10.西アジア世界

「10.西アジア世界」の一問一答問題です。

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オリエント(22)

X-1. オリエントの自然と都市文明の発生

オリエントとはヨーロッパから見て「日の昇るところ」を意味し,西アジアからアフリカ北東部一帯に広がる地域をさす。大河流域などの農耕に適している地域もあるが,雨が少なく高温乾燥の砂漠気候に属する地域である。。川・ユーフラテス川流域のと,川流域のエジプトでは,早くから灌漑農業が行われ,高度な都市文明が成立し,やがて周辺地域に都市文明が広がっていった。
check_icon6(1)[ 2 ]は「川の間の土地」という意味である。(2)[ 2 ]からシリア・パレスチナにいたる地域を「肥沃な三日月地帯」という。(エジプトを含める説もある。)

X-2. エジプトにおける統一国家の誕生

エジプトの川は,毎年夏になると上流域の降雨によって増水し,肥沃な土壌を上流からエジプトにもたらした。ペルシア戦争の歴史を著したギリシアの歴史家が「」といったように,エジプト文明は[ 1 ]川がもたらす豊かな農業に支えられていた。エジプトでは,早くから政治的単位であるが多数形成されたが,前3000年頃,中流域の上(かみ)エジプトの勢力が河口のデルタ地帯である下(しも)エジプトを征服し,統一国家が成立した。

X-3. 古代エジプトの時代区分

エジプトの王()は,太陽神の子としてあがめられ,神官や書記を官僚としたを行った。前3000年頃に統一国家が出現したエジプトでは,前332年にマケドニアの大王に征服されるまで,約30の王朝が交替したが,そのうちとくに繁栄した時代を(前27~前22世紀)・(前21~前18世紀)・(前16~前11世紀)の3期に区分する。を都とした[ 5 ]は,巨大なピラミッドを建造したことで知られる。[ 6 ]は上エジプトのに都を移したが,その末期にシリアからアジア系の遊牧民の混成集団であるが馬と戦車をもって侵入し,エジプトは一時混乱した。[ 10 ]を撃退した[ 7 ]は,[ 9 ]を都とし,ナイル川上流域やシリアへ進出した。
check_icon6(1)[ 5 ]時代に造られたピラミッドのうち最大のものは,にある王のものである。(2)[ 11 ]のピラミッドの入り口には,王を守護するシンボルである,人間の頭とライオンの胴体をもった石像であるが置かれている。

X-4. 新王国時代のエジプト

と新王国ではが都とされたが,新王国時代には,その守護神が太陽神と結びついて,[ 3 ]=[ 4 ]の信仰が広まった。前14世紀に[ 3 ]=[ 4 ]の神官団と対立した(のちにと改名)は従来の多神教を禁じて,一つの神()だけを信仰させる宗教改革を行い,に都を移した。この時代に古い伝統にとらわれない写実的なが生みだされたが,[ 5 ]の死後,改革は終わった。その後,ラメス(ラメセス)2世が前1286年頃にシリア北部のカデシュでアナトリア(小アジア)を本拠とすると戦うなど,新王国の繁栄は続いた。
check_icon6前13世紀頃,に率いられたヘブライ人は新王国時代のエジプトを脱出した。

X-5. エジプトの文化

エジプト人は霊魂不滅を信じてをつくり,冥界(めいかい)の王の審判にそなえ,一種の紙()にで記したをつくった。[ 4 ]を簡略化してヒエラティック(神官文字)が作られ,さらに簡略化されてデモティック(民用文字)が作られた。エジプトで発達した測地術はギリシアの幾何学に影響を与え,1年を365日とするもエジプトでは使われた。この[ 6 ]はローマののもととなり,それが1582年に改良され,現在使われている西暦であるが成立した。
check_icon6フランスのはロゼッタ=ストーンを用いて[ 4 ]を解読した。

X-6. ナイル川上流の王国

前920年頃にナイル川上流に黒人王国の王国が成立し,前8世紀にはエジプトに進出し,テーベに中心を移した。前7世紀に,オリエントを統一したの攻撃を受け,南方のに都を移したため,それ以降を[ 3 ]王国ともいう。[ 1 ]王国はすぐれた製鉄技術と内陸部との中継貿易で繁栄したが,350年頃にエチオピアの王国の攻撃により滅んだ。
check_icon6[ 4 ]王国は4世紀にキリスト教(コプト派)を受容した。コプト派とは,公会議で異端とされたを唱える一派である。また,[ 4 ]王国はインド洋から紅海を経由する海上交易で繁栄したが,インド洋交易では進出してきたササン朝と争った。

X-7. シュメール人の都市国家

ティグリス川・川流域のでは灌漑農業が発達して人口が急増し,前3000年頃には民族系統不明の人が・ウルク・ラガシュなどの都市国家をつくった。都市は城壁で囲まれ,中心に壮大な(聖塔)が建設され,その都市の守護神がまつられていた。王は最高の神官として神の権威によって統治するを行い,神官や戦士が支配層を構成していた。[ 3 ]人が考案した,に記すは,オリエント世界の文字の原型となった。数学・占星術・暦法などが発達した。による時間や方法の区分が発達し,また暦法は月の満ち欠けにもとづくがもちいられた。前24世紀,セム語系の人によって[ 3 ]人の都市国家は征服された。
check_icon6『旧約聖書』に見られる「ノアの箱船」の原型とみられる洪水伝説が『ギルガメシュ叙事詩』のなかに含まれているが,ギルガメシュはウルクの王とされる。

X-8. メソポタミア-セム語系民族の活躍-

前24世紀にシュメール人の都市国家を征服したに率いられたセム語系の人は,メソポタミアからシリアにおよぶ広大な領域国家をつくった。その後,シュメール人の都市国家が独立し,ウル第3王朝などをつくり,一時繁栄した。やがて,セム語系の人が押し寄せ,を都とするを建て,前18世紀頃の王の時にメソポタミア全土を支配した。[ 6 ]王は各地の法を集大成して[ 6 ]法典を発布した。法典の刑法は,「目には目を,歯には歯を」のの原則に立っていたが,身分によって刑罰には差がつけられていた。

