ロシア革命

「ロシア革命」の一問一答問題です。

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VI-46. ロシア革命-二月革命(三月革命)-

1917年3月,首都で,食料や物資不足に悩まされていた民衆によるデモやストライキが起きると,兵士もこれに参加して各地で労働者・兵士によりが組織された。皇帝は退位して朝は崩壊した。国会()では,を中心に臨時政府が結成され,戦争は継続された。一方,[ 2 ]も存続したため,臨時政府との状態が続いた。
check_icon6ロシアでは,革命前までグレゴリウス暦よりも13日遅いユリウス暦(ロシア暦)を使っていた。そのため,ユリウス暦(ロシア暦)を用いるならば二月革命,グレゴリウス暦ならば三月革命と呼ぶ。

VI-47. ロシア革命-十月革命(十一月革命)-

二月革命(三月革命)後,臨時政府とソヴィエトの状態が進行するなか,ボリシェヴィキの指導者が亡命先のスイスから帰国した。[ 2 ]は革命の進め方の方針を著したを発表し,「」をスローガンとし,ソヴィエト内におけるボリシェヴィキの勢力拡大に努めた。7月に社会革命党右派のが首相となったが,ボリシェヴィキの勢力が徐々に拡大し,11月にボリシェヴィキは社会革命党左派とともに武装蜂起によって臨時政府を倒し,でソヴィエト政権の樹立を宣言した。これを十月革命(十一月革命)という。

VI-48. ソヴィエト政権の政策

ロシア十月革命(十一月革命)で成立したソヴィエト政権は,を議長,を外務人民委員とする人民委員会議からなっていた。ソヴィエト政権は,全交戦国に向けた「」を発する(参照:VI-43)とともに,地主の土地の無償没収と土地私有権の廃止を内容とする「」を発表した。1917年11月末に行われた憲法制定議会選挙では,農民に支持されたが過半数を占めたが,レーニンは議会を武力で解散させてによる一党独裁体制を確立した。[ 6 ]はと改称され,を新しい首都とした。ドイツとは1918年3月に条約で単独講和を結び,戦線から離脱するとともに,基幹産業・銀行・貿易の国営化を行った。

VI-49. 内戦と対ソ干渉戦争

ソヴィエト政権が成立すると,旧帝政派の軍人やボリシェヴィキに反対する政党が各地に反革命政権を樹立し,ソヴィエト政権のと(反革命軍)との間で内戦が勃発した。革命の波及を恐れる連合国は(1918~22年)をおこない,日本もアメリカなどとともに(1918~22年)を行った。危機に直面したソヴィエト政権は,(非常委員会)によって反革命運動を取り締まるとともに,農民からの穀物強制徴発,食料配給制,工業の完全な国家管理などを実施する(1918~21年)を導入した。また,ロシアでの社会主義を成功させるためには,先進資本主義諸国におけるが必要であると考え,ロシア共産党の指導のもと1919年に(共産主義インターナショナル,第3インターナショナル)が結成された。

VI-50. ネップとソ連の成立

戦時共産主義による穀物の強制徴発は,農民の生産意欲を失わせて経済危機が深まり,多数の餓死者を出した。そこでレーニンは,1921年に戦時共産主義を廃止し,農民に余剰農産物の自由販売を認め,中小企業の私的営業を認めるを実施した。[ 1 ]は資本主義的要素を一部容認するもので,経済も回復に向かった。1922年,ロシア・・ベラルーシ(白ロシア)・ザカフカースの4ソヴィエト共和国からなる(ソ連,ソ連邦)が成立した。第一次世界大戦後に国際的に孤立していたドイツは,1922年にソヴィエト政権と条約を結んで国交を樹立した。イギリスは,1924年に労働党内閣のもとでソ連を承認した。アメリカは,1933年に大統領のもとでソ連を承認した。