VII-1. パリ講和会議
1919年1月から[ 1. ]が開かれたが,敗戦国は参加できず,ロシアのソヴィエト政権も招かれなかった。講和の基礎となったのは,アメリカ大統領[ 2. ]が大戦中の18年1月に発表した[ 3. ]であったが,戦勝国が自国の国益に固執したため,国際連盟の設立以外はほとんど実現しなかった。会議をリードしたのは,アメリカ大統領[ 2 ],イギリス首相[ 4. ],フランス首相[ 5. ]であった。
「7.戦間期と第二次世界大戦」の一問一答問題です。
1919年1月から[ 1. ]が開かれたが,敗戦国は参加できず,ロシアのソヴィエト政権も招かれなかった。講和の基礎となったのは,アメリカ大統領[ 2. ]が大戦中の18年1月に発表した[ 3. ]であったが,戦勝国が自国の国益に固執したため,国際連盟の設立以外はほとんど実現しなかった。会議をリードしたのは,アメリカ大統領[ 2 ],イギリス首相[ 4. ],フランス首相[ 5. ]であった。
1919年6月,ドイツに対する[ 1. ]条約が調印された。ドイツはすべての海外植民地を失い,[ 2. ]をフランスに返還し,バルト海への出口としてポーランドへ西プロイセン(ポーランド回廊)を割譲したためドイツは東西に分離された。また,[ 3. ]との合併が禁止され,徴兵制禁止や潜水艦・軍用機の保有禁止などの[ 4. ]と,ライン川両岸地域である[ 5. ]の非武装化,巨額の賠償金支払い(21年に1320億金マルクに決定)を課せられた。調印が1871年にドイツ帝国成立宣言が行われたヴェルサイユ宮殿「[ 6. ]」でなされたことに象徴されるように,フランスによる復讐だとみられ,講和会議にドイツの代表の出席も認めない一方的な断罪だったため,ドイツ国内に大きな反発と不満を呼び起こした。
(1)ドイツが保有していたアフリカの植民地はイギリスとフランスが獲得し,ドイツ領南洋諸島は赤道以北を日本が,赤道以南をオーストラリアが国際連盟からの委託を受けて[ 7. ]することなった。(2)ドイツとフランスの地帯にある[ 8. ]炭田地方は15年間国際連盟が管理したのち,住民投票で帰属を決定するとされ,35年の住民投票でドイツに編入された。注意:[ 5 ]にあるルール地帯と[ 8 ]を混同しないように!!
連合国は,オーストリアと[ 1. ]条約,オーストリアから分離独立したハンガリーと[ 2. ]条約,ブルガリアと[ 3. ]条約,オスマン帝国と[ 4. ]条約を結んだ。オスマン帝国では,[ 5. ](ケマル=パシャ,ケマル=アタテュルク)が新政府であるトルコ大国民議会を樹立し,イズミルを占領したギリシア軍を破った。トルコ新政権は[ 4 ]条約を廃棄させ,1923年に連合国と[ 6. ]条約を結んだ。
ハンガリーに注目。第一次世界大戦の同盟国はドイツ・オーストリア・オスマン帝国・ブルガリア計4か国というが,講和条約は5つ。これは,ハンガリーがオーストリア=ハンガリー帝国から独立したためである。独立はしたが,ハンガリーも敗戦国である。
[ 1. ]で成立したヨーロッパの国際秩序をヴェルサイユ体制と呼ぶ。ヴェルサイユ体制では,ドイツの弱体化と,ソヴィエト政権の封じ込めが図られた。東欧とバルカンでは,[ 2. ]原則のもと,新興独立国が誕生した。ロシアから[ 3. ]とバルト3国(エストニア・ラトヴィア・[ 4. ])が独立し,オーストリアからハンガリー・[ 5. ]と,のちのユーゴスラヴィアが独立した。さらに,旧ロシア領とドイツ領の一部を合わせて[ 6. ]が独立した。しかし,英・仏・米は植民地を放棄する意志はなく,アジア・アフリカにおいては[ 2 ]原則は適用されなかった。中東においては,イラク・トランスヨルダン・[ 7. ]がイギリスの,[ 8. ]がフランスの[ 9. ]とされた。
(1)ユーゴスラヴィアは,セルブ=クロアート=スロヴェーン王国が1929年に改称した国名。(2)キリスト教徒の住民が多いレバノンは,フランスにとって統治しやすい地域だったため,シリアからのちに分離された。
報復的内容を持つヴェルサイユ体制にドイツ国民は憤慨した。ドイツ代表の参加も認めず一方的に押しつけられ,支払い不可能な高額な賠償,軍備制限,恣意(しい)的に国境線が引かれてドイツが東西に分離されたことは,ドイツ国内に反ヴェルサイユ体制の機運を高めた。反ヴェルサイユ体制の声は,やがてナチス([ 1. ])の[ 2. ]の台頭を許し,1939年に第二次世界大戦が勃発する。ヴェルサイユ体制は20年しかもたなかったのである。
ナチスはナチ党という場合もある。ナチとは政敵がつけた蔑称であり,正式な党名の略語はNSDAPである。
アメリカ大統領[ 1. ]の[ 2. ]で提唱されていた国際的平和機構の設立は,ヴェルサイユ条約にもとづき[ 3. ]として実現した。[ 3 ]は集団安全保障にもとづく国際平和維持機構で,本部はスイスの[ 4. ]に置かれた。付属の機関として,[ 5. ](ILO)と,オランダのハーグに[ 6. ]が設置された。理事会は,常任理事国と非常任理事国から構成され,常任理事国は英・仏・日・伊の4か国でスタートし,のちにドイツ・ソ連も含まれた。[ 3 ]には次のような問題点があった。最高議決機関である総会は[ 7. ]を原則とし,侵略国に対して[ 8. ]以外の有効な制裁手段をとれなかった。また,ドイツとソヴィエト=ロシアは当初参加が認められず,提唱国のアメリカは上院がヴェルサイユ条約批准を拒否したため一度たりとも参加しなかった。
ドイツは1925年に[ 9. ]条約が結ばれて翌26年に[ 3 ]に加入したが,33年に脱退した。ソ連は,日独が33年に脱退した翌34年に加入したが,39年に勃発した[ 10. ]を理由に除名された。