X-9. メソポタミア-鉄器の開発と諸民族の侵入-

前2000年頃に,インド=ヨーロッパ語系の人がオリエントに侵入し,前17世紀半ば頃にアナトリア(小アジア)に強力な国家を建設した。[ 1 ]は製鉄技術を独占し,鉄製の武器を用い,セム語系の人の国であるを前16世紀初めに滅ぼした。また,民族系統不明の人がザクロス山脈方面からメソポタミア南部に侵入し,[ 3 ]滅亡後に南メソポタミアを支配した。さらに前15世紀にはメソポタミア北部におこった王国が勢力を誇った。前15~前13世紀には,小アジアからメソポタミアの方面にかけて[ 1 ]・[ 5 ]・[ 3 ]が勢力を競い,さらにエジプトがシリアをめぐり[ 1 ]と争った。

X-10. 前13世紀頃のオリエントの変動

前13世紀頃,エーゲ海から東地中海一帯に「」と呼ばれる人々が来襲し,小アジアのを滅亡に追い込み,エジプトを弱体化させた。この地方を支配していた2大強国の勢力が後退したのにともなって,セム語系の3つの民族の活動が活発化した。地中海貿易を独占した,内陸貿易に活躍した,のちにユダヤ教を成立させるの3民族である。
check_icon6(1)ギリシアでは,前12世紀頃にエーゲ文明が滅亡したが,一説には「[ 1 ]」の侵入が関係しているともいわれる。(2)[ 5 ]とは他民族による呼び名で,自らはイスラエル人と称した。バビロン捕囚後にユダヤ教が確立されると,ユダヤ人と呼ばれることが多い。

X-11. フェニキア人の活躍

語系のフェニキア人は,シドン・などの都市国家を拠点に,地中海貿易を独占し,北アフリカからイベリア半島にかけて多くの植民市を建設した。フェニキア人は,交易活動の取り引きを記録するために,カナーン人が使用していた表音文字からフェニキア文字を考案した。これはギリシア人に伝えられ,が成立する。
check_icon6ポエニ戦争(前264~前146年)でローマと戦ったは,[ 2 ]市が建設した植民市である。

X-12. アラム人の活躍

語系のアラム人は,を拠点にラクダによる隊商を組織し,イラン高原から中央アジアまでの内陸都市を結ぶ中継貿易に活躍した。この結果,アラム語が国際商業語として西アジア一帯で用いられた。表音文字である文字をもとにつくられたアラム文字は,多くの文字のもととなった。
check_icon6(1)内陸貿易で活躍したのは[ 1 ]系のアラム人。古バビロニア王国を建てたのは[ 1 ]系の人。似てるので注意!!(2)アラム文字は,ヘブライ文字・アラビア文字・ソグド文字・ウイグル文字・モンゴル文字・満州文字などの母体となっている。

X-13. ヘブライ統一王国

語系の遊牧民であったヘブライ人は,前1500年頃,に定住し,一部はエジプトに移住した。時代のエジプトの圧政に苦しんだヘブライ人は預言者に率いられて[ 2 ]に脱出した(「」)。前11世紀末,ヘブライ人は統一王国を形成し,王と,その子王のとき,を中心に栄えた。
check_icon6(1)ヘブライ人は他民族による呼称で,自らは人と称した。(2)パレスチナは古くはカナーンと呼ばれていた。前1200年頃にこの地域に住みついたペリシテ人がパレスチナの語源である。

X-14. ユダヤ教の成立

通商をさかんにし,イェルサレムに壮大な神殿を建設した王の死後,ヘブライ王国は,北の王国と南の王国に分裂した。[ 2 ]王国は,前722年,帝国に滅ぼされた。[ 3 ]王国は前586年にのに滅ぼされ,住民の多くがバビロンに強制移住させられた()。前538年に[ 5 ]を滅ぼした朝のにより帰国が許され,[ 7 ]は終わった。預言者に率いられてエジプトを脱出した「出エジプト」や[ 7 ]のような受難のなかで,ヘブライ人は唯一神への信仰を深め,ヘブライ人だけが神に選ばれて救われるとするや,救世主()の出現を待望するユダヤ教を成立させた。
check_icon6ユダヤ教の最後の審判や天使・悪魔の二元論などには,イランの教の影響が見られる。

X-15. アッシリア帝国

語系のアッシリア人は,前2000年頃からメソポタミア北部を拠点に小アジア方面との中継貿易によって栄えたが,前15世紀にはメソポタミア北部を支配した王国に一時服属した。その後独立し,鉄製の武器と戦車・騎兵を用いて前7世紀前半に全オリエントを統一し,様々な民族を支配する最初のとなった。アッシリア帝国は,交通・通信網を整備するためにを設けた上で,征服地を州に分け,総督を派遣して中央集権的な統治を行った。前7世紀半ばの王がエジプトとイラン南西部を支配していたエラム人を征服し,最大版図を築いた。しかし,強制移住や重税といった過酷な支配が服属民族の反抗を招き,前612年に都が陥落して滅亡した。
check_icon6[ 5 ]は[ 6 ]に図書館を造ったことでも知られる。

X-16. アッシリア滅亡後の4王国分立

最初の世界帝国となった帝国が前612年に滅亡すると,4王国が分立する時代となった。小アジアに建国された王国は金山開発と交易で栄え,最古のをつくり,ギリシアにも影響を及ぼした(参照:I-8)。セム語系の人は王国をつくり,のときにヘブライ人の王国を滅ぼすなど勢力を誇った。イラン高原では,インド=ヨーロッパ語系の人がエクバタナを都とした王国を築いた。アッシリアからの独立を回復したエジプトは,フェニキア人やギリシア人との交易をさかんに行った。

X-17. アケメネス朝によるオリエント再統一

アッシリアが滅亡して崩壊したオリエント世界を再統一したのは,インド=ヨーロッパ語系のペルシア人であった。イラン高原南西部にいたペルシア人は王国に服属していたが,前550年にが[ 1 ]を倒して朝ペルシアをおこした。[ 2 ]は小アジアのを征服し,さらにメソポタミアのを滅ぼしてヘブライ人をから解放した。第2代のカンビュセス2世が前525年にエジプトを征服し,[ 3 ]朝は再びオリエントを統一した。第3代のの時代には,東は川から西は海沿岸に及ぶ大帝国となった。
check_icon6アケメネス朝は,アレクサンドロス大王に敗れたが暗殺されて,前330年に滅亡した。

