8.冷戦と第二次世界大戦後の世界

「8.冷戦と第二次世界大戦後の世界」の一問一答問題です。

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戦後処理と国際連合(7)

VIII-1. 連合国による戦後処理

第二次世界大戦終結後,連合国は枢軸国を軍事占領して戦後処理を実施した。連合国は,ドイツと日本の指導者をで裁いた。ドイツでは[ 1 ],日本では(極東[ 1 ])で敗戦国の指導者が処罰された。連合国は1947年,旧枢軸国であったイタリア・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリア・フィンランドとを結んだが,ドイツ・オーストリア,日本については占領統治が継続された。ドイツは米・英・仏・ソ4か国によるのもとに置かれ,ソ連管理地区にあった首都ベルリンも4か国で[ 5 ]された。オーストリアも4か国で[ 5 ]され,1955年に中立国として独立した。日本はアメリカ中心の連合国軍により占領され,の指示のもと,軍隊の解散,日本国憲法の制定や財閥解体などの改革が断行された。

VIII-2. 国際連合(1)

国際連合の構想は,アメリカ大統領とイギリス首相による1941年のに端を発する。43年のモスクワ宣言で新たな国際組織設立をうたい,44年に会議で国際連合憲章の草案がまとまった。1945年4~5月,連合国50か国が参加した会議で国際連合憲章が採択され,10月に51か国を原加盟国として国際連合が発足した。
check_icon6[ 5 ]会議の開催時期に注意。ドイツが降伏したのは45年5月,日本が降伏文書に署名したのは9月である。国際連合(United Nations)は戦勝国が創設したもので,日本・ドイツなどの旧敵国は差別的に取り扱うとする敵国条項が国際連合憲章には存在する。

VIII-3. 国際連合(2)

国際連合は本部をアメリカのに置いた。全加盟国で構成されるは,あらゆる問題を討議して決議することができるが,その決議は加盟国などへの勧告の形をとり,拘束力・強制力はもたない。国際連盟が第二次世界大戦の勃発を阻止できなかった反省から,主要国間の協調が重視され,[ 2 ]に優越するが設置された。[ 3 ]は軍事的制裁を含む強大な権限を持っており,アメリカ・イギリス・フランス・ソ連・中国の5大国からなるには1国の反対で議決を阻止できるが与えられている。
check_icon6中国の代表権は,1971年に中華民国から中華人民共和国へ変更された。また,91年にソ連が崩壊するとロシアへ変更された。

VIII-4. 国際連合(3)

国際連合には,経済・社会・文化などの国際的問題を研究・勧告するやオランダのハーグにあるなどの主要機関が設置されたほか,(国際連合教育科学文化機関)や(ILO)・(WHO)などの専門機関がもうけられている。1948年の第3回総会であらゆる国家・国民の基本的人権についての目標を示したが採択されたが,法的拘束力はもっていない。
check_icon6[ 2 ]の前身は,国際連盟のもとに設立された常設国際司法裁判所である。

VIII-5. アメリカ主導の国際経済秩序

第二次世界大戦終了時,アメリカは唯一の核保有国であり,世界の鉱工業生産の6割以上,世界の金の約7割を保有して経済的覇権を握った。アメリカ主導の国際経済秩序は3つの柱からなる。国連専門機関として1945年に設立された(IMF)と(IBRD,世界銀行),そして貿易上の障壁をなくそうとする「」(GATT,ガット)である。金と交換可能な唯一の通貨であるアメリカのドルがとされ,各国通貨とドルの交換比率が固定化された。こうして経済的覇権は,第二次世界大戦前のイギリスからアメリカに完全に移行した。
check_icon6(1)第二次世界大戦後の国際経済秩序を,[ 1 ]と[ 2 ]の創設会議が開かれた地名にちなみ,体制と呼ぶ。(2)[ 3 ](GATT,ガット)を受け継いで,1995年に(WTO)が発足した。

VIII-6. ソ連による社会主義陣営の形成

第二次世界大戦中にソ連の軍事力によってナチス=ドイツから解放されたポーランド,ハンガリー,ルーマニア,ブルガリアでは,ソ連軍の占領下で事実上の共産党一党独裁体制が確立された。一方,闘争でナチスの支配を脱したとアルバニアでも社会主義国家が樹立された。では共産党を含む連立政権が成立したが,1948年に共産党がクーデタを起こして政権を奪取した([ 3 ]=クーデタ)。こうして東欧には社会主義陣営が形成されたが,政権を失っていたチャーチルは1946年,バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで「」が降ろされていると非難した。
check_icon6冷戦が進行するなか,ソ連の衛星国となった東欧諸国は自らの政治体制のことを人民民主主義と呼んだ。

VIII-7. 第二次世界大戦直後の西欧諸国

イギリスでは,1945年7月の選挙でが圧勝して,チャーチルにかわってが首相となった。[ 2 ]政権は,重要産業の国有化をすすめるとともに,「ゆりかごから墓場まで」といわれた社会福祉制度の充実を図った。外交政策では,47年にインド・パキスタンの独立を認めるとともに,パレスチナ委任統治権を放棄した。1937年にイギリス連邦を事実上脱退していたは,49年にイギリス連邦から完全に離脱した(参照:VII-15)。フランスでは,46年にによる臨時政府にかわってが発足したが,インドシナ・の独立運動に対応できず,58年に崩壊した。イタリアでは,46年に国民投票で王政が廃止されてとなった。

冷戦の展開(15)

