イギリス革命

「イギリス革命」の一問一答問題です。

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IV-46. イギリス社会の変化(1)

バラ戦争に勝利して1485年に成立した朝のもとでイギリス王権は強化された。宗教改革を行って自らが宗教的な最高権威となった国王は,それまでローマ教皇庁に納められていた十分の一税をも国王の収入として,また修道院を解散させて土地財産を没収して,王室の財政基盤を強化した。売却された土地を取得したのはと呼ばれる新興地主階層であった。彼らは身分上は平民であったが,地方行政や裁判を担当する無給の治安判事などに就いて,官僚組織の一端を担った。

IV-47. イギリス社会の変化(2)

百年戦争当時のイギリスでは毛織物工業が未発達で,羊毛をネーデルラント南西部のに輸出していたが,百年戦争後に毛織物工業が発達した。15世紀末以降,イギリスでは領主や地主であるが牧羊のために,農地を農民からとりあげて生け垣や塀などで囲い込んで牧場にするがすすんだ。この[ 3 ]に対しては,が『』のなかで,「羊が人間を食う」という表現で風刺し,政府は禁止した。
check_icon618世紀には,食糧増産の目的で議会が推進した第2次囲い込みが行われて,産業革命における労働力を提供した。

IV-48. イギリス社会の変化(3)

イギリスの毛織物工業では,商人が手工業生産者に道具や原料を前貸しして製品を独占する制度が行われた。さらに,資本家が労働者を集めて分業の方式で生産を行わせるが行われた。これは,資本家が労働者を雇って生産を行う資本主義的生産の始まりとなった。15世紀末以降の毛織物工業の発展を背景に,1600年にはアジア全域を担当する貿易独占会社であるを設立し,積極的な海外進出に乗り出した。毛織物工業の発展と強力な王権という点においてイギリスは,連邦制で強い中央権力を欠き,貿易に依存していたオランダに対して,まさっていた。

IV-49. ステュアート朝の成立

年にエリザベス1世を最後に朝が断絶すると,スコットランド王がとして朝を開いた。[ 3 ]は,王権は人民に拘束されないとするを唱えて専制政治を行った。[ 3 ]が議会を無視して新税を課したり,少数の大商人に独占権を与えたりすることに批判が高まり,議会と対立するようになった。

IV-50. ピューリタン革命(1)

1603年にステュアート朝を開いたの子が専制を強め重税を課したため,議会は年に,議会の同意なしに課税を行わないことや不法逮捕の禁止などを定めたを可決した。これに反発した[ 2 ]は,翌年議会を解散した。以後11年間,議会は開かれなかったが,カルヴァン派の強いに国教を強制したことから反乱が起き,[ 2 ]は戦費調達のためにやむなく議会を招集した。議会が国王と対立すると[ 2 ]はすぐに議会を解散した()が,同年再び議会を招集した()。この議会も国王を激しく批判し,年に王党派と議会派との間で,革命と呼ばれる内戦が勃発した。
check_icon6ピューリタン革命の勃発の年は,1640年とする場合もある。1640年は、国王と議会の対立が決定的となった時点で,1642年は武力闘争の開始の年である。

IV-51. ピューリタン革命(2)

年におこったピューリタン革命において,議会派は3つの派閥に分かれていた。立憲王政をめざす最も穏健な派閥が,ジェントリのに率いられて主力となっていくのが,最も急進的だったのがである。内戦は,はじめ王党派が優勢であったが,[ 3 ]が自ら編成したをもとに,王党派を破った。[ 4 ]は[ 5 ]と組んで,[ 2 ]を追放し,年に国王を処刑して,を樹立した。

