14.18世紀以降の南アジア・東南アジア

「14.18世紀以降の南アジア・東南アジア」の一問一答問題です。

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植民地統治下の南アジア(12)

XIV-1. ムガル帝国の衰退と西欧勢力の進出

ヨーロッパでは17世紀後半以降,キャラコと呼ばれるインドのが大流行し,その購入のため,貿易を独占していたヨーロッパ各国のは大量の金や銀をインドにもたらした。これは商工業の発展を促し,各地の地方勢力は経済基盤を固め自立化し初め,ムガル帝国第6代皇帝が1707年に亡くなると,ムガル帝国は力を失って事実上解体し,地方勢力が抗争を繰り返すようになった。18世紀半ばからは,イギリスとフランスの[ 2 ]が地方勢力の争いに介入して,支配の拡大をねらった。
check_icon6[ 3 ]が亡くなった1707年にイギリスでは,のもとイングランドとスコットランドが合同してが成立した。

XIV-2. 英仏の対立

イギリスはインド西部の(現在のムンバイ)・インド東南部の(現在のチェンナイ)・ガンジス川河口近くの(現在のコルカタ)を根拠地とし,フランスはインド東南部の・ガンジス川河口近くのを拠点としていた。ヨーロッパで勃発した(1740~48年)中に始まった南インド東部をめぐるカーナティック戦争(1744-48,50-54,58-61)でイギリスはフランスを破った。さらにヨーロッパで(1756~63年)が戦われているさなかの年におきたの戦いで東インド会社書記率いるイギリス東インド会社軍は,フランスと同盟した軍およびフランス軍の連合軍を破った。1763年に結ばれたで,フランスは[ 4 ]や[ 5 ]などの若干の都市を除き全植民地を放棄し,インドにおけるイギリスの優位が確定した。

XIV-3. イギリスによるインド制圧

イギリス東インド会社は,1765年に・ビハールなどの(ディーワーニー)をムガル帝国から獲得した。その後,南インドにあったヒンドゥー教の地方政権王国を4次にわたる[ 3 ]戦争(1767~99)で破った。さらに,デカン高原西部を支配していたヒンドゥー教諸侯の同盟を3次にわたる[ 4 ]戦争(1775~1818)で,パンジャーブを支配していた王国を2次にわたる[ 5 ]戦争(1845~49)で破り,イギリス東インド会社はインド全域を制圧することに成功した。

XIV-4. イギリスによる地税制度の改革

インドを統治していたイギリスは,18世紀末から地税を確保するために地税制度の改革を行った。北インドでは地主・領主(ザミンダール)を土地所有者と認定して納税責任を負わせるを,南インド・西インドでは小農民(ライヤット)を土地所有者として土地所有権を与えて彼らから徴税するを導入した。しかし,これらの徴税制度はインド社会に深刻な影響を与えた。当時のインド村落では耕作者だけでなく大工や洗濯人など様々な職業の人々が土地に対する権利を持っていた。新たに導入された制度では一人だけに土地所有権を与え,他の人々の権利を無視したため,多くの地主や農民などが既存の権利を失って没落し,イギリス[ 1 ]に対する不満が高まった。

XIV-5. 植民地統治下でのインド社会の変容

18世紀後半にイギリスでが始まって機械織りの安価な綿布が大量に生産されるようになると,インドは綿布の輸入を強制されるようになった。1813年にのインド貿易独占が廃止されると,綿布の輸入額は急増し,1810年代末にはイギリス製綿布の輸入額がインド製綿布の輸出額を上回るようになった。その結果,19世紀前半にインドの在来手工業は崩壊し,綿花や藍などの原材料をイギリスに輸出し,イギリスから工業製品を大量に輸入する立場へ転換した。また,貿易赤字を補うために,中国へアヘンや綿花を輸出した(三角貿易)。
check_icon61833年には[ 2 ]の中国貿易・茶貿易に関する独占権も廃止され(実施は1834年),[ 2 ]は商業活動を停止し,インドの統治機関となった。

XIV-6. インド大反乱

イギリスの植民地支配による社会変容のなか,年にのインド人傭兵が反乱を起こすと,イギリスの支配に対し不満を抱いていた旧支配層,土地を失った旧地主層や民衆が参加し,北インド全域へ反英闘争が広がった(インド大反乱)。反乱軍は,を占拠し,名目的な存在となっていた皇帝を擁立して戦ったが鎮圧された。翌58年,イギリスは[ 5 ]皇帝を流刑に処して廃し([ 5 ]帝国の滅亡),大反乱の責任をとらせて[ 2 ]を解散させて,インドの直接統治に乗り出した。年に女王がインド皇帝に即位し,が成立した。
check_icon6(1)[ 3 ]の乱が起きている時期の中国では,の乱(1851~64)や戦争(1856~60)が起きていた。(2)イギリスによる直接統治では,地方政権であるも残して間接統治を行うとともに,旧[ 2 ]領は直轄領とした。(3)[ 6 ]年に西アジアでは,戦争(1877~78)が勃発した。