X-18. ダレイオス1世による統治

朝の第3代は,最初の世界帝国であった帝国の中央集権的統治を継承した。全土を約20の州に分け,(総督)を任命して徴税や治安維持を担わせる一方,「」「」と呼ばれる監察官を派遣して[ 4 ]を監視させた。行政の中心都市であったから小アジアのサルディスまで「」と呼ばれる国道をつくり,を整備した。また,金貨・銀貨を発行し,税制を整え,海上ではセム語系の人を,陸上ではセム語系の人の交易を保護した。[ 3 ]とは異なり,服属した異民族は寛大に扱われ,軍役や貢納が義務が守られる限り,異民族の宗教や慣習は認められた。[ 2 ]は植民市の反乱をきっかけにギリシアに遠征し,ペルシア戦争を始めた。
check_icon6[ 2 ]が新年の祭礼を執り行うための都として建設したは,東方遠征によって[ 1 ]朝を滅ぼした大王によって破壊された。

X-19. アケメネス朝の社会・文化

アケメネス朝は,シュメール人が考案したを表音化したペルシア文字をつくる一方,ペルシア語・アッシリア語・アラム語などが公用語として使われた。ペルシア人が信仰した教は,この世を光明神・善神であると,暗黒神・悪神であるとの闘争ととらえ,最後は善神が勝利し,人はを経て救われると説いた。[ 5 ]などの観念はユダヤ教・キリスト教・イスラーム教といった一神教に影響を与えた。[ 2 ]教はアケメネス朝で保護され,ササン朝では国教とされた。
check_icon6(1)[ 1 ]はエジプトのヒエログリフと同じく表意文字だったものを,表音化して利用した。(2)イギリスの学者・軍人であるローリンソンはベヒストゥーン碑文を用いて[ 1 ]を解読した。(3)[ 2 ]教は南北朝のころに中国に伝わり,けん教(漢字:示に天)または拝火教と呼ばれた。

X-20. バクトリアとパルティア

アレクサンドロス大王死後,彼が征服したアジアの領土は朝シリアが受け継いだ。前255年頃,アム川流域のギリシア人が独立してを建てた。[ 2 ]は前139年にスキタイ系トハラ人によって滅ぼされたが,この王国で栄えたヘレニズム文化はのちに西北インドを支配した朝に伝えられ,美術を生みだすことになった。[ 2 ]の成立はイラン系遊牧民を刺激し,カスピ海東南部に族長のが前248年頃に(中国名は)を建国した。前2世紀,[ 6 ]は[ 1 ]朝からメソポタミアを奪い,ティグリス川中流東岸にを建設し,さらにシリアにも進出して東西交易の利益を独占して繁栄した。[ 6 ]は,226年にササン朝のによって滅ぼされた。
check_icon6(1)第1回三頭政治に参加したローマのは[ 6 ]遠征で戦死した。(2)[ 6 ](前248頃~後224)と中国の漢(前202~後220)は,同時代だったことに注意!!

X-21. ササン朝ペルシア

224年,はイラン高原南部の農耕イラン人を勢力基盤として朝ペルシアを建て,イラン系遊牧民が建てたを226年に滅ぼした。[ 1 ]は,[ 3 ]が都としていたに都を置き,教を国教として統一を図った。第2代のは,東方では朝から領土の大半を奪って衰退に追い込み,西方ではシリアに侵入してローマと戦って軍人皇帝を捕らえた。[ 2 ]朝はシリアからインダス川まで支配し,東西交易の利益の独占を図り,インド洋ではエチオピアの商人と争った。[ 2 ]朝は,5世紀後半に中央アジアのトルコ系遊牧民の攻撃を受け,一時弱体化した。しかし,6世紀のはトルコ系遊牧民と結んで[ 10 ]を滅ぼし,また東ローマ帝国の帝との戦いも優勢に進めた。しかし,[ 11 ]死後,[ 2 ]朝は衰え,651年にイスラームのアラブ人によって滅ぼされた。
check_icon6[ 2 ]朝の建国年に関しては,[ 3 ]を倒した226年とする場合もある。

X-22. ササン朝の文化

ササン朝では,教が国教とされ,経典『』が編纂された。ササン朝は諸民族の宗教には寛容であったため,仏教徒やキリスト教徒,ユダヤ教徒が多数いた。3世紀にが,[ 1 ]教・仏教・キリスト教を融合して,[ 3 ]教を創始した。[ 3 ]教はササン朝では異端として弾圧されたが,ローマ帝国や中央アジア・中国に広まった。ササン朝では,精巧なガラス器・銀器・織物などの工芸が発展し,ササン朝美術と呼ばれる。それは,西方ではビザンツ帝国を経て地中海地方へ,東方では中国を経て日本にまで伝えられた。法隆寺のやの漆胡瓶(しっこへい)などにササン朝美術の影響が見られる。
check_icon6[ 3 ]教については,次の3つを覚えておこう!!(1)教父は[ 3 ]教から回心した。(2)南フランスに広まったカタリ派系の異端で,フランス王に討伐された派は[ 3 ]教の影響を受けている。(3)ソグド商人の影響でトルコ系騎馬遊牧民は[ 3 ]教を信仰した。

イスラーム世界の成立(10)

X-23. メッカの繁栄

大部分が砂漠地帯のアラビア半島では,アラブ人はオアシスを中心に遊牧や農業を営み,おもにラクダを使った(キャラバン)によってインド洋と地中海を結びつける中継貿易を行っていた。6世紀後半,ササン朝のとビザンツ帝国の帝が抗争を繰り返すと,(シルクロード)が両国の国境で途絶え,さらにビザンツ帝国が支配していた紅海貿易も衰えた。そのため,[ 4 ]や海の道が衰退し,アラビア半島西部を経由するルートが栄えた。イスラームが生まれるは,この中継貿易で繁栄していた。

