VII-1. パリ講和会議
1919年1月から[ 1. ]が開かれたが,敗戦国は参加できず,ロシアのソヴィエト政権も招かれなかった。講和の基礎となったのは,アメリカ大統領[ 2. ]が大戦中の18年1月に発表した[ 3. ]であったが,戦勝国が自国の国益に固執したため,国際連盟の設立以外はほとんど実現しなかった。会議をリードしたのは,アメリカ大統領[ 2 ],イギリス首相[ 4. ],フランス首相[ 5. ]であった。
「ヴェルサイユ体制とワシントン体制」の一問一答問題です。
1919年1月から[ 1. ]が開かれたが,敗戦国は参加できず,ロシアのソヴィエト政権も招かれなかった。講和の基礎となったのは,アメリカ大統領[ 2. ]が大戦中の18年1月に発表した[ 3. ]であったが,戦勝国が自国の国益に固執したため,国際連盟の設立以外はほとんど実現しなかった。会議をリードしたのは,アメリカ大統領[ 2 ],イギリス首相[ 4. ],フランス首相[ 5. ]であった。
1919年6月,ドイツに対する[ 1. ]条約が調印された。ドイツはすべての海外植民地を失い,[ 2. ]をフランスに返還し,バルト海への出口としてポーランドへ西プロイセン(ポーランド回廊)を割譲したためドイツは東西に分離された。また,[ 3. ]との合併が禁止され,徴兵制禁止や潜水艦・軍用機の保有禁止などの[ 4. ]と,ライン川両岸地域である[ 5. ]の非武装化,巨額の賠償金支払い(21年に1320億金マルクに決定)を課せられた。調印が1871年にドイツ帝国成立宣言が行われたヴェルサイユ宮殿「[ 6. ]」でなされたことに象徴されるように,フランスによる復讐だとみられ,講和会議にドイツの代表の出席も認めない一方的な断罪だったため,ドイツ国内に大きな反発と不満を呼び起こした。
(1)ドイツが保有していたアフリカの植民地はイギリスとフランスが獲得し,ドイツ領南洋諸島は赤道以北を日本が,赤道以南をオーストラリアが国際連盟からの委託を受けて[ 7. ]することなった。(2)ドイツとフランスの地帯にある[ 8. ]炭田地方は15年間国際連盟が管理したのち,住民投票で帰属を決定するとされ,35年の住民投票でドイツに編入された。注意:[ 5 ]にあるルール地帯と[ 8 ]を混同しないように!!
連合国は,オーストリアと[ 1. ]条約,オーストリアから分離独立したハンガリーと[ 2. ]条約,ブルガリアと[ 3. ]条約,オスマン帝国と[ 4. ]条約を結んだ。オスマン帝国では,[ 5. ](ケマル=パシャ,ケマル=アタテュルク)が新政府であるトルコ大国民議会を樹立し,イズミルを占領したギリシア軍を破った。トルコ新政権は[ 4 ]条約を廃棄させ,1923年に連合国と[ 6. ]条約を結んだ。
ハンガリーに注目。第一次世界大戦の同盟国はドイツ・オーストリア・オスマン帝国・ブルガリア計4か国というが,講和条約は5つ。これは,ハンガリーがオーストリア=ハンガリー帝国から独立したためである。独立はしたが,ハンガリーも敗戦国である。
[ 1. ]で成立したヨーロッパの国際秩序をヴェルサイユ体制と呼ぶ。ヴェルサイユ体制では,ドイツの弱体化と,ソヴィエト政権の封じ込めが図られた。東欧とバルカンでは,[ 2. ]原則のもと,新興独立国が誕生した。ロシアから[ 3. ]とバルト3国(エストニア・ラトヴィア・[ 4. ])が独立し,オーストリアからハンガリー・[ 5. ]と,のちのユーゴスラヴィアが独立した。さらに,旧ロシア領とドイツ領の一部を合わせて[ 6. ]が独立した。しかし,英・仏・米は植民地を放棄する意志はなく,アジア・アフリカにおいては[ 2 ]原則は適用されなかった。中東においては,イラク・トランスヨルダン・[ 7. ]がイギリスの,[ 8. ]がフランスの[ 9. ]とされた。