XIV-7. インド国民会議

イギリスの植民地支配のもとで,西欧教育を受けた弁護士や技術者・官僚などのエリート層が形成され,民族資本も成長した。イギリスは,インド人エリートを植民地支配の協力者として利用しようとして,1885年,にインド人有力者を集めて,インド人の諮問機関としてを発足させた。当初,[ 2 ]はイギリスに協調的な穏健な組織だったが,19世紀末に急進的ならが台頭すると,反英的な民族運動組織へと変わっていった。
check_icon6(1)インド人エリート層の中には,夫に先立たれた妻が夫の火葬の火で生きながら一緒に焼かれる(寡婦殉死)に対する反対運動を行ったラーム=モーハン=ローイ(1772/74~1833)などもいた。(2)[ 2 ]はのちに政治結社として,国民会議派と呼ばれるようになった。

XIV-8. イギリスによる分割統治

イギリスはヒンドゥー教徒とムスリムの宗教的対立を利用して民族運動を分断させようとして,1905年に州をムスリムの州とヒンドゥー教徒の州に分ける[ 1 ]分割令を発表した。これに対し,は1906年にで大会を開き,イギリス製品不買(英貨排斥)・(国産品愛用)・(自治獲得)・の4綱領を採択し,反英運動が燃え上がった。この結果,1911年に[ 1 ]分割令は撤回された。この過程の中で,[ 1 ]分割令でムスリムが多数派の州が成立する利点をイギリスがムスリムに対して説いた影響もあって,ムスリムはイギリスの支援のもとを結成し,ヒンドゥー教徒主体の[ 2 ]に対抗した。[ 7 ]は結成当初は対英協調路線をとっていたが,1911年に[ 1 ]分割令が撤回され,さらに第一次大戦でイギリスがイスラーム教国のオスマン帝国と戦うようになると,反英化していった。
check_icon6[ 2 ]の[ 3 ]大会は,日露戦争(1904~05)における日本の勝利に刺激・影響を受けている。

XIV-9. 第一次大戦直後のイギリスの姿勢

第一次大戦でイギリスは,戦後の自治を約束して,インドの戦争協力を取り付けていた。しかし,大戦後の1919年に制定されたは,州行政の一部をインド人にゆだねただけで,自治の約束とはほど遠い内容であった。同年,イギリスは反英運動を弾圧するために,を制定し,令状なしでの逮捕や裁判なしでの投獄を行う権限を総督に与えた。[ 2 ]が制定されると,インド各地で抗議集会が開かれ,パンジャーブ地方のでは,イギリス軍が発砲して多数の死傷者が出た([ 3 ]事件)。

XIV-10. 非暴力・不服従運動

第一次大戦中に行った自治の約束を守らず,反英運動を弾圧するを制定したイギリスに対し,の指導者はの抵抗運動を展開した。一方,第一次大戦でオスマン帝国と戦っているイギリスがカリフ制を危機に陥れていると考えたインドのムスリムは,カリフ擁護運動(ヒラーファト運動)を行った。[ 3 ]はムスリムのこの運動を同じ反英の立場だとしてこれに協力し,[ 4 ]運動に対するムスリム民衆の支持を獲得することに成功した。しかし,非暴力を貫くという[ 3 ]の理想通りには行かず,警察官殺害事件が発生したため,1922年に[ 4 ]運動は中止された。
check_icon6(1)[ 3 ]は南アフリカで弁護士としてインド人の権利擁護のために闘うなかで,[ 4 ]の理念を作り上げた。(2)[ 3 ]は[ 4 ]による抵抗運動をヒンディー語で「真理の把握」を意味すると称した。

XIV-11. 宗教的対立と反英運動の激化

ガンディーはムスリムによるカリフ擁護運動(ヒラーファト運動)を支援してムスリムの支持を獲得したが,トルコ革命によりカリフが退位してこの運動が退潮すると,ヒンドゥー教徒とムスリムの対立が激化した。こうしたなか,新インド統治法を制定するために1927年に設置された憲政改革調査委員会(サイモン委員会)にインド人が含まれていなかったことから反英運動は再び激化した。1929年,ラホール大会で急進派のらが(完全独立)を決議し,運動は新たな段階に入った。30年,ガンディーはイギリスによる塩の専売制を打倒する「」を組織し,第2次運動を開始した。