第一次世界大戦がおこると,日本は[ 1. ]を口実にドイツに宣戦し,ドイツの租借地である[ 2. ](青島)とドイツ領[ 3. ]諸島を占領した。さらに1915年,山東のドイツ利権の継承などをせまる[ 4. ]を中国の[ 5. ]政権に突きつけ,承認させた。大戦後,日本は[ 3 ]諸島の赤道以北を国際連盟の[ 6. ]領として確保した。東アジア・太平洋域における日本の勢力拡大を警戒したアメリカ大統領[ 7. ]は,1921~22年に[ 8. ]会議を開催して日本の進出をおさえようとした。
1921~22年の[ 1. ]会議では,米・英・日・仏・伊5大国の主力艦保有トン数と保有比率を定める[ 2. ]条約が結ばれ,米・英・日・仏・伊の保有比率は5:5:3:1.67:1.67とされ,アメリカはイギリスと対等の海軍力を持つことを認められた。また,米・英・日・仏4か国で,太平洋諸島の現状維持と[ 3. ]の解消をもたらす[ 4. ]条約が結ばれた。さらに,列強による中国進出の機会均等を確認する[ 5. ]条約が結ばれたが,石井=ランシング協定が破棄され(参照:XII-26),日本は山東省の利権を中国へ返還した結果,日本の立場は[ 6. ]要求以前の状態にもどされた。これらの条約によってつくられた東アジア・太平洋域の国際秩序を[ 1 ]体制と呼ぶが,これはアメリカが中心となって日本の進出をおさえるもので,太平洋戦争へといたる日米間の重要な争点をなすものであった。
1920年代前半には国際紛争が多発した。トルコは[ 1. ](ケマル=パシャ,ケマル=アタテュルク)のもと,ギリシア軍を撃退して[ 2. ]を回復し,オスマン帝国が受け入れた[ 3. ]条約を改めて1923年に連合国と[ 4. ]条約を結んだ。ポーランドは20年にソヴィエト=ロシアに侵入し,ウクライナの一部などを獲得した(ソヴィエト=ポーランド戦争,ポーランド=ソヴィエト戦争)。イタリアはユーゴスラヴィアと領有を争っていた[ 5. ]を1924年に獲得した。最大の危機は,賠償問題をめぐりおきたフランス・[ 6. ]両軍による1923年からの[ 7. ]である。[ 7 ]は成立したばかりのヴェルサイユ体制をゆさぶった。
1923年におきた[ 1. ]・ベルギー両軍による[ 2. ]は,ヴェルサイユ条約で定められた[ 3. ]非武装を危機に陥れる行為であった。しかし,1924年以降協調外交の機運が広がった。ドイツ外相[ 4. ]は1924年に新賠償方式([ 5. ]案)を成立させ,25年にはドイツ西部国境の現状維持と[ 3 ]非武装を再確認する[ 6. ]条約を結んで,翌26年にドイツを国際連盟に加盟させた。28年,アメリカ国務長官[ 7. ]とフランス外相[ 8. ]の提唱で,国際紛争の解決の手段として戦争に訴えないことを約す[ 9. ]条約([ 7 ]・[ 8 ]協定,[ 7 ]・[ 8 ]条約)が締結された。30年,[ 10. ]軍縮会議で米・英・日の補助艦の保有比率が決定された。
第一次世界大戦は世界経済に大きな変動をもたらした。大戦前のアメリカは世界最大の工業国ではあったが,世界有数の債務国でもあった。だが大戦中,アメリカは連合国(協商国)へ物資や[ 1. ](借款)を提供して大きな利益をあげ,戦後には債務国から[ 2. ]に転じ,ニューヨークがロンドンに並ぶ国際金融市場の中心となった。巨大な経済力を背景にアメリカでは新たな生活様式が生みだされた。[ 3. ]のベルトコンベア方式による車の大量生産により,車は大衆にも手の届くものとなった。また,冷蔵庫・洗濯機などの家電製品の普及により大量生産・大量消費社会が形成された。ラジオ・映画・スポーツなどの発展により,大衆文化も誕生した。
第一次世界大戦後のアメリカの繁栄を「パクス=アメリカーナ」の始まりととらえる考え方もある。だが,「パクス=アメリカーナ」の起点について,第二次世界大戦終結ととらえる論者もいるし,1991年のソ連崩壊とする論者もいて見解は統一されていない。
アメリカでは,第一次世界大戦中に女性が軍需生産に協力したことを背景として,1920年に女性参政権が認められた。21年から,[ 1. ]・クーリッジ・[ 2. ]と3代にわたって,経済界の利益を重視する[ 3. ]政権が続き,自由放任政策と高関税政策がとられた。この高関税政策はヨーロッパの経済復興の妨げとなった。[ 3 ]政権は対外的には[ 4. ]をとり,[ 5. ]には加盟しなかったが,賠償問題については1924年の[ 6. ]案,1929年の[ 7. ]案を成立させてヨーロッパの問題に関わった。
この当時のアメリカ社会の中心は[ 1. ]と呼ばれる白人で,伝統的な白人社会への復帰を求める声が強く,酒の製造・販売・運搬を禁止する[ 2. ]が成立し,1924年には日本人を含むアジア系移民を事実上禁止する[ 3. ]が制定された。また,人種差別主義の秘密結社[ 4. ]の活動が活発化し,イタリア系移民のアナキストに対する冤罪(えんざい)とされる[ 5. ]事件も起こった。
(1)WASPとは,White, Anglo-Saxon, Protestantの頭文字をとったもので,イギリス系のプロテスタントの白人をさす。(2)[ 2 ]は,ギャングによる密造・密売を招き,1933年に廃止された。
第一次世界大戦における総力戦に協力した女性が参政権を強く求めるようになった結果,イギリスでは,1918年の[ 1. ]選挙法改正で初めて女性参政権が認められた。しかし,この選挙法改正は,男性21歳以上,女性30歳以上と不平等なものであった。28年の[ 2. ]選挙法改正で,21歳以上の男女に改められ,男女平等の普通選挙が確立した。[ 1 ]選挙法改正は[ 3. ]の躍進をもたらし,23年の選挙で保守党に次ぐ第二党となり,翌24年に[ 4. ]の協力を得て,第1次[ 5. ]内閣が成立した。初めての[ 3 ]内閣はソ連を承認したが,選挙に敗れて1年もたず短命に終わった。1929年の選挙で労働党は第一党となり,第2次[ 5 ]内閣が誕生した。イギリスの政治状況は,自由党が衰退していくなか,保守党と労働党の二大政党時代へと変化していった。
