11.南アジア・東南アジア世界

「11.南アジア・東南アジア世界」の一問一答問題です。

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南アジア世界(18)

XI-1. 南アジア世界

南アジア世界は,現在のインド・パキスタン・バングラデシュ・ネパール・ブータン・スリランカ・モルジブの7か国からなる地域である。インド洋からの(季節風)が雨をもたらす湿潤な気候である。民族は大きく二つに分かれる。先住の民族が系で,前1500年頃に西北インドに侵入したのがインド=ヨーロッパ語族の系である。宗教は非常に多様である。現在のインドの約8割近くを占める教,現在のパキスタンの国教となっている教,ほかにシク教・仏教・ジャイナ教・キリスト教など多くの宗教が信仰されている。

XI-2. インダス文明

インド亜大陸の最も古い文明は,前2500年頃におこったインダス文明である。代表的な遺跡には,インダス川下流域のシンド地方にある,インダス川中流域の地方にある,1990年にインド西部のカッチ湿原で発掘されたなどがある。それらの遺跡は,沐浴場・穀物倉庫・排水溝などをともなった,綿密に設計された都市であった。印章に刻まれた象形文字であるが発見されているが,未解読である。そのため,インダス文明を築いた民族については,先住の系とする説もあるが,まだ定説はない。インダス文明は,前1800年頃から衰退したが,その理由については分かっていない。
check_icon6[ 2 ]と[ 3 ]の組合せは,「ハラッパーのパンジャーブ」と「パ」の字が続くと覚えよう。

XI-3. アーリヤ人の侵入

インドと中央アジアを結ぶ交通の要衝である峠を越えて,前1500年頃からインド=ヨーロッパ語系の牧畜民である人が西北インドの地方に侵入するようになり,農耕に従事する先住民を征服した。前1000年頃に[ 2 ]人はより肥沃な川流域に移動し,牧畜社会から定住農耕社会へ移行した。青銅器に代わり鉄器を用い,広大な稲作地帯を形成した。この結果,王侯・武士や司祭といった生産にたずさわらない階層が生まれ,王が人々を支配するようになった。[ 2 ]人は,雷などの自然神を崇拝し,神々をたたえる賛歌集であるインド最古の聖典『』をはじめ,4つのを生み出し,バラモン教の聖典となった。前1500年から前600年頃までは,[ 6 ]時代と呼ばれる。

XI-4. カースト制

インド=ヨーロッパ語系の人は,移動した土地の先住民とまじわって,四つの(種姓)からなる身分的上下関係を作り上げた。支配身分は(司祭)と(武士),従属身分は(農民・牧畜民・商人など)と(隷属民)という四つの身分からなっていた。その後,「生まれ」を意味する何千にもおよぶが形成され,[ 2 ]と融合して,インド独自の社会制度として知られる制が成立した。なお,「[ 8 ]」という語は「血統」を意味するポルトガル語の「カスタ」に由来するもので,インドでは[ 7 ]という言葉が使われる。
check_icon6四つの[ 2 ]の下には,[ 2 ]制の枠外に置かれるとされる被差別民が存在する。

XI-5. 宗教の新たな展開

前5世紀頃に,シャカ族の王子(尊称はブッダ)は,形式化した教の儀礼や教義を批判して,仏教をおこした。それは,徹底した無常観に立ち,八正道の実践によるを説くものであった。クシャトリヤ出身の(尊称はマハーヴィーラ)がおこした教は,禁欲・苦行と極端な不殺生主義を強調するもので,特に商人に受け入れられた。仏教と[ 5 ]教は[ 2 ]の権威を否定し,カースト制を否定するものであった。こうした動きに対して,[ 2 ]教の中からもそれまでの祭式至上主義を見直す動きが出て,哲学書『』(奥義書)が編纂され,宇宙の根本原理(ブラーフマナ)と個人の我(アートマン)を合一することによる輪廻転生からの[ 3 ]を説いた。
check_icon6ゾロアスター教の暗黒の神・悪の神は,『[ 6 ]』の我はアートマン。ペルシア人とアーリヤ人はどちらもインド=ヨーロッパ語族で,似ているので注意!!

