4.近世ヨーロッパ

「4.近世ヨーロッパ」の一問一答問題です。

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大航海時代(12)

IV-1. 大航海時代:背景

の『世界の記述(東方見聞録)』は繁栄する先進的なアジアへのあこがれをヨーロッパ人に抱かせた。イタリア商人に独占されていた東方貿易に頼らず,アジアに直接行って胡椒などのを手に入れて莫大な富をえようという欲求は,新たな財源を求める君主を動かした。また,東方にはキリスト教国があるという伝説が西ヨーロッパにはあり,オスマン帝国をはさみうちにするためにそれを探そうという動きもあった。特に,国土回復運動()でイスラーム教徒と戦ってきたスペインとポルトガルは海外布教への意欲が強かった。また,の改良により,遠洋航海が可能となってきた。これらが,大航海時代の背景である。

IV-2. 大航海時代:インド航路の開拓

インド航路の開拓は,がリードした。がインド航路の開拓を奨励し,1445年に[ 1 ]の探検隊はアフリカ最西端のヴェルデ岬に到達した。年にはがアフリカ最南端に到達し,その地は国王によりと名付けられた。年には,がインド西岸のに到達し,インド航路が開かれた。国がリードしたインド航路の開拓によって,香辛料の直接取引が可能となり,[ 1 ]王室には莫大な利益がもたらされ,首都のは一時世界商業の中心となった。
check_icon6インド洋をめぐる制海権の争いは,1509年にインド西岸で戦われたディウ沖海戦を勃発させ,ポルトガルがマムルーク朝艦隊を破った。

IV-3. 大航海時代:アメリカの「発見」

インド航路の開拓においてポルトガルに遅れたの女王は,東に向かったポルトガルとは逆方向のでインドへ向かおうとするを支援した。ジェノヴァ生まれの[ 4 ]は,「大地は球形で西に向かう方がインドへの近道だ」というフィレンツェの天文学者の説を信じ,アジアを目指して西に向かって航海し,年にカリブ海の島に到達した。[ 4 ]はその土地をインドの一部であると誤解したため,その土地の先住民をと呼び,また到着した地は「西インド諸島」と呼ばれるようになった。
check_icon6コロンブスは「インドに到達した」と主張したが,ポルトガルは何らかの形でコロンブスが到達した地はインドではないと確信したようで,そのまま東回りのインド航路開拓を目指した結果,1498年にヴァスコ=ダ=ガマがインド航路を開拓した。

IV-4. 大航海時代:スペインとポルトガルによる世界分割

ポルトガルは東へ,スペインは西に向かったことを受けて,1493年にローマ教皇が両国を調停して,大西洋にひかれた子午線の東側をポルトガル領,西側をスペイン領とする植民地分界線(教皇子午線)が設定された。翌1494年に両国は協議して,前年に設定された教皇子午線を西方に移すことに同意し,条約を結んだ。この新たにひかれた分界線によれば南アメリカの一部がポルトガル領となっており,年にポルトガルのがブラジルに漂着すると,ポルトガルは[ 1 ]条約をもってブラジルをポルトガル領とした。
check_icon6人名「カブラル」の中には「ブラジル」の中の3文字が含まれているよ。

IV-5. 大航海時代:アメリカ探検

イタリア人は4回南アメリカを探検し,コロンブスが到達した地はアジアとは別の大陸であることを明らかにした。この新大陸は,彼の名にちなみ「アメリカ」と名付けられた。スペイン人はパナマ地峡を横断して,ヨーロッパ人としては初めて太平洋に到達した。英王ヘンリ7世とヘンリ8世の後援で,イタリア人父子は北アメリカを探検した。

IV-6. 大航海時代:世界周航

ポルトガル人はスペイン王の命を受けて,1519年に香料諸島ともいわれる諸島を目指して回りの大航海に出発した。[ 1 ]自身はのちにスペイン領となるで死んだが,彼の部下がアフリカ回りで帰国して世界周航を成し遂げた。イギリスの私拿捕船(私掠船)の船長であるは英王の後援を得て,1577~80年に[ 1 ]海峡・太平洋・喜望峰経由でイギリス人として初めて世界周航に成功した。
check_icon6私拿捕船(私掠船)とは,国家から免許状をもらって敵国の船や町を襲う海賊である。ドレークはアメリカ大陸から本国へ向かうスペイン船団を襲い,銀を奪った。

IV-7. アメリカ大陸の古代文明:特色

アメリカ大陸の文明を築いたのは,ベーリング海峡がまだ地続きだった氷河時代に渡来したモンゴロイド系と考えられるである。彼らは中央アメリカと南アメリカに多くの高度な都市文明を築いた。これらの古代文明はアメリカ原産の栽培の上に成立した。アメリカ原産の他の食物として,のちにヨーロッパ人の主食となる,トマト・とうがらし・かぼちゃがあり,嗜好品ではタバコがある。アメリカ大陸の古代文明では金・銀・青銅器は持っていたが,はなかった。また,大型家畜のや牛はおらず,車輪もなかった。

IV-8. アメリカ大陸の古代文明:メソアメリカ文明

メキシコ高原から中央アメリカ一帯におこった古代文明をメソアメリカ文明(中央アメリカ文明)という。メキシコ湾岸地方においては,紀元前に巨石人頭像で知られる文明が成立した。メキシコ高原では,前1世紀から後6世紀にかけて絵文字や石造りのピラミッドなどを残した文明がおこった。またユカタン半島では,前1000年頃から16世紀頃まで文明が栄え,石造りの階段ピラミッド・進法・暦が用いられた。メキシコ高原では,14世紀にを都とする王国が成立し,象形文字・ピラミッド・[ 5 ]暦を用いていたが,1521年にスペインのが滅ぼした。

IV-9. アメリカ大陸の古代文明:アンデス文明

アンデス高地では前1000年頃に北部に文化が成立したのち多くの王国が現れた。15世紀には,を都とする帝国が成立した。文字はなく,縄の結び方で情報を伝える(結縄)が使用されていた。この帝国は都市遺跡であるを残したことでも知られるが,1533年にスペインのによって滅ぼされた。

IV-10. スペインによるアメリカ支配

スペインの「征服者」(コンキスタドール)はキリスト教布教の名の下に侵略を行った。メキシコ高原では1521年にが王国を滅ぼし,アンデス高地では1533年にが帝国を滅ぼした。スペイン国王は,征服地の先住民のキリスト教化と保護を条件に,植民者が先住民を労働力として使役することを認める制を採用した。[ 5 ]制の下,スペイン人植民者はを酷使し,またヨーロッパからもたらされた天然痘などの疫病のために,[ 6 ]の人口が激減した。これに対して,ドミニコ派修道士であるのように[ 6 ]の奴隷化を防止しようとした人物もいた。なお,[ 6 ]の人口が激減したことを受けて,大西洋三角貿易の一環として西アフリカから黒人奴隷がもたらされた。
check_icon6(1)コルテス:アステカ,ピサロ:インカの組合せは文字数が同じであると覚えておこう。(2)[ 5 ]制は,17世紀になるとインディオや黒人奴隷を使役するアシエンダ(大農園)制に移行した。

IV-11. 大航海時代の影響(1)

大航海時代は地球的規模の商業活動をもたらし,世界の一体化が始まるきっかけとなった。商品の種類や量が拡大し,ヨーロッパ経済の中心はの諸都市からポルトガルのリスボンなどの岸の諸都市へと移った。これをという。1545年に現在のボリビアで発見された銀山などのラテンアメリカの銀山から大量の銀がヨーロッパに流入し,ヨーロッパの物価は2~3倍に上昇した。これをというが,固定地代の収入で生活する領主に打撃を与えた。

IV-12. 大航海時代の影響(2)

