊害を防止しようと反[ 1 ]法が制定されたが,独占は阻止できなかった。マッキンリー暗殺後に副大統領から昇格したのは独占規制や労働条件を改善するを唱えた。また,1913年に就任したの大統領は「新しい自由」を掲げ,反[ 1 ]法の強化や労働者保護立法などを実施した。

VI-28. メキシコ革命

フアレス大統領は,フランス皇帝のメキシコ出兵(1861~67)による干渉を退け,自由主義的改革を進めた。その後,大統領による長期間の独裁政治が続いたが,1910年,自由主義者の指導による武装蜂起がおき,メキシコ革命が勃発した。南メキシコの農民指導者や北メキシコの農民指導者らも参加して[ 2 ]を追放した。その後,内乱に発展し,アメリカ軍の限定的な軍事介入もあったが,カランサ政権のもと1917年に民主的憲法が制定されてメキシコ革命は終結した。

VI-29. 帝国主義期のアメリカの進出(1)

1890年の国勢調査で(辺境)の消滅が宣言されたのち,アメリカでは海外進出を求める声が高まった。党の大統領は,のスペインに対する独立運動に乗じて,1898年に戦争をおこし,パリ条約によって,西太平洋方面にあると島を,およびカリブ海にあるを獲得した。また,同年ハワイを併合した。[ 4 ]に対しては,1901年に外交権を制約するなどのプラット条項を押しつけ,保護国化した。
check_icon6ハワイにおいては,カメハメハ朝がハワイ王国を建てていたが,1893年に最後の女王がアメリカの圧力によって退位させられた。

VI-30. 帝国主義期のアメリカの進出(2)

1898年に列強が中国分割を行ったが,アメリカは同年戦争を戦っており,分割に乗り遅れた。そこでアメリカは1899-1900年,国務長官がを発し,門戸開放・・領土保全を提唱した。1900-01年の義和団事件においては,アメリカは戦争(1899-1902年)のため大量派兵ができなかった。

VI-31. 帝国主義期のアメリカの進出(3)-カリブ海政策-

アメリカは1889年,をワシントンで主催してラテンアメリカへの影響力を強めた。共和党の大統領はアメリカ=スペイン(米西)戦争でカリブ海のを獲得し,これ以降カリブ海と中米諸国に対するカリブ海政策が本格化した。つづく共和党の大統領は中米諸国に武力干渉を行う「」を展開した。1903年,をコロンビアから分離独立させたうえで運河地帯の租借権と工事権をえた。次の共和党のタフト大統領はドル外交を推進して経済進出を行った。つづく党の大統領のときに,[ 6 ]運河が完成した(1914年)。

帝国主義期のイタリアとアフリカ分割(2)

VI-32. 帝国主義期のイタリアの進出

イタリアはアフリカ大陸北東部の「アフリカの角(つの)」と呼ばれると,紅海に面しているを獲得し,さらに1895~96年にに侵入しようとしたが,の戦いで敗れて失敗した。イタリアは1911~12年に戦争をおこし,オスマン帝国から・キレナイカを獲得し,この地域を古名のと改称した。
check_icon6(1)[ 1 ]はフランス領・イギリス領・イタリア領に分割された。フランス領[ 1 ]はジブチである。(2)イタリアがイタリア=トルコ戦争を起こした1911年には,第2次モロッコ事件(アガディール事件)によって英・仏とドイツが対立していたことに注意!!

VI-33. 列強によるアフリカ分割

19世紀半ばまでアフリカの内陸部はヨーロッパにとって未知の地域であったが,イギリス宣教師と彼を捜索にいったアメリカのジャーナリストの探検により,大陸内部の状況が明らかになった。ベルギー国王は[ 2 ]を援助してを植民地化しようとした。この問題をめぐり,ドイツ帝国宰相の提唱で1884~85年にが開催され,最初に占領した国が領有できるとする「先占権(せんせんけん)」がアフリカの植民地化の原則として承認された。その後,ヨーロッパ列強がアフリカを分割し,20世紀初頭には帝国と,アメリカ合衆国の解放奴隷がつくった共和国を除いて,アフリカは列強の支配下に置かれた。
check_icon6[ 4 ]は,として[ 3 ]の私領とされたが,[ 3 ]の苛酷な統治が国際的にも問題とされ,1908年にベルギーの直轄植民地となった。

第一次世界大戦(12)