XIV-12. 1930年代から第二次大戦中のインド

1931~32年にかけてイギリスはインドの諸勢力をロンドンに召集してを開催したが,成果はあがらなかった。35年,が制定され,州自治は一応認められたが,総督が任命するイギリス人の州知事が大きな権限をもっており,完全独立の要求にはほど遠いものであった。37年,[ 2 ]にもとづく州選挙が行われ,パンジャーブとベンガルを除く州でヒンドゥー教徒主体のが多数を占めた。このため,ムスリムはヒンドゥー教徒による支配を警戒し,[ 3 ]とムスリムのとの対立が深まった。第二次世界大戦中,民族運動指導者のチャンドラ=ボースは武力による独立を目指し,日本の支援のもとインド国民軍を組織した。一方,[ 3 ]はイギリスに対し全面撤退を求める「インドを立ち去れ」運動を展開したが,[ 4 ]はこの運動に反対し,イギリス側の求めに応じて戦争遂行に協力した。また,[ 4 ]の指導者となったは1940年に開かれた大会でムスリムとヒンドゥー教徒を異なる民族とする「二民族論」を提唱したが,これはインドとの分離独立へとつながっていく。

第二次大戦後の南アジア(4)

XIV-13. 印パ分離独立

第二次大戦においてヒンドゥー教徒主体のは反英運動を展開して戦争に非協力の態度をとったが,ムスリムのは戦争に協力し,多くのインド兵がイギリス軍に参加した。また,経済的にもイギリスは疲弊し,インドが対英債権国となった。戦後,戦争で疲弊したイギリスは,植民地支配を維持できず,労働党内閣は独立交渉を開始した。このようななか,ムスリムとヒンドゥー教徒との「二民族論」を唱えた[ 2 ]のと,統一インドを主張するが対立した。年にインド独立法が制定されると,ヒンドゥー教徒を主体とすると,ムスリム中心のの2国に分かれて独立した。しかし,ヒンドゥー教徒とムスリムの対立はその後もおさまらず,48年に[ 5 ]は急進的ヒンドゥー教徒によって暗殺された。
check_icon6(1)[ 8 ]は,独立当初,現在の[ 8 ]に当たる西[ 8 ]と,現在のに当たる東[ 8 ]からなっていた。(2)インドとパキスタンは,イギリス国王を元首に戴くイギリス連邦内の自治領(実質上の独立国)として独立した。

XIV-14. セイロン

1815年ので領有権がからイギリスに移ったは,1948年,インド・パキスタンと同様に,イギリス連邦内の自治領(実質上の独立国)として独立した。72年にと改称し,イギリス連邦内の共和国となった。[ 4 ]では,多数派の仏教徒の人と少数派のヒンドゥー教徒の人の深刻な対立からしばしば内戦状態に陥った。しかし,2009年,[ 4 ]政府軍が[ 6 ]人の拠点を制圧して内戦は終結した。

XIV-15. インドとパキスタンの対立

1947年に独立したインドでは,1950年,カーストによる差別禁止を含む憲法が発布され,イギリス連邦内の自治領の立場から共和国となった。また,パキスタンは56年にイギリス連邦内の自治領から共和国となった。インド・パキスタン両国はの帰属をめぐって,47年(第1次印パ戦争)と65年(第2次印パ戦争)に軍事衝突をおこした。さらに,71年に東パキスタンが独立運動をおこすと,インドはこれを支持し,パキスタンを破り(第3次印パ戦争),東パキスタンはとして独立した。
check_icon6(1)インドでは,憲法によってカーストによる差別は禁止されているが,現在でもカーストの影響は根強く残っている。(2)[ 1 ]は,住民の過半数がイスラーム教徒であったが,ヒンドゥー教徒であった藩王がインド加入を決定した。(3)イギリス連邦は,元来イギリス国王を元首に戴く同君連合であった。しかし,1949年のロンドン宣言で「イギリス国王に対する共通の忠誠」という条項を加盟の必要条件から外したため,同君連合である連邦王国以外の国の加入も可能となった。インド・パキスタン・スリランカが「共和国となった」というのは,イギリス国王を元首に戴く同君連合である連邦王国から離脱したということで,イギリス連邦自体には留まった。ちなみに,現在のオーストラリアやカナダはイギリス連邦王国の一員であり,オーストラリア国王あるいはカナダ国王としてエリザベス2世を戴いている。(4)インドとパキスタンは現在でも対立関係にあるが,インドが74年に,パキスタンが98年に,それぞれ核実験に成功した。

XIV-16. ネルーの非同盟運動

インド初代首相は外交政策では,非同盟・中立外交を推進した。1954年,ビルマ・インド・インドネシア・パキスタン・セイロンの5か国首脳がを開き,インドシナ戦争の早期解決や(バンドン会議)の開催などを宣言した。同54年,[ 1 ]は中華人民共和国首相と会談して,「領土と主権の尊重・相互不侵略・内政不干渉・平等互恵・平和共存」からなるを提唱した。[ 1 ]はアジア・アフリカ非同盟中立主義の指導者として活躍し,55年の[ 3 ](バンドン会議),61年のユーゴスラヴィアので開かれたの中心人物の一人となった(参照:VIII-16,VIII-17)。
check_icon61984年にシク教徒に暗殺されたインディラ=ガンディー首相は[ 1 ]の娘である。また,インディラ=ガンディー首相暗殺後にその後を継いで首相となったラジブ=ガンディーは,インディラ=ガンディーの子で[ 1 ]の孫にあたるが,スリランカの民族問題にからみタミル人によって暗殺された。