XI-6. 最初の統一王朝

前6世紀頃に形成された城壁を持った都市国家群は,コーサラ国と国の二大国にまとまり,前5世紀には[ 1 ]国がコーサラ国を併合した。[ 1 ]国は,インダス川西岸に進出してきた朝ペルシアと接していた。前4世紀後半にマケドニアの大王が[ 2 ]朝を倒して西北インドにまで進出したが,この事件はインドの政治状況に大きな影響を与え,[ 1 ]国の武将が,前317年頃にを都とする朝を建てた。[ 6 ]朝は,インド最初の統一王朝で,西はアフガニスタン南部,東はガンジス川下流域,南は高原を支配する大帝国となった。
check_icon6中国では古代の時代から多くの歴史書が著されてきたが,輪廻転生の世界観をもっているインドの人々は歴史を書き残すことはしていない。そのため,インド史においては年代の特定が困難で,6世紀までの事件については「何年頃」というように表記される。

XI-7. マウリヤ朝最盛期

前317年頃に成立した朝の最盛期を築いたのは,第3代王であった。[ 2 ]王の時に[ 1 ]朝の領域は最大となり,南端部を除くほぼ全インドを支配した。[ 2 ]王は,インド東部にあったカリンガ国を征服する際の惨状を後悔し,仏教に帰依するようになった。[ 2 ]王は,武力による征服活動を放棄し,(法,社会倫理)による統治をめざし,各地に[ 3 ]を説いた詔勅を刻んだ磨崖碑やを建てた。また,や,(セイロン島)への布教を行った。しかし,[ 2 ]王死後,バラモンなどの非仏教勢力の反発と,国家財政の破綻によって衰退した。
check_icon6(1)[ 5 ]は,ブッダの死直後に第1回が行われ,その約100年後に第2回が行われているため,[ 2 ]王のものは第3回である。(2)アショーカ王はブッダの遺骨(仏舎利)を納める(仏塔)を各地に建てた。

XI-8. クシャーナ朝

マウリヤ朝が衰退すると,北西インドにギリシア系のやイラン系のサカ族などが侵入してきた。後1世紀になると,大月氏の支配下にあったイラン系のクシャーン人が西北インドに入って朝を建てた。[ 2 ]朝は,2世紀半ばの王の時に最盛期を迎え,中央アジアからガンジス川中流域に及ぶ地域を支配し,を都に定めた。[ 2 ]朝は,東西交易路の要衝にあり,中継貿易で栄えた。[ 3 ]王は仏教を保護し,(第4回)を行った。3世紀,[ 2 ]朝は西アジアに成立した朝の攻撃を受け,衰退した。

XI-9. 仏教の新展開

紀元前後に仏教に新たな動きが見られた。それまでの仏教は,出家者が厳しい修行を行って自らの救済を求めるものであった。これに対して,あらゆる人々の救済を求めて修行するを信仰するがおこった。[ 2 ]は,それまでの仏教は自身の救済のみを求める利己的なものであると批判し,と呼んだ。2世紀頃,が[ 2 ]の教理を体系化した。[ 2 ]はクシャーナ朝の保護を受けたが,中央アジアを経て,中国・朝鮮・日本に伝来し,北伝仏教と呼ばれる。このころ,文化の影響を受けて仏像がつくられるようになった。美術と呼ばれる仏教美術は,[ 2 ]とともに中国・日本にも影響を与えた。一方,それまでの仏教は,教団が多数に分裂しと呼ばれるが,そのうちの一派であるがスリランカに伝わって東南アジアの仏教のもととなったため,南伝仏教といわれる。
check_icon6以前は[ 6 ]でギリシア人が「初めて」仏像を造ったといわれていた。だが現在では,インド北部の都市マトゥラーで造られた純インド風の仏像の方が[ 6 ]より古いとみなされるようになった。マトゥラーの仏像はグプタ様式へつながる。

XI-10. 南インドの王朝

1世紀頃,モンスーン(季節風)を利用してアラビア海を横断する航海法が開発され,海の東西交渉がさかんとなった。特に,ローマとの貿易は重要で,ギリシア人航海者が著した『』によると,・絹がローマに輸出され,ローマからはやガラス器などがもたらされた。こうした海の道を通じた交易の発展に応じて,南インドの諸王朝が建設された。前1世紀頃,高原に成立した系アーンドラ族の(前1世紀~後3世紀)は海上交易で栄えた。さらに,南インドに成立した[ 5 ]系人の朝(前3~後13世紀)も海上交易で栄え,最盛期の10~11世紀にはスマトラ島のまで遠征した。南インドの最南端にあったドラヴィダ系のパーンディヤ朝(前3世紀頃~後14世紀)は,独自のタミル文化を発達させ,ローマとの交易でも知られる。

