IV-13. ルネサンス
ルネサンスは,イタリアで[ 1. ]~[ 2. ]世紀におこった新しい文化運動。神や教会を中心とする中世的価値観から,人間性を解放し,個人の個性を尊重しようとした。現世の生活を肯定し,人間の自然な感情を重視したが,これを支えたのがギリシア・ローマの古典文化を研究することで人間らしい生き方を追求しようとする[ 3. ](ヒューマニズム)である。16世紀にかけてルネサンスの運動はドイツ・フランス・イギリスなどに広まった。
「ルネサンス」の一問一答問題です。
ルネサンスは,イタリアで[ 1. ]~[ 2. ]世紀におこった新しい文化運動。神や教会を中心とする中世的価値観から,人間性を解放し,個人の個性を尊重しようとした。現世の生活を肯定し,人間の自然な感情を重視したが,これを支えたのがギリシア・ローマの古典文化を研究することで人間らしい生き方を追求しようとする[ 3. ](ヒューマニズム)である。16世紀にかけてルネサンスの運動はドイツ・フランス・イギリスなどに広まった。
イタリアでルネサンスがおこった要因には次のようなものがある。(1)十字軍を契機に商業が復活し,東方貿易で繁栄したヴェネツィアや,毛織物工業が発展した[ 1. ]などの諸都市が現れた。これを背景に,[ 1 ]の[ 2. ]家や,ローマ教皇のようなルネサンスの保護者が現れた。(2)十字軍以降,先進的なイスラーム文化やビザンツ文化が流入した。(3)イタリアにはローマ帝国以来の文化的遺産が存在した。イタリア=ルネサンスは,[ 3. ]世紀に[ 2 ]家の保護の下[ 1 ]を中心におこり,その後中心はローマ,ヴェネツィアと移動していった。
フィレンツェの金融財閥[ 1. ]家や,ローマ教皇が保護者となったために貴族的な性格を帯びており,政治体制や教会の支配体制などを真正面から批判し,改革しようという力にはならなかった。ルネサンス運動が広まった,イギリス・フランス・スペインなども国王の保護のもと栄えたので,同様であった。イタリア=ルネサンスの衰退の要因には以下のものがある。(1)大航海時代の影響で,商業の中心が地中海から[ 2. ]岸に移り,経済的に衰退した。(2)神聖ローマ皇帝やフランス王などがイタリアの支配をめぐって戦った[ 3. ]戦争の舞台となり力を失った。
フィレンツェ生まれの[ 1. ]は,ラテン語ではなく口語である[ 2. ]語で『[ 3. ]』を書いた。『叙情詩集』などで知られる[ 4. ]は,イタリア=ルネサンス初期の詩人・[ 5. ](ヒューマニスト)であるが,「教皇のバビロン捕囚」(1309-77年)中のアヴィニョンに滞在していた。[ 5 ]の[ 6. ]は1348年頃に流行した[ 7. ]で荒廃したフィレンツェを舞台に『[ 8. ]』を書いた。
ダンテは,フィレンツェの使節の一員として1301年に教皇ボニファティウス8世に会っている。ボニファティウス8世は1303年に[ 9. ]事件で一時フランス王に監禁された教皇で,このことを知っているとダンテが生存していた時期が分かる。
フィレンツェの政治家の[ 1. ]は『[ 2. ]』を著し,政治を宗教・道徳から切り離す近代政治学を提示した。[ 1 ]の主張はマキァヴェリズムと呼ばれるが,これは目的のためには手段を問わない「[ 3. ]」を認める立場である。[ 1 ]はイタリア統一のためには狐のような狡猾さを持った君主が必要であると説いたのである。
15世紀末に仏王シャルル8世が行ったイタリア遠征でメディチ家が逃亡した後に成立した共和政下のフィレンツェでマキァヴェリは活躍した。
大円蓋(ドーム)と列柱を特徴とするルネサンス様式が生まれた。[ 1. ]はフィレンツェの[ 2. ]大聖堂の大円蓋を完成させた。16世紀にローマの[ 3. ]大聖堂が新築され,[ 4. ]が最初に設計し,その後ラファエロらも関わった。