IV-52. 共和政

年に共和政(コモンウェルス)を樹立した独立派のは,急進派のを弾圧するとともに,王党派の拠点となったやスコットランドを征服した。[ 4 ]人の土地は没収されて事実上植民地化されて,今日にまで至る[ 4 ]問題の起点となった。[ 2 ]は年に貿易に際してはイギリス船か原産国の船で輸送することを定めたを発布して,オランダのに打撃を与えた。これは,イギリス=オランダ(英蘭)戦争に発展し,1670年代まで3度にわたる戦いはイギリス優勢のうちにおわり,オランダは海上覇権を失った。

IV-53. 王政復古(1)

1649年に共和政を樹立したは1653年に終身のに就任して厳格な軍事独裁を行った。だが,劇場を閉鎖するなどの厳格なピューリタニズム的政策に対して,国民の不満が高まり[ 1 ]死後,年に前王チャールズ1世の子がフランスから帰国し,王政復古を果たした。[ 4 ]が国王専制の復活を目指し,カトリックを擁護したのに対して,議会は1673年にを制定して国教徒以外のものが公職に就くことを禁じ,1679年には不法な逮捕などを禁じるを制定して対抗した。
check_icon6ピューリタン革命前後に国王と議会の宗派が変わっていることに注意。革命前は国王が国教,議会がピューリタン中心。王政復古後は国王はカトリック擁護,議会の中心は国教へと変化している。

IV-54. 王政復古(2)

1660年に王政復古を果たしたには王位を継ぐべき子がおらず,[ 1 ]の弟が継ぐことになったが,彼はカトリック教徒であったため,その即位をめぐって議会は分裂した。[ 1 ]の弟の即位を認めるのは,党で,国王の権威を重んじた。一方,[ 1 ]の弟の即位に反対したのが党で,議会の権利を主張した。
check_icon61830年代以降,トーリ党は党,ホイッグ党は党の名称を使い始め,近代政党へと脱皮した。

IV-55. 名誉革命

1685年にチャールズ2世のカトリック教徒である弟がとして即位したが,即位後,絶対王政とカトリックの復活に努めたため,議会はオランダから[ 1 ]の娘とその夫のオランダ総督を共同統治の王として招いた。[ 1 ]が抗戦をあきらめて亡命すると,1689年に[ 1 ]の娘が,その夫のオランダ総督がとして即位した。二人は,議会が提出した王権を制限するに署名し,として制定した。これにより,議会が主権を握る立憲王政が確立した。大きな流血もなく,政変が成功したことによって,これはと呼ばれる。
check_icon6メアリ2世はジェームズ2世の娘で,ステュアート朝出身であるので,名誉革命における王朝の変化はない。

IV-56. イギリス議会政治の確立

ウィリアム3世がなくなると,メアリ2世の妹の女王が即位した。[ 1 ]女王治世下の1707年に,イングランドとスコットランドが合同し,王国となった。[ 1 ]女王が死去して朝が絶えると,ドイツのハノーファー選帝侯がとして迎えられ,朝を開いた。この王朝は,現在のウィンザー朝の直接の祖である。[ 4 ]は英語が分からず,議会にあまり出席しなかったため,「」という原則が確立した。1721年にホイッグ党のが首相となり,彼の辞任後,内閣は王ではなく議会に対してのみ責任を負うというが成立した。
check_icon6ウィンザー朝と呼ばれるようになったのは,第一次世界大戦で敵国ドイツの地名を王朝名とすることを避けたためである。

IV-57. 市民革命

マルクス主義の考えでは,フランス革命を新興の資本家(ブルジョワジー)が主体となって封建制を打倒して資本主義社会を確立する社会革命であったとした。この考えのもと,絶対王政を打倒して,封建的身分制を廃して,近代市民社会を成立させる革命を市民革命(ブルジョワ革命)といった。17世紀にイギリスでおきた革命と革命,~年のアメリカ独立革命,~1799年のフランス革命がその代表とされた。だが最近では,フランス革命の主要な問題が経済的関係をめぐる階級対立であったという見方は否定されるようになってきた。一部の教科書では,市民革命がまだ取り扱われているが,古典的な考え方である。