X-24. イスラームの誕生

アラビア半島西部のヒジャーズ地方に位置するは族の商人が支配していたが,その一人として生まれたは,610年頃に唯一神の言葉をさずけられたであると自覚した。[ 3 ]は,それまでの多神教にかわって厳格な一神教であるイスラーム教を唱えた。だが,多神教と富の独占を批判する[ 3 ]は[ 1 ]の大商人による迫害を受け,年に少数の信者を率いてに移住し,ここにイスラーム教徒(ムスリム)の共同体を建設した。この移住を(聖遷)といい,[ 6 ]年は純粋なであるイスラーム暦の紀元とされる。
check_icon6英語表記にちなんでメッカ・メディナというが,アラビア語の母音は「あ」・「い」・「う」の3つであり,アラビア語ではマッカ,マディーナである。

X-25. メッカ開城とカリフ

イスラーム教を開いたは,630年,無血でを征服し,それまでの多神教の神殿であったをイスラーム教の聖殿に定めた。その後,アラブの諸部族は次々と[ 1 ]と盟約を結び,アラビア半島はイスラーム勢力に統一された。632年に[ 1 ]が亡くなると,イスラームの共同体の指導者として,「後継者」を意味するが選ばれた。といわれる最初の4代は選ばれたが,ウマイヤ朝以降[ 5 ]は世襲化された。

X-26. イスラームとイスラーム社会

イスラームとは「神への絶対的服従」を意味するが,イスラーム教徒のことをアラビア語でという。[ 1 ]は,唯一神の存在を信じることや,聖地に向かっての日に5回の礼拝や,断食月における日中の飲食禁止などを規定したを義務として生きる。イスラーム教の教義は,聖典『』に語で記されている。イスラーム社会では,といわれるイスラーム法が9世紀頃までに整えられ,それは宗教的な戒律にとどまらず,結婚や離婚などの家庭生活や社会・経済,政治までを規制している。[ 8 ]の法源としては,『コーラン(クルアーン)』のほか,といわれる預言者ムハンマドの言行(スンナ)と伝承の記録などがある。

X-27. ユダヤ教・キリスト教との関係

一神教のイスラーム教はユダヤ教・キリスト教の影響を受けている。『旧約聖書』のはイスラームの唯一神と同じ神を指すとされ,ユダヤ教徒やキリスト教徒は同じ神を信仰する「」とみなし,庇護民(ズィンミー)として扱われた。イスラームでは,出エジプトを率いたやキリスト教の開祖も神の言葉をさずかったとされるが,イスラームの開祖が「最後にして,最大の[ 6 ]」とされる。[ 4 ]の十戒にも見られるようにユダヤ教やキリスト教においても,崇拝は禁止されているが,この点においてイスラーム教は非常に厳格であり,[ 7 ]の肖像画さえも認められていない。
check_icon6ズィンミー(ジンミー)とは,ジズヤ(人頭税)の支払いを条件に生命・財産の安全と彼らの信仰が保障されたものを指す。一神教ではないが,ゾロアスター教徒もズィンミー(ジンミー)として扱われた。

X-28. 正統カリフ

632年にムハンマドが没すると,が初代(後継者の意味)に選出された。第2代ウマルは帝国からシリア・エジプトを奪い,642年にの戦いで朝を破り,イラク・イランを征服した。第3代ウスマーンは聖典『』を編纂した。第4代はムハンマドのいとこで,ムハンマドの娘ファーティマの夫であるが,シリア総督と戦っている最中に,彼に不満を持つハワーリジュ派によって暗殺された。この4人を正統[ 2 ]という。
check_icon6アラブ人は,[ 2 ]のもとで異教徒に対する戦い()を行い,征服地にという軍営都市を建設した。イラクのクーファやバスラ,エジプトのカイロ近郊のフスタートなどが[ 10 ]にあたる。

X-29. ウマイヤ朝の成立

第4代カリフのが彼に不満を持つハワーリジュ派によって暗殺されると,[ 1 ]と対立していたシリア総督は年にを都とする朝を開いた。[ 5 ]朝は征服活動を継続し,東方ではソグディアナとインド西部を征服し,西方では北アフリカからイベリア半島に進出して711年に王国を滅ぼした。[ 5 ]朝はフランク王国へしばしば侵入したが,年にの戦いで敗れ,イベリア半島に押し戻された。
check_icon6[ 5 ]朝は8世紀初めに都の[ 4 ]に現存する最古のモスクである[ 5 ]=モスクを建設した。

X-30. シーア派とスンナ派

661年に朝が成立したのち,ムハンマドのいとこであった第4代カリフのとその子孫のみが共同体()を指導する権利があると主張する人々が,派を結成した。これに対し,ムハンマドの言行()に従うことを重視する多数派のイスラーム教徒を[ 5 ]派と呼ぶ。
check_icon6歴史上のイスラーム王朝の大多数は[ 5 ]派で,現在でも[ 5 ]派が多数を占めている。[ 4 ]派は,現在イランやイラク,レバノンやシリア,バーレーンなどで重要な位置を占めている。現在,イラクやシリアの一部地域を恐怖政治で支配している自称「イスラーム国(IS)」は[ 5 ]派である。標準的な入試対策として覚えるべき[ 4 ]派王朝は,946年にバグダードを占領したイラン人の軍事政権である朝と,909年にチュニジアに建国され,のちにエジプトを支配した朝,1501年にイランにできた朝の三つである。

X-31. アラブ帝国からイスラーム帝国へ

661年に成立した朝では,征服地の先住民にだけ人頭税()と地租()が課せられ,彼らがイスラーム教に改宗しても免除されなかった。聖典『』にはすべての信者は平等であると説かれているため,異民族のイスラーム教徒であるは不満を抱いた。ムハンマドの叔父の子孫は,[ 1 ]朝に不満を抱く派と[ 5 ]を利用し,[ 1 ]朝を倒して年に[ 6 ]朝を建てた。[ 6 ]朝では,[ 5 ]には人頭税([ 2 ])は課せられず,アラブ人でも征服地に土地を持つ場合には地租([ 3 ])が課せられ,税制面における民族間の差別は一応なくなった。公用語は依然として語であったが,イラン人を中心とする[ 5 ]も積極的に登用し,官僚制度が整えられて中央集権化が進んだ。アラブ人が特権を持っていた[ 1 ]朝を,イスラームのもとでの平等を原則とする[ 6 ]をと呼ぶ。
check_icon6(1)[ 6 ]朝は,建国後,[ 7 ]派を弾圧した。(2)751年にアッバース朝が唐を破ったの戦いでがイスラーム世界に伝来した。