東南アジアの植民地化と独立(28)

XIV-17. 東南アジアの植民地化

16~17世紀にかけてスペインとオランダが東南アジアの島嶼(とうしょ)部で領土を拡大したが,19世に入るとイギリス,フランスも植民地獲得に乗り出した。スペインは,1521年にがに到達したのち,住民をに強制改宗して[ 2 ]を支配した。オランダは,イギリス勢力を駆逐した1623年の事件後,ジャワで領土を拡大して,現在のを植民地化した。イギリスは,を植民地化し,英領インドの一部とした。さらにイギリスは,半島と島北部を支配した。フランスは,ベトナム・・ラオスをフランス領として支配した。西にイギリス領の[ 6 ],東にフランス領[ 10 ]にはさまれているは,英仏の緩衝地帯となったこともあり,東南アジアで唯一独立を保った。

XIV-18. ベトナムの植民地化

による第二帝政下のフランスは,越南国(ベトナム)がキリスト教を禁じ,宣教師を殺害したことを口実にスペインと共同で出兵し,1862年に結んだ第1次サイゴン条約でベトナムの南部にあるコーチシナ東部を獲得するとともに,キリスト教布教の自由を認めさせた。その後コーチシナ西部にも進出したフランスは,1874年の第2次サイゴン条約でコーチシナ西部を正式に割譲させるとともにベトナム北部の利権を獲得した。条約締結後も[ 2 ]はが率いる太平天国の残存勢力であると結んで反抗したため,フランスは1883年に首都のを占領し,83・84年の2回に及ぶ[ 5 ]条約でベトナムを保護国とした。一方,ベトナムに対する宗主権を主張する清朝は派兵し,清仏戦争が起きた(1884~85)。この戦争はフランスの勝利に終わり,85年に結ばれたで清は宗主権を放棄して,ベトナムに対するフランスの保護権を認めた。
check_icon6(1)[ 2 ]を建てた(嘉隆帝)はフランス人宣教師の援助を受けていたが,[ 7 ](嘉隆帝)のあとの皇帝が中国風の支配体制を採用したため,キリスト教を禁じた。(2)サイゴンは,現在のホー=チ=ミン市である。(3)1884年に朝鮮で起きたに関して日本と清が1885年に結んだ条約も[ 6 ]である(参照:XII-53)。同じ年に内容が異なる二つの[ 6 ]が結ばれていることに注意!!

XIV-19. フランス領インドシナ連邦

ベトナムを植民地化したフランスは,1863年以来保護国としてきたを合わせて,87年に連邦を成立させ,総督府をに置いた。99年にはも編入した。

XIV-20. ベトナムにおける反仏闘争

1904年には,を組織し,フランスからの独立と立憲君主政の樹立をめざす運動を展開した。日露戦争で日本が勝利すると,[ 1 ]は日本へ留学生を送って日本に学ぼうとするを組織した。しかし,1907年に日仏協約が結ばれると,フランス政府の要請に応じ,日本政府による取り締まりが強化され,[ 3 ]は挫折した。日本を追放された[ 1 ]は中国の広東でを組織し,反仏武装蜂起を計画したが成功しなかった。一方,ドンキン義塾を設立したファン=チュー=チンは,フランスと協力してベトナムを近代化させようとしたが,植民地政府によって逮捕され弾圧された。1925年にが結成したは,1930年にへと発展した。
check_icon6[ 7 ]は,当初ベトナム共産党として発足したが,コミンテルンの指示でラオス・カンボジアも含めた形に改められた。しかし,オランダ領東インドがという一つの国民国家となろうとしたのとは異なり,第二次世界大戦後の1951年に国ごとの共産党に分かれた。[ 7 ]はベトナム人中心に運営されたため,カンボジア人の民族的反感を招き,ベトナム戦争後のベトナムとカンボジアの対立の伏線となったとされる。

XIV-21. 第二次世界大戦中のベトナム

第二次世界大戦でフランスがドイツに敗れて政府ができると,日本は[ 1 ]政府と協定を結び,40年に北部に,41年に[ 2 ]南部に進駐した。その結果,[ 2 ]はフランスの植民地政府が統治は続けるものの,日本軍が共同警備を担う形となった。これに対し,41年には(ベトミン)を組織し,反仏・反日闘争を展開した。44年8月に[ 1 ]政府が崩壊したことを受けて,45年3月に日本軍は駐留フランス軍を攻撃・制圧してベトナム・ラオス・カンボジアを支配下に置いた。しかし,日本が同年8月に降伏すると[ 3 ]はの独立を宣言した。