[ 1 ]選挙法改正は,[ 6. ]挙国一致内閣のもとで行われた。
第一次世界大戦中に自治領は本国に協力して参戦したが,1916年のアイルランドにおける[ 1. ]のような本国からの自立をめざす動きも存在した。第一次世界大戦後のイギリスは,インドやエジプトの民族運動を抑える一方で,北部のアルスター地方を除くアイルランドに自治権を認め,1922年に[ 2. ]が成立した。自治領が本国議会の束縛を脱しようとする状況を受けて,26年のイギリス帝国議会において自治領に本国と対等の関係を認め,「イギリス国王に対する共通の忠誠」を基盤とする[ 3. ]が組織された。31年,[ 4. ]でこの体制が法制化された。しかし,アイルランドの独立派は,37年に国王への忠誠宣言を廃止して独自憲法を定め,[ 5. ]を国名として事実上[ 3 ]を脱退した。その後,49年には正式に[ 3 ]を脱退してアイルランドを名乗った。
(1)1905年に結成されたアイルランドの民族主義政党[ 6. ]は[ 1 ]に関わったのちも支持を広げ,1918年の選挙で圧勝し,独立を宣言した。これを認めないイギリスとの武力闘争を経て,[ 2 ]が成立した。(2)「アイルランド」は英語,「エール」はアイルランド語であるが,どちらも公称として用いられている。
フランスは,第一次世界大戦で国土が戦場となって荒廃した上,帝政ロシアに対する莫大な債権をロシア革命で失ったこともあり,ドイツに過大な賠償を要求した。ポワンカレ右派内閣は賠償支払い不履行を理由に23年に[ 1. ]とともに[ 2. ]を行ったが失敗し,翌24年に左派連合内閣が成立した。[ 3. ]外相はドイツとの協調を図り,25年にルールから撤兵し,ドイツ西部国境の現状維持やラインラント非武装などを確認した[ 4. ]条約を結んだ。[ 3 ]外相は28年にアメリカの[ 5. ]国務長官と協力して[ 6. ]([ 5 ]・[ 3 ]条約,[ 5 ]・[ 3 ]協定)を結んだ。
1918年11月,[ 1. ]軍港の水兵反乱に始まったドイツ革命(ドイツ十一月革命)では,ロシア革命時の「ソヴィエト」にあたる[ 2. ](評議会)が各地に組織された。これに対し,[ 3. ]を中心とする臨時政府は議会制民主主義をめざす一方,軍部などと結び,急進左派勢力をおさえこもうとした。大戦中に戦争に反対する[ 3 ]内の左派は[ 4. ]を結成していた。[ 4 ]が中心となり18年末にできたドイツ[ 5. ]は19年1月にベルリンで武装蜂起を起こしたが鎮圧され,地方の[ 2 ]政権も平定された。[ 5 ]の武装蜂起の混乱を避け,[ 6. ]で開かれた国民議会で憲法が制定され,[ 3 ]の[ 7. ]を大統領とするドイツ共和国([ 6 ]共和国)が成立した。
[ 4 ]を組織したのは,ポーランド生まれの女性革命家[ 8. ]とドイツ人革命家[ 9. ]であるが,両人とも19年1月の[ 5 ]の武装蜂起の際に虐殺された。
1919年に制定された[ 1. ]憲法は,20歳以上の男女による普通選挙,労働者の団結権だけでなく経営参加権も認めるもので,当時最も民主的といわれた。だが,議会が機能しない場合に大統領が非常の措置をとることができるという非常大権が認められた(大統領緊急令)。この強権は,共和政初期における左右両派の蜂起の鎮圧などには有効に働いたが,29年からの[ 2. ]の混乱の中では,大統領命令が多発され,大統領に指名された内閣が続いた。そして,33年1月に[ 3. ]が[ 1 ]共和国第2代大統領[ 4. ]により首相に指名されると,[ 4 ]は[ 1 ]共和国を崩壊へと導いた。
1923年のフランス・[ 1. ]両軍による[ 2. ]に対して,ドイツの労働者がストライキなどの「消極的抵抗」で対抗すると,経済が破綻して天文学的と呼ばれる極端な[ 3. ]と通貨マルクの暴落がおきた。この混乱に乗じて,ナチス([ 4. ])は武装蜂起による政権獲得を狙ったが失敗した([ 5. ])。23年に首相になった[ 6. ]は不動産などを担保に新紙幣[ 7. ]を発行してインフレーションを終息させた。
1兆マルクを1レンテンマルクと交換した。
首相として新紙幣[ 1. ]を発行してインフレーションを終息させた[ 2. ]は,その後は外相として協調外交に努め,24年に[ 3. ]案を成立させ,25年に[ 4. ]条約を結び,翌26年には国際連盟への加盟を実現した。25年にはヴァイマル共和国初代大統領[ 5. ]の死去を受けて大統領選挙が行われ,大戦中にロシア軍を[ 6. ]の戦いで破った国民的英雄[ 7. ]が保守派・帝政派に推されて第2代大統領となった。
イタリアは戦勝国だったが,大戦後「[ 1. ]」のうち[ 2. ]・[ 3. ]の領有は認められたが,[ 4. ]の領有が認められず,ヴェルサイユ体制に強い不満を抱いた。戦後,失業者が増大し,インフレーションが進行する経済混乱のなか1920年に北イタリアの工業都市で労働者による工場占拠やストライキが発生し,南イタリアでも農民が土地を占拠した。この状況下,[ 5. ]が結成した[ 6. ]党が地主や資本家,都市の[ 7. ]の支持を得て勢力を急速に拡大させた。
1922年,[ 1. ]は[ 2. ]党による「[ 3. ]」という示威行動を展開した。政府は戒厳令でおさえようとしたが,社会主義勢力を恐れる国王が拒否して[ 1 ]に組閣を命じた。政権を握った[ 1 ]は[ 4. ]に権力を集中させて,1926年に[ 2 ]党以外の政党を禁止して[ 5. ]体制を確立した。対外的には,24年にユーゴスラヴィアから[ 6. ]を奪い,26年に[ 7. ]を保護国化した。29年,ローマ教皇庁と[ 8. ]条約を結び,[ 9. ]の独立を認め,1870年にローマ教皇領をイタリア王国が占領して以来の対立を解消した。
ドイツのナチス政権は世界恐慌の混乱の中で成立したが,イタリアでは世界恐慌の混乱とは無関係にファシズム政権が誕生したことに注意!!