X-32. アッバース朝の成立

朝に対して不満を抱いていた派とアラブ人以外のイスラーム教徒であるは,ムハンマドの叔父の子孫である家の革命運動に協力した。この革命運動が成功し,年に[ 1 ]朝は倒されて[ 4 ]朝が開かれた。[ 4 ]朝は,イラン人を中心とするを官僚として登用し,さらに民族間の税制面の不平等を解消してイスラーム帝国となった(参照:X-31)。一方[ 4 ]朝は,多数派の派を採用して,[ 2 ]派を弾圧した。第2代カリフのは,中央集権体制を整備するとともに,ティグリス川西岸に首都を建設した。[ 9 ]は国際交易の中心都市として発展し,最盛期には人口100万を数えた。[ 4 ]朝は,第5代カリフののときに最盛期を迎えた。
check_icon6[ 10 ]は,フランク王国のカール大帝と使節を交換した。

イスラーム世界の展開(19)

X-33. イスラーム帝国の分裂

750年に朝が建国されると,ウマイヤ朝の一族が半島に逃れ,756年にを首都とする朝を建てた。[ 4 ]朝は[ 1 ]朝カリフの権威は尊重した。一方,10世紀に過激シーア派のイスマーイール派がチュニジアで朝を建てた。[ 5 ]朝は[ 1 ]朝カリフの権威を否定し,カリフを称し,エジプトを征服したのち首都を建設した。[ 5 ]朝がカリフを名乗ったのに対し,[ 4 ]朝の最盛期を築いたアブド=アッラフマーン3世が929年にカリフを称し,イスラーム世界には3人のカリフが並び立つ分裂状態となった。
check_icon6[ 5 ]とは,ムハンマドの娘で,第4代正統カリフのの妻である。シーア派では[ 7 ]を初代イマーム(最高指導者)とし,第2代ハサン,第3代フサインの母が[ 5 ]である。

X-34. アッバース朝の衰退

イスラーム帝国を築いた朝が9世紀前半から,トルコ人奴隷出身の軍人であるを親衛隊として用いるようになると,やがて[ 2 ]軍団がカリフを廃立するなど政治に介入するようになり,[ 1 ]朝カリフの力は衰えていった。このような混乱に乗じて,穏健派を奉じる人の軍事政権である朝が946年にバグダードを占領した。[ 5 ]朝は[ 3 ]派であったが,アッバース朝カリフを保護する代償として,の地位を得て,カリフにかわりイスラーム法を施行した。また,9世紀以降に地方政権が自立したことで税収が減少し,[ 1 ]朝の国家財政は破綻していたため,[ 5 ]朝は現金での給与(アター)の代わりに土地の徴税権を軍人に与える制を創始した。[ 7 ]制は,[ 5 ]朝を倒した朝が継承し,エジプトの[ 2 ]朝や,1299年に小アジアに建国された帝国へと引き継がれた。
check_icon6(1)[ 1 ]朝は,1258年に率いるモンゴル軍に滅ぼされた。(2)[ 9 ]帝国では,[ 7 ]制のことをティマール制という。

X-35. 西アフリカの黒人王国

西アフリカでは,サハラ砂漠で採取されるとサハラ以南でとれるを交換する交易路が4世紀頃から発展し,この交易を基盤に8世紀以前から黒人王国である王国が栄えていた。[ 3 ]王国はイスラームを受容していなかったが,8世紀以降,北アフリカをイスラーム勢力が支配するようになると,西アフリカにイスラームが浸透するようになった。[ 3 ]王国は,モロッコを中心に人が建てた朝の攻撃を受け,衰退した。その後におこった西アフリカの黒人王国である王国(1240~1473)と王国(1464~1591)はイスラーム王国である。[ 6 ]王国のはメッカ巡礼を行った際,カイロで大量の金を消費し,金価格が暴落して,10年間もとに戻らなかったと伝えられている。[ 7 ]王国も交易で繁栄したが,モロッコの侵入を受けて1591年に滅亡した。[ 6 ]王国から[ 7 ]王国の時代にかけて,ニジェール川中流域のは交易都市として繁栄する一方,イスラームの学術の中心地ともなった。
check_icon6西アフリカの[ 3 ]王国・[ 6 ]王国・[ 7 ]王国は,ゴロで「ガーナのまりは損かい」と覚えておこう。

X-36. イベリア半島にからむイスラーム王国

イベリア半島に最初に侵入したイスラーム勢力は朝で,711年に王国を滅ぼした。アッバース朝が成立すると,イベリア半島に逃れた[ 1 ]家の一族がを都として朝を建てた。[ 4 ]朝は,カリフを称した(位912~961)の時に最盛期を迎えたが,その後継承争いが起き1031年に滅亡した。イベリア半島では,8世紀からキリスト教徒による(国土回復運動)が行われていたが,これに対抗して人がモロッコに建てた朝(1056~1147)がイベリア半島に進出してきた。[ 8 ]朝を倒した[ 7 ]人の朝(1130~1269)もイベリア半島に進出したが,13世紀になると衰え撤退した。イベリア半島最後のイスラーム王朝はを都とする朝で,1492年にスペイン王国の攻撃を受けて[ 10 ]が陥落して滅亡した。
check_icon6(1)[ 8 ]朝と[ 9 ]朝の都はモロッコ中南部にあるである。(2)[ 10 ]には[ 11 ]朝の王宮である宮殿がある。

X-37. エジプトを支配したイスラーム王朝

イスラーム勢力がエジプトを支配するようになったのは,第2代正統カリフであるウマルが帝国からシリア・エジプトを奪った時からである。その後,661年に成立した朝,750年に成立した朝がエジプトを支配した。868年に[ 3 ]から事実上独立した朝が半世紀ほどエジプト・シリアを支配した。10世紀に[ 3 ]朝が衰退する(参照:X-34)と,エジプトは過激派であるイスマーイール派を奉じる朝が支配し,969年にを建設して都とした。[ 6 ]朝は,人であるが1169年に建てた朝によって滅ぼされ,[ 10 ]朝がエジプト・シリアを支配した。1250年,[ 10 ]朝の軍人奴隷である出身者が[ 10 ]朝を滅ぼし,[ 11 ]朝を建てた。[ 11 ]朝は,率いるモンゴル軍を撃退してエジプト・シリアを支配した。
check_icon6(1)[ 6 ]朝が[ 7 ]に創設した学院は,[ 10 ]朝以降スンナ派の最高学府となった。(2)[ 9 ]は第3回十字軍と戦った。(3)インド=ヨーロッパ語系の[ 8 ]人は,現在トルコ・シリア・イラク・イランなどにまたがる地域に居住しているが,総人口は2000万を越えるともいわれるが未だに独立の国家を持ったことがない。