VIII-8. 冷戦

第二次世界大戦末期から年の会談にいたるまで,アメリカを中心とする自由主義(資本主義)陣営(西側)とソ連を中心とする共産主義(社会主義)陣営(東側)が対立した。この対立は,直接の軍事衝突をともなわなかったことから「冷戦Cold War」と呼ばれる。冷戦は通常,46年から47年にかけて始まったとされるが,55年の米英仏ソ首脳による,63年の米英ソによる,72年の米ソによる(第1次SALT)の時点では米ソの対立が一時的にゆるんだ。80年代初頭に「新冷戦」が始まったとされるが,[ 1 ]年に東欧の共産党支配体制が崩壊し,91年のソ連崩壊で西側の勝利に終わった。
check_icon6(1)70年代に米ソ間の対立が緩んだことを(デタント)という。(2)45年2月に行われた会談で戦後の国際体制について話し合われたので,[ 7 ]会談から冷戦が始まったとする見方があり,「[ 7 ]から[ 2 ]まで」という言葉もある。

VIII-9. 冷戦の始まり

年,アメリカ大統領は,内戦状態にあったと,ソ連と対峙していたトルコに対して軍事・経済援助を行って共産主義化を阻止すると宣言した([ 2 ]=ドクトリン)。これは共産主義勢力に対する「」の始まりであった。同年,アメリカ国務長官がヨーロッパの復興のため(ヨーロッパ経済復興援助計画)を発表し,西欧諸国はこれを受け入れるためにヨーロッパ経済協力機構(OEEC)を設立した。ソ連は,[ 5 ]によってアメリカの影響が東欧諸国に及ぶことを警戒して,同年,(共産党情報局)を結成して対抗した。
check_icon6(1)ヨーロッパ経済協力機構(OEEC)は61年に経済協力開発機構(OECD)に改組された。(2)が率いるパルチザン闘争によって自力でナチス=ドイツからの解放に成功したユーゴスラヴィアは,ソ連とは異なる自立的な路線をとったため,48年に[ 6 ]から除名された。

VIII-10. ヨーロッパの分断(1)

1948年のクーデタによりに共産党政権が樹立されると,これに危機感を抱いた英・仏・(ベルギー・オランダ・ルクセンブルク)の西側5か国は(ブリュッセル条約)を締結し,共産主義勢力の拡大を阻止しようとした。翌49年,アメリカを含めた西側12か国が東側に対抗する軍事同盟であるを結成した。ソ連は,49年,東側の経済協力機構として(経済相互援助会議)を組織した。54年,(西ドイツ)の再軍備と[ 4 ]加盟を承認したが結ばれたが,これに対抗してソ連は55年に東欧7か国と東ヨーロッパ相互援助条約を結び,軍事同盟であるを発足させた。
check_icon654年の[ 7 ]でドイツ・イタリアの[ 3 ]への参加が認められ,西ヨーロッパ連合(WEU)へと改組された。

VIII-11. ヨーロッパの分断(2)

1948年,東西対立はベルリンで先鋭化した。米・英・仏が占領区域で西ドイツ政府を樹立することを前提に,ソ連の反対を無視して西ドイツ占領区域における単独のを行うと,ソ連は米・英・仏が管理していた西ベルリンへの水陸の交通路を遮断した()。西側3国が物資を空輸することで対抗し,ソ連は翌49年に封鎖を解除した。同年,ボンを暫定的首都とする(西ドイツ)と,東ベルリンを首都とする(東ドイツ)が成立して,ドイツは東西に分断された。[ 3 ](西ドイツ)は,キリスト教民主同盟の首相のもと,54年ので主権を回復し,再軍備とNATO加盟が認められて西側の一員となった。
check_icon6[ 3 ](西ドイツ)は,ドイツ統一が達成された場合に,首都をベルリンに遷しやすいように,首都としてはふさわしくないボンを暫定的首都と定めた。1990年のドイツ統一後,首都はベルリンに遷された。

VIII-12. 反共軍事同盟(1)

アメリカは1948年,アメリカ大陸への共産主義勢力の浸透を防ぐために南北アメリカ諸国と(OAS)を発足させた。49年,ヨーロッパにおけるソ連の脅威に対抗して(NATO)が結成された。50年にが勃発すると,アメリカは日本との講和を急ぎ,51年に講和(平和)条約を締結した。この条約で日本は独立を回復するとともに,を締結して米軍の駐留を引き続き認めた。さらにアメリカは,日本を警戒するオーストラリアとニュージーランドの2国と(ANZUS)を締結した。
check_icon6ANZUSとは,オーストラリア・ニュージーランド・アメリカ合衆国の国名の頭の文字をつなぎあわせたもの。

VIII-13. 反共軍事同盟(2)

1953年に朝鮮休戦協定が成立すると,アメリカはを締結して,引き続き米軍を韓国に駐留させた。54年に休戦協定でインドシナ戦争が終結すると,同年アメリカは(SEATO)を成立させた。中東では55年,(中東条約機構,METO)を成立させたが,58年の革命でイラクが脱退すると,(CENTO)に再編成した。また中華人民共和国に対抗するため,54年にアメリカは中華民国(台湾)と米華相互防衛条約を締結した。
check_icon6[ 3 ](SEATO)参加国は,アメリカ・イギリス・フランス・オーストラリア・ニュージーランド・タイ・フィリピン・パキスタンの8か国。条約の名称にある「東南アジア」の国は,タイとフィリピンの2か国しかないよ!!

