植民地統治下の南アジア

「植民地統治下の南アジア」の一問一答問題です。

12件の記事

0 / 69 件の答えを表示中

XIV-1. ムガル帝国の衰退と西欧勢力の進出

ヨーロッパでは17世紀後半以降,キャラコと呼ばれるインドのが大流行し,その購入のため,貿易を独占していたヨーロッパ各国のは大量の金や銀をインドにもたらした。これは商工業の発展を促し,各地の地方勢力は経済基盤を固め自立化し初め,ムガル帝国第6代皇帝が1707年に亡くなると,ムガル帝国は力を失って事実上解体し,地方勢力が抗争を繰り返すようになった。18世紀半ばからは,イギリスとフランスの[ 2 ]が地方勢力の争いに介入して,支配の拡大をねらった。
check_icon6[ 3 ]が亡くなった1707年にイギリスでは,のもとイングランドとスコットランドが合同してが成立した。

XIV-2. 英仏の対立

イギリスはインド西部の(現在のムンバイ)・インド東南部の(現在のチェンナイ)・ガンジス川河口近くの(現在のコルカタ)を根拠地とし,フランスはインド東南部の・ガンジス川河口近くのを拠点としていた。ヨーロッパで勃発した(1740~48年)中に始まった南インド東部をめぐるカーナティック戦争(1744-48,50-54,58-61)でイギリスはフランスを破った。さらにヨーロッパで(1756~63年)が戦われているさなかの年におきたの戦いで東インド会社書記率いるイギリス東インド会社軍は,フランスと同盟した軍およびフランス軍の連合軍を破った。1763年に結ばれたで,フランスは[ 4 ]や[ 5 ]などの若干の都市を除き全植民地を放棄し,インドにおけるイギリスの優位が確定した。

XIV-3. イギリスによるインド制圧

イギリス東インド会社は,1765年に・ビハールなどの(ディーワーニー)をムガル帝国から獲得した。その後,南インドにあったヒンドゥー教の地方政権王国を4次にわたる[ 3 ]戦争(1767~99)で破った。さらに,デカン高原西部を支配していたヒンドゥー教諸侯の同盟を3次にわたる[ 4 ]戦争(1775~1818)で,パンジャーブを支配していた王国を2次にわたる[ 5 ]戦争(1845~49)で破り,イギリス東インド会社はインド全域を制圧することに成功した。

XIV-4. イギリスによる地税制度の改革

インドを統治していたイギリスは,18世紀末から地税を確保するために地税制度の改革を行った。北インドでは地主・領主(ザミンダール)を土地所有者と認定して納税責任を負わせるを,南インド・西インドでは小農民(ライヤット)を土地所有者として土地所有権を与えて彼らから徴税するを導入した。しかし,これらの徴税制度はインド社会に深刻な影響を与えた。当時のインド村落では耕作者だけでなく大工や洗濯人など様々な職業の人々が土地に対する権利を持っていた。新たに導入された制度では一人だけに土地所有権を与え,他の人々の権利を無視したため,多くの地主や農民などが既存の権利を失って没落し,イギリス[ 1 ]に対する不満が高まった。

XIV-5. 植民地統治下でのインド社会の変容

18世紀後半にイギリスでが始まって機械織りの安価な綿布が大量に生産されるようになると,インドは綿布の輸入を強制されるようになった。1813年にのインド貿易独占が廃止されると,綿布の輸入額は急増し,1810年代末にはイギリス製綿布の輸入額がインド製綿布の輸出額を上回るようになった。その結果,19世紀前半にインドの在来手工業は崩壊し,綿花や藍などの原材料をイギリスに輸出し,イギリスから工業製品を大量に輸入する立場へ転換した。また,貿易赤字を補うために,中国へアヘンや綿花を輸出した(三角貿易)。
check_icon61833年には[ 2 ]の中国貿易・茶貿易に関する独占権も廃止され(実施は1834年),[ 2 ]は商業活動を停止し,インドの統治機関となった。

XIV-6. インド大反乱

イギリスの植民地支配による社会変容のなか,年にのインド人傭兵が反乱を起こすと,イギリスの支配に対し不満を抱いていた旧支配層,土地を失った旧地主層や民衆が参加し,北インド全域へ反英闘争が広がった(インド大反乱)。反乱軍は,を占拠し,名目的な存在となっていた皇帝を擁立して戦ったが鎮圧された。翌58年,イギリスは[ 5 ]皇帝を流刑に処して廃し([ 5 ]帝国の滅亡),大反乱の責任をとらせて[ 2 ]を解散させて,インドの直接統治に乗り出した。年に女王がインド皇帝に即位し,が成立した。
check_icon6(1)[ 3 ]の乱が起きている時期の中国では,の乱(1851~64)や戦争(1856~60)が起きていた。(2)イギリスによる直接統治では,地方政権であるも残して間接統治を行うとともに,旧[ 2 ]領は直轄領とした。(3)[ 6 ]年に西アジアでは,戦争(1877~78)が勃発した。