大航海時代の結果,切り開かれた広大な海外市場は資本主義経済の発達を促し,西欧諸国では商工業が活発となった。一方,川以東の東ヨーロッパ地域では,農民に労働を課す大農場経営であるが広まり,西欧諸国に輸出する穀物を生産した。工業製品を輸出する西ヨーロッパ,そこに銀をもたらすラテンアメリカ,穀物を供給する東ヨーロッパは相互依存的な国際分業体制をつくりあげたが,これを「近代世界システム」と呼ぶ。富は「中核」である西ヨーロッパに集まり,原材料や食料をそこに供給する東ヨーロッパやラテンアメリカなどの「周辺」は貧しさからなかなか抜け出せなかった。
check_icon6[ 3 ]が拡大する東ヨーロッパで広まった農民支配強化の状況をという。

ルネサンス(13)

IV-13. ルネサンス

ルネサンスは,イタリアで~世紀におこった新しい文化運動。神や教会を中心とする中世的価値観から,人間性を解放し,個人の個性を尊重しようとした。現世の生活を肯定し,人間の自然な感情を重視したが,これを支えたのがギリシア・ローマの古典文化を研究することで人間らしい生き方を追求しようとする(ヒューマニズム)である。16世紀にかけてルネサンスの運動はドイツ・フランス・イギリスなどに広まった。

IV-14. イタリア=ルネサンス:要因

イタリアでルネサンスがおこった要因には次のようなものがある。(1)十字軍を契機に商業が復活し,東方貿易で繁栄したヴェネツィアや,毛織物工業が発展したなどの諸都市が現れた。これを背景に,[ 1 ]の家や,ローマ教皇のようなルネサンスの保護者が現れた。(2)十字軍以降,先進的なイスラーム文化やビザンツ文化が流入した。(3)イタリアにはローマ帝国以来の文化的遺産が存在した。イタリア=ルネサンスは,世紀に[ 2 ]家の保護の下[ 1 ]を中心におこり,その後中心はローマ,ヴェネツィアと移動していった。

IV-15. イタリア=ルネサンス:性格と衰退の要因

フィレンツェの金融財閥家や,ローマ教皇が保護者となったために貴族的な性格を帯びており,政治体制や教会の支配体制などを真正面から批判し,改革しようという力にはならなかった。ルネサンス運動が広まった,イギリス・フランス・スペインなども国王の保護のもと栄えたので,同様であった。イタリア=ルネサンスの衰退の要因には以下のものがある。(1)大航海時代の影響で,商業の中心が地中海から岸に移り,経済的に衰退した。(2)神聖ローマ皇帝やフランス王などがイタリアの支配をめぐって戦った戦争の舞台となり力を失った。

IV-16. イタリア=ルネサンス:文芸

フィレンツェ生まれのは,ラテン語ではなく口語である語で『』を書いた。『叙情詩集』などで知られるは,イタリア=ルネサンス初期の詩人・(ヒューマニスト)であるが,「教皇のバビロン捕囚」(1309-77年)中のアヴィニョンに滞在していた。[ 5 ]のは1348年頃に流行したで荒廃したフィレンツェを舞台に『』を書いた。
check_icon6ダンテは,フィレンツェの使節の一員として1301年に教皇ボニファティウス8世に会っている。ボニファティウス8世は1303年に事件で一時フランス王に監禁された教皇で,このことを知っているとダンテが生存していた時期が分かる。

IV-17. イタリア=ルネサンス:政治

フィレンツェの政治家のは『』を著し,政治を宗教・道徳から切り離す近代政治学を提示した。[ 1 ]の主張はマキァヴェリズムと呼ばれるが,これは目的のためには手段を問わない「」を認める立場である。[ 1 ]はイタリア統一のためには狐のような狡猾さを持った君主が必要であると説いたのである。
check_icon615世紀末に仏王シャルル8世が行ったイタリア遠征でメディチ家が逃亡した後に成立した共和政下のフィレンツェでマキァヴェリは活躍した。

IV-18. イタリア=ルネサンス:建築

大円蓋(ドーム)と列柱を特徴とするルネサンス様式が生まれた。はフィレンツェの大聖堂の大円蓋を完成させた。16世紀にローマの大聖堂が新築され,が最初に設計し,その後ラファエロらも関わった。
check_icon6サン=ピエトロ大聖堂は初代ローマ教皇とされるペテロの墓所にコンスタンティヌス帝が建設したのが始まりであったが,メディチ家出身のレオ10世が建築資金を捻出しようと販売した贖宥状はルターの宗教改革を招いた。

IV-19. イタリア=ルネサンス:絵画

「聖フランチェスコの生涯」を描いたがルネサンス絵画の先駆者である。フィレンツェの富豪家の保護を受けたは「ヴィーナスの誕生」「春」で知られる。「万能の天才」とされるは「最後の晩餐」「モナリザ」を描いた。「ダヴィデ」像により彫刻家としての名声を得たは,システィナ礼拝堂の天井画として「天地創造」を,祭壇画として「最後の審判」を描いた。は多くの聖母子画や「アテネの学堂」を描いた。

IV-20. 北方ルネサンス:ネーデルラント

ネーデルラントの人文主義者は教会や聖職者の腐敗を風刺する『』を描いたが,ルターの宗教改革については中立の立場をとった。フランドル派のは油絵技法を改良し,宗教画と肖像画を描いた。「農民の踊り」などで農民の生活を描いたフランドル派のは「バベルの塔」や「子どもの遊び」などでも知られる。

IV-21. 北方ルネサンス:ドイツ

ドイツ最大の画家とされるは「四使徒」で知られる。イギリスに渡り国王ヘンリ8世の宮廷画家となったドイツのは,ヘンリ8世,エラスムスやトマス=モアの肖像で知られる。ドイツの人文主義者は古典研究をヘブライ語にまで広げた結果,旧約聖書を原典から研究することに役立った。

IV-22. 北方ルネサンス:フランス・スペイン

フランスの医師・人文主義者であるは巨人を主人公として当時の社会を風刺した『』を書いた。『エセー(随想録)』を著したフランスの人文主義者は,ボルドー市長に推され,1562~98年に戦われた宗教戦争戦争の調停に努めた。1571年のの戦いに参加していたことでも知られる,スペインの作家は没落しつつある騎士を主人公とした『』を書いた。

IV-23. 北方ルネサンス:イギリス

ボッカチオの『』の影響を受けて,イギリスの作家は『カンタベリ物語』を書いた。イギリスの法律家・人文主義者のはラテン語で『ユートピア』を書き,「羊が人間を食う」という表現で(第1次)を風刺した。イギリスの劇作家は『』『オセロー』『マクベス』『リア王』の四大悲劇を残した。
check_icon6トマス=モアは最高の官職である大法官の地位にあったとき,ヘンリ8世の離婚に反対したため処刑された。

IV-24. ルネサンス時代の科学

16世紀前半にポーランド人のは『天球回転論』によって地動説を唱え,2世紀のギリシア人天文学者が唱えた教会公認の天動説に挑戦した。イタリアの哲学者ジョルダーノ=ブルーノは汎神論と地動説を唱えて宗教裁判によって火刑に処せられた。イタリアの科学者は望遠鏡を用いて木星の衛星を観測して地動説を確信した。だが,宗教裁判にかけられて地動説の放棄を誓わさられた。17世紀初めにドイツのは「惑星の3法則」を発見して,近代天文学の基礎を築いた。
check_icon6コペルニクスは死の直前に『天球回転論』の出版に同意して,同書は1543年に刊行されたが,ゴロで「暦(こよみ543)みて地動説」と覚えておこう。