XIV-22. インドシナ戦争

1941年に(ベトミン)を組織して反仏・反日闘争を行っていたは,45年に日本が降伏したのち,の独立を宣言した。しかし,宗主国フランスはこれを認めず,46年にが勃発した。[ 3 ]はソ連と49年に建国されたの援助を受けた。一方,共産主義勢力の拡大を阻止しようとしたアメリカがフランスを軍事援助し,[ 4 ]は長期化した。フランスは,49年に阮朝最後の皇帝を元首とするをフランス連合の一員として独立させ,[ 3 ]に対抗させた。54年,でフランスは大敗し,フランスはを結んでインドシナから撤退した。
check_icon6フランス連合は,イギリス連邦にならって1946年にフランスが形成したもの。1958年にフランス共同体に改変されたが,現在は解消している。

XIV-23. ジュネーヴ(休戦)協定

年に開かれた和平会談で結ばれたでは,以下のようなことが定められた。(1)インドシナ諸国(ベトナム・ラオス・)の独立承認。(2)軍の南ベトナムからの撤退と,フランス軍の北ベトナム・ラオス・[ 3 ]からの撤退。(3)を暫定軍事境界線として南北間をわけ,北側を[ 4 ]が,南側をが支配し,2年後に統一選挙を行うこと。しかし,和平会談に参加していたアメリカは,共産主義勢力の拡大を恐れ,55年に南側にを大統領とするを成立させ,アメリカと[ 8 ]は[ 2 ]の最終宣言に調印せず,統一選挙も行われなかった。こうしてベトナムは,北に社会主義国の[ 4 ],南にアメリカの軍事・経済援助を受ける[ 8 ]の二つに分断された。

XIV-24. ベトナム戦争(1)

南北に分断されていたベトナムでは,南ベトナム()の政権がアメリカの支援のもと強権的な反共政策を進めていた。これに対し,反米・反政府運動も活発化し,60年にが結成され,北ベトナム()の支援を受けながらゲリラ戦を展開した。63年に[ 2 ]が軍のクーデタで倒されると,[ 3 ]の攻勢は激しくなった。アメリカの歴代政権は,冷戦下において南ベトナムの[ 1 ]が倒れれば周辺諸国も共産主義化すると考えた(ドミノ理論)。61年に成立したアメリカの民主党政権は本格的な軍事援助を開始した。63年に[ 5 ]が暗殺され,大統領に昇格した大統領は64年のトンキン湾事件を機に65年に北ベトナムへの大規模な爆撃()を行う一方,地上兵力を南ベトナムに派遣した(ベトナム戦争)。
check_icon6(1)トンキン湾事件とは,アメリカの駆逐艦が北ベトナムの魚雷艇から攻撃を受けたとされる事件だが,のちに軍事介入を意図したアメリカ軍がでっち上げた事件だったことが明白となった。(2)ベトナム戦争の期間に関しては諸説ある。開始年については,ジュネーブ休戦協定が締結された1954年,[ 3 ]が成立した1960年,アメリカが[ 7 ]を開始して本格的に介入した1965年の3つの説がある。一方,終了年についても,アメリカ軍が撤退した1973年,南ベトナムの[ 1 ]が倒されて統一が達成された1975年の2つの説がある。

XIV-25. ベトナム戦争(2)

1965年に本格的に軍事介入したアメリカに対し,北ベトナム()とはソ連と中華人民共和国の援助を受けて抵抗したので,予想に反し戦争は長期化した。アメリカ兵の死傷者が増加するなか,アメリカ国内ではベトナム反戦運動が高まり,財政悪化も招いた。68年1月,[ 2 ]側が行った大規模な奇襲攻撃(テト攻勢)に衝撃を受けたアメリカの民主党大統領は北爆を停止し,パリで北ベトナム([ 1 ])と和平交渉に入った。次の共和党大統領は,北ベトナム([ 1 ])の支援国の一つである中華人民共和国を72年に訪問して米中接近を図るなど,米軍撤退への環境を整えていった。73年,が成立し,米軍はベトナムから撤退した。しかしその後も,アメリカの援助を受けた南ベトナム()と北ベトナム([ 1 ])・[ 2 ]との戦いは続き,75年に南ベトナム([ 6 ])の首都(現ホー=チ=ミン市)が陥落し,翌76年に南北を統一したが成立した。
check_icon6テトとは旧正月のこと。テト攻勢では[ 7 ]にあるアメリカ大使館も一時占拠され,アメリカの威信は失墜した。この攻勢の際に撮られた[ 2 ]兵士を処刑する衝撃的な映像によって反戦運動は活発化した。

XIV-26. 統一後のベトナム

1976年に南北が統一されてが成立したベトナムは,ベトナム南部の社会主義化をめぐる混乱や,カンボジアへの軍事介入により経済が疲弊したため,南部から小舟で海外へ脱出する人々(「ボート=ピープル」)が難民となり,国際的な批判をあびた。86年から「」(刷新)政策を実施し,外資を受け入れてゆるやかに市場開放を行った。その後,ベトナムの経済状況は好転している。95年,ベトナムは(ASEAN)に加盟した。