VI-34. 第一次世界大戦までの国際体制の変遷

1870年代から第一次世界大戦までの国際体制はドイツを軸に段階を追って変わる。孤立化をめざしたビスマルク外交(ビスマルク体制)は80年代に大きく変わる(参照:VI-19,VI-20)。90年にビスマルクが辞任し,独露間のが更新されなくなると,ロシアが[ 1 ]に接近してが成立(1894年)し,独・墺・伊のと対立するようになった(参照:VI-21)。世紀が転換すると,イギリスが重要なプレーヤーとなり,1902年にロシアに対抗してが,04年に,07年にが結ばれた(参照:VI-26)。[ 3 ]・[ 6 ]・[ 7 ]によって生まれた対ドイツの協力関係をと呼び,ここに[ 8 ]と[ 4 ]が対立する第一次世界大戦における国際関係が完成した。
check_icon619世紀後半にイギリスは強大な経済力と軍事力を背景に,他国と同盟を結ばず「」と自画自賛していた。しかし,19世紀末に「パクス=ブリタニカ」に陰りが見える(参照:VI-1)と,1902年に[ 5 ]を結び「[ 9 ]」の状態を放棄した。

VI-35. バルカン問題(1)

バルカン半島では1870年代からオーストリアとロシアの対立があらわとなった(参照:VI-19)。オーストリアは1878年に開催された会議で,の行政権を獲得した。1908年にオスマン帝国で革命が勃発すると,オーストリアは[ 2 ]を併合した。これに対し,スラヴ系住民の併合をねらうがオーストリアへの反感を強めていった。ここに,ロシア・[ 4 ]の主義と,ドイツ・オーストリアが掲げる主義が激しく対立するようになった。
check_icon6[ 3 ]革命を機に,がオスマン帝国からの独立を宣言した。

VI-36. バルカン問題(2)

オーストリアのバルカン半島進出に対し,ロシアはセルビア・・モンテネグロ・ギリシア4か国にを締結させた。リビアをめぐって1911年におきた戦争に乗じて,[ 2 ]は1912年にオスマン帝国に宣戦し,翌年勝利してバルカン半島のオスマン帝国領の大半を奪った(第1次バルカン戦争)。だが,領土配分をめぐって[ 1 ]と他の諸国との対立がおき,第2次バルカン戦争が勃発した。この戦争に敗れた[ 1 ]はドイツ・オーストリア側に接近した。列強の利害と民族・宗教が複雑にからみあった当時のバルカン半島は「」と呼ばれた。

VI-37. 第一次世界大戦の勃発

オーストリアの帝位継承者夫妻がボスニアの州都で人青年に暗殺されると,オーストリアはドイツの支持のもと,[ 2 ]に宣戦した。これに対し,ロシアが[ 2 ]支援を表明すると,ドイツはロシアとフランスに宣戦し,事前の計画に従って中立国を侵犯してフランスに侵入した。イギリスは,ドイツによる[ 3 ]の中立侵犯を理由にドイツに宣戦し,英・仏・露などの側と独・墺などの側に分かれて第一次世界大戦が戦われることとなった。
check_icon6社会主義政党の国際組織であるは大戦が勃発するまでは反戦を掲げていたが,大戦が勃発すると参戦国の多くの社会主義政党が自国政府を支持したため,[ 6 ]は事実上解体した。

VI-38. 協商国(連合国)vs同盟国

日本はを口実に協商国(連合国)側に立って参戦した。イタリアは「」について秘密条約を結び,1915年に三国同盟を離脱して協商国(連合国)側についた。アメリカは,ドイツが作戦を宣言すると,1917年に協商国(連合国)側に立って参戦した。三国同盟にもとづく同盟国側においてはイタリアが離脱したが,帝国とが同盟国側に立って参戦した結果,計4か国となった。
check_icon6第一次世界大戦に参戦した日本は,中国内にあるドイツの租借地(青島)と太平洋上のドイツ領の赤道以北を占領した。大戦後,赤道以北の[ 8 ]は国際連盟から統治を委託されたとして日本が統治した。

VI-39. 第一次世界大戦の経過

中立国を通過してフランスに侵入したドイツ軍の進撃は,の戦いで阻止され,西部戦線は膠着し,壕をほりあって対峙するに移行した。一方東部戦線では1914年,ドイツ軍がの戦いでロシア軍を破り,ロシア領内に進撃したが,戦線が広大な地域に広がり,ここでも戦争は長期化した。
check_icon6[ 4 ]の戦いでロシア軍を破って国民的英雄となったは,1925年にヴァイマル共和国第2代大統領となった。