IV-25. ルネサンス時代の技術

15世紀半ば頃にドイツ人が改良した活版印刷術は大量印刷を可能とし,新しい思想の普及に大きく貢献し,宗教改革にも影響を及ぼした。14世紀初めにイタリアで改良されたは遠洋航海を可能とし,大航海時代の背景をなした。の使用により戦術が一変し,騎士の没落をまねいた。
check_icon6活版印刷術・羅針盤・火薬はいずれも中国で発明されたものとされる。

宗教改革(11)

IV-26. 宗教改革の背景

先駆的宗教改革者として,14世紀のイギリスのや,彼の影響を受けたボヘミアのなどがいるが,いずれも異端として迫害され,大きな運動に発展することはなかった。だが,16世紀前半の宗教改革においては,政治的・社会的状況の変化に促されて,大きな影響を与えた。ドイツのの場合は,神聖ローマ帝国が分裂状態で彼をかくまう大諸侯が存在したことで成功し,領邦教会制の確立とともに政治的な側面を持つに至る。また,国王の離婚問題から始まったイギリスの宗教改革は国王自らが推進するもので,絶対王政の確立という政治的側面を持っていた。スイスので宗教改革を行ったの考えは新興の市民層である商工業者に受け入れられて大きな運動となっていった。

IV-27. ルターの宗教改革(1)

メディチ家出身の教皇は大聖堂の修築資金を集めようとして,買えば罪が許されるとするを政治的に分裂していたドイツで大量に販売した。これに反発したヴィッテンベルク大学神学教授のは,年に[ 3 ]を攻撃するを発表した。[ 4 ]は,魂の救いは[ 3 ]を買うというような善行によるものではなく,福音を信じることのみによると説いた。[ 4 ]は,1520年の著書『キリスト者の自由』において,「人は信仰によってのみ義とされる」とする信仰義認説を主張した。

IV-28. ルターの宗教改革(2)

教皇からされたマルティン=ルターは,年に神聖ローマ皇帝により帝国議会に呼び出されて自説の撤回を求められた。ルターが応じなかったため,[ 3 ]はルターを追放刑に処したが,ルターは皇帝と対立するに保護されて,『』のドイツ語訳を完成させて,普及し始めていた印刷術を用いて出版した。
check_icon6神聖ローマ皇帝カール5世は,スペイン王としてはカルロス1世である。

IV-29. ドイツ農民戦争

宗教改革運動に刺激された騎士が1522年に騎士戦争を起こしたが,鎮圧され,騎士の没落につながった。ついで,の廃止などを要求するが1524年に勃発した。ルターは最初は農民に同情的であったが,のもとに急進化すると,弾圧する諸侯の側にまわった。

IV-30. カール5世の苦難

皇帝は,イタリアの支配をめぐって仏王とを戦っていた。[ 2 ]と同盟したオスマン帝国のが1526年にハンガリーに侵攻すると,[ 1 ]はいったんルター派を容認した。その後,1529年にルター派を再禁止すると,ルター派が抗議文を提出したことが語源となって,ルター派は「」と呼ばれるようになり,のちにこの語は新教徒全体を指すようになった。1529年に行われたオスマン帝国の[ 4 ]による包囲は失敗に終わったが,1530年にルター派諸侯・都市が同盟を結成して,[ 7 ]戦争にまで発展した。年にの宗教和議が成立して,諸侯がカトリックかルター派のいずれかを選択することが認められたが,個人の信仰の自由は認められなかった。
check_icon6ルター派諸侯は自領内の教会を支配して統制下に置く,を採用した。

IV-31. スイスの宗教改革

チューリヒでが宗教改革を行ったが,急進的であったため,ルターとは決裂し,宗教戦争で戦死した。1536年に『』を出版していた,フランス生まれのはに招かれて,厳格な禁欲主義にもとづく政教一致の神権政治を行った。
check_icon6カルヴァンが主張した予定説にかけて,1536年はゴロで「以後寒くなる予定」と覚えておこう。

IV-32. カルヴァン派の登場

カルヴァンは,魂が救われるかどうかはあらかじめ神が決定しているとする「」を説いた。さらに個人が救いを確信する手段として,厳しい禁欲と勤勉を求めた。教会制度に関しては,ルターが司教制度を維持したのに対して,カルヴァンはこれを廃し教会員から選んだと牧師が運営する[ 2 ]主義を取り入れた。カトリックでは否定されていた蓄財を認め,独特の職業倫理をもったカルヴァンの考えは新興の市民層である商工業者に受け入れられた。カルヴァン派は,フランスでは,イングランドでは,スコットランドでは,そしてオランダではと呼ばれた。
check_icon6ドイツの社会学者は『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で,プロテスタントの宗教倫理と近代資本主義の精神が結びついていると論じた。

IV-33. イギリスの宗教改革(1)

イギリスの宗教改革は,朝の国王の離婚問題から始まった。離婚を認めない教皇と対立した[ 2 ]は,議会の支持を得て年にを発布し,を創設した。これにより,ローマ教皇から分離独立し,国王が[ 5 ]の首長であるとされた。さらに,[ 2 ]は修道院の財産を没収し,王権の強化を図った。イギリスの宗教改革は教義面からではなく,政治的な側面から始まり,絶対王政の基礎を確立することになった。

IV-34. イギリスの宗教改革(2)

国王の離婚問題から始まったイギリスの宗教改革で,教義面の改革が進んだのは[ 1 ]の長男ののときで,制定された一般祈とう(漢字:示に壽)書は教義面ではカルヴァン主義に近いが,制度面では司教(主教)制を維持するカトリックに近いものであった。次の女王は熱烈なカトリック教徒で,スペイン皇太子フェリペ(のちの)と結婚し,プロテスタントを弾圧した。その後即位したは,年にを再交付してイギリス国教会が最終的に確立した。

IV-35. 対抗宗教改革

宗教改革に対抗してカトリック教会側も,腐敗を改め,教義を明確化しようという動きが現れた。これをという。年から開かれた公会議で教皇の至上権と教義を再確認した。また,腐敗の防止を図り,をつくり,を設置して思想統制を強めた。1534年にスペインのを中心に設立されたは,海外布教で活躍し,ラテンアメリカやアジアなどでカトリック信仰が広まった。
check_icon6悪魔と契約を結んでわざわいをなすとされた人間に対する迫害である「」は16~17世紀にかけて最も激しく行われた。「[ 8 ]」は新旧両派で行われた。

IV-36. 宗教戦争

カトリック側の対抗宗教改革によって旧教徒と新教徒との対立は激化し,16世紀後半から17世紀半ばにかけて宗教戦争が勃発した。フランスで1562~98年に戦われた戦争,スペインからの独立をめざして1568~1609年に戦われた独立戦争,ドイツで1618~48年にかけて戦われた戦争は,いずれも宗教対立を背景に勃発した戦争である。

主権国家体制と絶対王政(9)

IV-37. イタリア戦争と主権国家体制

1494年にフランス王シャルル8世がイタリアに侵入すると,神聖ローマ皇帝・スペイン王などがこれに対抗して,戦争が勃発した。この戦争は,イギリスなども巻き込み展開されたが,1559年のカトー=カンブレジ条約によってフランスがイタリア進出を断念することで終結した。[ 1 ]戦争以降,戦争は長期化・大規模化したため,各国は行政組織を整備し,国内を一元的に支配する体制を強めた。この過程で,中世の封建的主従関係の下で人的な結合からなる封建国家とは異なる,明確な国境で囲まれた領域をもち,君主が国を代表する体制をつくるようになった。このような国家を,とよび,近代国家の原型となった。
check_icon6イタリア戦争は,イタリアの荒廃を招き,イタリア=ルネサンスが衰退した。また,フランス王フランソワ1世と戦うために皇帝カール5世がドイツを不在にしたことは,ルター派の伸張にもつながった。

