イスラーム世界の展開

「イスラーム世界の展開」の一問一答問題です。

19件の記事

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X-33. イスラーム帝国の分裂

750年に朝が建国されると,ウマイヤ朝の一族が半島に逃れ,756年にを首都とする朝を建てた。[ 4 ]朝は[ 1 ]朝カリフの権威は尊重した。一方,10世紀に過激シーア派のイスマーイール派がチュニジアで朝を建てた。[ 5 ]朝は[ 1 ]朝カリフの権威を否定し,カリフを称し,エジプトを征服したのち首都を建設した。[ 5 ]朝がカリフを名乗ったのに対し,[ 4 ]朝の最盛期を築いたアブド=アッラフマーン3世が929年にカリフを称し,イスラーム世界には3人のカリフが並び立つ分裂状態となった。
check_icon6[ 5 ]とは,ムハンマドの娘で,第4代正統カリフのの妻である。シーア派では[ 7 ]を初代イマーム(最高指導者)とし,第2代ハサン,第3代フサインの母が[ 5 ]である。

X-34. アッバース朝の衰退

イスラーム帝国を築いた朝が9世紀前半から,トルコ人奴隷出身の軍人であるを親衛隊として用いるようになると,やがて[ 2 ]軍団がカリフを廃立するなど政治に介入するようになり,[ 1 ]朝カリフの力は衰えていった。このような混乱に乗じて,穏健派を奉じる人の軍事政権である朝が946年にバグダードを占領した。[ 5 ]朝は[ 3 ]派であったが,アッバース朝カリフを保護する代償として,の地位を得て,カリフにかわりイスラーム法を施行した。また,9世紀以降に地方政権が自立したことで税収が減少し,[ 1 ]朝の国家財政は破綻していたため,[ 5 ]朝は現金での給与(アター)の代わりに土地の徴税権を軍人に与える制を創始した。[ 7 ]制は,[ 5 ]朝を倒した朝が継承し,エジプトの[ 2 ]朝や,1299年に小アジアに建国された帝国へと引き継がれた。
check_icon6(1)[ 1 ]朝は,1258年に率いるモンゴル軍に滅ぼされた。(2)[ 9 ]帝国では,[ 7 ]制のことをティマール制という。

X-35. 西アフリカの黒人王国

西アフリカでは,サハラ砂漠で採取されるとサハラ以南でとれるを交換する交易路が4世紀頃から発展し,この交易を基盤に8世紀以前から黒人王国である王国が栄えていた。[ 3 ]王国はイスラームを受容していなかったが,8世紀以降,北アフリカをイスラーム勢力が支配するようになると,西アフリカにイスラームが浸透するようになった。[ 3 ]王国は,モロッコを中心に人が建てた朝の攻撃を受け,衰退した。その後におこった西アフリカの黒人王国である王国(1240~1473)と王国(1464~1591)はイスラーム王国である。[ 6 ]王国のはメッカ巡礼を行った際,カイロで大量の金を消費し,金価格が暴落して,10年間もとに戻らなかったと伝えられている。[ 7 ]王国も交易で繁栄したが,モロッコの侵入を受けて1591年に滅亡した。[ 6 ]王国から[ 7 ]王国の時代にかけて,ニジェール川中流域のは交易都市として繁栄する一方,イスラームの学術の中心地ともなった。
check_icon6西アフリカの[ 3 ]王国・[ 6 ]王国・[ 7 ]王国は,ゴロで「ガーナのまりは損かい」と覚えておこう。

X-36. イベリア半島にからむイスラーム王国

イベリア半島に最初に侵入したイスラーム勢力は朝で,711年に王国を滅ぼした。アッバース朝が成立すると,イベリア半島に逃れた[ 1 ]家の一族がを都として朝を建てた。[ 4 ]朝は,カリフを称した(位912~961)の時に最盛期を迎えたが,その後継承争いが起き1031年に滅亡した。イベリア半島では,8世紀からキリスト教徒による(国土回復運動)が行われていたが,これに対抗して人がモロッコに建てた朝(1056~1147)がイベリア半島に進出してきた。[ 8 ]朝を倒した[ 7 ]人の朝(1130~1269)もイベリア半島に進出したが,13世紀になると衰え撤退した。イベリア半島最後のイスラーム王朝はを都とする朝で,1492年にスペイン王国の攻撃を受けて[ 10 ]が陥落して滅亡した。
check_icon6(1)[ 8 ]朝と[ 9 ]朝の都はモロッコ中南部にあるである。(2)[ 10 ]には[ 11 ]朝の王宮である宮殿がある。

X-37. エジプトを支配したイスラーム王朝

イスラーム勢力がエジプトを支配するようになったのは,第2代正統カリフであるウマルが帝国からシリア・エジプトを奪った時からである。その後,661年に成立した朝,750年に成立した朝がエジプトを支配した。868年に[ 3 ]から事実上独立した朝が半世紀ほどエジプト・シリアを支配した。10世紀に[ 3 ]朝が衰退する(参照:X-34)と,エジプトは過激派であるイスマーイール派を奉じる朝が支配し,969年にを建設して都とした。[ 6 ]朝は,人であるが1169年に建てた朝によって滅ぼされ,[ 10 ]朝がエジプト・シリアを支配した。1250年,[ 10 ]朝の軍人奴隷である出身者が[ 10 ]朝を滅ぼし,[ 11 ]朝を建てた。[ 11 ]朝は,率いるモンゴル軍を撃退してエジプト・シリアを支配した。
check_icon6(1)[ 6 ]朝が[ 7 ]に創設した学院は,[ 10 ]朝以降スンナ派の最高学府となった。(2)[ 9 ]は第3回十字軍と戦った。(3)インド=ヨーロッパ語系の[ 8 ]人は,現在トルコ・シリア・イラク・イランなどにまたがる地域に居住しているが,総人口は2000万を越えるともいわれるが未だに独立の国家を持ったことがない。