VI-40. 第一次世界大戦における戦争の変革(1)

第一次世界大戦は,それまで考えられていなかった物量戦・消耗戦となった。そこで参戦各国は,国力すべてを戦争に向けて動員する体制をしいた。労働力不足を補うため,女性を軍需工場に動員し,食料の配給制などが実施された。イギリス・フランスは,自国の植民地からも労働力や兵員を動員した。
check_icon6第一次世界大戦時における女性の社会進出は,大戦後に女性参政権が認められる背景となった。

VI-41. 第一次世界大戦における戦争の変革(2)

第一次世界大戦では機関銃が威力を発揮したため,防御側が有利となり,両軍は塹壕を掘り合って対峙する塹壕戦となった。この状況を打破しようと,新兵器が登場した。1903年にが初めて初飛行させた飛行機は大戦中に発達し,偵察・爆撃だけでなく,戦闘機による空中戦も行われるようになった。1915年,イープルの戦いでドイツ軍が初めてを用いた。1916年のソンムの戦いでは,イギリス軍が初めてを使用した。飛行機・[ 2 ]・[ 3 ]といった新兵器の登場で戦争の形態は大きく変化した。

VI-42. 第一次世界大戦中のイギリスの秘密外交

イギリスは1915年,オスマン帝国の背後を攪乱(かくらん)させようと,アラブ人がオスマン帝国への反乱をおこすことを条件にアラブ国家の独立を認めるを結んだ。だがイギリスは翌年,フランス・ロシアとオスマン帝国領を分割するを結び,さらに1917年にはユダヤ人の協力を得るために,ユダヤ人のパレスチナ復帰運動を援助することを約したを発した。これらの協定・宣言は矛盾した内容を含んでおり,現在に至るまでのユダヤ人とアラブ人との紛争の原因をつくった。だが,内容は公表されず,当事者しか知り得ないとして結ばれたため,締結直後には矛盾は明らかにならなかった。だが,ロシア十月革命(十一月革命)で成立した政権が[ 2 ]などを暴露すると,連合国の戦争遂行と戦後の状況に大きな影響を及ぼした。

VI-43. 第一次世界大戦における1917年の意義

第一次世界大戦の転換点は,1917年であった。アメリカの大統領は開戦以来戦争への不参加を表明していたが,1917年にドイツが作戦を宣言すると,ドイツに宣戦して側に立って参戦した。これにより,[ 3 ]側は戦いを有利に進められるようになった。一方,ロシアでは1917年に2度にわたる革命がおき,政権が成立した。[ 4 ]政権は全交戦国に向けて,「」を出して,即時停戦と無併合・無賠償・の原則による講和を呼びかけた。連合国がこれを無視したため,[ 4 ]政権はサイクス=ピコ協定などのを暴露した。これは[ 3 ]に大きな衝撃を与え,[ 1 ]大統領がを発表する要因となった。

VI-44. ウィルソンの十四カ条

ロシア十月革命(十一月革命)で成立したソヴィエト政権による秘密条約の暴露は,協商国(連合国)国内の反戦世論を刺激しただけでなく,イギリスによる秘密外交の矛盾(参照:VI-42)を知ることとなったアラブ人の反発を招いた。この動揺をおさえ,戦争目的を明らかにするために,アメリカ大統領が1918年1月にを発表した。[ 2 ]の第1条では,の廃止がうたわれており,ソヴィエト政権による秘密条約の暴露の衝撃の大きさをうかがわせている。また,ソヴィエト政権が発表した「」のなかにある原則も[ 2 ]にふくまれている。そのほか[ 2 ]では,海洋の自由,軍備縮小,植民地問題の公正な解決,国際平和機構の設立などがうたわれている。国際平和機構の設立は,第一次世界大戦後にとして実現した。

