帝国主義期のドイツ

「帝国主義期のドイツ」の一問一答問題です。

7件の記事

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VI-16. 帝国主義期のドイツの内政(1)

1871年にドイツ帝国が成立して帝国宰相となったは,南ドイツで有力なカトリック勢力を警戒して,カトリック勢力を抑圧するを行った。さらに[ 1 ]は,1875年にが結成されると,1878年にを制定して社会主義政党を弾圧した。同時に[ 1 ]は,災害保険や疾病保険などの制度を実施して,労働者の統合を試みようとした。

VI-17. 帝国主義期のドイツの内政(2)

ドイツの産業資本家はイギリス商品の流入を阻止するために保護貿易を,大農経営を行っていたはイギリスへ穀物を輸出するために自由貿易を求めていた。ところが,クリミア戦争敗北後にロシアが安値で穀物を輸出するようになると,安価なロシア穀物の流入を警戒した[ 1 ]が保護貿易を求めるようになった。そこで,ドイツ帝国宰相は,1879年にを制定した。これは,産業資本家と[ 1 ]の支持を固めるものであったことから,「鉄と穀物の同盟」といわれた。

VI-18. 帝国主義期のドイツの内政(3)

1890年にビスマルクが皇帝と対立して辞職すると,同年社会主義者鎮圧法が廃止され,社会主義労働者党はと改称した。その後同党は急速に勢力を伸ばし,1912年には第一党となった。だが,[ 3 ]は責任内閣制はとっていなかったため,[ 2 ]の政治的発言権は制限されていた。[ 2 ]は政治権力の奪取をめざすマルクス主義の立場をとっていたが,[ 2 ]の内部では議会活動を通じての漸進的改良を求めるのが主流となっていった。

VI-19. ビスマルク外交(1)

普仏戦争敗北以来,ドイツに対する復讐心に燃えていたフランスを警戒した帝国宰相ビスマルクは,フランスを孤立化させる外交を展開した。「」をとり同盟関係を結ばないイギリスとは協調関係を維持し,また1873年にはドイツ・オーストリア・ロシアを結ぶを結成した。だが,主義を利用してバルカン進出を図るロシアがオーストリアと対立するようになった。1878年,ロシア=トルコ(露土)戦争の講和条約が結ばれると,イギリス・オーストリアが反発して会議が開かれた。[ 5 ]会議はロシアの南下政策を挫折させ,その結果[ 2 ]は崩壊した。その後,81年に新[ 2 ]として復活するが,87年にロシアとオーストリアの対立が激化して消滅した。

VI-20. ビスマルク外交(2)

1881年にフランスがを保護国化したことに不満を持つイタリアをビスマルクが誘って,82年にドイツ・オーストリア・イタリアでが結ばれた。81年に復活したドイツ・オーストリア・ロシア間の新三帝同盟が87年に消滅すると,ビスマルクは同年ドイツ・ロシア間でを結び,フランスの孤立化を維持しようとした。
check_icon6[ 2 ]を結んだオーストリアとイタリアとの間には,「」の問題があり,第一次世界大戦が勃発すると,イタリアは[ 2 ]側ではなく,協商国側に立って参戦することとなった。

VI-21. ヴィルヘルム2世の外交(1)

ビスマルクが採用した1879年の保護貿易政策と第2次産業革命によってドイツは工業国としての力をつけた。1890年のビスマルク辞任後に親政を開始した皇帝は「」という積極的な対外膨張政策をとった。海軍拡張政策はイギリスとの建艦競争をまねき,それまで良好な協調関係にあったイギリスと対立するようになった。また,ビスマルク辞任とともに,ロシアとのが更新されなかったことで,ロシアはフランスに接近することとなり,露仏同盟が生まれた。この結果,ビスマルク外交におけるフランス孤立化政策が崩壊した。
check_icon6ドイツはオスマン帝国から敷設権を獲得し,ベルリン・(イスタンブル)・を結ぶと呼ばれる帝国主義政策をとったが,イギリスのと対立した。

VI-22. ヴィルヘルム2世の外交(2)

ヴィルヘルム2世はフランスによるモロッコの保護国化に挑戦し,2度にわたるモロッコ事件をおこした。1905年,ヴィルヘルム2世がモロッコのを訪問し,前年04年にを結んだフランスがモロッコに進出したことに反対を表明した(第1次モロッコ事件)。06年に国際会議が開かれたが,イギリスがフランスを支援した結果,ドイツの要求は退けられた。11年,ドイツは軍艦を港に派遣して,フランスを牽制した(第2次モロッコ事件)が,フランスからコンゴの一部を得ただけに終わり,12年にモロッコはフランスの保護国となった。
check_icon6第1次モロッコ事件が起きたのは,日露戦争中であることに注意!!