VIII-14. アメリカの動揺

1949~50年にアメリカの不安がかきたてられた。49年,ソ連が原爆実験に成功した上,10月にはを主席,を首相とするが建国された。さらに50年,(北朝鮮)軍が北緯度線を越えて侵攻して朝鮮戦争が始まった。これらの動きを背景に,アメリカ社会では共産主義への警戒が高まり,共産主義者やその同調者を公職から追放する運動()がさかんになった。「赤狩り」とも呼ばれたこの運動で,政府に批判的な知識人やハリウッドの映画人などが標的とされ,言論・思想の抑圧が進んだ。また,57年にソ連は世界初の人工衛星1号を打ち上げたが,これは西側諸国に大きな衝撃を与え,「[ 7 ]=ショック」といわれる。

VIII-15. 「雪どけ」

1953年にが死去すると,ソ連は西側との協調へ外交政策を転換した。55年にインドネシアのでが開催されると,それに対応して同年に米・英・仏・ソの首脳がを開催した。56年にソ連共産党大会で第一書記が[ 1 ]批判を行うとともに,西側との政策を提唱し,(共産党情報局)を解散した。59年,[ 6 ]が訪米し,大統領と会談した。この緊張緩和を,ソ連で出版された小説の名にちなみ「」と呼ぶ。
check_icon6[ 1 ]批判はポーランドとでの自由化運動を引き起こし,[ 11 ]に対してはソ連軍が軍事介入した。また,[ 1 ]批判は中ソ論争のきっかけとなった。

VIII-16. 第三世界(1)

1950年代に冷戦の緊張緩和が進んだ。53年にが,54年にはがジュネーヴ休戦協定で休戦を迎えた。53年の死去後に始まった「雪どけ」の国際関係を背景に,新たに独立したアジア・アフリカ諸国が東西対立から距離を置いて結束しようという動きが現れた。54年,中国の首相がインドを訪問し,インドの首相と会談して,「領土と主権の尊重・相互不侵略・内政不干渉・平等互恵・平和共存」からなるを提唱し,冷戦下における国際政治のあり方を示した。
check_icon6インドと中国の関係は50年代半ばは[ 6 ]にみられるように良好だった。しかし,1959年にチベット反乱が勃発してがインドに亡命すると,59~62年にかけて中印国境紛争が起きて対立関係に入った。

VIII-17. 第三世界(2)

1955年,インドネシアので日本を含む29か国が参加した([ 1 ]会議)が開かれた。この会議では,前年に中国の首相とインドの首相が発表していたを発展させたが採択された。さらに61年,インドの[ 4 ]首相,ユーゴスラヴィアの大統領,エジプトの大統領の提唱で,ユーゴスラヴィアのでが開催された。東西対立から距離を置こうとするこれらの勢力を「第三勢力」あるいは「」と呼ぶ。

VIII-18. 核戦争の危機

1960年,ソ連がアメリカの偵察機U2型機をソ連上空で撃墜し,米・ソは再び緊張関係に入った。東ドイツで農業の集団化が推進されると,東から西側に脱出する人々が急増したため,東ドイツ政府は61年に西[ 1 ]との境界線に壁を築いた([ 1 ]の壁)。62年,ソ連がにミサイル基地を建設すると,アメリカ大統領は撤去を求めて[ 2 ]を海上封鎖し,米ソによる核戦争の危機が発生した([ 2 ]危機)。最終的にソ連が譲歩し,ミサイル基地を撤去する合意が成立した結果,核戦争の勃発は回避された。それ以後,米ソは再び緊張緩和の方向に転じ,63年に米・英・ソ3国間でが締結された。
check_icon660年に核実験に成功したばかりのフランスと,まだ核実験に成功していなかった中国は[ 4 ]に調印しなかった。その後,中国は64年に核実験に成功した。

VIII-19. アメリカの指導力低下(1)

1965年から始まったベトナム戦争の長期化はアメリカの財政と社会に深刻な影響を与えた。ベトナム反戦運動の高まりと68年の解放民族戦線側の奇襲攻撃(テト攻勢)を受けて,ベトナムへの本格的軍事介入を決定した大統領は再選を断念し,69年にのが大統領に就任した。[ 3 ]大統領は北ベトナム・解放戦線側と和平交渉を進めるとともに,北ベトナム・解放戦線側を援助していたソ連と中国にも対応した。ソ連とは69~72年にかけて第1次(SALT I)を進めて関係改善を図るとともに,中国に接近することによってソ連を牽制した。72年,[ 3 ]大統領が訪中して事実上中国を承認した上で,73年にを結び,ベトナムから米軍を撤退させた。
check_icon6ベトナム戦争の開始年については諸説ある。ジュネーヴ休戦協定後にできた南ベトナムをアメリカは支援するので,ジュネーヴ休戦協定成立の1954年とする説。南ベトナム解放民族戦線ができた60年とする説。65年は,アメリカが北ベトナムを爆撃し,地上軍を派遣した年である。

VIII-20. アメリカの指導力低下(2)

1944年の会議以後,唯一金と交換できるアメリカのドルは国際経済の基軸通貨であった。だが,西欧諸国や日本が経済を回復させると,アメリカのドルが海外に流出し,ドルの価値が60年代に揺らぎ始めた。ベトナム戦争の莫大な戦費がドルの信用をさらに低下させ,71年にアメリカ大統領はドルと金の交換停止を発表した(ドル=ショック)。国際通貨体制は大きく動揺し,73年にはに移行して,[ 1 ]体制は崩壊した。73年の中東戦争を機におきたは西側先進工業国の経済に深刻な打撃を与えた。こうした世界的な経済・政治問題を協議するために,75年からが開催されるようになった。
check_icon6[ 6 ]参加国は,第1回が米・英・仏・日・西ドイツ・イタリアの6か国,第2回からカナダも参加してG7となり,97年からロシアが参加してG8となった。だが,ロシアがクリミア半島を併合し,ウクライナ内戦に軍事介入したことをもって2014年にロシアの参加は停止されており,現在はG7である。