VI-45. 第一次世界大戦の終結

ロシア十月革命(十一月革命)で成立したソヴィエト政権は,ドイツ側と単独講和交渉に入り,1918年3月にポーランドなどをドイツに割譲するを結び,戦線から離脱した。その後ドイツは,西部戦線で攻勢に出たが失敗した。秋になると,・帝国・オーストリアがあいついで降伏した。敗戦が不可避と考えたドイツは,休戦交渉を有利に進めるため,残っていた艦隊へ出撃を命じた。この命令に対しての水兵が反乱を起こすと,革命運動が全国に広がり,皇帝がオランダに亡命して,共和政が宣言された(ドイツ革命)。11月11日に共和国政府が連合国と休戦条約を結び,第一次世界大戦は終結した。
check_icon6ドイツ革命では,労働者と兵士が評議会をつくった。これは,ロシア革命のソヴィエトにあたるが,ドイツ語でという。

ロシア革命(5)

VI-46. ロシア革命-二月革命(三月革命)-

1917年3月,首都で,食料や物資不足に悩まされていた民衆によるデモやストライキが起きると,兵士もこれに参加して各地で労働者・兵士によりが組織された。皇帝は退位して朝は崩壊した。国会()では,を中心に臨時政府が結成され,戦争は継続された。一方,[ 2 ]も存続したため,臨時政府との状態が続いた。
check_icon6ロシアでは,革命前までグレゴリウス暦よりも13日遅いユリウス暦(ロシア暦)を使っていた。そのため,ユリウス暦(ロシア暦)を用いるならば二月革命,グレゴリウス暦ならば三月革命と呼ぶ。

VI-47. ロシア革命-十月革命(十一月革命)-

二月革命(三月革命)後,臨時政府とソヴィエトの状態が進行するなか,ボリシェヴィキの指導者が亡命先のスイスから帰国した。[ 2 ]は革命の進め方の方針を著したを発表し,「」をスローガンとし,ソヴィエト内におけるボリシェヴィキの勢力拡大に努めた。7月に社会革命党右派のが首相となったが,ボリシェヴィキの勢力が徐々に拡大し,11月にボリシェヴィキは社会革命党左派とともに武装蜂起によって臨時政府を倒し,でソヴィエト政権の樹立を宣言した。これを十月革命(十一月革命)という。

VI-48. ソヴィエト政権の政策

ロシア十月革命(十一月革命)で成立したソヴィエト政権は,を議長,を外務人民委員とする人民委員会議からなっていた。ソヴィエト政権は,全交戦国に向けた「」を発する(参照:VI-43)とともに,地主の土地の無償没収と土地私有権の廃止を内容とする「」を発表した。1917年11月末に行われた憲法制定議会選挙では,農民に支持されたが過半数を占めたが,レーニンは議会を武力で解散させてによる一党独裁体制を確立した。[ 6 ]はと改称され,を新しい首都とした。ドイツとは1918年3月に条約で単独講和を結び,戦線から離脱するとともに,基幹産業・銀行・貿易の国営化を行った。

VI-49. 内戦と対ソ干渉戦争

ソヴィエト政権が成立すると,旧帝政派の軍人やボリシェヴィキに反対する政党が各地に反革命政権を樹立し,ソヴィエト政権のと(反革命軍)との間で内戦が勃発した。革命の波及を恐れる連合国は(1918~22年)をおこない,日本もアメリカなどとともに(1918~22年)を行った。危機に直面したソヴィエト政権は,(非常委員会)によって反革命運動を取り締まるとともに,農民からの穀物強制徴発,食料配給制,工業の完全な国家管理などを実施する(1918~21年)を導入した。また,ロシアでの社会主義を成功させるためには,先進資本主義諸国におけるが必要であると考え,ロシア共産党の指導のもと1919年に(共産主義インターナショナル,第3インターナショナル)が結成された。

VI-50. ネップとソ連の成立

戦時共産主義による穀物の強制徴発は,農民の生産意欲を失わせて経済危機が深まり,多数の餓死者を出した。そこでレーニンは,1921年に戦時共産主義を廃止し,農民に余剰農産物の自由販売を認め,中小企業の私的営業を認めるを実施した。[ 1 ]は資本主義的要素を一部容認するもので,経済も回復に向かった。1922年,ロシア・・ベラルーシ(白ロシア)・ザカフカースの4ソヴィエト共和国からなる(ソ連,ソ連邦)が成立した。第一次世界大戦後に国際的に孤立していたドイツは,1922年にソヴィエト政権と条約を結んで国交を樹立した。イギリスは,1924年に労働党内閣のもとでソ連を承認した。アメリカは,1933年に大統領のもとでソ連を承認した。