X-38. バグダードを支配したイスラーム王朝

バグダードは,第2代カリフであるマンスールがティグリス川中流に造営した都である。トルコ人軍人奴隷であるが政治に介入して混乱するなか,穏健を奉じる人の軍事政権であるが946年にバグダードを占領した。[ 5 ]はとしてイスラーム法を施行する権限を得たが,1055年にバグダードに入城した系のに追われ,バグダードをが奪還した。[ 8 ]の建国者は,[ 1 ]カリフからの称号を得た。この称号は,のちにイスラーム諸国の君主の称号として用いられるようになった。その後,[ 8 ]は内紛で4つの小王朝に分裂した。1258年,率いるモンゴル軍がバグダードを陥れ,[ 1 ]を滅ぼし,を建てた。[ 13 ]の第7代ハンであるはイスラーム教を国教とした。
check_icon6[ 8 ]は,1071年にビザンツ帝国をマンジケルトの戦いで破ったが,これは十字軍がおこされる背景となった。

X-39. 中央アジア(トルキスタン)を支配したイスラーム王朝

875年,人イスラーム王朝である朝がアッバース朝から独立した。[ 2 ]朝は西トルキスタンから東部イランを支配し,この地域に居住するトルコ人のイスラームへの改宗が進んだ。999年に[ 2 ]朝を倒した人の朝は,東西トルキスタンを支配し,[ 3 ]人のイスラーム化を促進した。1038年に中央アジアのシル川下流域でトルコ人のによって創建された朝は,1055年にバグダードに進出して西アジア一帯を支配した。1077年,[ 6 ]朝の[ 3 ]人マムルークがアム川下流域に建設した朝は,[ 6 ]朝を破ってイラン・アフガニスタンを支配したが,チンギス=ハンに攻略されて滅んだ。遼滅亡後,遼の王族が12世紀前半にを建設したが,これはイスラーム王朝ではない。13世紀前半に建設されて東西トルキスタンを支配したモンゴルの国は,14世紀にイスラーム化した。
check_icon6(1)[ 2 ]朝が建国された875年に中国では黄巣の乱が勃発した。(2)[ 6 ]朝が建国された1038年に中国西北で西夏が成立した。(3)[ 7 ]朝が建国された1077年に西ヨーロッパではカノッサの屈辱が起きた。(4)[ 4 ]朝は11世紀半ばに東西に分裂し,東トルキスタンの政権は[ 9 ]に,西トルキスタンの政権は[ 7 ]朝に滅ぼされた。

X-40. アフガニスタンを支配したイスラーム王朝

875年に建国された人のイスラーム王朝である朝の軍人奴隷()が962年に自立し,アフガニスタンを拠点として系イスラーム王朝の朝を建てた。[ 5 ]朝最盛期のマフムードはインドへの侵入を繰り返し,ヒンドゥー教寺院を破壊し,インドのイスラーム化への道を開いた。12世紀半ば,[ 5 ]朝から独立した朝もインドへ侵攻し,アフガニスタンを拠点としイラン東部から北インド・ベンガルまでを支配した。13世紀に入ると,イラン東部を1077年に建国された[ 4 ]系イスラーム王朝の朝に奪われ,さらに北インドでは,[ 6 ]朝の奴隷出身のアイバクによってが建国され,[ 6 ]朝は1215年に滅亡した。
check_icon6[ 5 ]朝が建国された962年に西ヨーロッパではが戴冠され,神聖ローマ帝国の歴史が始まった。

X-41. インドにおこったイスラーム王朝

962年にアフガニスタンで建国された朝がインドへ侵入し,さらに[ 1 ]朝を倒した朝が北インド・ベンガルを支配した。と総称されるヒンドゥー教の諸勢力は,これらの動きに一致して対抗することができず,インドのイスラーム化が始まり,13世紀に入るとインドで最初のイスラーム王朝が成立した。インドで最初に出来たイスラーム王朝は,[ 2 ]朝の奴隷出身のが1206年に建てた(1206~90)である。その後デリーを拠点として,朝(1290~1320)・朝(1320~1414)・朝(1414~51)・朝(1451~1526)の4つのイスラーム王朝が続いた。[ 5 ]から[ 9 ]朝までの5つの王朝をまとめて朝と呼ぶ。1526年,バーブルは[ 9 ]朝軍を破って,インド史上最大のイスラーム王朝である帝国を建国した。
check_icon6(1)[ 5 ]が成立した1206年にモンゴル高原ではが即位した。(2)[ 4 ]はデリーにインド最古のモスクの付属の塔であるを建設した。(2)[ 10 ]朝のうち,最初の4つはトルコ系で,最後の[ 9 ]朝のみアフガン系である。[ 10 ]朝の順番は,ゴロで,「奴隷はトゥグ去ろう」と覚えよう。

X-42. ティムール朝(帝国)

14世紀にモンゴル帝国が解体するなかで,中央アジアを支配していたが東西に分裂した。その後,トルコ化・イスラーム化した西[ 1 ]の軍人は年にを都として[ 2 ]朝(帝国)を開き,西を統一した。その後,西進して滅亡後のイランからイラクを制圧し,さらに北方にあったや南方では北インドへ侵攻した。その後西進した[ 2 ]は,年にの戦いで帝国を破り,スルタンのを捕虜とした。[ 2 ]は明を討とうとして遠征に出発したが,その途中で病死した。[ 2 ]死後,帝国は分裂し,[ 4 ]の政権とアフガニスタン西部のの政権がその中で生き残った。その後16世紀初めに,[ 2 ]朝(帝国)はトルコ系遊牧民人に滅ぼされた。[ 13 ]人は,中央アジアに,ブハラ=ハン国・・コーカンド=ハン国の3ハン国を建てた。
check_icon6中国では,[ 8 ]年に靖難の役に勝利した永楽帝が即位した。