IV-38. 絶対王政

主権国家の形成期に,スペイン・フランス・イギリスで形成された強力な国王による統治体制をと呼ぶ。[ 1 ]は,制度と軍を権力の基盤とした。だが,ギルドや貴族といった中世以来の職能団体や身分制度が残っており,国王はこれらの団体を認めた上で統制した。免税特権をもつ聖職者や貴族の勢力に対抗するため,国王は大商人などに経済上の独占権を与えるなどして,協力関係を築いた。[ 1 ]では,財源を確保するために,国家が積極的に経済活動に関与する政策がとられた。また,[ 1 ]を正当化するイデオロギーとして,王権は神から授かったもので人民に拘束されないとするが唱えられた。
check_icon6以前は,絶対王政は国王が専制的な権力をふるったという立場をとっていたが,現在では国王の権力は制限的なものであったと考えられている。

IV-39. 重商主義

絶対王政期に,国家が経済に介入して国を富ませようとする経済政策がである。金や銀そのものを富と考えてそれを取り込もうとする重金主義,貿易黒字の拡大をめざす貿易差額主義,国内の輸出産業の保護を目指す産業保護主義などの形で展開された。重商主義を批判した経済思想が『経済表』を著したのである。

IV-40. スペインの繁栄(1)

年に家のがスペイン王について,スペイン=[ 2 ]朝が始まった。[ 3 ]は1519年にとして神聖ローマ皇帝にも選出された。[ 3 ]の治世の大半は,イタリア戦争におけるとの戦いや,オスマン帝国との戦いに費やされ,ラテンアメリカから流入する銀は戦争と宮廷の維持に費やされ,財政が破綻して退位した。1556年に即位した[ 3 ]の息子のもとでスペインは全盛期を迎えた。
check_icon61516年にはトマス=モアの『ユートピア』も出版された。ゴロで「イチゴ色スペイン=ハプスブルク朝,ユートピア」と覚えておこう。

IV-41. スペインの繁栄(2)

スペインの全盛期は1556年に即位したのもとで迎えられた。年のの海戦でオスマン海軍を破った[ 1 ]は,1580年に王位を兼任し,その海外植民地も手に入れ,「」を実現した。だが,オランダの独立運動は大きな打撃となり,またラテンアメリカから銀をもたらすスペイン船を襲うイギリスのらのの活動も打撃を与えた。オランダの独立を支援するイギリスを討つために派遣されたが,1588年にイギリスに敗れたのちにスペインの世界帝国は急速に衰退した。

IV-42. オランダ独立戦争(1)

ネーデルラントは,現在のオランダにあたる北部州と,現在のベルギーにあたる南部州からなる。商業の発達したネーデルラントにはカルヴァン派の新教徒が多かったが,スペイン王がこの地にもカトリックを強制し,自治権を奪おうとしたため,1568年にを指導者としてオランダ独立戦争が始まった。カトリック教徒が比較的多かった南部[ 2 ]州はスペインの支配下にとどまったが,北部[ 1 ]州は1579年に同盟を結んで抵抗を続け,年にとして独立を宣言した。
check_icon6北部7州で最も有力な州がホラント州であったことから,「オランダ」の名称ができた。

IV-43. オランダ独立戦争(2)

年にとして独立を宣言したオランダを支援するイギリスを攻撃するため,スペインは年にを派遣したが,イギリスに敗れて覇権を失った。1602年に会社を設立して国力を強めたオランダは,1609年の休戦条約で事実上独立をかちとり,1648年に結ばれた三十年戦争の講和条約条約で国際的に独立が認められた。

IV-44. オランダの繁栄(1)

16世紀前半に国際金融の中心として繁栄していたベルギー北部にあるがオランダ独立戦争中の1585年にスペイン軍によって占領されると,多くの商工業者がオランダのに亡命し,17世紀前半に[ 2 ]は国際金融の中心として繁栄した。オランダは海における貿易で富を蓄え,1602年には会社を設立してアジアに進出した。ジャワの(現在のジャカルタ)を根拠地にポルトガル商人を排除し,さらに1623年の事件を契機に諸島からイギリス勢力を駆逐して香辛料貿易を独占した。また,アフリカ南端に植民地を建設して,アジアへの中継地とした。

IV-45. オランダの繁栄(2)

オランダは,日本の鎖国体制が完成したのちも長崎の出島を通じての対日貿易を許され,さらに中国との貿易においても優位に立った。オランダは,一時台湾も占領したが,1661年にによってやぶられて台湾を失った。また,1621年に会社を設立して,ヨーロッパ・西アフリカ・アメリカを結ぶに乗り出した。オランダは,北アメリカ東岸にニューネーデルラント植民地を創設して,を建設した。こうして,17世紀前半にオランダは繁栄したが,17世紀後半におきた戦争に敗れて海上覇権をイギリスに奪われた。
check_icon617世紀は寒冷化が進み,三十年戦争・イギリス革命・フロンドの乱など多くの戦争や内乱が勃発し,「17世紀の危機」と呼ばれる。しかし,オランダは,香料貿易やバルト海貿易で優位に立ったことでこの時期としては,例外的な繁栄を見せた。

イギリス革命(12)

IV-46. イギリス社会の変化(1)

バラ戦争に勝利して1485年に成立した朝のもとでイギリス王権は強化された。宗教改革を行って自らが宗教的な最高権威となった国王は,それまでローマ教皇庁に納められていた十分の一税をも国王の収入として,また修道院を解散させて土地財産を没収して,王室の財政基盤を強化した。売却された土地を取得したのはと呼ばれる新興地主階層であった。彼らは身分上は平民であったが,地方行政や裁判を担当する無給の治安判事などに就いて,官僚組織の一端を担った。

IV-47. イギリス社会の変化(2)

百年戦争当時のイギリスでは毛織物工業が未発達で,羊毛をネーデルラント南西部のに輸出していたが,百年戦争後に毛織物工業が発達した。15世紀末以降,イギリスでは領主や地主であるが牧羊のために,農地を農民からとりあげて生け垣や塀などで囲い込んで牧場にするがすすんだ。この[ 3 ]に対しては,が『』のなかで,「羊が人間を食う」という表現で風刺し,政府は禁止した。
check_icon618世紀には,食糧増産の目的で議会が推進した第2次囲い込みが行われて,産業革命における労働力を提供した。

IV-48. イギリス社会の変化(3)

イギリスの毛織物工業では,商人が手工業生産者に道具や原料を前貸しして製品を独占する制度が行われた。さらに,資本家が労働者を集めて分業の方式で生産を行わせるが行われた。これは,資本家が労働者を雇って生産を行う資本主義的生産の始まりとなった。15世紀末以降の毛織物工業の発展を背景に,1600年にはアジア全域を担当する貿易独占会社であるを設立し,積極的な海外進出に乗り出した。毛織物工業の発展と強力な王権という点においてイギリスは,連邦制で強い中央権力を欠き,貿易に依存していたオランダに対して,まさっていた。

IV-49. ステュアート朝の成立

年にエリザベス1世を最後に朝が断絶すると,スコットランド王がとして朝を開いた。[ 3 ]は,王権は人民に拘束されないとするを唱えて専制政治を行った。[ 3 ]が議会を無視して新税を課したり,少数の大商人に独占権を与えたりすることに批判が高まり,議会と対立するようになった。

IV-50. ピューリタン革命(1)