XI-11. グプタ朝

4世紀前半にかつてマガダ国があったガンジスの中流域で台頭したは,を都として朝(320頃~550頃)を建てた。[ 3 ]朝は,第3代のの時に最盛期を迎え,北インドの大部分を統治した。[ 3 ]朝の時代は,仏教がさかんで,[ 4 ]のときに東晋の僧がインドを訪れている。一方,[ 3 ]朝ではバラモンが重んじられるようになり,バラモンの言葉である語が公用語とされた。そのため,宮廷を中心に[ 6 ]文学がさかんとなり,[ 4 ]の宮廷詩人が戯曲『』を著した。5世紀後半になると中央アジアを支配していた騎馬遊牧民が侵入し,[ 3 ]朝は衰退して6世紀半ばに滅んだ。
check_icon6(1)[ 5 ]は陸路でインドを訪れ,海路で帰国し,『』を著した。(2)[ 9 ]は,ササン朝のとに挟撃されて滅亡した。

XI-12. グプタ朝時代の宗教・文化

グプタ朝の時代に,従来のヴェーダの宗教に民間信仰を取り入れて徐々に形成されてきた教の基礎が確立した。[ 1 ]教は,破壊と創造の神である神と世界維持の神である神を最高神とする多神教である。[ 1 ]教は,開祖や特定の教義や聖典はなく,日常生活や思考の全体に関わる宗教である。グプタ朝の時代に,四つのが守るべき宗教的・社会的規範を定めた『』が編纂された。また,戦争叙事詩である『』とラーマ王子の物語『』という語の二大叙事詩が現在の形にまとめられた。グプタ朝時代には仏教もさかえ,僧院が建設され,仏教教学の中心となった。美術では,クシャーナ朝期の様式の影響から脱し,的な表情を持つ様式が成立し,マトゥラーの仏像や石窟寺院の壁画などにその様式が見られる。天文学・数学・医学なども発展し,十進法やが生みだされ,のちにイスラーム世界に伝えられ,自然科学を発展させる基礎となった。

XI-13. ヴァルダナ朝とヒンドゥー諸王国

606年にがカナウジを都として朝を建て北インドを統一したが,[ 1 ]の死後王国は崩壊した。[ 1 ]は,ヒンドゥー教・仏教を保護した。唐の僧は,[ 1 ]の保護を受けながら僧院で学び,帰国して『』を著した。仏教は,諸王朝の保護を受けて僧院で教義の研究を進めたが,徐々に民衆の支持を失った。また6世紀頃から,ヒンドゥー教の神々への絶対的帰依を説く運動が仏教やジャイナ教を攻撃したことで,インド社会では仏教は衰退した。[ 2 ]朝が滅亡したのち,8世紀から13世紀まで,北インド各地でヒンドゥー教の地方政権が分立した。諸王たちはクシャトリヤ身分の(「王の子」の意)と称したので,8世紀から13世紀までを[ 7 ]時代と呼ぶ。
check_icon6[ 3 ]は往復とも陸路を用いた。往復とも海路を用いたは,[ 1 ]死後の7世紀後半にインドを訪れ,シュリーヴィジャヤに立ち寄り,『』を著した。

XI-14. インドにおこったイスラーム王朝

962年にアフガニスタンに建国されたトルコ系のイスラーム王朝である朝が北インドへ侵入し,その後[ 1 ]朝を倒した朝が北インド・ベンガルを支配した。と総称されるヒンドゥー教の諸勢力は,これらの動きに一致して対抗することができず,インドのイスラーム化が始まり,13世紀に入るとインド初のイスラーム王朝が成立した。インド最初のイスラーム王朝は,[ 2 ]朝の奴隷出身であるが1206年に建てた(1206~90)である。その後デリーを拠点として,朝(1290~1320)・朝(1320~1414)・朝(1414~51)・朝(1451~1526)の4つのイスラーム王朝が続いた。[ 5 ]から[ 9 ]朝までの5つの王朝をまとめて朝と呼ぶ。[ 10 ]朝統治下では,ヒンドゥー教徒の自治が認められ,イスラーム教が強制されることはなかった。さらに,神との合一を求めるイスラム神秘主義であるは,ヒンドゥー教の信仰と共通する性格があり,スーフィーによる信者拡大も容易であった。
check_icon6(1)[ 5 ]が成立した1206年にモンゴル高原ではが即位した。(2)[ 4 ]がデリーに建設したは,インド最古のモスク付属の塔である。(3)[ 10 ]朝は,ゴロで「奴隷はすぐ去ろう」と覚えよう!!