VIII-21. 1970年代におけるヨーロッパでの緊張緩和

1969年,西ドイツにを中心とする連立政権が誕生し,首相はソ連や東欧諸国との関係改善をめざすを展開した。72年に東西ドイツは相互に承認し合い,翌年両国はに加盟した。75年,フィンランドのでアルバニアを除く全ヨーロッパ諸国とアメリカ・カナダが参加して全欧安全保障協力会議が開催され,主権の尊重や武力不行使などをうたった[ 5 ]宣言が採択された。
check_icon6米ソは,72年に第1次(SALT I)を妥結し,さらに79年に第2次[ 6 ](SALT II)に合意していた。70年代の緊張緩和をと呼ぶ。

VIII-22. 新冷戦と冷戦の終結

1979年,ソ連がに軍事侵攻すると,70年代の緊張緩和()が終わり,「新冷戦(第2次冷戦)」といわれる東西対立が激化した。「強いアメリカ」を唱えたアメリカの大統領は宇宙空間における戦略防衛構想(SDI)などの軍備拡張を推進した。軍備拡張は米ソ両国の財政や経済に深刻な影響を及ぼした。アメリカでは財政赤字と貿易赤字の「双子の赤字」が深刻化し,アメリカが世界最大の債務国となると,1985年ので日・米・英・仏・西独がドル高是正の協調介入を行うことが容認された。一方,社会主義体制がいきづまっていたソ連にはさらなる大きな負担を強いた。85年に書記長に就任したは,情報公開()による言論の自由化,改革()を提唱し,さらに「」と呼ばれる協調外交で冷戦の終結を図った。87年にで核軍縮が行われ,米ソ間の緊張緩和が進んだ。89年にソ連軍が[ 1 ]から撤退し,同年アメリカ大統領と[ 5 ]が地中海の島で会談し,冷戦の終結を宣言した。
check_icon6ソ連の[ 1 ]侵攻の背景は,安全保障上の問題のほかに,79年に起きた革命によって盛り上がってきたイスラーム復興運動がソ連国内に飛び火することを恐れたことがある。

第二次世界大戦後のアメリカとラテンアメリカ(7)

VIII-23. 第二次大戦後のアメリカ大統領(1)

1953年に大統領に就任した共和党のは「巻き返し政策」という対ソ強行路線を基本としつつ,の休戦や4巨頭会談の参加など,緊張緩和も図った。61年に就任した民主党の大統領は政策を掲げて国内改革を進めようとした。62年のではソ連のミサイルを撤去させることに成功したが,63年に暗殺された。副大統領から昇格した大統領は,貧困の解消などをめざす「」計画を提唱した。黒人指導者らによる黒人差別撤廃運動()の拡大もあり,[ 7 ]大統領は選挙や公共施設における人種差別を禁止するを64年に成立させた。しかし,65年からのへの本格的軍事介入に対して国内で[ 12 ]反戦運動が爆発的に広まり,[ 7 ]大統領は再選を断念した。
check_icon6[ 4 ]大統領は,アイルランド系であり,史上初のカトリック教徒の大統領である。

VIII-24. 第二次大戦後のアメリカ大統領(2)

ベトナム戦争の戦費や社会保障費の増大によってドルの信用が低下したため,1969年に就任したの大統領は,71年にドルと金との交換を停止した()。[ 2 ]大統領は国際関係を整えつつ(参照VIII-19),73年にを結び,ベトナムから米軍を撤退させた。しかし,72年の大統領選挙時における民主党に対する盗聴事件(事件)に関与していたことが発覚して,74年に辞任した。77年に就任したの大統領は,「人権外交」を唱えて,99年にパナマ運河を返還する新条約に調印し,79年に正式に中国と国交を正常化させた。しかし,79年におきた革命やソ連の侵攻への対応が弱腰外交との攻撃を受け,再選されなかった。

VIII-25. 第二次大戦後のアメリカ大統領(3)

1981年に就任したの大統領は,「」を掲げ,ソ連に対抗する軍備拡張を進めて「新冷戦」を戦った。経済政策の面では,政府の経済への介入を少なくして市場の自由競争によって経済を発展させようとするの立場に立った。しかし,財政赤字と貿易赤字の「双子の赤字」が深刻化し,85年には各国の協調介入によるドル高是正が合意された(プラザ合意)。
check_icon6国家が経済に介入して福祉などの国民生活に関わる「大きな政府」に対し,[ 4 ]は政府の役割を制限する「小さな政府」の立場に立つ。アメリカの[ 2 ]大統領やイギリスの首相が推進した。

VIII-26. 第二次大戦後のアメリカ大統領(4)

1989年に就任したの大統領は,ソ連の書記長と89年に首脳会談を開き,冷戦の終結を宣言した(会談)。また,イラクによる侵攻を背景に起きた91年のでも成功を収めるなど外交面では手腕を発揮した。しかし,経済の停滞が続き,2期目の選挙でのに敗れた。[ 8 ]大統領は,1993年にPLOの議長とイスラエルの首相を仲介し,(オスロ合意)を成立させた。また,[ 8 ]大統領のもと94年に,アメリカ・カナダ・メキシコ間で結ばれた,自由貿易をめざす(NAFTA)が発効した。

VIII-27. 第二次大戦後のアメリカ大統領(5)

2001年に就任したの大統領は,2001年にによる同時多発テロ事件がおこると,[ 3 ]をかくまっていた政権を倒すためにを攻撃した。さらに,2003年,イラクの政権が大量破壊兵器を保持し,国際テロ組織と結びついているとして,イギリスとともにイラクを攻撃して,[ 6 ]政権を倒した。2009年,出身で,アメリカ史上初のアフリカ系の大統領が就任した。

VIII-28. 第二次大戦後のラテンアメリカ(1)