1603年にステュアート朝を開いたの子が専制を強め重税を課したため,議会は年に,議会の同意なしに課税を行わないことや不法逮捕の禁止などを定めたを可決した。これに反発した[ 2 ]は,翌年議会を解散した。以後11年間,議会は開かれなかったが,カルヴァン派の強いに国教を強制したことから反乱が起き,[ 2 ]は戦費調達のためにやむなく議会を招集した。議会が国王と対立すると[ 2 ]はすぐに議会を解散した()が,同年再び議会を招集した()。この議会も国王を激しく批判し,年に王党派と議会派との間で,革命と呼ばれる内戦が勃発した。
check_icon6ピューリタン革命の勃発の年は,1640年とする場合もある。1640年は、国王と議会の対立が決定的となった時点で,1642年は武力闘争の開始の年である。

IV-51. ピューリタン革命(2)

年におこったピューリタン革命において,議会派は3つの派閥に分かれていた。立憲王政をめざす最も穏健な派閥が,ジェントリのに率いられて主力となっていくのが,最も急進的だったのがである。内戦は,はじめ王党派が優勢であったが,[ 3 ]が自ら編成したをもとに,王党派を破った。[ 4 ]は[ 5 ]と組んで,[ 2 ]を追放し,年に国王を処刑して,を樹立した。

IV-52. 共和政

年に共和政(コモンウェルス)を樹立した独立派のは,急進派のを弾圧するとともに,王党派の拠点となったやスコットランドを征服した。[ 4 ]人の土地は没収されて事実上植民地化されて,今日にまで至る[ 4 ]問題の起点となった。[ 2 ]は年に貿易に際してはイギリス船か原産国の船で輸送することを定めたを発布して,オランダのに打撃を与えた。これは,イギリス=オランダ(英蘭)戦争に発展し,1670年代まで3度にわたる戦いはイギリス優勢のうちにおわり,オランダは海上覇権を失った。

IV-53. 王政復古(1)

1649年に共和政を樹立したは1653年に終身のに就任して厳格な軍事独裁を行った。だが,劇場を閉鎖するなどの厳格なピューリタニズム的政策に対して,国民の不満が高まり[ 1 ]死後,年に前王チャールズ1世の子がフランスから帰国し,王政復古を果たした。[ 4 ]が国王専制の復活を目指し,カトリックを擁護したのに対して,議会は1673年にを制定して国教徒以外のものが公職に就くことを禁じ,1679年には不法な逮捕などを禁じるを制定して対抗した。
check_icon6ピューリタン革命前後に国王と議会の宗派が変わっていることに注意。革命前は国王が国教,議会がピューリタン中心。王政復古後は国王はカトリック擁護,議会の中心は国教へと変化している。

IV-54. 王政復古(2)

1660年に王政復古を果たしたには王位を継ぐべき子がおらず,[ 1 ]の弟が継ぐことになったが,彼はカトリック教徒であったため,その即位をめぐって議会は分裂した。[ 1 ]の弟の即位を認めるのは,党で,国王の権威を重んじた。一方,[ 1 ]の弟の即位に反対したのが党で,議会の権利を主張した。
check_icon61830年代以降,トーリ党は党,ホイッグ党は党の名称を使い始め,近代政党へと脱皮した。

IV-55. 名誉革命

1685年にチャールズ2世のカトリック教徒である弟がとして即位したが,即位後,絶対王政とカトリックの復活に努めたため,議会はオランダから[ 1 ]の娘とその夫のオランダ総督を共同統治の王として招いた。[ 1 ]が抗戦をあきらめて亡命すると,1689年に[ 1 ]の娘が,その夫のオランダ総督がとして即位した。二人は,議会が提出した王権を制限するに署名し,として制定した。これにより,議会が主権を握る立憲王政が確立した。大きな流血もなく,政変が成功したことによって,これはと呼ばれる。
check_icon6メアリ2世はジェームズ2世の娘で,ステュアート朝出身であるので,名誉革命における王朝の変化はない。

IV-56. イギリス議会政治の確立

ウィリアム3世がなくなると,メアリ2世の妹の女王が即位した。[ 1 ]女王治世下の1707年に,イングランドとスコットランドが合同し,王国となった。[ 1 ]女王が死去して朝が絶えると,ドイツのハノーファー選帝侯がとして迎えられ,朝を開いた。この王朝は,現在のウィンザー朝の直接の祖である。[ 4 ]は英語が分からず,議会にあまり出席しなかったため,「」という原則が確立した。1721年にホイッグ党のが首相となり,彼の辞任後,内閣は王ではなく議会に対してのみ責任を負うというが成立した。
check_icon6ウィンザー朝と呼ばれるようになったのは,第一次世界大戦で敵国ドイツの地名を王朝名とすることを避けたためである。

IV-57. 市民革命

マルクス主義の考えでは,フランス革命を新興の資本家(ブルジョワジー)が主体となって封建制を打倒して資本主義社会を確立する社会革命であったとした。この考えのもと,絶対王政を打倒して,封建的身分制を廃して,近代市民社会を成立させる革命を市民革命(ブルジョワ革命)といった。17世紀にイギリスでおきた革命と革命,~年のアメリカ独立革命,~1799年のフランス革命がその代表とされた。だが最近では,フランス革命の主要な問題が経済的関係をめぐる階級対立であったという見方は否定されるようになってきた。一部の教科書では,市民革命がまだ取り扱われているが,古典的な考え方である。

ユグノー戦争とフランス絶対王政(5)

IV-58. ユグノー戦争(1)

フランスでは,宗教改革の影響を受けて16世紀後半に,貴族や商工業者の間に,と呼ばれるカルヴァン派が増え,カトリック教徒との対立が深まった。両派の対立は,国王と母親の摂政のもと,1562年に[ 1 ]戦争と呼ばれる宗教戦争に発展した。この内乱では,カトリック側をが,プロテスタント側をが支援して,30年以上続いた。

IV-59. ユグノー戦争(2)

1562年に勃発したユグノー戦争は,カトリック側がプロテスタント側を虐殺した年のでさらに深刻化した。年に,朝が断絶し,家のが王位について[ 5 ]朝を開いた。[ 6 ]はユグノーからカトリックに改宗し,の王令(勅令)を発して,ユグノーに信仰の自由を認めた。この結果,内乱は終結に向かい,フランスは国家としてのまとまりを求める方向へ踏み出した。
check_icon6神聖ローマ帝国において1555年に出されたは,諸侯がカトリックかルター派かを選ぶもので,個人の信仰の自由は認めていなかったことに注意!!

IV-60. フランスの絶対王政(1)

に始まるブルボン朝のもとで,フランス絶対王政は全盛期を迎える。次の王は,身分制議会であるの召集を停止し,を宰相とした。[ 4 ]は王権に抵抗する貴族やユグノーを抑え,国際政治の面では家に対抗するために新教側に立ってドイツの戦争に介入した。次の王が幼少で即位すると,が宰相となった。[ 8 ]も貴族やユグノーの勢力を抑えて王権の強化をはかったため,高等法院を中心とする貴族が年にの乱をおこしたが,反乱は鎮圧された。
check_icon6フロンドの乱がおきたときに,イギリスではピューリタン革命が進行していたことに注意。

IV-61. フランスの絶対王政(2)

宰相マザランがなくなると,は年に親政を開始し,強大な権力をふるって,「」と呼ばれた。[ 1 ]はを唱えて,「」と主張し,様式の宮殿を造営した。[ 1 ]は,を財務総監に登用し,政策([ 8 ]主義)によって,国内産業の保護育成と王権の財政基盤の確立をめざした。
check_icon6東アジアでは,1661年に清の康煕帝が即位し,鄭氏台湾が成立した。

IV-62. フランスの絶対王政(3)

ルイ14世が年にユグノーに信仰の自由を認めたの王令を廃止すると,商工業をになっていたユグノーたちがイギリスやオランダに亡命し,フランスは経済的な打撃をこうむった。ルイ14世は,ファルツ戦争(1688-97年)や,1701-13年に戦われた戦争などの度重なる対外戦争を行ったが,得るものは少なく,財政を悪化させた。1715年にルイ14世の曾孫のが王位に就いたが,イギリスとの覇権争いに敗れ,深刻な財政危機に直面するようになった。