XIV-27. 独立後のカンボジア

太平洋戦争における日本の敗戦後,フランスの保護下に戻されたカンボジアは,1949年にシハヌーク国王のもとフランス連合内での独立を獲得した。53年に正式に独立し,54年ので国際的な承認を得た。65年にアメリカがを開始すると,シハヌーク国王はアメリカと断行した。ベトナム戦争で,北ベトナム()がを支援するホー=チ=ミン=ルートがカンボジア領を通っていることもあり,カンボジアの政治は混乱した。70年,親米派軍人ロン=ノルがクーデタでシハヌーク政権を倒し,シハヌークは中国に亡命した。ベトナムからの撤退の環境を整えようとしたアメリカはカンボジアに軍を進め,ホー=チ=ミン=ルートの壊滅を図った。これに対し,親中派のを中心とする(クメール=ルージュ)が武装闘争を続けた。73年にベトナムから米軍が撤退したため後ろ盾を失ったロン=ノル政権は75年に崩壊して[ 5 ]政権が誕生し,76年に(民主カンボジア)が成立した。

XIV-28. カンボジア内戦

1976年にを首相として成立した親中派の(民主カンボジア)は農業を中心とする極端に閉鎖的な社会主義建設を強行し,数百万におよぶ国民を大虐殺した。このようななか,ソ連との関係を強化していたベトナムが78年にカンボジアに軍事侵攻し,79年にヘン=サムリン政権を樹立した。これに対し,[ 1 ]派は中華人民共和国(中国)の支援を受けてゲリラ戦を展開し,中国はベトナムを懲罰するとして79年にベトナムに侵攻し,が起きた。しかし,中国軍は実戦経験に富むベトナム軍に撃退された。82年に[ 1 ]やシハヌークらによる反ベトナム3派連合が成立し,内戦が激化した。ソ連の力が衰退し,冷戦終結宣言が出された89年にベトナム軍はカンボジアから撤退した。91年,内戦停止に向けたカンボジア和平協定(パリ和平協定)が締結され,UNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)が停戦を監視し,選挙を実施した。93年に行われた総選挙で立憲君主政が採択され,シハヌークを国王とするカンボジア王国が復活した。99年,カンボジアは(ASEAN)に加盟した。

XIV-29. ラオス

1899年にに編入されていたラオスは,1949年にフランス連合内で独立が認められたが,完全独立を目指して50年に左派勢力であるラオス愛国戦線(パテオ=ラオ)が結成された。53年にラオス王国の完全独立が認められ,54年ので国際的に承認された。その後,ラオスは内戦状態になり,1975年に王政を廃止して社会主義国家であるラオス人民民主共和国が成立した。86年から市場開放や自由化などの改革政策を行い,97年にラオスは(ASEAN)に加盟した。

XIV-30. ビルマの独立

1752年に建てられたビルマ(ミャンマー)の朝は,3次におよぶイギリスとの(1824-26,52-53,85-86)で1885年に滅ぼされ,翌86年にイギリスはビルマを直轄州としてインド帝国に編入した。第一次世界大戦後,ビルマでも独立運動が展開され,1930年に結成されたが民族運動の中心となった。35年に制定された新インド統治法でビルマはインド帝国から分離されることとなり,37年にビルマ統治法が制定されて分離が確定した。「独立の父」とされる[ 3 ]のは太平洋戦争では,対日協力政権の国軍司令官として日本軍に協力していたが,44年に抗日に転じた。日本の敗戦後,ビルマはイギリスの統治下に戻されたが,48年にイギリス連邦を離脱してビルマ連邦共和国として独立した。

XIV-31. 第二次大戦後のビルマ

1948年にビルマ連邦共和国として独立したビルマ(ミャンマー)は,62年にクーデタで政権を握ったネ=ウィンが軍事独裁体制を築いた。この体制のもと,ビルマ独自の社会主義政策がとられたが,経済政策に失敗し,経済の混乱を招いた。88年に民主化運動が高まり,が国民民主連盟を結成したが,89年に軍事政権は国号をに変更し,[ 1 ]を自宅軟禁状態に置き弾圧した。90年の総選挙では[ 1 ]率いる国民民主連盟が大勝したが,軍事政権は政権委譲を拒否した。2015年に実施された総選挙で国民民主連盟が圧勝し,事実上[ 1 ]を中心とする政権が樹立された。
check_icon6[ 1 ]は,「独立の父」とされるアウン=サンの娘。1991年にノーベル平和賞を受賞した。

XIV-32. 19世紀におけるタイ

1782年以来,バンコクを都とする(チャクリ)朝の統治下にあったタイ(シャム)は,東にフランス領インドシナ連邦,西にイギリスが支配するビルマ,南にイギリスが支配するマレー半島にはさまれた位置にあり,英仏両国の緩衝地帯とされる幸運もあり,東南アジアでは唯一植民地化を免れ,独立を保った。しかし,近代化政策をとった(位1851-68)治下のタイは,治外法権や低関税をイギリスに認める1855年のボーリング(バウリング)条約を始めとする不平等条約の締結を英仏に強制された。次の(位1868-1910)は,行政・司法・軍事の西欧化に努め,治外法権の撤廃にも成功した。
check_icon6タイのもともとの国号はシャムで,1939年に現在のタイ(「自由」の意)に改められた。