ドイツが払うべき賠償金はヴェルサイユ条約では金額が未定だったが,1921年に1320億金マルクという莫大な額に決定された。支払い能力のないドイツが賠償支払いを遅延したということを口実に,フランス・[ 1. ]両軍は23年に[ 2. ]工業地帯を占領した。ドイツの労働者はストライキなどの「消極的抵抗」で対抗したため,フランス・[ 1 ]両国は成果を得られず,24年に新賠償方式[ 3. ]案が成立すると,翌25年にフランス・[ 1 ]両軍は撤退した。
自由放任主義を批判する修正資本主義を唱えたイギリスの経済学者ケインズは,賠償額を決める会議においてイギリス側の代表であったが,経済学者としての立場から妥当な金額は約400億金マルクであると計算した。だが,会議ではそれ以上の過大な額が決められる流れとなり,彼は代表を辞任した。ケインズは過大な賠償金が課せられるならば,次の戦争の火種になると警告を発していた。
1923年におきた[ 1. ]・ベルギー両軍による[ 2. ]を受けて,アメリカの銀行家[ 3. ]を長とする委員会が開かれ,新賠償方式([ 3 ]案)が1924年成立した。[ 3 ]案では,賠償総額と支払期限には触れず,5年間の支払い年額を決めるとともに,多額のアメリカ資本をドイツに提供することが決定された。この結果,ドイツは経済危機を脱し,賠償金を得たイギリスやフランスがアメリカに[ 4. ]を支払うという資本の国際的循環が形成された。
[ 3 ]案は独仏の和解に貢献し,25年に[ 2 ]は終了し,さらに[ 5. ]条約が締結された。
1924年に成立した[ 1. ]案は5年間の暫定案だったので,29年にアメリカの実業家[ 2. ]を長とする委員会で新案([ 2 ]案)が作成された。[ 2 ]案では,以後59年間で約358億金マルクを支払うこととし,賠償総額を大幅に減額した(30年実施)。だが,29年から始まった[ 3. ]はドイツを襲い,[ 2 ]案による支払いも不可能となったため,アメリカ大統領[ 4. ]は31年に賠償支払いの1年間停止([ 4 ]=モラトリアム)を宣言したが,効果はなかった。[ 4 ]=モラトリアムが切れたことを受けて,32年にローザンヌ会議が開かれて賠償総額が30億金マルクに減額されたが,33年に政権を握った[ 5. ]は不払いを宣言した。
ポーランドは,[ 1. ]のもと独立を達成し,1920年にウクライナに侵入してソヴィエト=ロシアとの戦い(ポーランド=ソヴィエト戦争,ソヴィエト=ポーランド戦争)で領土を拡大した。民主的憲法が制定されたが,政党が分立して民主化が徹底しないなか,26年に[ 1 ]がクーデタを起こして実権を握った。[ 2. ]では,1919年にベラ=クンの指導のもと,ロシア革命にならったソヴィエト政権が成立したが農民の反発とルーマニア軍の介入によって崩壊し,その後ホルティの権威主義体制という強権的支配が44年まで続いた。バルカン地域では,南スラブ系民族がセルブ=クロアート=スロヴェーン王国としてまとまり,29年に[ 3. ]と改称した。
ソ連では,1924年にレーニンが死ぬと後継者争いがおこった。共産党書記長の[ 1. ]はロシア一国だけで社会主義を建設できるとする[ 2. ]を唱え,世界革命論を唱える[ 3. ]を追放して実権を握った。28年,[ 1 ]は21年から行っていた[ 4. ](新経済政策)にかわって社会主義経済建設をめざす[ 5. ]を開始し,重工業化の推進と,[ 6. ](集団農場)や[ 7. ](国営農場)による強制的な農業の集団化を推し進めた。29年から始まった世界恐慌のなかで資本主義国の生産は後退したが,資本主義経済から孤立していたソ連は世界恐慌発生後も順調に工業生産を伸ばし,30年代後半にはアメリカに次ぐ工業国となった。しかしそのかげで,[ 1 ]は集団化で数百万の農民を餓死させ,さらに反対派を大量に処刑したり強制収容所に送る[ 8. ]を行って独裁をすすめた。
第一次世界大戦後に国際的に孤立していたドイツは,1922年にソヴィエト政権と[ 9. ]条約を結んで国交を樹立した。イギリスは,1924年に[ 10. ]労働党内閣のもとでソ連を承認した。アメリカは,1933年に[ 11. ]大統領のもとでソ連を承認した。
1929年10月24日(「[ 1. ]」),ニューヨーク株式市場([ 2. ])で株価が大暴落して,アメリカは大恐慌に襲われた。恐慌の原因は次のようなことが挙げられる。(1)ヨーロッパが復興してくるとヨーロッパ向けの農産物価格が低下して農業恐慌が進行した。(2)工業製品が大量に生産される反面,労働者の賃金が低く抑えられており,需要と供給のバランスが崩壊した。(3)アメリカ自身が保護貿易主義をとっており,輸出が振るわなかった。このような構造的原因から起きた恐慌は長期にわたった。アメリカは海外に投下していた資本を引き上げたため,アメリカ発の恐慌は世界恐慌となった。とくに,アメリカ資本の援助によって経済復興を遂げていたドイツに深刻な影響が出た。資本主義経済から切り離されていたソ連のみが恐慌の影響を免れた。
アメリカでは,[ 1. ]の[ 2. ]大統領は,恐慌対策として1931年に戦債と賠償支払いの1年間停止([ 2 ]=モラトリアム)を宣言したが効果はなかった。32年の大統領選挙では,従来からの経済の自由放任を主張する[ 2 ]を破って,[ 3. ]の[ 4. ]が大統領に当選し,[ 5. ](新規まき直し)と呼ばれる大規模で大胆な対策を実行した。
[ 4 ]はアメリカ史上唯一,4選された大統領である。ワシントン大統領が3選を固辞したことをもって2期までということが慣例であった。だが,第二次世界大戦が始まっていたことを理由に,[ 4 ]は40年と44年の選挙に立候補した。第二次世界大戦後に憲法が修正されて2期までと定められたことから,民主的な政治が行われる限り,4選の記録を抜くことは不可能であろう。