ラテンアメリカ諸国は,第二次大戦後も,アメリカの政治的・経済的支配下に置かれ,貧富の差が大きかったため社会変革を求める労働者らの声が高まった。1930年に大統領に就任して独裁体制を敷いたブラジルのヴァルガスは45年にクーデタで失脚したが,51年に大統領に返り咲き,労働者の支持を受けつつ石油公社の創設など民族主義的政策を行った。46年に大統領に選出されたアルゼンチンのは独裁政治を行い,反米的政策をとり,工業・銀行・鉄道の国有化を図った。51年に誕生した左翼政権は土地改革を行ったが,54年にアメリカに支援された軍部クーデタで倒された。チリでは,70年にが大統領となり,世界で初めて民主的選挙によって社会主義政権を建てた。しかし,73年にアメリカの支援を受けた軍部クーデタにより[ 3 ]政権は倒され,ピノチェトが大統領となった。

VIII-29. 第二次大戦後のラテンアメリカ(2)

キューバでは,による親米的な独裁政権が続いていたが,1959年にが指導する革命がおき,[ 1 ]政権は倒された。[ 2 ]政権は当初,社会主義路線はとっていなかった。しかし,小作人に土地を分配する土地改革を実施し,アメリカ系企業を国有化すると,61年にアメリカは国交を断絶して,亡命キューバ人を支援して政権の転覆をはかった。これに対し,[ 2 ]政権は社会主義宣言を発表してソ連寄りの姿勢を強めた。62年に,ソ連がキューバにミサイル基地を建設すると,アメリカは撤去を求めて海上封鎖して緊張が高まった(キューバ危機)。最終的にソ連が譲歩して,核戦争の危機は回避された。
check_icon62015年にアメリカの政権はキューバとの国交を回復した。

西欧諸国とヨーロッパ統合(7)

VIII-30. イギリスの衰退

イギリスは第一次と第二次の両大戦における戦勝国ではあったが,第二次大戦後には多くの植民地が独立して勢いを失った。1945年に誕生したの政権は,重要産業の国有化をすすめるとともに,「ゆりかごから墓場まで」といわれた社会福祉制度の充実を図った。56年にはイーデン保守党政権が出兵で失敗し,翌年イーデンは辞任した。64年に成立したウィルソン労働党政権はポンド切り下げや[ 3 ]以東からの撤兵を行い,イギリスの影響力は大きく低下した。60年代,イギリスでは経済不振が続き,国際競争力が低下して国際収支が悪化した。これを「イギリス病」と呼ぶ。79年に誕生したの政権は,社会保障費の削減や国有企業の民営化などを行って「小さな政府」の実現をめざしたが,失業問題が深刻化した。82年に勃発した諸島をめぐる紛争でを破って支持率を回復した[ 5 ]政権は,急進的な経済改革を行って経済を好転させた。

VIII-31. ド=ゴールによる独自路線

フランスでは,1946年にによる臨時政府にかわってが発足した。しかし,[ 2 ]はフランス人入植者と結んだ駐留軍の反乱にあい,58年に崩壊した。[ 1 ]は議会の権限を抑制して大統領権限を強化するを発足させ,大統領に就任し,62年に[ 3 ]の独立を認めた(エヴィアン協定)。[ 1 ]は,64年に中国を承認し,66年にはの軍事機構から脱退する(現在は復帰している)など,米ソとは距離を置く独自の道を歩んだ。しかし,アメリカにおけるベトナム反戦運動がフランスにも飛び火し,学生・市民らによる大規模な異議申し立てが68年におきた()。この運動の結果,支持を失った[ 1 ]は69年に退陣した。
check_icon6フランスでは,1981年に社会党のが大統領となり,共産党を含む左派連合政権を樹立して,主要産業や銀行の国有化を進めたが,経済再建には失敗した。

VIII-32. 第二次世界大戦後のドイツ

ドイツは,第二次大戦後に米・英・仏・ソ4か国によるのもとに置かれていたが,1948~49年のを経て東西に分断された。(西ドイツ)は,キリスト教民主同盟の首相のもと,54年ので主権の回復・再軍備・NATO加盟が認められた。その後,[ 4 ]政権下の西ドイツは,60年代に「経済の奇跡」といわれる経済復興を成し遂げた。69年に首相となったのは,(東ドイツ)を承認したり,戦後に設定されたポーランドとの間の国境(オーデル=ナイセ線)を承認するなど,東欧諸国やソ連との関係改善を進めた()。一方,社会主義経済が行き詰まった東ドイツでは,89年に書記長が退陣し,が開放された。翌90年,キリスト教民主同盟の首相のもと,西ドイツが東ドイツを吸収し,ドイツ統一が実現された。

VIII-33. 南ヨーロッパ諸国の民主化

1967年以来軍事政権のもとにあったギリシアは,75年に民主政に復帰した。ポルトガルは,アフリカのやモザンビークにおける独立闘争を弾圧していたが,軍事費の増大が国民生活を圧迫した結果,1932年以来続いた軍事独裁体制が危機に陥った。74年の軍事クーデタでできた新政府は,75年に[ 1 ]やモザンビークの独立を認め,民主化を進めた。スペインでは,スペイン内戦終結時の39年以来,による独裁体制が続いていた。75年に[ 2 ]が死去すると,ブルボン朝の国王フアン=カルロス1世のもと,民主的な立憲君主政に移行した。

VIII-34. ヨーロッパ統合(1)

フランス外相は,二度の世界大戦の反省に立って,資源を共同管理することによって対立を防ごうとする構想([ 1 ]=プラン)を提案した。1952年,この提案にもとづいてフランス・・イタリア・3国(ベルギー・オランダ・ルクセンブルク)の6か国は(ECSC)を発足した。57年に調印されたローマ条約にもとづき,58年に6か国は(EEC)と(EURATOM)を設立させ,経済統合の歩みを進めた。67年に[ 4 ]・[ 5 ]・[ 6 ]の3共同体は,(EC)に一体化され,西ヨーロッパ統合の基礎が作られた。