XI-15. ムガル帝国の成立

ティムールの子孫は,デリー=スルタン朝最後の王朝朝を年のパーニーパットの戦いで破り,帝国を建てた。中央集権的統治機構を整えて帝国の土台を築いたのは,第3代である。全国の土地を測量して地税を徴収する制度を導入し,財政基盤が確立した。また,制と呼ばれる官僚制度が整備され,官僚には官位に応じて俸禄が与えられ,それに応じた騎馬の数を維持させた。[ 5 ]はイスラーム教徒とヒンドゥー教徒の融合を図るため,自らヒンドゥー教のラージプートの王女と結婚し,非イスラーム教徒に課されていた(人頭税)を廃止した。また,[ 5 ]はに遷都した。
check_icon6(1)ヨーロッパでは,[ 3 ]年にモハーチの戦いでオスマン帝国のがハンガリーを破った。(2)14世紀にデカン高原にヒンドゥー王国であるが建国され,南インドを支配した。だが,イスラーム勢力との抗争により17世紀に衰退した。

XI-16. ムガル帝国の最盛期と分裂

ムガル帝国は,第6代のときに最盛期を迎えた。[ 1 ]はデカンの平定に力を注ぎ,一時的であれ,一部を除き南インドにまで領土を広げ,最大版図を形成した。厳格なスンナ派イスラーム教徒であった[ 1 ]は,ヒンドゥー教寺院を破壊し,非イスラーム教徒に課す(人頭税)を復活させた。これに対し,各地で抵抗が起きた。インド西部の居住していた,古代クシャトリヤの子孫を自称したラージプートがアウラングゼーブの政策に激しく抵抗した。また,デカン高原にが建てたヒンドゥー勢力の王国が抵抗し,西北インドでは教徒が反乱を起こした。一方,地方ではと呼ばれる領主層が台頭してきた。1707年に[ 1 ]が死ぬとムガル帝国は解体に向かい,各地に独立政権が生まれた。ムガル帝国は[ 1 ]死去後も名目的存在として存続したが,1857年に起きたの乱(インド大反乱)をきっかけに1858年にイギリスによって滅ぼされた。
check_icon6(1)[ 1 ]の即位年代は,1658~1707年であるが,ゴロで「ヒンドゥーの色こわい,慣れないアウラングゼーブ」と覚えよう!!(2)イギリスでは,アウラングゼーブが死んだ1707年に王国(グレートブリテン王国)が成立した。

XI-17. インド=イスラーム文化

13世紀に成立したインド固有のイスラーム王朝である朝以来,様々な分野でヒンドゥーとイスラームの融合が進んだ。言語面では,北インドの日常語である語に,ムガル帝国の公用語である語の語彙を取り入れた語が生まれた。文字で書かれる[ 4 ]語は現在パキスタンの国語となっている。ムガル帝国第5代皇帝が愛妃ムムターズ=マハルの死を悼んで当時の都に造営したはインド=イスラーム建築の代表とされる。美術では,イランから入ってきたが,肖像画や動植物を主に描く絵画に発展し,その影響でヒンドゥー教の神々を題材として描くラージプート絵画が盛んとなった。

XI-18. イスラーム教とヒンドゥー教との融合

宗教面でもイスラーム教とヒンドゥー教との融合を図る動きが見られた。は,神の前で人はすべて平等であるとしてカースト差別を否定した。その影響を受けたは,偶像崇拝を否定するとともに,カースト制に反対する一神教的な教を創始して,ヒンドゥー教とイスラーム教との融合を図った。[ 3 ]教は西北インドの地方に広まり,19世紀初頭には独立王国を築いたが,1849年にイギリスに滅ぼされた。現在,インドには約2%の[ 3 ]教徒がいる。
check_icon6[ 2 ]と[ 3 ]教は,ゴロで「しくしく泣くナーナク」と覚えよう!!