[ 1. ]の[ 2. ]大統領は金融不安解消のために[ 3. ]を停止するとともに,以下のようなニューディール政策を行った。[ 4. ](AAA)によって農業生産を調整し,農産物の価格を引き上げて農民の生活を安定させた。[ 5. ](NIRA)で,企業の競争を制限して生産と価格を調整し,労働者には団結権と団体交渉権を認め最低賃金を確保させ,購買力の向上を図ろうとした。だが,最高裁で違憲判決が出たため,35年に[ 6. ]で労働者の団結権と団体交渉権を認めた。また,[ 7. ](TVA)のような公共事業をおこして失業者を減らそうとした。それまでの自由放任の経済にかわるニューディール政策は,国家が積極的に経済に介入して景気回復を図ろうとするもので,今日までつづく[ 8. ]のさきがけである。[ 8 ]はイギリスの経済学者ケインズらによって理論化された。
[ 6 ]が制定されたのを機に,アメリカ労働総同盟(AFL)内部の未熟練労働者が38年に分離して[ 9. ](CIO)を組織し,[ 9 ]はニューディール政策を支持する勢力となった。その後,55年にAFLと合同してAFL-CIOとなった。
フランクリン=ローズヴェルトは,1933年に[ 1. ]を承認した。ラテンアメリカ諸国に対しては,それまでの高圧的な[ 2. ]にかわり,[ 3. ]に努め,34年にはプラット修正を撤廃して[ 4. ]の独立を承認した。世界恐慌の進展にともない,勢力下にある諸国・地域を囲い込む[ 5. ]が展開されたが,アメリカは南北アメリカ大陸を[ 6. ]に組み入れた。また,1898年のアメリカ=スペイン戦争で獲得した[ 7. ]については,34年に10年後の独立を約束した。さらにフランクリン=ローズヴェルトは,1935年におきたイタリアのエチオピア侵略を機に,交戦国への武器・軍需品の輸出と借款を禁じた中立法を制定した。
[ 7 ]の独立については,太平洋戦争中に日本軍が占領したため,独立達成は第二次世界大戦後の1946年である。
1928年に[ 1. ]選挙法改正が行われ,21歳以上の男女による最初の普通選挙が29年に実施され,[ 2. ]が初めて第一党となり,第2次[ 3. ]内閣が成立した。恐慌の影響で失業者が増加し財政が悪化すると,1931年に失業保険の削減を含む緊縮財政をとろうとした。これに[ 2 ]が反対して党首の[ 3 ]を除名したため,[ 3 ]は首相を辞職した。その後,[ 4. ]・自由党および[ 2 ]の一部の協力を得て,[ 3 ]は[ 5. ]を組織し,あらためて緊縮財政を実施し,[ 6. ]を停止した。32年にカナダの[ 7. ]で[ 8. ]([ 7 ]連邦会議)を開き,連邦内の関税を下げ,連邦外の他国には高関税を課す[ 9. ](ポンド=ブロック)を形成した。
フランスも,自国の植民地とベルギー・スイスなどの友好国とともに[ 1. ]を形成した。アメリカは,南北アメリカに[ 2. ]を形成した。日本は,台湾・朝鮮・満洲に円ブロックを形成して,対抗した。ドイツも,ドイツとオーストリアにマルク=ブロックを形成した。ブロック経済は自由な貿易体制を破壊し,ブロック間の摩擦は第二次世界大戦の重要な要因となった。
第一次世界大戦後の戦間期のヨーロッパで,ファシズムと呼ばれる運動が各地に現れた。語源としては,イタリアの[ 1. ]率いる[ 2. ]にちなむが,反自由主義・反共産主義を掲げ,分裂した社会を統合するためにナショナリズムをあおった。イタリアの[ 2 ]やドイツのナチス([ 3. ])がその典型とされるが,単なる強権的支配ではないことが大きな特徴である。イタリア・ドイツともレジャーやスポーツなどを通じた大衆組織を整備し,ドイツでは[ 4. ]が労働者でも買うことができるフォルクスワーゲン(「国民車」の意)構想を掲げて,大衆の支持を獲得しようとした。ファシズムは,強力な指導者原理のもとで露骨な暴力を用いたが,その基盤には大衆の動員があったのである。
第一次世界大戦後のドイツ国民は,過大な賠償金支払いなど報復的内容をもつ[ 1. ]体制に不満を抱いていた。世界恐慌の進展のなか,アメリカ資本が引き上げられドイツ経済が深刻な状況に陥ると,不満はますます高まった。この不満は,[ 1 ]体制を遵守してきた[ 2. ]共和国政権に対する不信へとつながり,[ 1 ]体制と議会制民主主義を批判してきた[ 3. ]とナチス([ 4. ])が勢力を伸ばした。1930年以降,軍部と保守派が大統領緊急令にもとづく少数派内閣を組織すると,議会が形骸化し,議会制民主主義は空洞化した。ナチスのもともとの支持基盤は中間層(中産層)にあったが,徐々に労働者にも支持を広げ,32年の選挙でナチスが第一党に躍進した。[ 3 ]も勢力を伸ばしたため,産業界や軍部は[ 3 ]への対抗勢力としてナチスに期待するようになり,33年1月に[ 5. ]大統領がナチスの指導者[ 6. ]を首相に任命した。
ヒトラー内閣は[ 1. ]を利用して共産党を弾圧し,[ 2. ]を成立させて政府に立法権を与え,さらにナチス以外の政党や労働組合を解散させて[ 3. ]体制を確立した。1934年に[ 4. ]大統領が死去すると,ヒトラーは首相と大統領をかねる[ 5. ]となり,第三帝国と称した。反対派やユダヤ人は,[ 6. ](SS)・[ 7. ](SA)や[ 8. ](ゲシュタポ)により迫害され,強制収容所へ送られた。このため,ナチスに反対する人々やユダヤ人が多数亡命し,亡命者の中には『魔の山』を著したノーベル文学賞作家[ 9. ]や,相対性理論で知られるノーベル物理学賞受賞者の[ 10. ]らがいる。