X-43. ティムール朝(帝国)の繁栄

ティムールは都を置いたに壮大なモスクなどを建造し,[ 1 ]は中央アジアの商業・学芸の中心として栄えた。また,ティムールがイラン人とトルコ人の世界を統一したことで,国で成熟したイラン=イスラーム文化が中央アジアへ伝えられ,文化として発展した。ティムール朝(帝国)の第4代は[ 1 ]に天文台を建設し,天文学や暦法も発達した。多数のトルコ語作品が生み出されたほか,(細密画)の傑作もつくられた。

X-44. オスマン帝国の成立

西方に進出したトルコ人は,年に小アジア(アナトリア)西北部に帝国を建設した。[ 2 ]帝国は小アジアに残った帝国領を奪い,さらにバルカン半島に進出して(現在のエディルネ)を都とした。1396年にはの戦いで西欧諸国の連合軍を破ったが,1402年のの戦いでに敗れて捕虜となり,[ 2 ]帝国は分裂状態に陥った。その後再統一されたのち,1453年には,を占領して[ 3 ]帝国を滅ぼし,[ 10 ]を都と定めた。この都市はやがて,と呼ばれるようになった。
check_icon6[ 3 ]帝国が滅んだ1453年に,西ヨーロッパでは,百年戦争が終結した。

X-45. オスマン帝国の拡大

16世紀初めに即位したオスマン帝国の第9代スルタンのは,イランにおこった新興の朝を撃退し,1517年に朝を滅ぼしてシリア・エジプトを支配下に置いた。その結果,[ 3 ]朝の管理下にあったイスラーム教の聖地であるとを支配下に置き,オスマン帝国は派イスラーム教の中心勢力となった。
check_icon6(1)ドイツでは,1517年にルターがを発表した。(2)かつては,[ 3 ]朝を滅ぼした時にアッバース家カリフから禅譲を受け,スルタン=カリフ制が成立したといわれた。しかし,これを裏付ける史料はなく,スルタン=カリフ制の概念は,ヨーロッパ諸国の進出に対抗して内外のムスリムへの影響力を強めるために,18世紀末に主張されるようになったと,今日ではされている。

X-46. オスマン帝国最盛期

オスマン帝国は,第10代スルタンののもとで最盛期を迎えた。[ 1 ]はイランを支配していた朝から南イラクを奪い,北アフリカのチュニジア・アルジェリアも支配した。さらに,1526年のモハーチの戦いでを破って併合し,1529年にはを包囲してヨーロッパに脅威を与えた。年に,[ 1 ]はの海戦でローマ教皇・スペイン・ヴェネツィアなどの連合艦隊を破り,地中海の制海権を手にした。また,[ 1 ]は建築家シナンに命じ,首都のにスレイマン=モスクを建設した。
check_icon6(1)[ 1 ]は,イタリア戦争において神聖ローマ皇帝と対立していたフランス王と,対ハプスブルク同盟を結んだ。[ 3 ]への攻撃や,[ 4 ]包囲はフランスに対する支援の意味もあった。苦境に立った[ 8 ]はルター派を一度は承認し,その後再禁止するといった態度を取り,ルターの宗教改革にも影響を与えた。なお,[ 4 ]包囲は2度行われ,[ 1 ]によるものが第1次で,第2次は1683年に行われた。(2)インドでは,1526年に帝国が成立した。

X-47. カピチュレーションとレパントの海戦

オスマン帝国の最盛期を築いたの子のセリム2世は,[ 1 ]が同盟を結んだフランスの商人に居住・通商の自由や治外法権などを認める通商特権()を認めた。セリム2世統治下の年,の海戦がおこり,スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇などの連合艦隊にオスマン海軍は敗れた。しかし,オスマン帝国の地中海における制海権に大きな変化はなく,その後もオスマン帝国はヨーロッパに対し優位を保った。1683年に行われた第2次包囲の失敗がオスマン帝国衰退のきっかけとなり,オスマン帝国とヨーロッパとの力関係は逆転した。オスマン帝国は,1699年の条約での大半をオーストリアに奪われ,さらに18世紀後半にはロシアに敗れて黒海北岸を失った。
check_icon6(1)[ 2 ]は,のちにイギリスやオランダにも与えられた。もともとこの特権は,ヨーロッパを圧倒するオスマン帝国が恩恵として与えたものであったが,18世紀以降に力関係が逆転すると,ヨーロッパ諸国はオスマン帝国への侵略に利用するようになった。なおかつては,スレイマン1世がフランスに与えたのが最初であるとされていた。(2)[ 4 ]の海戦には,のちに『ドン=キホーテ』を書くスペインのが参加していた。

X-48. オスマン帝国による統治

オスマン帝国の軍事力は騎士(シパーヒー)と,スルタン直属の常備軍であるとからなっていた。騎士(シパーヒー)には,軍事奉仕の代償として土地の徴税権()を与えた。[ 1 ]は,バルカン半島進出後に,キリスト教子弟を強制徴用し,イスラームに改宗させて編成した歩兵集団である。1517年に朝を滅ぼしてメッカ・の保護権を得たオスマン帝国は,派イスラーム教の擁護者として,イスラーム法であるにもとづく政治を行った。オスマン帝国では,直轄領は州・県・郡にわけられ,官僚制度が整備されてスルタンによる専制と中央集権が行われた。一方,キリスト教徒やユダヤ教徒の共同体()は「」として保護され,自治が認められていた。
check_icon6(1)[ 2 ]制は,朝が創始したイクター制を継承したものである。(2)キリスト教子弟を強制徴用する制度をデヴシルメというが,すべてが[ 1 ]になったわけではなく,スルタン直属の高級官僚となったものもいる。(3)1492年の(国土回復運動)完了後,スペインはユダヤ教徒を追放したが,追放されたユダヤ人の多くはオスマン帝国に移住した。(4)シュメール人の聖塔は,モスクに付属する尖塔は。[ 7 ]に似てるので注意!!