東南アジア世界(12)

XI-19. 東南アジア世界

ユーラシア大陸南東部にあたる東南アジアは,半島の大陸部と,半島から現在のやフィリピンの島々までの島嶼(とうしょ)部に分けられる。気候的には,高温多湿の熱帯から亜熱帯に属す。大陸部には稲作に適した平原が広がり,島嶼部では諸島にみられるような香辛料などの国際的商品を生みだした。東南アジアは,古くはインドや中国の影響を受け,ついでイスラームの影響を受けつつ独自の文明を築いていった。16世紀には西欧諸国が進出した。19世紀になると,世界市場に組み込まれ,大陸部では稲を中心とする農業開発が進み,島嶼部の[ 2 ]半島では錫(すず)や,自動車生産にともないなどの資源開発が進んだ。東南アジア諸国は,を除き欧米の植民地とされたのち,第二次世界大戦後に独立した。

XI-20. 中国文明の影響と海の道

前4世紀頃,中国の青銅器文化の影響のもと,ベトナム北部を中心に文化という金属器文化が生まれた。[ 1 ]文化特有の青銅器であるは中国南部から東南アジア各地で発見されており,当時の交易の広がりが見て取れる。紀元前後,インド洋交易によって栄えた朝(アーンドラ王国)をはじめとする南インド諸王国の船が香辛料などを求めて,東南アジアに来航した。また,前漢の武帝はベトナム北部に,ベトナム中部にを設置して,南海交易の拠点とした。2世紀半ばには,五賢帝最後のローマ皇帝の使者を称するものが[ 5 ]に来航したという記述が『』にあり,海の道による東西交易の様子が見て取れる。

XI-21. 中国支配下のベトナム

前漢の武帝が,南越を倒してベトナム北部に,ベトナム中部にを設置して以来,ベトナムは1000年以上にわたり中国の支配下に置かれた。後漢のの時には,ベトナム北部で徴(チュン)姉妹の反乱という民族的反抗がおきたが,鎮圧された。唐代には,がベトナム北部を統治したが,唐末五代の中国の混乱期にベトナム人は独立を果たした。一方,ベトナムの中部では,2世紀に人が中国の後漢の支配から独立し,を建てた。中国では[ 6 ]を,2~8世紀頃までは,8世紀半ばからは環王,9世紀半ばからはと呼んだ。[ 6 ]は15世紀後半に大越の支配下に入り,17世紀に滅亡した。
check_icon6宋代の中国に導入された日照りに強い早稲種の[ 8 ]稲は,[ 6 ]原産である。

XI-22. ベトナムの独立王朝-大越国-

中国が唐末五代の混乱期に入ると,ベトナムでも自立の動きが強まった。ベトナムは,10世紀後半に独立し,1009年にが成立し,国号をとし,ハノイに都を置いた。[ 1 ]は侵入してきた中国の軍を撃退し,ベトナム中部にあったを攻撃して南進した。[ 1 ]にかわって1225年に成立した[ 2 ]は,中国のの侵攻を3度撃退し,さらに漢字をもとに考案したと呼ばれるベトナム独自の文字をつくり,民族意識を高揚させた。[ 5 ]は,科挙を導入し,中国風の行政制度を整備した。1400年に[ 5 ]が国内の混乱で滅ぶと,の永楽帝が[ 5 ]復興を口実に軍隊を派遣し,一時ベトナムを支配した。その後,[ 8 ]軍を撃退して1428年に成立した[ 2 ]は,[ 8 ]と朝貢関係を結び,朱子学を導入し,また律令制度を整備し,明にならった中央集権国家を建設した。[ 9 ]はベトナム中部にあったを併合し,現在のベトナムに近い領域を支配した。しかし,16世紀以降,[ 9 ]は名目的存在となり,17世紀以降は北部の鄭氏と中部の阮氏が勢力を二分した。18世紀後半に党の農民反乱が起き,両氏が滅びるとともに,[ 9 ]も滅亡した。
check_icon6(1)[ 1 ][ 5 ][ 9 ]とも中国の侵攻を撃退していることに注意!!(2)[ 5 ]が成立した1225年は,ゴロで「いつニコチンやめる」と覚えよう!!