(1)ユーゴスラヴィアは,セルブ=クロアート=スロヴェーン王国が1929年に改称した国名。(2)キリスト教徒の住民が多いレバノンは,フランスにとって統治しやすい地域だったため,シリアからのちに分離された。
報復的内容を持つヴェルサイユ体制にドイツ国民は憤慨した。ドイツ代表の参加も認めず一方的に押しつけられ,支払い不可能な高額な賠償,軍備制限,恣意(しい)的に国境線が引かれてドイツが東西に分離されたことは,ドイツ国内に反ヴェルサイユ体制の機運を高めた。反ヴェルサイユ体制の声は,やがてナチス([ 1. ])の[ 2. ]の台頭を許し,1939年に第二次世界大戦が勃発する。ヴェルサイユ体制は20年しかもたなかったのである。
ナチスはナチ党という場合もある。ナチとは政敵がつけた蔑称であり,正式な党名の略語はNSDAPである。
アメリカ大統領[ 1. ]の[ 2. ]で提唱されていた国際的平和機構の設立は,ヴェルサイユ条約にもとづき[ 3. ]として実現した。[ 3 ]は集団安全保障にもとづく国際平和維持機構で,本部はスイスの[ 4. ]に置かれた。付属の機関として,[ 5. ](ILO)と,オランダのハーグに[ 6. ]が設置された。理事会は,常任理事国と非常任理事国から構成され,常任理事国は英・仏・日・伊の4か国でスタートし,のちにドイツ・ソ連も含まれた。[ 3 ]には次のような問題点があった。最高議決機関である総会は[ 7. ]を原則とし,侵略国に対して[ 8. ]以外の有効な制裁手段をとれなかった。また,ドイツとソヴィエト=ロシアは当初参加が認められず,提唱国のアメリカは上院がヴェルサイユ条約批准を拒否したため一度たりとも参加しなかった。
ドイツは1925年に[ 9. ]条約が結ばれて翌26年に[ 3 ]に加入したが,33年に脱退した。ソ連は,日独が33年に脱退した翌34年に加入したが,39年に勃発した[ 10. ]を理由に除名された。
第一次世界大戦がおこると,日本は[ 1. ]を口実にドイツに宣戦し,ドイツの租借地である[ 2. ](青島)とドイツ領[ 3. ]諸島を占領した。さらに1915年,山東のドイツ利権の継承などをせまる[ 4. ]を中国の[ 5. ]政権に突きつけ,承認させた。大戦後,日本は[ 3 ]諸島の赤道以北を国際連盟の[ 6. ]領として確保した。東アジア・太平洋域における日本の勢力拡大を警戒したアメリカ大統領[ 7. ]は,1921~22年に[ 8. ]会議を開催して日本の進出をおさえようとした。
1921~22年の[ 1. ]会議では,米・英・日・仏・伊5大国の主力艦保有トン数と保有比率を定める[ 2. ]条約が結ばれ,米・英・日・仏・伊の保有比率は5:5:3:1.67:1.67とされ,アメリカはイギリスと対等の海軍力を持つことを認められた。また,米・英・日・仏4か国で,太平洋諸島の現状維持と[ 3. ]の解消をもたらす[ 4. ]条約が結ばれた。さらに,列強による中国進出の機会均等を確認する[ 5. ]条約が結ばれたが,石井=ランシング協定が破棄され(参照:XII-26),日本は山東省の利権を中国へ返還した結果,日本の立場は[ 6. ]要求以前の状態にもどされた。これらの条約によってつくられた東アジア・太平洋域の国際秩序を[ 1 ]体制と呼ぶが,これはアメリカが中心となって日本の進出をおさえるもので,太平洋戦争へといたる日米間の重要な争点をなすものであった。