第三帝国とは,神聖ローマ帝国,1871年成立のドイツ帝国に次ぐものという意味である。
ナチスは高速道路([ 1. ])建設などの大規模な土木工事を行って失業者を減らすとともに,1936年から「四カ年計画」にもとづく戦争に向けた経済体制づくりに乗り出した。ナチスはヴェルサイユ条約の内容を次々に破っていった。33年,軍備平等権を主張して[ 2. ]から脱退した。35年には住民投票によって[ 3. ]地方を回復し,[ 4. ]をおこなって徴兵制を復活した。これに対して,フランスとソ連が[ 5. ]を結ぶと,ドイツは翌36年に[ 6. ]を破棄して,非武装地帯[ 7. ]に軍隊を進駐させた。ドイツのヴェルサイユ体制破壊の動きに対し,イギリスとフランスは[ 8. ]をとり,強硬な姿勢はとらなかった。
(1)ドイツが[ 2 ]を脱退した同じ1933年に日本も,満州国不承認の決議を不服として[ 2 ]を脱退した。(2)ドイツの[ 4 ]に対して,イギリスはドイツにイギリス海軍力の35%の保有を認める[ 9. ]を結び,ドイツの再軍備を事実上追認した。これは,[ 8 ]の始まりとされる。
ヴェルサイユ体制の破壊をすすめるドイツに対するイギリス・フランスの妥協的な態度を[ 1. ]と呼ぶ。その政策の背景としてまず第一に挙げられるのが,国民の戦争に対する恐怖心である。第一次世界大戦終結から20年もたっていない時期であり,国民の戦争を回避してほしいという願いは強かった。1938年にイギリス首相[ 2. ]は[ 3. ]に出席して,チェコスロヴァキアを犠牲にして戦争を回避したが,イギリス国民は帰国した[ 2 ]を「英雄」として歓迎したのである。第二に,ドイツをソ連に立ち向かわせようという思惑があった。ヒトラーは『わが闘争』という著作のなかで,「ドイツの生存権は東方にある」と断言していたことから,ドイツがソ連と戦って両者が弱体化することは歓迎されることであった。
恐慌によっていきづまった苦境をイタリアの[ 1. ]政権は,対外侵略をもって乗り切ろうとし,1935年に[ 2. ]に侵攻した。国際連盟は,イタリアを侵略国と認め,経済制裁を実行したが,石油が除外されるなど内容が不十分で,翌36年にイタリアは[ 2 ]全土を征服し,37年に国際連盟を脱退した。[ 1 ]はドイツの再軍備宣言に対して,一時イギリスとフランスに接近したが,[ 2 ]侵略による国際的孤立と,スペイン内戦における[ 3. ]支持などを通じてドイツに接近し,36年に[ 4. ]と呼ばれる提携関係を結んだ。
イタリアが[ 2 ]に侵攻したのは二度目である。1895~96年の侵攻では,アドワの戦いで敗北して失敗に終わっていた。
ファシズムの台頭を阻止できなかった[ 1. ]は,1935年の[ 2. ]大会で,社会民主主義政党を敵視する政策を転換して,ファシズムに反対するすべての勢力が協力する反ファシズム統一戦線([ 3. ])を提唱した。フランスでは,36年に共産党の閣外協力のもと,社会党の[ 4. ]を首班とする[ 3 ]内閣が誕生した。この内閣は,週40時間労働制や有給休暇制の導入などを行ったが,経済政策に失敗し,[ 3 ]内部における共産党と急進社会党の対立で崩壊した。1931年にブルボン王政が倒れたスペインでも,36年にアサーニャを大統領とする[ 3 ]内閣が誕生したが,[ 5. ]将軍による軍事反乱がおき,スペイン内戦が勃発した。
1931年,スペイン革命が勃発し,ブルボン王政が倒れ,共和政が樹立された。1936年には,アサーニャを首班とする[ 1. ]内閣が成立した。これに対して,[ 2. ]将軍がスペイン領モロッコで反乱を起こし,内戦が全土に広まった。[ 3. ]・イタリアは軍隊を送って[ 2 ]側を支援した。[ 1 ]側には,ソ連の援助や,各国の知識人や社会主義者による[ 4. ]の支援があったが,イギリスと[ 5. ]が[ 6. ]をとり,また[ 1 ]内部の対立もあったため,39年にマドリードが陥落して[ 2 ]側の勝利に終わった。
(1)[ 4 ]には,スペイン内戦を舞台とする『誰がために鐘は鳴る』を著したアメリカの作家[ 7. ]や,スペイン内戦の体験をもとに『カタロニア賛歌』を著したイギリスの作家[ 8. ]などが参加した。(2)内戦中にドイツ空軍が[ 9. ]を無差別攻撃したことに抗議して,スペインの立体派(キュビズム)の画家ピカソが「[ 9 ]」を描いた。
1930年代にドイツとイタリアは,第一次世界大戦後のヨーロッパにおける国際秩序である[ 1. ]体制を破壊していった。一方,1932年の日本による[ 2. ]建設は東アジアにおける[ 3. ]体制を突き崩すものであった。国際的に孤立した日独伊は急速に接近した。イタリアの[ 4. ]侵略とスペイン内戦を通じて,ドイツとイタリアが36年に[ 5. ]を結んだ。同年,日本とドイツの間で共産主義に対抗する日独[ 6. ]が結ばれ,翌37年にはイタリアも参加して日独伊[ 6 ]が成立し,三国枢軸が形成された。
ドイツのヒトラーは,1938年3月に[ 1. ]を併合し,9月には[ 2. ]領内のドイツ人居住地区[ 3. ]地方の割譲を要求した。[ 2 ]はこれを拒否したが,イギリス首相[ 4. ]はフランス首相[ 5. ]とともに,ヒトラー・ムッソリーニと[ 6. ]を行い,当事国[ 2 ]の参加を認めないまま,さらなる領土要求は行わないという約束で[ 3 ]地方のドイツへの割譲を認めた。翌39年3月,ヒトラーは[ 2 ]解体を行い,西半分のベーメン・メーレンを保護領に,東半分のスロヴァキアを保護国としたため,[ 6 ]による宥和政策は破綻した。そのためイギリスとフランスは軍備を拡大するとともに,ソ連と同盟を結ぶ交渉に入ったが,宥和政策をとってきたイギリスとフランスにソ連のスターリンが不信感を抱いていたため,成立しなかった。