VIII-35. ヨーロッパ統合(2)

イギリスは(EEC)に参加せず,1960年にデンマークやスウェーデンなどと(EFTA)を結成した。だが,[ 2 ](EFTA)は域外からの輸入品に共通関税をかけないことや市場規模の小ささゆえに[ 1 ](EEC)に立ちおくれた。イギリスは[ 1 ](EEC)への加盟を申請したが,フランス大統領の反対で交渉は難航した。67年に(EC)が結成され,69年に[ 3 ]が退陣すると,年にイギリス・アイルランド・デンマークの加盟が認められ,へと発展した。

VIII-36. ヨーロッパ統合(3)

1992年,オランダので経済統合にとどまらず政治統合をも展望する条約([ 1 ]条約)が結ばれ,(EU)が誕生した。99年には共通通貨が導入され,2002年から通貨の流通も開始された。
check_icon6(1)[ 3 ]は全加盟国で導入されたものではなく,イギリスは参加せず,現在でも独自通貨ポンドを使用している。(2)[ 2 ](EU)にはギリシアの経済危機に端を発する問題や,EU域内における移動の自由を保障したシェンゲン協定がシリアを初めとする中東からの大量の難民流入によって危機に瀕している問題などが存在する。さらに,イギリスでは,EUからの離脱か残留かをめぐる国民投票が2016年に実施され,離脱支持が多数を占め,17年に離脱交渉が始まる予定である。

ソ連・東欧圏の動揺(5)

VIII-37. 東欧圏における1956年の動揺

1956年,ソ連共産党大会で第一書記がを行うと,とハンガリーでソ連からの自立と自由化を求める動きが現れた。[ 4 ]では56年,[ 3 ]が伝わるとポズナニで反政府反ソ暴動が起きたが,第一書記が強引にこの運動を収束させた。[ 5 ]は農業の集団化の廃止などの自由化路線をとったが,徐々に保守的になり自由化を否定するようになった。ハンガリーでも56年,自由化を求める声が高まり改革派のが首相となり,からの脱退と中立を宣言した。しかし,軍事介入したソ連軍により[ 6 ]政権は倒され,[ 6 ]は処刑された(ハンガリー事件)。
check_icon6ハンガリー事件が進行している同時期に,(スエズ戦争)が勃発し,イギリス・フランス・イスラエル軍がスエズ運河地帯を占領した。アメリカや国際世論はハンガリー事件とスエズ戦争の両者への対応を迫られた。

VIII-38. 東欧圏における1960年代の動揺

ソ連では,スターリン批判を行い,平和共存政策を推進していた第一書記が,1964年に農業政策の失敗などを理由に解任され,が第一書記(のち書記長)となり,自由化の進展をおさえた。一方,東欧諸国がソ連圏から離脱する動きは続き,61年にアルバニアがソ連と断交し,64年にはがフランスや中国に接近し,ソ連から距離をとる独自外交路線をとった。チェコスロヴァキアでは,68年に政権が「」と呼ばれる民主化・自由化を進めた。自由化が波及することを恐れたソ連は,東ドイツ・ポーランドなどのの4か国を率いて軍事介入し,自由化運動を弾圧した。
check_icon6(1)チェコスロヴァキアへの軍事介入を正当化するために,[ 2 ]は社会主義体制を守るためには一国の主権は制限されるとする「制限主権論」([ 2 ]=ドクトリン)を唱えた。(2)1968年には,ベトナム反戦運動がアメリカから全世界的に広まり,フランスでは「五月危機(革命)」が勃発した。

VIII-39. 東欧圏における1980年代の動揺

ソ連で書記長による(改革)が始まると,ソ連の統制下にあった東欧でも大きな変動が起こった。ポーランドでは,が率いる自主管理労働組合(自主管理労組)「」が1980年に大規模なストライキを行って,いったんは政府に設立を認めさせたが,その後非合法とされていた。89年に[ 4 ]は合法化され,90年に[ 3 ]が大統領に選出された。(東ドイツ)では,89年に西側への脱出者が増大し,各地で市民デモが勃発したことを受けて,書記長が退陣し,ベルリンの壁が開放された。翌90年には(西ドイツ)が東ドイツを吸収する形でドイツ統一が達成された。89年,ハンガリーやチェコスロヴァキアでも共産党政権が崩壊した。ソ連から距離をとる独自外交路線をとっていたルーマニアでは,89年に反政府運動が勝利し,独裁体制が倒され,[ 8 ]夫妻は処刑された。

VIII-40. ソ連邦の解体

ソ連では,1986年から書記長による(改革)が推進された。90年に共産党一党独裁体制が放棄され,[ 1 ]自らが大統領として計画経済から市場経済への移行などの改革を行った。91年に急進改革派のがロシア共和国の大統領に選出されると,危機感を深めた保守派がクーデタを起こしたが,[ 3 ]がクーデタを処理し,逆に地盤を固めてソ連共産党の解散を強行した。同91年,バルト3国(エストニア・・リトアニア)が独立するとともに,ロシア連邦を中心とする(CIS)が結成され,これによりソ連邦は解体した。同年に,経済協力機構のと軍事同盟のも解散した。
check_icon6(1)ロシア連邦の北カフカスにあるは独立を宣言したが,94年にロシア軍が軍事介入し,この紛争は現在も解決していない。(2)99年に[ 3 ]が辞任したのち,後継者のは「強いロシア」を掲げた。2008年には,[ 9 ]にかわって,が大統領に就任したが,12年に[ 9 ]が大統領職に復帰した。