「17世紀の危機」と三十年戦争(4)

IV-63. 「17世紀の危機」

大航海時代の影響で16世紀は経済成長が著しい時代で人口も激増したが,17世紀に入ると太陽活動が低下して気候が寒冷化したことによって,凶作・不況が進行し,人口も停滞した。こうした社会状況を背景に17世紀には,各地で戦争・革命・反乱が多発した。イギリスでは,革命と革命が起こった。フランスでは,1648年にの乱が起き,ドイツでは1618~48年に戦争が戦われてドイツは荒廃した。ロシアでは,1670年に農民反乱であるの乱が勃発した。また,宗教的な対立の激化を背景に,17世紀にはがさかんに行われた時代でもあった。全ヨーロッパ的におきた混乱・危機を「17世紀の危機」という。

IV-64. 三十年戦争(1)

1555年のの宗教和議以降も,カトリックとプロテスタントの対立は続いていたが,年にの新教徒がハプスブルク家による旧教化政策に反抗したことをきっかけに戦争が勃発した。神聖ローマ帝国内の宗教戦争として始まった[ 4 ]戦争は,やがて宗派を越えた国際的な紛争に発展した。スペインは旧教のハプスブルク家の皇帝を支援し,新教国が介入してきたが,[ 5 ]は皇帝側の傭兵隊長に敗れた。その後,スウェーデン国王が新教側に立って参戦し,さらに旧教国フランスが新教側に立って参戦した。[ 4 ]戦争は,ハプスブルク家とフランスの家との戦いでもあった。

IV-65. 三十年戦争(2)

三十年戦争は,年に結ばれた条約で終結した。講和会議には多数の国が参加し,国際条約のさきがけとなったこの条約で,体制が確立した。ドイツの諸侯(領邦)にほぼ完全な主権が承認された結果,は事実上解体した。宗教面では,の宗教和議が再確認された上で,派も公認された。略奪を行うの戦いであった三十年戦争で,ドイツは荒廃し,人口も激減して長らく停滞することとなった。
check_icon6神聖ローマ帝国の名称はウェストファリア条約以降も残ったが,1806年にハプスブルク家が帝位を辞退することによって名目上も消滅した。

IV-66. 三十年戦争(3)

三十年戦争の講和条約条約で,スウェーデンはを獲得し,海の周辺をほぼ支配し,「[ 3 ]帝国」を成立させた。フランスはを獲得し,スペインからのの独立,オーストリアからのの独立が国際的に認められた。この結果,フランスの家はスペイン・オーストリアの両家に対して優位に立った。

プロイセン・オーストラリア・ロシア(11)

IV-67. 啓蒙専制君主

大航海時代の結果出来上がった「近代世界システム」(参照IV-12)において,「周辺」に留め置かれた東ヨーロッパ諸国では,らのの影響を受けて,農奴制を基盤とする後進的な社会を上から改革しようとするが登場した。「」と言ったプロイセンの,オーストリアの,ロシアのなどがその典型とされる。

IV-68. プロイセンの台頭

選帝侯であった家が17世紀に,領から成立したプロイセン公国を相続した。プロイセン公国は,1701年に起きた戦争で神聖ローマ皇帝側で参戦したことで,王国への昇格が認められた。2代目の王は領主層であるを官僚や将校とし,軍備を増強して絶対王政の基礎を築いた。次の王は重商主義政策を進め,宗教寛容政策をとるなどの典型とされるが,彼のもとでプロイセン王国はヨーロッパの強国の一つとなった。

IV-69. オーストリアの台頭

オーストリアの家は15世紀以降,神聖ローマ皇帝位をほぼ世襲してきた。オーストリアは,1529年と1683年の2度にわたって帝国軍によって首都のを包囲されたが,そのたびに危機を乗り切った。[ 2 ]帝国との間で1699年に結ばれた条約でオーストリアは,を獲得して,強国にのし上がった。1740年に即位したは内政改革を進めた。その子は,として,宗教寛容令や農奴解放令を発したが,保守派の抵抗にあい,晩年に改革は放棄せざるを得なかった。

IV-70. プロイセンとオーストリアの対立

1740年にオーストリアのが家の全領土を継承すると,それを不服としたプロイセン・フランス・バイエルン・スペインなどとの間に戦争が勃発した。この戦争で,プロイセンのに奪われた,鉱産資源に富んだを奪還するために,[ 1 ]は外交政策を転換し,長年敵対していたフランスと同盟を結び(「」),ロシアをも味方につけた。孤立したプロイセンの[ 4 ]は,イギリスの支援を受けて年に戦争を始めた。プロイセンは苦戦したが,1763年に有利な和平を結び,[ 5 ]を確保し,ヨーロッパの強国にのし上がった。

IV-71. オーストリア継承戦争と七年戦争における国際関係

オーストリア継承戦争と七年戦争では,国際関係が大きく転換する。両戦争をめぐる同盟関係は次のように整理すること。(1)両戦争においても変化しない関係。プロイセンvsオーストリア。植民地戦争を戦っているイギリスvsフランス。家が支配しているフランスとスペインは同じ陣営。(2)変化する関係。オーストリア継承戦争では,[ 1 ]朝のフランスが朝のオーストリアと戦うという伝統的な関係であるが,七年戦争ではフランスとオーストリアが同盟を結ぶ「」が起きた。この同盟関係を保障する政略結婚として,マリア=テレジアの娘がのちのと結婚することとなった。これらの関係を考慮すると,オーストリア継承戦争におけるオーストリア・イギリスvsプロイセン・フランス・スペイン,七年戦争におけるオーストリア・フランス・スペインvsプロイセン・イギリスの同盟関係がみえてくる。

IV-72. ロシアの台頭(1):モスクワ大公国

国から独立した大公イヴァン3世が統一したロシアでは,彼の孫(雷帝)が正式にを称し,貴族を抑えて専制政治の基礎を固めた。[ 3 ]は,コサックの首領が占領したシベリアの一部を領土に加え,アジアへも進出した。

IV-73. ロシアの台頭(2):ロマノフ朝

年にが朝を開き,専制政治と農奴制を強化した。1670~71年に起きた農民反乱であるの乱が鎮圧された後,帝位に就いたは自ら西欧諸国を視察して造船術などの西欧の科学・技術を導入した。[ 5 ]は軍備拡大を背景にシベリア経営を進め,治下の清と年に条約を結び,川と(スタノヴォイ山脈)を結ぶ線に国境を画定した。南方では,オスマン帝国から黒海の北にある海を奪った。
check_icon6イギリスでは,1689年に権利の章典がだされて名誉革命がおわった。

IV-74. ロシアの台頭(3):北方戦争

ロシアの近代化に努めたは,当時バルト海を支配していたのに対して,ポーランド・デンマークと結んで1700年に戦争を起こし,[ 2 ]を破ってバルト海の覇権を握った。戦争中,[ 1 ]はバルト海に臨む地にを建設し,首都とした。
check_icon6ペテルブルクはドイツ語の名称だったので,1914年の第一次世界大戦勃発を機にロシア風にになった。その後も,1924年のレーニンの死を機にとかわり,1991年のソ連崩壊を機にもとのペテルブルクにもどった。

IV-75. ロシアの台頭(4):エカチェリーナ2世

1762年に即位したは,啓蒙思想をもとに内政改革を進めた典型的なであった。だが,1773年に農奴解放を求める農民反乱の乱が勃発すると,[ 1 ]は貴族と妥協し農奴制を強化した。対外的には,[ 1 ]はオスマン帝国と戦って半島を奪い,東方ではオホーツク海まで進出し,鎖国を続ける日本に対して通商を求めてを派遣したが,拒否された。
check_icon6アメリカでは,1773年にボストン茶会事件が起きて,イギリス本国と13植民地の対立が深まった。

