第二次大戦後の南アジア

「第二次大戦後の南アジア」の一問一答問題です。

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XIV-13. 印パ分離独立

第二次大戦においてヒンドゥー教徒主体のは反英運動を展開して戦争に非協力の態度をとったが,ムスリムのは戦争に協力し,多くのインド兵がイギリス軍に参加した。また,経済的にもイギリスは疲弊し,インドが対英債権国となった。戦後,戦争で疲弊したイギリスは,植民地支配を維持できず,労働党内閣は独立交渉を開始した。このようななか,ムスリムとヒンドゥー教徒との「二民族論」を唱えた[ 2 ]のと,統一インドを主張するが対立した。年にインド独立法が制定されると,ヒンドゥー教徒を主体とすると,ムスリム中心のの2国に分かれて独立した。しかし,ヒンドゥー教徒とムスリムの対立はその後もおさまらず,48年に[ 5 ]は急進的ヒンドゥー教徒によって暗殺された。
check_icon6(1)[ 8 ]は,独立当初,現在の[ 8 ]に当たる西[ 8 ]と,現在のに当たる東[ 8 ]からなっていた。(2)インドとパキスタンは,イギリス国王を元首に戴くイギリス連邦内の自治領(実質上の独立国)として独立した。

XIV-14. セイロン

1815年ので領有権がからイギリスに移ったは,1948年,インド・パキスタンと同様に,イギリス連邦内の自治領(実質上の独立国)として独立した。72年にと改称し,イギリス連邦内の共和国となった。[ 4 ]では,多数派の仏教徒の人と少数派のヒンドゥー教徒の人の深刻な対立からしばしば内戦状態に陥った。しかし,2009年,[ 4 ]政府軍が[ 6 ]人の拠点を制圧して内戦は終結した。

XIV-15. インドとパキスタンの対立

1947年に独立したインドでは,1950年,カーストによる差別禁止を含む憲法が発布され,イギリス連邦内の自治領の立場から共和国となった。また,パキスタンは56年にイギリス連邦内の自治領から共和国となった。インド・パキスタン両国はの帰属をめぐって,47年(第1次印パ戦争)と65年(第2次印パ戦争)に軍事衝突をおこした。さらに,71年に東パキスタンが独立運動をおこすと,インドはこれを支持し,パキスタンを破り(第3次印パ戦争),東パキスタンはとして独立した。
check_icon6(1)インドでは,憲法によってカーストによる差別は禁止されているが,現在でもカーストの影響は根強く残っている。(2)[ 1 ]は,住民の過半数がイスラーム教徒であったが,ヒンドゥー教徒であった藩王がインド加入を決定した。(3)イギリス連邦は,元来イギリス国王を元首に戴く同君連合であった。しかし,1949年のロンドン宣言で「イギリス国王に対する共通の忠誠」という条項を加盟の必要条件から外したため,同君連合である連邦王国以外の国の加入も可能となった。インド・パキスタン・スリランカが「共和国となった」というのは,イギリス国王を元首に戴く同君連合である連邦王国から離脱したということで,イギリス連邦自体には留まった。ちなみに,現在のオーストラリアやカナダはイギリス連邦王国の一員であり,オーストラリア国王あるいはカナダ国王としてエリザベス2世を戴いている。(4)インドとパキスタンは現在でも対立関係にあるが,インドが74年に,パキスタンが98年に,それぞれ核実験に成功した。

XIV-16. ネルーの非同盟運動

インド初代首相は外交政策では,非同盟・中立外交を推進した。1954年,ビルマ・インド・インドネシア・パキスタン・セイロンの5か国首脳がを開き,インドシナ戦争の早期解決や(バンドン会議)の開催などを宣言した。同54年,[ 1 ]は中華人民共和国首相と会談して,「領土と主権の尊重・相互不侵略・内政不干渉・平等互恵・平和共存」からなるを提唱した。[ 1 ]はアジア・アフリカ非同盟中立主義の指導者として活躍し,55年の[ 3 ](バンドン会議),61年のユーゴスラヴィアので開かれたの中心人物の一人となった(参照:VIII-16,VIII-17)。
check_icon61984年にシク教徒に暗殺されたインディラ=ガンディー首相は[ 1 ]の娘である。また,インディラ=ガンディー首相暗殺後にその後を継いで首相となったラジブ=ガンディーは,インディラ=ガンディーの子で[ 1 ]の孫にあたるが,スリランカの民族問題にからみタミル人によって暗殺された。