XI-23. ベトナムの独立王朝-越南国-

ベトナムでは,18世紀後半にの反乱が起き,[ 1 ]朝が一時ベトナム全土を支配した。これに対し,[ 1 ]党に滅ぼされた氏の生き残りのは,フランス人宣教師やタイの援助を受けて,[ 1 ]朝を滅ぼし,1802年にフエ(ユエ)に都をおく[ 2 ]朝を建て,国号をと定めた。1804年,[ 3 ]は清により[ 5 ]国王として冊封を受け,清の制度を導入した。

XI-24. カンボジア

1世紀頃,ベトナム南部からカンボジア南部のメコンデルタに国家であるが建国された。[ 2 ]の港からは,漢の鏡,インドの仏像・神像やローマの金貨などが出土した。6世紀にメコン川中流域に人によって(中国名:)がおこると,[ 2 ]はこれに圧倒されて7世紀に滅んだ。8世紀,[ 5 ]([ 6 ])は北の陸[ 6 ]と南の水(すい)[ 6 ]に分かれて争い国力を消耗させたが,9世紀初めに成立した朝が再統一を果たした。12世紀に最盛期を迎えた[ 7 ]朝は,王都であるやヒンドゥー教寺院であるを建設した。[ 7 ]朝は,14世紀以降,タイの朝に圧迫されて衰退した。
check_icon6(1)[ 1 ]国家とは,[ 1 ](港町)を中心に中継貿易などで発展した国家。[ 2 ]やスマトラ島の,ベトナム中部のなどがこれにあたる。(2)[ 9 ]は,のちに仏教寺院に改修された。

XI-25. ビルマ(ミャンマー)

イラワディ川流域では,9世紀までチベット=ビルマ(ミャンマー)系の人の国があった。南下したビルマ人が,1044年にイラワディ川中流域にビルマ最初の統一王朝である朝を建てた。[ 2 ]朝は,雲南とベンガル湾を結ぶ交易で繁栄し,スリランカからを導入した。しかし,中国の軍の攻撃を受けて,[ 2 ]朝は13世紀末に滅亡した。その後,ビルマは分裂していたが,16世紀に朝がビルマの統一に成功した。[ 5 ]朝は東南アジア内陸部とベンガル湾を結ぶ交易と農業で繁栄し,タイの朝を攻略し,一時は現在のタイ・ラオスの大半を支配した。しかし,17世紀に[ 6 ]朝の反撃にあい衰退し,18世紀半ばに人のペグ-朝によって滅ぼされた。1752年,ビルマ人のアラウンパヤーが(アラウンパヤー)朝を建てた。[ 8 ]朝はほぼ現在のミャンマーの領域を支配した上,海岸部の[ 7 ]人を征服し,さらにタイの[ 6 ]朝を滅ぼした。しかし,[ 8 ]朝は,19世紀におきた3次におよぶ戦争でイギリスに敗れ,インド帝国に併合された。
check_icon6[ 8 ]朝が成立した1752年は,ゴロで「イナゴにこんばんは」と覚えよう!!

XI-26. タイ

タイのチャオプラヤ川流域は7世紀から11世紀頃まで人のが支配し,が盛んに行われた。雲南方面から南下してきたタイ人は,13世紀半ばに最初の王朝である朝をタイ北部におこし,[ 3 ]を受容し,タイ文字を制定した。1351年に成立したタイ人の朝は,クメール人がカンボジアに建てた朝を15世紀に滅ぼし,また[ 4 ]朝を併合した。17世紀に[ 5 ]朝は,中国・日本やヨーロッパ諸国との交易の中心として栄え,[ 3 ]を保護した。[ 5 ]朝は,1767年にビルマの朝に滅ぼされた。1782年に[ 5 ]朝の武将であったチャクリがバンコクを都とする朝をおこし,ビルマの[ 7 ]朝の侵入を撃退した。[ 8 ]朝は,現在まで続くタイの王朝である。
check_icon6(1)「タイ」という国号は1939年からのもので,旧称はヨーロッパ人が[ 5 ]朝を指す呼称として用いた「シャム」である。(2)[ 5 ]朝が成立した1351年は,ゴロで「鮎じゃないよ,父さん鯉だよ」と覚えよう!!