IV-76. ポーランド分割(1)

ポーランドは16世紀後半に朝が断絶すると,選挙王制に移行した。その後,貴族間の対立が激化し,隣接する大国が干渉するようになった。年にプロイセンのはオーストリアを誘い,ロシアのにポーランド分割を提案し,プロイセン・オーストリア・ロシアの3か国がポーランドの領土を分割した(第1次分割)。

IV-77. ポーランド分割(2)

が嫁いでいたルイ16世が処刑されたため,フランス革命の進展に目を向けていたをのぞき,1793年にとロシアは第2回の分割を強行した。ポーランド分割に反対して,愛国主義者は武装闘争を行ったが失敗した。1795年,[ 2 ]・[ 3 ]・ロシアの3か国は残りの領土を分割して,ポーランドは消滅した(第3次分割)。
check_icon6コシューシコは,アメリカ独立戦争(1775-83年)に参加し,ワシントンの副官となったことでも知られる。

ヨーロッパの海外進出(12)

IV-78. ポルトガルのアジア進出

インド航路を開拓したポルトガルは,1510年にインドのを占領して,アジア貿易の拠点とした。1511年には,東南アジア最初の本格的なイスラーム王国であった王国を滅ぼし,[ 2 ]を支配下に置いた。さらにポルトガルは,香料諸島とよばれる諸島に到達したが,マゼランの部下たちが[ 3 ]諸島に来航すると争奪の的となった。その後,[ 3 ]諸島はポルトガル・スペインとの間で結ばれた1529年のサラゴサ条約でポルトガルの支配下に置かれた。さらに,ポルトガルは1557年にの居住権を得て,対明貿易の拠点とした。1543年にはポルトガル人の船がに漂着したのをきっかけに平戸に来航し,17世紀初めまで日本と通商関係をもった。

IV-79. スペインのアジア進出

スペイン国王の命を受け,西周りでモルッカ諸島を目指していたがに到達したことをきっかけに,スペインは[ 3 ]を植民地とした。スペインは,メキシコのアカプルコ,[ 3 ]のと中国を結ぶ交易で,中国の絹・陶磁器を手に入れた。
check_icon6スペイン・ポルトガル人がもたらすメキシコ銀・日本銀が中国で流通するようになって,明代後期に税を銀で納めさせる一条鞭法が実施された。なお,明は海禁策をとっており,民間貿易は制限していたため,密貿易で銀は流入した。その密貿易を行ったのが,中国人を中心として,スペイン・ポルトガル人も含む16世紀からの後期倭寇である。

IV-80. オランダのアジア進出

オランダは1602年に会社を設立し,ジャワの(現在のジャカルタ)に拠点を置いた。1641年には,ポルトガルを排除してマラッカを占領した。また,1623年の事件を機にイギリスを諸島から追放して,香辛料貿易を独占した。オランダは一時,台湾を支配したが,に奪われた。オランダは,アフリカ南端に植民地を築き,アジアへの中継地とした。

IV-81. イギリスのアジア進出

イギリスは,1623年の事件をきっかけにインドネシアから閉め出されたのち,インド経営に力を注いだ。イギリスは,インド西岸の(現在のムンバイ),インド東南部の(現在のチェンナイ),ガンジス川下流の(現在のコルカタ)を拠点として,通商活動を展開した。17世紀後半に行われた3回の戦争に勝利して,17世紀末にはイギリスは世界貿易の覇権を握った。これに挑戦してきたのがフランスであるが,1世紀以上に及ぶ植民地争奪戦でフランスを退けた。
check_icon6地名を覚える時は,位置関係を意識して覚えること。ボンベイ・マドラス・カルカッタは反時計回りの順である。

IV-82. フランスのアジア進出

フランスは,1604年に会社を創設したが,まもなく活動を停止した。ルイ14世の財務総監は[ 1 ]会社を再建してインドに進出し,イギリスの拠点マドラスの近くに,イギリスの拠点カルカッタの近くにを建設してイギリスと対抗した。だが,1757年にカルカッタ北方で戦われた,の戦いでフランスはイギリスに敗北し,インドにおけるイギリスの優位が確定した。

IV-83. 西欧諸国のアメリカ進出

中南米の大半はが支配したが,ブラジルはが支配した。オランダは,北アメリカ東岸に植民地を建設し,中心都市としてを建設した。航海法制定を契機に,17世紀後半に戦われた戦争で,[ 3 ]植民地はイギリスにうばわれ,[ 4 ]はと改称された。フランスはカナダに進出してを建設するとともに,ルイ14世の時代に川流域にを建設した。イギリスは17世紀初頭,北アメリカ東岸に最初の植民地を建設した。1620年にメイフラワー号で北米にやってきたと呼ばれるピューリタンを中心とする人々が,北アメリカに移住して,植民地が形成された。イギリスは,18世紀前半までに北米における植民地を建設した。

IV-84. 英仏の覇権争い(1):第2次英仏百年戦争

17世紀後半から19世紀初頭まで英仏は植民地をめぐり,1世紀以上にわたる激しい戦争を繰り返したため,第2次英仏百年戦争と呼ばれる。始まりとされる戦争はウィリアム王戦争であるが,この戦争はヨーロッパで1688年に始まった(アウクスブルク同盟戦争)と連動している。最後とされるのは,19世紀初頭に終結するである。

IV-85. 英仏の覇権争い(2)

18世紀の英仏は,ヨーロッパにおける戦争と植民地をめぐる戦争を並行して戦った。(1)ヨーロッパでの(1688-97年):北米におけるウィリアム王戦争(1689-97年)。(2)ヨーロッパでの(1701-13年):北米におけるアン女王戦争(1702-13年)。(3)ヨーロッパでの(1740-48年):北米におけるジョージ王戦争(1744-48年):インドにおけるカーナティック戦争(1744年から1761年まで3次に渡る)(4)ヨーロッパでの(1756-63年):北米における:インドにおける1757年のの戦い。これらの18世紀の戦いに勝利したイギリスは,1763年のでイギリス植民地帝国の基礎を確立した。

IV-86. 英仏の覇権争い(3):スペイン継承戦争

1700年にスペインの家が断絶した時,フランス国王の孫がとして王位を継いだ。これに反発したイギリス・オランダ・オーストリアなどがフランス・スペインと戦ったのが,年に始まった戦争である。北米におけるアン女王戦争でも苦戦を強いられたフランスは,年に講和条約条約を結んだ。[ 7 ]条約の内容は以下の通り。(1)スペイン・フランスが合同しないという条件で[ 3 ]のスペイン王位継承は認められた。(2)イギリスはスペインから・ミノルカ島を獲得。(3)北米において,イギリスはフランスから・アカディア・ハドソン湾地方を獲得。

IV-87. 英仏の覇権争い(4):七年戦争

フランスの家とオーストリアの家が同盟を結んだを背景に,年に勃発した戦争,およびそれと並行して戦われた北米での植民地戦争である戦争に勝利したイギリスは年に条約を結んだ。[ 8 ]条約の内容は以下の通り。(1)イギリスはフランスからと川以東の・西インド諸島の一部を獲得。(2)イギリスはスペインからを獲得。(3)[ 10 ]川以西の[ 11 ]はフランスがスペインに譲渡し,フランスは北アメリカにおける領土をすべて失った。ここにイギリスの植民地帝国の基礎が確立した。