VIII-41. 冷戦後の東欧における民族問題

ユーゴスラヴィアは,カトリック教徒の多い共和国や共和国,正教会が多数を占める共和国,イスラーム教徒の多い共和国など六つの共和国によって構成されていた上,各共和国には複数の民族が混在するという複雑な様相を呈していた。冷戦が終結して共産主義政党の影響力が低下すると,ユーゴスラヴィアでは90年代に解体が進行した。1991年に[ 1 ],[ 2 ],マケドニアが独立を宣言して,連邦から離脱した。92年に[ 4 ]が独立を宣言すると,イスラーム教徒・[ 1 ]人・[ 3 ]人の間で武力衝突が発生し,95年に停戦が実現した。98年には,[ 3 ]共和国南部にあるアルバニア系住民が多い自治州で内戦が勃発し,99年にはNATO軍が[ 3 ]共和国を空爆するまでに発展したのち,2008年に[ 5 ]は独立を宣言した。
check_icon6チェコスロヴァキアは,1993年にチェコ共和国とスロヴァキア共和国に分離した。[ 2 ]とスロヴァキアは似ているので注意!!

現代文明(6)

VIII-49. 現代文明-科学技術の変貌(1)-

20世紀初めにが発表した理論は,ニュートン力学を変革し,時間と空間の認識を大幅に変えた。さらに,[ 1 ]が唱えた質量とエネルギーの等価性は,原子爆弾へとつながった。また,原子・原子核・素粒子といった微視的現象を扱うも急成長した。1903年にが初飛行に成功した飛行機は,第一次世界大戦,第二次世界大戦において兵器として発達した。さらに,ナチス=ドイツが第二次世界大戦中に開発したロケット技術は,米ソに引き継がれた。ソ連は1957年に初めての人工衛星1号を打ち上げたが,この技術は大陸間弾道ミサイル(ICBM)と表裏一体のものであり,アメリカに[ 5 ]=ショックという動揺を引き起こした。冷戦の展開のなかで,米ソとも宇宙開発に力を注ぎ,69年にはアメリカのが初めて有人月面着陸に成功した。

VIII-50. 現代文明-科学技術の変貌(2)-

20世紀には,医学や生物学の分野においても発見や発明が急速に進んだ。1929年にイギリスのフレミングが青かびからを分離し,抗生物質の製造が可能となり,感染症の治療などに多くの効果を発揮した。50年代からはDNAの研究が進み,分子生物学が発展した結果,によって遺伝子を操作する技術も誕生した。90年代に遺伝子配列の解読をめざすヒトゲノム計画が始まり,2003年には解読が完了した。90年代には,同一の遺伝子を持つ生命の誕生を可能にするにより,羊のドリーが生まれた。これらの発明は様々な恩恵を与える可能性がある反面,危険性も指摘されており,生命倫理上の論争が続いている。

VIII-51. 現代文明-環境保護運動-

重工業化は地球規模の環境問題を引き起こすようになり,1972年にはスウェーデンのストックホルムで環境をテーマとした初めての会議であるが開催され,国連環境計画(UNEP)が発足した。その後,オゾン=ホールが発見されたり,温室効果ガスによる地球温暖化の危険が指摘されるようになった。92年には,ブラジルのリオデジャネイロで「」が開催され,「」を進めるための基本原則を示したリオ宣言が出された。97年には,温室効果ガスの削減を定めたが採択された。
check_icon61986年にウクライナにある原子力発電所で原発事故が発生し,広範囲におよぶ放射能汚染を引き起こした。

VIII-52. 現代文明-現代思想(1)-

デカルト以来の近代ヨーロッパの思想は,合理的精神を備えた個人の自律を前提としていた。それに対し,オーストリアの精神病理学者は,を確立し,人間の自我が無意識に支配されていることを明らかにして,デカルト以来の人間観に打撃を与えた。哲学では,合理主義や実証主義のような客観的な抽象的思考では把握できない個としての人間の立場を強調するがさかんとなった。[ 3 ]の特徴は,19世紀のデンマークのキェルケゴールや「神は死んだ」と唱えたに見られるが,ドイツのハイデッガーやフランスのがその代表である。ドイツの思想家が著した『西洋の没落』は,第一次世界大戦後のヨーロッパ社会に大きな衝撃を与えた。
check_icon6[ 1 ]は,古代ギリシアの悲劇詩人が書いた『オイディプス』をもとに,エディプス=コンプレックスという概念を提唱した。

VIII-53. 現代文明-現代思想(2)-

ドイツのは,社会学の研究を通じてヨーロッパ近代社会の特性を明らかにし,『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で資本主義とプロテスタントの宗教倫理との関係を論じた。アメリカでは,有用性が認められる場合にのみ理論や法則を真理とみなす立場であるがによって完成された。フランスの社会人類学者レヴィ=ストロースは,マルクス主義や実存主義,さらにはヨーロッパ近代の理性主義を乗り越える構造主義の方法論を確立した。

VIII-54. 現代文明-美術・音楽-

現代美術は,印象主義まで続いてきた自然の模倣という方法を否定した。フランスの画家マティスは,大胆な原色を強調した野獣派(フォーヴィズム)の代表である。スペインの画家は,自然を円錐・球や立方体などの立体として扱うの代表である。スペインの画家ダリは,無気味な幻覚的世界を描くシュールレアリスム(超現実主義)の代表である。オーストリアの作曲家シェーンベルクは十二音音楽を創始し,無調音楽を作曲した。
check_icon6[ 1 ]は,スペイン内戦中にドイツ・イタリア空軍がを無差別攻撃したことに抗議して,「[ 3 ]」を描いた。

統合と南北問題(2)

