宗教改革

「宗教改革」の一問一答問題です。

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IV-26. 宗教改革の背景

先駆的宗教改革者として,14世紀のイギリスのや,彼の影響を受けたボヘミアのなどがいるが,いずれも異端として迫害され,大きな運動に発展することはなかった。だが,16世紀前半の宗教改革においては,政治的・社会的状況の変化に促されて,大きな影響を与えた。ドイツのの場合は,神聖ローマ帝国が分裂状態で彼をかくまう大諸侯が存在したことで成功し,領邦教会制の確立とともに政治的な側面を持つに至る。また,国王の離婚問題から始まったイギリスの宗教改革は国王自らが推進するもので,絶対王政の確立という政治的側面を持っていた。スイスので宗教改革を行ったの考えは新興の市民層である商工業者に受け入れられて大きな運動となっていった。

IV-27. ルターの宗教改革(1)

メディチ家出身の教皇は大聖堂の修築資金を集めようとして,買えば罪が許されるとするを政治的に分裂していたドイツで大量に販売した。これに反発したヴィッテンベルク大学神学教授のは,年に[ 3 ]を攻撃するを発表した。[ 4 ]は,魂の救いは[ 3 ]を買うというような善行によるものではなく,福音を信じることのみによると説いた。[ 4 ]は,1520年の著書『キリスト者の自由』において,「人は信仰によってのみ義とされる」とする信仰義認説を主張した。

IV-28. ルターの宗教改革(2)

教皇からされたマルティン=ルターは,年に神聖ローマ皇帝により帝国議会に呼び出されて自説の撤回を求められた。ルターが応じなかったため,[ 3 ]はルターを追放刑に処したが,ルターは皇帝と対立するに保護されて,『』のドイツ語訳を完成させて,普及し始めていた印刷術を用いて出版した。
check_icon6神聖ローマ皇帝カール5世は,スペイン王としてはカルロス1世である。

IV-29. ドイツ農民戦争

宗教改革運動に刺激された騎士が1522年に騎士戦争を起こしたが,鎮圧され,騎士の没落につながった。ついで,の廃止などを要求するが1524年に勃発した。ルターは最初は農民に同情的であったが,のもとに急進化すると,弾圧する諸侯の側にまわった。

IV-30. カール5世の苦難

皇帝は,イタリアの支配をめぐって仏王とを戦っていた。[ 2 ]と同盟したオスマン帝国のが1526年にハンガリーに侵攻すると,[ 1 ]はいったんルター派を容認した。その後,1529年にルター派を再禁止すると,ルター派が抗議文を提出したことが語源となって,ルター派は「」と呼ばれるようになり,のちにこの語は新教徒全体を指すようになった。1529年に行われたオスマン帝国の[ 4 ]による包囲は失敗に終わったが,1530年にルター派諸侯・都市が同盟を結成して,[ 7 ]戦争にまで発展した。年にの宗教和議が成立して,諸侯がカトリックかルター派のいずれかを選択することが認められたが,個人の信仰の自由は認められなかった。
check_icon6ルター派諸侯は自領内の教会を支配して統制下に置く,を採用した。

IV-31. スイスの宗教改革

チューリヒでが宗教改革を行ったが,急進的であったため,ルターとは決裂し,宗教戦争で戦死した。1536年に『』を出版していた,フランス生まれのはに招かれて,厳格な禁欲主義にもとづく政教一致の神権政治を行った。
check_icon6カルヴァンが主張した予定説にかけて,1536年はゴロで「以後寒くなる予定」と覚えておこう。

IV-32. カルヴァン派の登場

カルヴァンは,魂が救われるかどうかはあらかじめ神が決定しているとする「」を説いた。さらに個人が救いを確信する手段として,厳しい禁欲と勤勉を求めた。教会制度に関しては,ルターが司教制度を維持したのに対して,カルヴァンはこれを廃し教会員から選んだと牧師が運営する[ 2 ]主義を取り入れた。カトリックでは否定されていた蓄財を認め,独特の職業倫理をもったカルヴァンの考えは新興の市民層である商工業者に受け入れられた。カルヴァン派は,フランスでは,イングランドでは,スコットランドでは,そしてオランダではと呼ばれた。
check_icon6ドイツの社会学者は『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で,プロテスタントの宗教倫理と近代資本主義の精神が結びついていると論じた。

IV-33. イギリスの宗教改革(1)

イギリスの宗教改革は,朝の国王の離婚問題から始まった。離婚を認めない教皇と対立した[ 2 ]は,議会の支持を得て年にを発布し,を創設した。これにより,ローマ教皇から分離独立し,国王が[ 5 ]の首長であるとされた。さらに,[ 2 ]は修道院の財産を没収し,王権の強化を図った。イギリスの宗教改革は教義面からではなく,政治的な側面から始まり,絶対王政の基礎を確立することになった。

IV-34. イギリスの宗教改革(2)

国王の離婚問題から始まったイギリスの宗教改革で,教義面の改革が進んだのは[ 1 ]の長男ののときで,制定された一般祈とう(漢字:示に壽)書は教義面ではカルヴァン主義に近いが,制度面では司教(主教)制を維持するカトリックに近いものであった。次の女王は熱烈なカトリック教徒で,スペイン皇太子フェリペ(のちの)と結婚し,プロテスタントを弾圧した。その後即位したは,年にを再交付してイギリス国教会が最終的に確立した。

IV-35. 対抗宗教改革

宗教改革に対抗してカトリック教会側も,腐敗を改め,教義を明確化しようという動きが現れた。これをという。年から開かれた公会議で教皇の至上権と教義を再確認した。また,腐敗の防止を図り,をつくり,を設置して思想統制を強めた。1534年にスペインのを中心に設立されたは,海外布教で活躍し,ラテンアメリカやアジアなどでカトリック信仰が広まった。
check_icon6悪魔と契約を結んでわざわいをなすとされた人間に対する迫害である「」は16~17世紀にかけて最も激しく行われた。「[ 8 ]」は新旧両派で行われた。

IV-36. 宗教戦争

カトリック側の対抗宗教改革によって旧教徒と新教徒との対立は激化し,16世紀後半から17世紀半ばにかけて宗教戦争が勃発した。フランスで1562~98年に戦われた戦争,スペインからの独立をめざして1568~1609年に戦われた独立戦争,ドイツで1618~48年にかけて戦われた戦争は,いずれも宗教対立を背景に勃発した戦争である。