IV-88. 大西洋三角貿易と奴隷貿易

スペインはラテンアメリカに広大な植民地を保有していたが,奴隷供給地のに拠点がなかったため,アシエントと呼ばれる奴隷供給契約を外国商人と結んだ。[ 1 ]に拠点を持つ,ポルトガル・フランス・イギリスがアシエントをめぐり争奪戦を展開したが,スペイン継承戦争(1701-13年)の講和条約である条約で,アシエントをイギリスが得て,イギリスのが奴隷貿易で繁栄した。この奴隷貿易は大西洋三角貿易の一環として行われた。この三角貿易では,ヨーロッパからや雑貨を[ 1 ]の王国などに送り,それと交換にえた黒人奴隷をアメリカ大陸・諸島に送り,(大農園)でつくった・綿花・タバコなどをヨーロッパに持ち帰った。

IV-89. 大西洋三角貿易の影響

大西洋三角貿易でアメリカ大陸や諸島からもたらされたやコーヒー,またアジアからもたらされた綿織物や茶などはヨーロッパ人の消費生活を大きく変え,17~18世紀にヨーロッパで「生活革命」がおきた。イギリスでは,がつくられ,都市住民の社交場としてだけでなく,種々の情報があつまる重要な情報センターの役割も果たした。また,大西洋三角貿易で繁栄したイギリスの・ブリストルには資本が蓄積され,産業革命を準備した。さらに,大西洋三角貿易でもたらされる綿花は,産業革命における綿工業の原料を供給した。一方,黒人奴隷を供給した社会は深刻な打撃を受けた。

17~18世紀の文化(11)

IV-90. 17~18世紀の文化:科学革命と近代科学

17世紀,イギリスを中心に自然科学の大転換がおき,近代の自然観・科学技術を生み出すきっかけがもたらされた。これをという。『プリンキピア』で万有引力の法則を唱えた物理学者や,気体力学の土台をつくったは近代科学の基礎を築いた。また,イギリスの生理学者は血液の循環を立証し,イギリスの医師は18世紀末に種痘法を開発して,予防接種を創始した。フランスの天文学者は宇宙進化論を唱え,18世紀のフランスの化学者は質量保存の法則を立てた。18世紀のスウェーデンの植物学者は植物分類学を確立した。

IV-91. 17~18世紀の文化:哲学(1)

実験と観察の結果から一般法則を導くによるを説いたイギリスのと,疑いようのない原理から論理的な推論によって必然的な結論を導くによるを主張したフランスのらが,近代哲学への道を開いた。ニュートンとは別に微積分法を考案したことでも知られるドイツの哲学者・数学者であるは,神の予定調和のもとにある,分割不可能な単子から世界がなるとする単子論を説いた。
check_icon6デカルトの著作『方法叙説』のなかにある「われ思う,ゆえにわれあり」という言葉は,すべての存在を疑ってみたうえで,疑う自分の存在を確信するというデカルトの方法をよく示している。

IV-92. 17~18世紀の文化:哲学(2)

ドイツの哲学者はイギリスのと大陸のを総合して,批判哲学を打ち立て,の祖となった。フランスの科学者・哲学者のは「人間は考える葦」であるという言葉で有名な『パンセ(瞑想録)』を残した。ユダヤ系オランダ人の哲学者はあらゆるものに神が宿り,一切は神と同一と考える汎神論を唱え,教会からは無神論として異端視された。
check_icon6『』『実践理性批判』『判断力批判』を[ 1 ]の三大批判書という。

IV-93. 17~18世紀の文化:政治思想(1)

フランス教会の教皇権からの独立(ガリカニスム)を主張した,フランスのは絶対王政を正当化するイデオロギーであるを唱えた。これに対して,人類に普遍的に通用する法という考えにもとづく思想が生まれ,国家の起源を自由・平等な個人間の契約に求めると結びついて,絶対王政に対抗する武器となった。オランダの法学者は,ドイツの三十年戦争の惨禍を見て,『』を著して「の祖」「近代[ 3 ]の父」と呼ばれる。また,[ 5 ]は中継貿易を行っていたオランダの利害を擁護する『』を著して,貿易・公海の自由を主張した。

IV-94. 17~18世紀の文化:政治思想(2)

自然法思想を基礎として,社会や国家の起源を自由・平等な個人間の契約に求めるが生まれた。イギリスのは『』のなかで自然状態を「万人の万人に対する闘争」と説き,その混乱を避けるために契約を結んで,国家を形成しなければならないと主張した。だが,[ 2 ]が説く国家主権は絶対的なものであったため,絶対王政を擁護する立場であった。これに対しては,イギリスで1688~89年に起きた革命を正当化するために,『』で君主が契約に反した場合には人民に革命権があると説いた。この革命権の主張は,年のアメリカ独立宣言で用いられた。

IV-95. 17~18世紀の文化:政治思想(3)

18世紀のフランスでは,理性を重視し,合理的な思考を目指す思想が生まれた。は『』で三権分立を説いた。『(イギリスだより)』でイギリスの先進性を賛美したは,啓蒙専制君主に影響を与えた。は『』や『社会契約論』で人民主権論を主張した。とが編集した『』は,フランス啓蒙思想家の思想を集大成したものである。

IV-96. 17~18世紀の文化:経済学

絶対王政期の経済政策であるを批判して,富の源泉を土地に求め,経済活動のを主張するが18世紀後半のフランスで生まれた。『経済表』を著し,「[ 3 ]の祖」といわれるや,フランス革命前に財政改革を試みた財務総監が[ 3 ]を代表する。産業革命が始まったイギリスでは,が『』(『国富論』)を著し,[ 2 ]主義にもとづく古典派経済学を開いた。

IV-97. 17~18世紀の文化:建築・美術(1)

17~18世紀のヨーロッパ文化は君主の宮廷生活と結びついたもので,豪壮華麗な美術がフランスとスペインで流行した。フランスのルイ14世は[ 1 ]様式の宮殿を完成させた。絵画では,「マリー=ド=メディシスの生涯」などを描いたフランドル派の,チャールズ1世の宮廷画家として活躍したフランドル派の,「女官(ラス・メニナス)」を描いたスペインの宮廷画家,「聖母昇天」などの宗教画を描いた,「夜警」を描いたオランダのなどが活躍した。「真珠の耳飾りの少女」などの作品で知られるオランダのは市民の日常生活を描いたが,屋内に差し込む光などの繊細な表現に優れている。

IV-98. 17~18世紀の文化:建築・美術(2)

18世紀になると,豪壮華麗な美術にかわって,繊細優美な美術が広まった。プロイセンのフリードリヒ2世がポツダムに建てた宮殿は,[ 2 ]様式の宮殿として名高い。「シテール島の巡礼」を描いたフランスのは[ 2 ]様式の代表的画家である。

IV-99. 17~18世紀の文化:音楽

17~18世紀には豪壮華麗な音楽が流行した。多くの教会音楽を残したドイツのや,ドイツ生まれで後半生はイギリスの宮廷音楽家として活躍したがその代表である。18世紀後半には音楽が誕生した。「交響曲の父」と呼ばれるオーストリアの作曲家,交響曲「ジュピター」などを残した,[ 4 ]音楽を集大成して19世紀前半に生まれる派音楽への道を開いたがその代表である。

IV-100. 17~18世紀の文化:文学

17世紀のイギリスでは,の『失楽園』や,の『天路歴程』などの文学が生まれた。18世紀になると,イギリスの盛んな貿易・植民活動を背景に,の『ロビンソン=クルーソー』や,の『ガリヴァー旅行記』のような小説が生まれた。17世紀のフランスでは,文学が生まれ,悲劇作家として・,喜劇作家としてが活躍した。
check_icon6ルイ13世の宰相は,フランス語の統一と純化を目的としてアカデミー=フランセーズを創設した。アカデミー=フランセーズは,1795年に設立されたフランス学士院に統合された。