VIII-42. 地域統合の進展と世界の一体化

1990年代以降,地域統合の動きが進展した。ヨーロッパでは,93年には条約が発効し,(EU)が発足した。アメリカ大陸では,94年にアメリカ・カナダ・メキシコ3国による(NAFTA)が発足した。アジア太平洋地域では,経済協力を目的とした(APEC)が開かれた。またアフリカでは,63年に発足した(OAU)が,2002年に(AU)へと発展した。こうした動きの一方,冷戦終結後の世界では,ヒト・モノ・カネ・情報が旧来の国家や地域の枠組みを越えて活発に移動するによって世界の一体化が進行している。[ 7 ]のもと経済活動が活発化し,中国や東南アジア諸国は経済成長を遂げた。その反面,先進国では産業の空洞化や失業問題が拡大したり,アメリカのサブプライム=ローン問題を契機に世界中を巻き込んだ深刻な国際金融危機が2008年に発生したりもした。また,人や情報の移動が容易となったことから,それまでは特定地域にとどまっていたテロリズムが拡散するようにもなった。

VIII-43. 南北問題・南南問題

第二次世界大戦後,西側ではアメリカの経済力の主導のもと順調に経済を回復させ,ソ連や東側諸国も計画経済にもとづく経済建設を行って一定の発展を遂げた。北半球に位置するこうした先進国に対し,多くが南半球に位置する,戦後に独立したアジア・アフリカ諸国の多くは深刻な貧困問題を抱えたまま,経済発展が進まず,発展途上国と呼ばれた。こうした,南北間の格差をと呼ぶ。1960年代になると,北側が「中心」として支配し,南側が「周辺」として従属的地位に置かれているため,南側では経済発展が進まないのだとする従属理論が南側から出て来た。63年に(UNCTAD)が設けられ,発展途上国の開発を促進しようとしているが,問題は解決していない。一方,南側の発展途上国のなかにも,韓国・台湾・シンガポールなどの(NIES)が経済成長を遂げたり,サウジアラビアなどの産油国が外貨を蓄積して豊かさを獲得する例も見られる。これらの国と,発展への足がかりをつかめない国との間で経済格差が生じたことを,と呼ぶ。
check_icon6大航海時代以降に出来上がった世界経済構造を「近代世界システム」と呼ぶ(参照IV-12)が,これはアメリカの歴史家ウォーラーステインが従属理論を発展させた概念である。

核兵器開発と軍備管理(5)

VIII-44. 核兵器開発

最初に核兵器を開発したのはアメリカで,1945年7月に核実験に成功し,その報告が会談に出席していたアメリカ大統領にあげられた。[ 2 ]は日本に対して原爆を使うことを決定し,広島・長崎に投下され,両市は壊滅した。しかし,アメリカによる核兵器独占は長く続かず,年にソ連が核実験に成功した。その後,52年にイギリス,60年にフランス,64年に,74年に,98年にがそれぞれ核実験に成功した。一方,水素爆弾(水爆)については,アメリカが52年,ソ連が53年に成功した。
check_icon61949年,ソ連が原爆を保有し,が成立,さらに50年に朝鮮戦争がおきたことで,アメリカ国内では反共アレルギーのヒステリー状態が生まれ,50年から(「赤狩り」旋風)が吹き荒れた。

VIII-45. 原水爆禁止運動

マーシャル諸島は,第一次世界大戦後に日本が委任統治領とし,第二次世界大戦後にアメリカが信託統治領として管理していた。その地にある環礁で,アメリカは1946年以降原水爆実験を繰り返した。54年に複数の日本漁船が被曝(ひばく)する事件が起きると,55年に広島で第1回が開催された。一方,イギリスの哲学者と,ドイツ生まれの物理学者は55年に核兵器廃絶を訴えた([ 4 ]・[ 5 ]宣言)。その宣言にもとづき,57年にカナダので「科学と国際問題に関する会議」が開催された。[ 6 ]以外の場所で開催された会議も含めて,科学者による核兵器禁止運動を[ 6 ]会議と呼ぶ。

VIII-46. 核拡散防止の動き(1)

1962年におきたで,米ソは核戦争勃発の可能性に直面した。米ソはその後歩み寄り,翌63年に米・英・ソ3国間でを締結した。この条約では,大気圏内外・水中における核実験を禁止したが,は禁止しなかった。60年に核実験に成功したばかりのと,まだ核実験に成功していなかった中国は[ 2 ]に調印しなかった。その後,中国は64年に核実験に成功した。

VIII-47. 核拡散防止の動き(2)

1968年に成立,70年に発効した条約(NPT)では,核兵器保有国を米・ソ連(現ロシア)・英・仏・中国の5か国に限定しようとした。しかし,条約未加盟国であるインド(74年核実験)・パキスタン(98年核実験)が核保有国となり,さらに未加盟国であるイスラエルも核を保有しているとみられている。また,北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は[ 1 ]条約調印国であるが,2度脱退を表明し,2006年に核実験を行った。1996年,あらゆる核実験を禁止することを定めた条約(CTBT)が国連総会で採択されたが,未だに発効していない。

VIII-48. 米ソ(露)の核兵器制限の動き

米ソ両国は,1969年から第1次(SALT I)を行い,72年に核兵器の現状凍結を規定する協定を結んだ。さらに戦略核兵器運搬手段の制限などに関して第2次[ 1 ](SALT II)が行われ,79年に条約が調印された。しかし,同年のソ連軍による進攻を受けて,アメリカ議会が批准せず,発効しなかった。87年,アメリカ大統領とソ連の書記長が,(INF)全廃条約に調印した。米ソは,SALTに替わる交渉を続け,91年に第1次[ 6 ]条約(START I)に調印した。91年にソ連が解体したのち,93年に米露両国は第2次[ 6 ]条約(START II)に調印した。