XIV-33. 20世紀におけるタイ

1932年,タイでは立憲革命が起き,専制王政から立憲君主政へ移行した。39年に首相となったピブンは国号をシャムからタイへ改め,独裁政治を行った。年に太平洋戦争が始まると,ピブン政権は日本と同盟して連合国に宣戦した。しかし,日本軍が劣勢となると,ピブンは失脚した。タイの一部の勢力が連合国に協力していたこともあり,タイは降伏や占領されることもなく講和を結び,46年には国際連合に加盟した。タイは,1954年に結成された(SEATO)に参加し,さらに67年に結成された(ASEAN)に参加した。

XIV-34. 東南アジア条約機構

(SEATO)は,休戦協定ののち,アメリカの発議で1954年に発足した集団安全保障機構。加盟国は,アメリカ・イギリス・フランス・オーストラリア・ニュージーランド・タイ・フィリピン・パキスタンの8か国。ベトナム戦争の終結や米中接近という国際情勢の変化を受けて,1977年に解散した。

XIV-35. 東南アジア諸国連合

(ASEAN)は,ベトナム戦争中の1967年にアメリカの支援のもと,タイ・マレーシア・シンガポール・インドネシア・フィリピンの5か国によって設立された地域協力機構。当初は,反共産主義の政治同盟の性格が強かったが,80年代にタイやシンガポールで高度経済成長が実現すると,経済分野での協力機構へ移行した。84年にイギリスから独立したブルネイ,95年にベトナム,97年にラオスとミャンマー,99年にが加盟し,現在の10カ国体制となり,「ASEAN-10」と呼ばれる。

XIV-36. マレーシアの植民地化

イギリスは,18世紀末からマレー半島に進出し,1786年にマラッカ海峡北部のをイスラーム王国からの割譲により獲得し,さらにナポレオン戦争中にオランダからを奪い,ジャワ島を一時占領した。1819年にマレー半島の先端にあるを領有したイギリスは,1824年にイギリス=オランダ協定を結び,オランダに[ 2 ]海峡の西と南の支配を認めるかわりにマレー半島の支配を認めさせた。26年,イギリスは[ 1 ]・[ 2 ]・[ 3 ]をあわせてを成立させた。イギリスは,缶詰用のブリキ産業が勃興したことで需要が増大した鉱山を開発しながら,マレー半島の支配地域を広げ,1895年にはを成立させた。20世紀に入ると自動車生産で需要が増大したことを背景に,マレー半島ではが発達した。[ 5 ]鉱山の労働力として中国出身のが移住し,また[ 7 ]の労働力としてインド出身のが移住した結果,マレー半島は複雑な民族社会が形成された。
check_icon6(カリマンタン)島については,北部はイギリスの,南部はオランダの植民地とされた。

XIV-37. マレーシア・シンガポール

南端のを除くマレー半島南部は,1957年にイギリス連邦内の自治領(実質上の独立国)として独立し,が成立した。63年に[ 1 ]とボルネオ(カリマンタン)島のサバ・サラワク両州が合体してが成立したが,中国系住民の多い[ 1 ]がマレー人優遇政策に反発して65年に分離・独立した。[ 1 ]の初代首相リー=クアンユーは強権政治を行いつつ,[ 1 ]の近代化を推進した。

XIV-38. インドネシアの植民地化

大航海時代にオランダは貿易の独占をめざしたが,17世紀末になると「生活革命」(参照:IV-89)によって需要が増大したコーヒーや砂糖などの生産地で領土を拡大する政策に転じた。オランダは,1755年にジャワ島の中部から東部を支配していた王国を滅ぼし,ジャワ島の大半を支配下に置いた。オランダの支配に対し,(1825-30)と呼ばれるイスラーム諸侯の反乱が発生した。オランダは反乱鎮圧には成功したが,本国の財政が悪化したため,東インド総督ファン=デン=ボスがジャワ島を中心にコーヒー・サトウキビなどの商品作物を一方的に安い価格で買い上げるを実施し,大きな利益を得た。オランダはスマトラ島でも領土を拡大し,20世紀初めにスマトラ島の北端にあった王国を滅ぼし,ほぼ現在のインドネシアにあたる地域を植民地とした。
check_icon6(1)1830年にフランスで起きたの影響でがオランダから独立したことも,オランダの財政を悪化させた要因の一つであった。(2)[ 5 ]では,[ 5 ]戦争(1873-1912)後もゲリラ闘争が続いた。第二次世界大戦後にインドネシア共和国が独立したのちも,[ 5 ]では分離・独立運動がおこり,特別州として自治権を獲得した。