X-49. サファヴィー朝

ティムール帝国が衰えたのち,イランでは神秘主義教団の教主が,1501年にを都として朝を開いた。建国後,[ 3 ]朝は過激思想からの脱却を図り,派の中でも穏健な派を国教とし,派のオスマン帝国と対抗した。この後,イランでは[ 4 ]派が主流となった。また[ 3 ]朝は,イランで古代以来王を意味するの称号を用い,イラン人の民族意識の高揚に努めた。

X-50. アッバース1世

サファヴィー朝は,(位1587~1629)のもとで最盛期を迎えた。[ 1 ]は帝国からアゼルバイジャンとイラクの一部を奪還し,ポルトガル人を島から追放した。さらに,新首都を建設して,「王のモスク(イマームのモスク)」をはじめとする壮麗な建築物を建てた。[ 1 ]統治下では,アルメニア商人の活躍によって国際商業が活性化し,「[ 4 ]は世界の半分」といわれるほど繁栄した。しかし,[ 1 ]死後,王朝は衰え,[ 2 ]にイラクを奪われた。
check_icon6サファヴィー朝は,18世紀前半にアフガン人の侵入により滅亡した。

X-51. アフリカ東海岸

アフリカの東海岸部は,8世紀頃からインド洋交易に従事するムスリム商人が渡来するようになり,北から順に・モンバサ・ザンジバル・などの海港都市が交易の拠点として発達した。これらの海岸地帯では,アラビア語と現地の語が混交して出来た共通語語が生みだされ,イスラームとアラビア半島やインドの文化の影響を受けた[ 4 ]文化も形成された。さらに南方の現在のジンバブエを中心に,11世紀頃に王国がおこり,金や象牙を輸出し綿布を輸入するインド洋交易で栄えた。この地域には,巨大な石造建築であるジンバブエ遺跡群が残されている。
check_icon6(1)15世紀前半に明のの艦隊は[ 1 ]を訪れた。また15世紀末に,ポルトガルのは[ 1 ]でムスリムの水先案内人を雇い,インドへ向かった。(2)ジンバブエとは,「石の家」の意味。

イスラーム文化(5)

X-52. イスラーム社会

西アジアのイスラーム社会は都市を中心に発達した。各地の都市には,礼拝所であるや,(学院),(アラビア語でスーク,ペルシア語でバザール)があった。[ 1 ]や[ 2 ]の建設や運営は,(寄進財産)によってまかなわれた。[ 2 ]でイスラーム諸学を修めたものはと呼ばれ,裁判官や教師,礼拝の指導者などをつとめるエリート層を構成した。[ 5 ]は学問を磨くために,イスラーム世界各地を巡り歩いたが,『三大陸周遊記』(『旅行記』)で知られるはイスラームにおける知識人である[ 5 ]の典型である。751年にアッバース朝が唐を破ったの戦いでがイスラーム世界に伝来すると,西トルキスタンのやバグダード・カイロなどに製紙工場が建てられ,やがて[ 8 ]は半島と島を経て,12世紀頃にヨーロッパに伝えられた。
check_icon6[ 1 ]に付属する尖塔であるの上から,1日5回の礼拝の呼びかけ(アザーン)が行われる。

X-53. イスラーム神秘主義

は,神との合一を求めるイスラームの神秘主義である。スーフ(羊毛)のぼろをまとって修行に励んだことが語源だとされる。12世紀になると多くの[ 1 ]の教団が結成され,教団員はムスリム商人が活躍するアフリカ・インド・東南アジア・中国に進出し,イスラームの信仰を広めていった。修行者のたちは神との一体感を得るため,踊りまくって忘我の状態を得た。その際に,[ 2 ]たちはコーヒーをがぶ飲みして意識を覚醒させた。そのため,[ 2 ]が進出した地域にコーヒーを広める結果となった。[ 1 ]の代表的な理論家に,セルジューク朝が設立した学院の神学教授だったがいる。
check_icon6[ 3 ]学院は,セルジューク朝の宰相ニザーム=アルムルクが創設した。

X-54. イスラーム文化-「固有の学問」-

『コーラン(クルアーン)』を中心とするイスラーム法学や神学,さらにアラビア語とアラブ人に関する歴史学・文法学・詩学などは「の学問」という。「[ 1 ]の学問」としては,の『世界史序説』や,国のガザン=ハンの宰相の『集史』などがあげられる。
check_icon6[ 2 ]はチュニス生まれの歴史家で,マムルーク朝に仕え,シリア遠征時にティムールとの和平交渉を行った。

X-55. イスラーム文化-「外来の学問」-

イスラームが征服した非アラブ地域に起源を持つギリシア哲学や,インド代数学・医学・天文学などを発展させた学問を「の学問」という。「[ 1 ]の学問」は,9世紀にアッバース朝がバグダードに建設した「知恵の館(バイト=アルヒクマ)」でギリシア語やペルシア語からアラビア語への翻訳が組織的に行われて発展した。(アヴェロエス)のアリストテレス注釈は,中世西ヨーロッパの学に影響を与えた(参照:III-67)。哲学者でもある(アヴィケンナ)が著した医学書『医学典範』は,16世紀までヨーロッパの医学校で教科書として使われた。スンナ派の神学者はスーフィズムの神秘主義を取り入れた神学を探求した。イスラームでは,ギリシアの幾何学にインド起源のと十進法を結びつけ,が作られ,ヨーロッパへ伝えられた。また,鉄などを金に変えようとするは化学の原型となり,ヨーロッパに伝えられて近代科学への道を開いた。
check_icon6[ 7 ]を確立したは代数学を発展させた。

X-56. イスラーム文化-文学・美術-

ペルシア語の詩集『』を著したは,正確な太陽暦(ジャラリー暦)の作成に関与した天文学者としても知られる。イランの大民族詩人とされるは『』を著した。アラビア語文学を代表する『』は,インド・イラン・アラビア・ギリシアなどの説話を集大成したもので,16世紀のカイロで現在の形にまとめられた。偶像崇拝を否定するイスラームの影響で,絵画や彫刻などの発達は見られなかった。植物のつるや葉などを図案化した幾何学文様であるが発達した。中国絵画の影響を受けて,イル=ハン国で描かれるようになったは,その後ティムール朝・オスマン帝国に影響を与え,ムガル帝国で最盛期を迎えた。
check_icon6[ 2 ]の名のなかには,「ルハイヤー」と「ルバイヤート」を思わせる字が並んでいる。