サン=ピエトロ大聖堂は初代ローマ教皇とされるペテロの墓所にコンスタンティヌス帝が建設したのが始まりであったが,メディチ家出身のレオ10世が建築資金を捻出しようと販売した贖宥状はルターの宗教改革を招いた。
「聖フランチェスコの生涯」を描いた[ 1. ]がルネサンス絵画の先駆者である。フィレンツェの富豪[ 2. ]家の保護を受けた[ 3. ]は「ヴィーナスの誕生」「春」で知られる。「万能の天才」とされる[ 4. ]は「最後の晩餐」「モナリザ」を描いた。「ダヴィデ」像により彫刻家としての名声を得た[ 5. ]は,システィナ礼拝堂の天井画として「天地創造」を,祭壇画として「最後の審判」を描いた。[ 6. ]は多くの聖母子画や「アテネの学堂」を描いた。
ネーデルラントの人文主義者[ 1. ]は教会や聖職者の腐敗を風刺する『[ 2. ]』を描いたが,ルターの宗教改革については中立の立場をとった。フランドル派の[ 3. ]は油絵技法を改良し,宗教画と肖像画を描いた。「農民の踊り」などで農民の生活を描いたフランドル派の[ 4. ]は「バベルの塔」や「子どもの遊び」などでも知られる。
ドイツ最大の画家とされる[ 1. ]は「四使徒」で知られる。イギリスに渡り国王ヘンリ8世の宮廷画家となったドイツの[ 2. ]は,ヘンリ8世,エラスムスやトマス=モアの肖像で知られる。ドイツの人文主義者[ 3. ]は古典研究をヘブライ語にまで広げた結果,旧約聖書を原典から研究することに役立った。
フランスの医師・人文主義者である[ 1. ]は巨人を主人公として当時の社会を風刺した『[ 2. ]』を書いた。『エセー(随想録)』を著したフランスの人文主義者[ 3. ]は,ボルドー市長に推され,1562~98年に戦われた宗教戦争[ 4. ]戦争の調停に努めた。1571年の[ 5. ]の戦いに参加していたことでも知られる,スペインの作家[ 6. ]は没落しつつある騎士を主人公とした『[ 7. ]』を書いた。
ボッカチオの『[ 1. ]』の影響を受けて,イギリスの作家[ 2. ]は『カンタベリ物語』を書いた。イギリスの法律家・人文主義者の[ 3. ]はラテン語で『ユートピア』を書き,「羊が人間を食う」という表現で(第1次)[ 4. ]を風刺した。イギリスの劇作家[ 5. ]は『[ 6. ]』『オセロー』『マクベス』『リア王』の四大悲劇を残した。
トマス=モアは最高の官職である大法官の地位にあったとき,ヘンリ8世の離婚に反対したため処刑された。
16世紀前半にポーランド人の[ 1. ]は『天球回転論』によって地動説を唱え,2世紀のギリシア人天文学者[ 2. ]が唱えた教会公認の天動説に挑戦した。イタリアの哲学者ジョルダーノ=ブルーノは汎神論と地動説を唱えて宗教裁判によって火刑に処せられた。イタリアの科学者[ 3. ]は望遠鏡を用いて木星の衛星を観測して地動説を確信した。だが,宗教裁判にかけられて地動説の放棄を誓わさられた。17世紀初めにドイツの[ 4. ]は「惑星の3法則」を発見して,近代天文学の基礎を築いた。
コペルニクスは死の直前に『天球回転論』の出版に同意して,同書は1543年に刊行されたが,ゴロで「暦(こよみ543)みて地動説」と覚えておこう。
15世紀半ば頃にドイツ人[ 1. ]が改良した活版印刷術は大量印刷を可能とし,新しい思想の普及に大きく貢献し,宗教改革にも影響を及ぼした。14世紀初めにイタリアで改良された[ 2. ]は遠洋航海を可能とし,大航海時代の背景をなした。[ 3. ]の使用により戦術が一変し,騎士の没落をまねいた。
活版印刷術・羅針盤・火薬はいずれも中国で発明されたものとされる。