XIV-39. インドネシアにおける民族運動

20世紀に入るとインドネシアでも民族意識がめばえ,知識人を中心としたブディ=ウトモ(「最高の英知」の意)や,ムスリム商人が相互扶助を目的に設立した(サレカット=イスラーム)が啓蒙運動を行った。これらの運動は1910年末から反オランダの独立運動に発展していったが,20年代になると以下の政党へと主導権は移っていった。1920年に結成されたは26~27年に武装蜂起したが,オランダ軍によって壊滅させられた。27年にの指導のもとにが結成され,ムルデカ(「独立」の意)運動を提唱した。しかし,その影響力を警戒したオランダの弾圧にあい,指導者の大部分が逮捕されて31年に解散した。年に太平洋戦争が勃発すると,インドネシアは日本軍により占領された。

XIV-40. 独立後のインドネシア

太平洋戦争で日本が敗北すると,オランダ領東インドでは1945年にらが独立を宣言したが,それを認めない宗主国オランダとの4年にわたる独立戦争がおき,49年にが独立を達成した。[ 2 ]の初代大統領となった[ 1 ]は55年に(バンドン会議)を主催するなど非同盟外交を展開した。[ 1 ]は,共産党とも協力し,中華人民共和国との関係を強めていたが,1965年にと呼ばれるが主導する軍事クーデタが発生し,[ 1 ]は失脚し,共産党も弾圧された。68年に大統領となった[ 5 ]は強権的な開発独裁を行い長期政権を築いたが,97年の通貨危機と経済混乱のなかで起きた民主改革を要求する運動が爆発し,98年に辞任した。
check_icon6(1)1925年に中国の上海でおきた反帝国主義運動は。[ 4 ]と混同しないように!!(2)1974年にポルトガルで政変が起きると(参照:VIII-33),ポルトガルの植民地だったで独立運動が起きたが,75年にインドネシア軍が侵攻して併合した。その後,武装勢力による独立闘争が続いたのち,2002年に[ 7 ]はインドネシアから分離・独立した。

XIV-41. フィリピンの植民地化

16世紀以降ルソン島を支配したスペインは,ルソン島に市を建設し,スペイン領であったメキシコのから運んだメキシコ銀と,中国商人が[ 1 ]に運んだ絹・陶磁器などを交換する[ 2 ]貿易の中継地としてルソン島を利用した。18世紀後半になると,スペインはオランダにならって,サトウキビ,[ 1 ]麻,タバコなどのプランテーションを経営するようになった。当初,スペインは他の欧米勢力を排除する政策を採っていたが,自由貿易を求める圧力を受けて,1834年に[ 1 ]を外国貨物に関税を課さない自由港とし,国際貿易に開放した。しかし,1898年におきたの結果,フィリピンの領有権はアメリカへ移った。

XIV-42. フィリピン革命

19世紀末,フィリピン民族同盟を結成したは民族意識をめざめさせる言論活動を行い,スペインによる支配に平和的に抗議した。1896年にカティプーナン党が武力革命を開始した(フィリピン革命1896~1902年)が,スペイン植民地政府はこの武装蜂起には関わっていなかった[ 1 ]を捕らえて処刑した。98年にが勃発すると,アメリカの協力のもと帰国したは,翌99年にマロロス共和国を樹立した。[ 2 ]でフィリピンを領有したアメリカがこれを認めなかったため,が起きた。1902年に[ 4 ]に勝利したアメリカは,フィリピンを直轄植民地とした。
check_icon61900~01年に中国でおきたに対しアメリカは,[ 4 ]中であったため大量派兵できなかった。

XIV-43. アメリカ統治下のフィリピン

フィリピンでは,1916年に二院制議会が設置され,立法権の一部がフィリピン人にゆだねられた。30年代に入ると,アメリカ国内でもフィリピン領有に対する反対の声が高まったこともあり,大統領のもとで,34年にフィリピン独立法が成立し,10年後の独立が約束され,自治政府であるフィリピン独立準備政府が発足した。1941年にが勃発すると,フィリピン全土は日本の軍政下に置かれることとなった。抗日ゲリラ活動も行われるなか,45年に日本が降伏すると,フィリピンは再びアメリカの統治下に置かれたのち,46年に共和国として独立した。

XIV-44. 第二次世界大戦後のフィリピン

1946年にから独立したフィリピンは,終結後の東南アジアにおいて共産主義勢力が拡大することを防ぐ目的で54年に発足した(SEATO)に加盟した。65年に大統領となった(在任65~86)は,親米路線を採りつつ,経済開発を名目に強権的な独裁体制を維持するを行ったが,長期政権下で腐敗が進んだ。86年に行われた大統領選挙で[ 4 ]陣営の不正が暴かれると,軍幹部の離反が起こるとともに,アメリカの政権にも見放され,[ 4 ]はアメリカに亡命した。[ 4 ]政権の崩壊を受けて,夫ベニグノ=アキノが[ 4 ]によって暗殺されたコラソン=アキノ(在任86~92)が大統領に就任した。