XI-27. インドネシア-海路を支配する仏教王国-

マレー半島とスマトラ島にはさまれたマラッカ海峡が主要な交易ルートになると,7世紀半ばに港市国家群が連合してスマトラ島のを中心に,を建てた。[ 2 ]は,マラッカ海峡を管理し,マレー半島南部やジャワの一部も支配した。[ 2 ]はインドからを導入し,唐に朝貢使節を派遣した。唐の僧は帰国途上で[ 2 ]を訪れ,[ 1 ]で『』を著した。8世紀半ばに,ジャワ島中部に朝が生まれると,[ 2 ]と合邦し,強力な海軍力で東南アジアの海路を支配した。[ 6 ]朝は,ジャワ島中部のに[ 3 ]寺院を建設した。
check_icon66世紀までは,「海の道」はマレー半島を横断する陸路を途中で用いるルートが主要な交易ルートで,カンボジア南部にある扶南のはそのルート上に当たり繁栄していた。しかし,7世紀に交易ルートがマラッカ海峡ルートにかわると,扶南が衰退した。

XI-28. インドネシア-ヒンドゥー教国-

仏教遺跡ボロブドゥールを建設した仏教王国朝ののち,ジャワではヒンドゥー王国が続いた。8世紀,中部ジャワにジャワ人が朝を建て,ヒンドゥー教を取り入れ,寺院群を建設した。10世紀に[ 2 ]はジャワ東部に中心を移し,クディリ朝と称した。クディリ朝では,インドの叙事詩『マハーバーラタ』がジャワ語に翻訳され,と呼ばれる影絵芝居が行われた。1222年にクディリ朝はシンガサリ朝に倒された。ジャワ東部に栄えたシンガサリ朝は,元を建てたの朝貢勧告を拒み,元軍のジャワ遠征のきっかけを作った。シンガサリ朝は,元の遠征軍の到着を待たずに内乱で1292年に滅んだ。元の遠征軍を撃退した勢力がジャワ東部に建てたのが,王国である。[ 6 ]王国は海上交易で繁栄し,一時はマラッカ海峡からインドネシア全域の交易を支配したが,15世紀後半からのイスラーム勢力の進出で衰退し,16世紀前半に滅亡した。[ 6 ]王国は,ジャワ島の有力なヒンドゥー教国としては最後のものとなった。
check_icon6[ 2 ]は,16世紀後半に成立したイスラームのマタラム王国と区別するため,古マタラム朝と呼ばれる。

XI-29. インドネシア-イスラーム教国-

東南アジアにイスラームが広がる拠点を与えたのは,14世紀末にマレー半島南西部に建てられた王国であった。[ 1 ]王国は永楽帝が派遣したの寄港地となり,明を後ろ盾にタイの朝やジャワのヒンドゥー王国である王国の干渉を排除して,[ 1 ]海峡を支配した。15世紀に[ 1 ]王国の国王がイスラームに改宗したことから,[ 1 ]を拠点にイスラームがインドネシアやフィリピンに広まった。イスラーム王国としては,スマトラ島北部に王国(16世紀~20世紀初め)が成立し,ジャワ島西部に王国(16世紀~1813),ジャワ島中部に王国(16世紀後半~1755)がおこった。[ 5 ]王国と[ 6 ]王国は香辛料貿易で,[ 7 ]王国は米の輸出で繁栄した。

XI-30. ヨーロッパ諸国の東南アジアへの進出

西回りでの世界一周をめざしていたが1521年にフィリピンに到達し,この地はのちに皇太子フェリペ(のちのフェリペ2世)にちなんでフィリピンと命名された。16世紀後半になるとスペインはフィリピンの支配をもくろみ,1571年にルソン島にを建設し,フィリピン経営の拠点とした。スペイン商人はメキシコのから[ 2 ]へを運び,中国商人が[ 2 ]に運んだ絹・などと交換した。東南アジアへイスラームが広がる拠点となったマレー半島南西部のは,1511年ににより占領され,1641年以降は,1824年以降はが支配した。[ 8 ]は,1602年に会社を設立してインドネシアへの進出を図り,1619年にジャワ島に(現ジャカルタ)を建設し,根拠地とした。1623年の事件を機に,(マルク,香料)諸島からイギリス勢力を駆逐して香辛料貿易を独占した。[ 8 ]は,1755年にジャワ中部の王国を,1813年にジャワ西部の王国を,さらに20世紀初めにスマトラ島北部の王国を滅ぼした。
check_icon6[ 2 ]が建設された1571年にヨーロッパでは,の海戦でオスマン海軍が敗北した。