プロイセン・オーストラリア・ロシア

「プロイセン・オーストラリア・ロシア」の一問一答問題です。

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IV-67. 啓蒙専制君主

大航海時代の結果出来上がった「近代世界システム」(参照IV-12)において,「周辺」に留め置かれた東ヨーロッパ諸国では,らのの影響を受けて,農奴制を基盤とする後進的な社会を上から改革しようとするが登場した。「」と言ったプロイセンの,オーストリアの,ロシアのなどがその典型とされる。

IV-68. プロイセンの台頭

選帝侯であった家が17世紀に,領から成立したプロイセン公国を相続した。プロイセン公国は,1701年に起きた戦争で神聖ローマ皇帝側で参戦したことで,王国への昇格が認められた。2代目の王は領主層であるを官僚や将校とし,軍備を増強して絶対王政の基礎を築いた。次の王は重商主義政策を進め,宗教寛容政策をとるなどの典型とされるが,彼のもとでプロイセン王国はヨーロッパの強国の一つとなった。

IV-69. オーストリアの台頭

オーストリアの家は15世紀以降,神聖ローマ皇帝位をほぼ世襲してきた。オーストリアは,1529年と1683年の2度にわたって帝国軍によって首都のを包囲されたが,そのたびに危機を乗り切った。[ 2 ]帝国との間で1699年に結ばれた条約でオーストリアは,を獲得して,強国にのし上がった。1740年に即位したは内政改革を進めた。その子は,として,宗教寛容令や農奴解放令を発したが,保守派の抵抗にあい,晩年に改革は放棄せざるを得なかった。

IV-70. プロイセンとオーストリアの対立

1740年にオーストリアのが家の全領土を継承すると,それを不服としたプロイセン・フランス・バイエルン・スペインなどとの間に戦争が勃発した。この戦争で,プロイセンのに奪われた,鉱産資源に富んだを奪還するために,[ 1 ]は外交政策を転換し,長年敵対していたフランスと同盟を結び(「」),ロシアをも味方につけた。孤立したプロイセンの[ 4 ]は,イギリスの支援を受けて年に戦争を始めた。プロイセンは苦戦したが,1763年に有利な和平を結び,[ 5 ]を確保し,ヨーロッパの強国にのし上がった。

IV-71. オーストリア継承戦争と七年戦争における国際関係

オーストリア継承戦争と七年戦争では,国際関係が大きく転換する。両戦争をめぐる同盟関係は次のように整理すること。(1)両戦争においても変化しない関係。プロイセンvsオーストリア。植民地戦争を戦っているイギリスvsフランス。家が支配しているフランスとスペインは同じ陣営。(2)変化する関係。オーストリア継承戦争では,[ 1 ]朝のフランスが朝のオーストリアと戦うという伝統的な関係であるが,七年戦争ではフランスとオーストリアが同盟を結ぶ「」が起きた。この同盟関係を保障する政略結婚として,マリア=テレジアの娘がのちのと結婚することとなった。これらの関係を考慮すると,オーストリア継承戦争におけるオーストリア・イギリスvsプロイセン・フランス・スペイン,七年戦争におけるオーストリア・フランス・スペインvsプロイセン・イギリスの同盟関係がみえてくる。

IV-72. ロシアの台頭(1):モスクワ大公国

国から独立した大公イヴァン3世が統一したロシアでは,彼の孫(雷帝)が正式にを称し,貴族を抑えて専制政治の基礎を固めた。[ 3 ]は,コサックの首領が占領したシベリアの一部を領土に加え,アジアへも進出した。

IV-73. ロシアの台頭(2):ロマノフ朝

年にが朝を開き,専制政治と農奴制を強化した。1670~71年に起きた農民反乱であるの乱が鎮圧された後,帝位に就いたは自ら西欧諸国を視察して造船術などの西欧の科学・技術を導入した。[ 5 ]は軍備拡大を背景にシベリア経営を進め,治下の清と年に条約を結び,川と(スタノヴォイ山脈)を結ぶ線に国境を画定した。南方では,オスマン帝国から黒海の北にある海を奪った。
check_icon6イギリスでは,1689年に権利の章典がだされて名誉革命がおわった。

IV-74. ロシアの台頭(3):北方戦争

ロシアの近代化に努めたは,当時バルト海を支配していたのに対して,ポーランド・デンマークと結んで1700年に戦争を起こし,[ 2 ]を破ってバルト海の覇権を握った。戦争中,[ 1 ]はバルト海に臨む地にを建設し,首都とした。
check_icon6ペテルブルクはドイツ語の名称だったので,1914年の第一次世界大戦勃発を機にロシア風にになった。その後も,1924年のレーニンの死を機にとかわり,1991年のソ連崩壊を機にもとのペテルブルクにもどった。

IV-75. ロシアの台頭(4):エカチェリーナ2世

1762年に即位したは,啓蒙思想をもとに内政改革を進めた典型的なであった。だが,1773年に農奴解放を求める農民反乱の乱が勃発すると,[ 1 ]は貴族と妥協し農奴制を強化した。対外的には,[ 1 ]はオスマン帝国と戦って半島を奪い,東方ではオホーツク海まで進出し,鎖国を続ける日本に対して通商を求めてを派遣したが,拒否された。
check_icon6アメリカでは,1773年にボストン茶会事件が起きて,イギリス本国と13植民地の対立が深まった。

IV-76. ポーランド分割(1)

ポーランドは16世紀後半に朝が断絶すると,選挙王制に移行した。その後,貴族間の対立が激化し,隣接する大国が干渉するようになった。年にプロイセンのはオーストリアを誘い,ロシアのにポーランド分割を提案し,プロイセン・オーストリア・ロシアの3か国がポーランドの領土を分割した(第1次分割)。

IV-77. ポーランド分割(2)

が嫁いでいたルイ16世が処刑されたため,フランス革命の進展に目を向けていたをのぞき,1793年にとロシアは第2回の分割を強行した。ポーランド分割に反対して,愛国主義者は武装闘争を行ったが失敗した。1795年,[ 2 ]・[ 3 ]・ロシアの3か国は残りの領土を分割して,ポーランドは消滅した(第3次分割)。
check_icon6コシューシコは,アメリカ独立戦争(1775-83年)に参加し,ワシントンの副官となったことでも知られる。