ヒトラーは,[ 3 ]地方の割譲要求に際し,「民族自決」を掲げた。
1939年3月に[ 1. ]を解体したヒトラーは,さらに[ 2. ]に対して[ 3. ](現グダニスク,グダンスク)の返還と[ 4. ]を通って東プロイセンにいたる陸上交通路を要求した。この情勢下,イギリス・フランスが[ 2 ]の安全保障を約束したので,[ 2 ]はドイツの要求を拒否した。一方,イギリス・フランスに不信感を持っていたソ連の[ 5. ]と,英・仏とソ連という二正面作戦は避けたいと考えたヒトラーの利害が一致し,39年8月に電撃的に[ 6. ]が結ばれた。ドイツは,9月1日に[ 2 ]に侵攻し,それに対し英・仏が9月3日にドイツに宣戦して第二次世界大戦が始まった。
(1)[ 6 ]の秘密議定書では,独ソ両国による[ 2 ]分割と東ヨーロッパの勢力圏を定めていた。それによると,フィンランド・バルト3国はソ連の勢力範囲とされていた。この秘密議定書に従って,9月半ばにソ連も[ 2 ]に侵攻した。(2)ソ連がドイツのファシズムと手を結んだことは大きな衝撃を与えた。反ファシズム統一戦線であった[ 7. ]運動が動揺したほか,満州国とモンゴル国境のノモンハンでソ連と衝突していた日本にも大きな衝撃を与え,時の平沼騏一郎内閣は欧州情勢は「複雑怪奇」という声明を出して総辞職した。
1939年9月1日にドイツ軍の侵攻を受けた[ 1. ]は,9月半ば[ 2. ]軍の侵入も受けて敗北し,両国間で分割された。[ 2 ]はつづいて,[ 3. ]に宣戦し,カレリア地方を奪った。これを受けて,[ 2 ]は国際連盟により侵略国として除名されたが,40年に[ 4. ]3国([ 5. ]・ラトヴィア・リトアニア)を併合し,[ 6. ]からベッサラビアを割譲させた。一方,イギリス・フランスはドイツに宣戦はしていたが,ドイツを積極的に攻撃することはなかったので,西部戦線は40年春までは平穏であった。
イギリス・フランスが宣戦布告後もドイツを攻撃しなかったことを,「まやかし戦争」などと呼ぶが,この背景にはフランスがドイツとの国境沿いに建設していたマジノ線と呼ばれる強固な要塞線の存在がある。フランスは,これを過信し,対ドイツ戦を楽観視していた。しかし,マジノ線はベルギーとの国境には作られておらず,ドイツ軍はここを突破してフランス軍とフランスに駐留していたイギリス軍を破った。
1940年春,ドイツ軍は中立国であったデンマーク・[ 1. ]を占領した上で,5月に中立国であったオランダ・[ 2. ]に侵入し,さらにフランスへ侵攻した。40年6月にパリが占領されてフランスは降伏した。ドイツ軍の優勢を見て,イタリアも6月に英仏に宣戦し,南フランスに侵入した。フランスでは,[ 3. ]共和政が崩壊し,フランスの北半はドイツ軍に占領され,南半はドイツに協力する[ 4. ]に率いられる[ 5. ]政府が統治した。しかし,[ 6. ]らは降伏を拒否し,ロンドンに亡命政府([ 7. ])をつくり,国民に抵抗運動([ 8. ])を呼びかけた。
ベルギーは第一次世界大戦においてもドイツにより中立を侵犯され,第二次世界大戦においても再び中立を侵犯された。
ドイツ軍が[ 1. ]・ノルウェーを占領すると,イギリス首相[ 2. ]は辞任し,1940年5月に[ 3. ]が戦時内閣の首相となり,強力に戦争指導を行った。6月にフランスを降伏させたドイツは,イギリス上陸をねらって8月からドイツ空軍がイギリスを空襲したが,イギリス空軍が制空権を死守したため,ヒトラーはイギリス上陸作戦を断念した。日本・ドイツ・イタリアは,大戦前の37年に[ 4. ]を結んでいたが,それを発展させて,40年9月に[ 5. ]が結ばれた。この同盟で,ドイツはソ連の兵力を東西に分断させることをねらい,日中戦争を戦っていた日本はアメリカを牽制することをねらったが,この同盟により日本とイギリス・アメリカとの関係はさらに悪化した。一方,フランス降伏後,単独でドイツ・イタリアと戦っていたイギリスをアメリカが援助した。アメリカは大戦勃発後に中立法を改正してイギリス・フランスへの武器輸出を認め,さらに41年3月に[ 6. ]を制定し,イギリスへ武器・軍需物資を事実上供与した。
[ 6 ]はのちに中国・ソ連にも適用された。
イギリス上陸作戦を断念したヒトラーは東方へ目を転じ,1941年4月に[ 1. ]半島に侵攻し,ユーゴスラヴィアとギリシアを制圧した。ドイツの[ 1 ]進出に危機感を強めたソ連は,同年4月東方の安全を確保するため[ 2. ]を結んだ。41年6月,ドイツは39年に締結していた[ 3. ]を無視して,ソ連を奇襲して[ 4. ]が開始された。[ 4 ]の開始を機に,イギリスとソ連は同盟を結んだ。41年8月,アメリカ大統領[ 5. ]とイギリス首相[ 6. ]が大西洋上で会談し,戦争目的と戦後の平和構想を明らかにする[ 7. ]を発表した。
(1)イギリスと同盟を結んだソ連は,43年にアメリカ・イギリスとの協調を深めるためにコミンテルンを解散した。(2)大西洋憲章が発表された41年8月の段階では,アメリカはまだ参戦していないことに注意!!アメリカの参戦のきっかけは,41年12月の日本による真珠湾攻撃である。(3)ユーゴスラヴィアでは,ドイツ軍に対し[ 8. ]が指導する[ 9. ]闘争が展開された。(4)ドイツは,アウシュヴィッツなどの[ 10. ]で多数のユダヤ人を殺害するホロコーストを行った。