XIV-7. インド国民会議

イギリスの植民地支配のもとで,西欧教育を受けた弁護士や技術者・官僚などのエリート層が形成され,民族資本も成長した。イギリスは,インド人エリートを植民地支配の協力者として利用しようとして,1885年,にインド人有力者を集めて,インド人の諮問機関としてを発足させた。当初,[ 2 ]はイギリスに協調的な穏健な組織だったが,19世紀末に急進的ならが台頭すると,反英的な民族運動組織へと変わっていった。
check_icon6(1)インド人エリート層の中には,夫に先立たれた妻が夫の火葬の火で生きながら一緒に焼かれる(寡婦殉死)に対する反対運動を行ったラーム=モーハン=ローイ(1772/74~1833)などもいた。(2)[ 2 ]はのちに政治結社として,国民会議派と呼ばれるようになった。

XIV-8. イギリスによる分割統治

イギリスはヒンドゥー教徒とムスリムの宗教的対立を利用して民族運動を分断させようとして,1905年に州をムスリムの州とヒンドゥー教徒の州に分ける[ 1 ]分割令を発表した。これに対し,は1906年にで大会を開き,イギリス製品不買(英貨排斥)・(国産品愛用)・(自治獲得)・の4綱領を採択し,反英運動が燃え上がった。この結果,1911年に[ 1 ]分割令は撤回された。この過程の中で,[ 1 ]分割令でムスリムが多数派の州が成立する利点をイギリスがムスリムに対して説いた影響もあって,ムスリムはイギリスの支援のもとを結成し,ヒンドゥー教徒主体の[ 2 ]に対抗した。[ 7 ]は結成当初は対英協調路線をとっていたが,1911年に[ 1 ]分割令が撤回され,さらに第一次大戦でイギリスがイスラーム教国のオスマン帝国と戦うようになると,反英化していった。
check_icon6[ 2 ]の[ 3 ]大会は,日露戦争(1904~05)における日本の勝利に刺激・影響を受けている。

XIV-9. 第一次大戦直後のイギリスの姿勢

第一次大戦でイギリスは,戦後の自治を約束して,インドの戦争協力を取り付けていた。しかし,大戦後の1919年に制定されたは,州行政の一部をインド人にゆだねただけで,自治の約束とはほど遠い内容であった。同年,イギリスは反英運動を弾圧するために,を制定し,令状なしでの逮捕や裁判なしでの投獄を行う権限を総督に与えた。[ 2 ]が制定されると,インド各地で抗議集会が開かれ,パンジャーブ地方のでは,イギリス軍が発砲して多数の死傷者が出た([ 3 ]事件)。

XIV-10. 非暴力・不服従運動

第一次大戦中に行った自治の約束を守らず,反英運動を弾圧するを制定したイギリスに対し,の指導者はの抵抗運動を展開した。一方,第一次大戦でオスマン帝国と戦っているイギリスがカリフ制を危機に陥れていると考えたインドのムスリムは,カリフ擁護運動(ヒラーファト運動)を行った。[ 3 ]はムスリムのこの運動を同じ反英の立場だとしてこれに協力し,[ 4 ]運動に対するムスリム民衆の支持を獲得することに成功した。しかし,非暴力を貫くという[ 3 ]の理想通りには行かず,警察官殺害事件が発生したため,1922年に[ 4 ]運動は中止された。
check_icon6(1)[ 3 ]は南アフリカで弁護士としてインド人の権利擁護のために闘うなかで,[ 4 ]の理念を作り上げた。(2)[ 3 ]は[ 4 ]による抵抗運動をヒンディー語で「真理の把握」を意味すると称した。

XIV-11. 宗教的対立と反英運動の激化

ガンディーはムスリムによるカリフ擁護運動(ヒラーファト運動)を支援してムスリムの支持を獲得したが,トルコ革命によりカリフが退位してこの運動が退潮すると,ヒンドゥー教徒とムスリムの対立が激化した。こうしたなか,新インド統治法を制定するために1927年に設置された憲政改革調査委員会(サイモン委員会)にインド人が含まれていなかったことから反英運動は再び激化した。1929年,ラホール大会で急進派のらが(完全独立)を決議し,運動は新たな段階に入った。30年,ガンディーはイギリスによる塩の専売制を打倒する「」を組織し,第2次運動を開始した。

XIV-12. 1930年代から第二次大戦中のインド

1931~32年にかけてイギリスはインドの諸勢力をロンドンに召集してを開催したが,成果はあがらなかった。35年,が制定され,州自治は一応認められたが,総督が任命するイギリス人の州知事が大きな権限をもっており,完全独立の要求にはほど遠いものであった。37年,[ 2 ]にもとづく州選挙が行われ,パンジャーブとベンガルを除く州でヒンドゥー教徒主体のが多数を占めた。このため,ムスリムはヒンドゥー教徒による支配を警戒し,[ 3 ]とムスリムのとの対立が深まった。第二次世界大戦中,民族運動指導者のチャンドラ=ボースは武力による独立を目指し,日本の支援のもとインド国民軍を組織した。一方,[ 3 ]はイギリスに対し全面撤退を求める「インドを立ち去れ」運動を展開したが,[ 4 ]はこの運動に反対し,イギリス側の求めに応じて戦争遂行に協力した。また,[ 4 ]の指導者となったは1940年に開かれた大会でムスリムとヒンドゥー教徒を異なる民族とする「二民族論」を提唱したが,これはインドとの分離独立へとつながっていく。