1937年に始まった[ 1. ]の長期化で国力を消耗していた日本は,南方への進出を図り,フランスがドイツに降伏すると,40年9月に[ 2. ]北部に進駐した。41年4月に[ 3. ]を結んで北方の安全を確保したのち,7月には[ 2 ]南部にも進駐した。この南進政策はイギリス・アメリカ・オランダの利害と衝突した。41年4月から始まった日米交渉では,日独伊三国同盟や日本軍の中国からの撤兵などが話し合われたが,双方の見解の差は大きく交渉は難航した。日本が行った[ 2 ]南部進駐に対して,アメリカは石油の対日輸出停止などの強硬な対抗措置をとった。その後も日米交渉はまとまらず,1941年12月8日に日本軍がハワイの[ 4. ]を奇襲するとともに,イギリス領マレーに上陸して,[ 5. ]が始まった。三国同盟により,ドイツ・イタリアもアメリカに宣戦したので,戦争は日独伊を中心とする[ 6. ]とアメリカを中心とする[ 7. ]の戦いとなった。
(1)太平洋戦争前に対日包囲網を築いたアメリカ・イギリス・中国・オランダを日本では「ABCDライン」と呼んだ。(2)「[ 5 ]」とはアメリカ側の呼称。日本では,日中戦争も合わせて「大東亜戦争」と呼んだ。
アメリカ大統領[ 1. ]とイギリス首相[ 2. ]が1941年8月に発表した[ 3. ]は,領土不拡大・民族自決・貿易の自由化と拡大・海洋の自由・平和機構の再建など8カ条からなっていたが,その後ソ連も加わり,翌42年1月には連合国26か国による[ 4. ]へと発展した。
[ 4 ]は[ 3 ]の原則を確認し,単独で休戦や講和をしないことを誓約したもの。この宣言で正式に採用された「連合国」という語は”the United Nations”であるが,これは国際連合の名称である。
1942年夏までは枢軸国側が優勢を保っていたが,やがて戦局が転換した。東南アジアのほぼ全域を占領し,欧米列強を排除した「[ 1. ]」建設をうたっていた日本は,42年6月に[ 2. ]海戦で致命的打撃を受け,43年2月にガダルカナル島でアメリカ軍に敗れ,後退するようになった。ソ連領内に侵攻したドイツ軍は,43年2月に[ 3. ](現ヴォルゴグラード)でソ連軍に敗北した。アメリカ・イギリス軍を中心とする連合軍は42年11月に北アフリカに上陸したのち,43年7月に[ 4. ]島に上陸した。この情勢下,イタリアで政変が起こり,[ 5. ]が失脚し,かわった[ 6. ]政府が9月に連合軍に無条件降伏した。
1943年11月,アメリカ大統領[ 1. ]・イギリス首相[ 2. ]と中華民国の[ 3. ]による[ 4. ]会談で,対日処理方針を定めた[ 4 ]宣言が発表された。宣言では,日本が第一次世界大戦後に獲得した太平洋上のすべての島をとりあげ,満州・台湾・澎湖諸島を中国へ返還し,朝鮮を独立させることが表明されていた。その直後43年11月,[ 1 ]・[ 2 ]とソ連の[ 5. ]による[ 6. ]会談で,北フランス上陸作戦が協議された。この決定に基づいて44年6月,ヨーロッパ連合軍総司令官[ 7. ]指揮下の連合軍が[ 8. ]に上陸した。フランスでは,8月にパリが解放され,[ 9. ]政府にかわって[ 10. ]を中心とする臨時政府が誕生した。
[ 6 ]上陸作戦として実現された北フランス上陸作戦のことを第二戦線と呼ぶ。独ソ戦開始以来,ソ連の[ 3 ]は米英軍がヨーロッパ大陸西部で新たな対独反攻作戦を行うことを要求していたが,これが実現したものである。
1945年2月,アメリカ大統領[ 1. ]・イギリス首相[ 2. ]とソ連の[ 3. ]がクリミア半島の[ 4. ]で会談し,[ 4 ]協定が結ばれた。協定では,米英仏ソ4か国によるドイツの分割占領と共同管理,ポーランドや中欧・バルカン諸国問題が定められた。さらに米ソ間の秘密協定では,ドイツ降伏後3カ月以内にソ連が対日参戦することと,その条件として南樺太の返還と千島列島を引き渡すことなどが定められていた。45年4月末にヒトラーが自殺し,ソ連軍によってベルリンが陥落したのちの5月7日にドイツは[ 5. ]した。
[ 1 ]は[ 4 ]会談から帰国後,45年4月に病死して,副大統領の[ 6. ]が大統領に昇格した。
1920年以来,日本が[ 1. ]として統治していた[ 2. ]が44年7月にアメリカ軍により陥落されたのち,[ 2 ]は日本本土空襲のための基地とされた。45年2月にアメリカ軍は硫黄島に上陸して日本本土空襲の中継基地として利用し,さらに4月には[ 3. ]に上陸した。7月,アメリカ大統領[ 4. ],イギリス首相[ 5. ](途中で労働党の[ 6. ]と交代),ソ連の[ 7. ]が[ 8. ]で会談し,米英仏ソ4か国によるドイツ共同管理を決定するとともに,日本に対して[ 9. ]を求める[ 8 ]宣言が米英中3か国の名をもって発表された。
[ 8 ]宣言には当初,ソ連が加わっていないことに注意!!日ソ中立条約の規定を無視し,45年8月8日に日本に宣戦したのちに,ソ連は[ 8 ]宣言に加わった。
日本は,天皇を中心とする体制の存続が保証されていないことを問題として,米英中3か国が発した[ 1. ]宣言を黙殺した。1945年8月6日にアメリカが[ 2. ]に[ 3. ]を投下,8日に[ 4. ]の規定を無視してソ連が日本に宣戦し,さらに9日にアメリカは[ 5. ]に[ 3 ]を投下した。ここにいたり,日本は8月14日に[ 1 ]宣言を受諾し,翌15日に昭和天皇が国民に発表した。45年9月2日,東京湾内のアメリカ戦艦ミズーリ号艦上で日本は降伏文書に調印して,第二次世界大戦は終結した。
対日参戦したソ連は,日本が[ 1 ]宣言を受諾したのちも戦闘を続け,9月2日に日本が降伏文書に調印したのちに,北方領土の歯舞諸島を占領した。さらに60万人をこえる旧軍人・民間人をシベリアに抑留し,強制労働に従事させ,約1割の日本人が死去したとされる。