X-38. バグダードを支配したイスラーム王朝

バグダードは,第2代カリフであるマンスールがティグリス川中流に造営した都である。トルコ人軍人奴隷であるが政治に介入して混乱するなか,穏健を奉じる人の軍事政権であるが946年にバグダードを占領した。[ 5 ]はとしてイスラーム法を施行する権限を得たが,1055年にバグダードに入城した系のに追われ,バグダードをが奪還した。[ 8 ]の建国者は,[ 1 ]カリフからの称号を得た。この称号は,のちにイスラーム諸国の君主の称号として用いられるようになった。その後,[ 8 ]は内紛で4つの小王朝に分裂した。1258年,率いるモンゴル軍がバグダードを陥れ,[ 1 ]を滅ぼし,を建てた。[ 13 ]の第7代ハンであるはイスラーム教を国教とした。
check_icon6[ 8 ]は,1071年にビザンツ帝国をマンジケルトの戦いで破ったが,これは十字軍がおこされる背景となった。

X-39. 中央アジア(トルキスタン)を支配したイスラーム王朝

875年,人イスラーム王朝である朝がアッバース朝から独立した。[ 2 ]朝は西トルキスタンから東部イランを支配し,この地域に居住するトルコ人のイスラームへの改宗が進んだ。999年に[ 2 ]朝を倒した人の朝は,東西トルキスタンを支配し,[ 3 ]人のイスラーム化を促進した。1038年に中央アジアのシル川下流域でトルコ人のによって創建された朝は,1055年にバグダードに進出して西アジア一帯を支配した。1077年,[ 6 ]朝の[ 3 ]人マムルークがアム川下流域に建設した朝は,[ 6 ]朝を破ってイラン・アフガニスタンを支配したが,チンギス=ハンに攻略されて滅んだ。遼滅亡後,遼の王族が12世紀前半にを建設したが,これはイスラーム王朝ではない。13世紀前半に建設されて東西トルキスタンを支配したモンゴルの国は,14世紀にイスラーム化した。
check_icon6(1)[ 2 ]朝が建国された875年に中国では黄巣の乱が勃発した。(2)[ 6 ]朝が建国された1038年に中国西北で西夏が成立した。(3)[ 7 ]朝が建国された1077年に西ヨーロッパではカノッサの屈辱が起きた。(4)[ 4 ]朝は11世紀半ばに東西に分裂し,東トルキスタンの政権は[ 9 ]に,西トルキスタンの政権は[ 7 ]朝に滅ぼされた。

X-40. アフガニスタンを支配したイスラーム王朝

875年に建国された人のイスラーム王朝である朝の軍人奴隷()が962年に自立し,アフガニスタンを拠点として系イスラーム王朝の朝を建てた。[ 5 ]朝最盛期のマフムードはインドへの侵入を繰り返し,ヒンドゥー教寺院を破壊し,インドのイスラーム化への道を開いた。12世紀半ば,[ 5 ]朝から独立した朝もインドへ侵攻し,アフガニスタンを拠点としイラン東部から北インド・ベンガルまでを支配した。13世紀に入ると,イラン東部を1077年に建国された[ 4 ]系イスラーム王朝の朝に奪われ,さらに北インドでは,[ 6 ]朝の奴隷出身のアイバクによってが建国され,[ 6 ]朝は1215年に滅亡した。
check_icon6[ 5 ]朝が建国された962年に西ヨーロッパではが戴冠され,神聖ローマ帝国の歴史が始まった。

X-41. インドにおこったイスラーム王朝

962年にアフガニスタンで建国された朝がインドへ侵入し,さらに[ 1 ]朝を倒した朝が北インド・ベンガルを支配した。と総称されるヒンドゥー教の諸勢力は,これらの動きに一致して対抗することができず,インドのイスラーム化が始まり,13世紀に入るとインドで最初のイスラーム王朝が成立した。インドで最初に出来たイスラーム王朝は,[ 2 ]朝の奴隷出身のが1206年に建てた(1206~90)である。その後デリーを拠点として,朝(1290~1320)・朝(1320~1414)・朝(1414~51)・朝(1451~1526)の4つのイスラーム王朝が続いた。[ 5 ]から[ 9 ]朝までの5つの王朝をまとめて朝と呼ぶ。1526年,バーブルは[ 9 ]朝軍を破って,インド史上最大のイスラーム王朝である帝国を建国した。
check_icon6(1)[ 5 ]が成立した1206年にモンゴル高原ではが即位した。(2)[ 4 ]はデリーにインド最古のモスクの付属の塔であるを建設した。(2)[ 10 ]朝のうち,最初の4つはトルコ系で,最後の[ 9 ]朝のみアフガン系である。[ 10 ]朝の順番は,ゴロで,「奴隷はトゥグ去ろう」と覚えよう。

X-42. ティムール朝(帝国)

14世紀にモンゴル帝国が解体するなかで,中央アジアを支配していたが東西に分裂した。その後,トルコ化・イスラーム化した西[ 1 ]の軍人は年にを都として[ 2 ]朝(帝国)を開き,西を統一した。その後,西進して滅亡後のイランからイラクを制圧し,さらに北方にあったや南方では北インドへ侵攻した。その後西進した[ 2 ]は,年にの戦いで帝国を破り,スルタンのを捕虜とした。[ 2 ]は明を討とうとして遠征に出発したが,その途中で病死した。[ 2 ]死後,帝国は分裂し,[ 4 ]の政権とアフガニスタン西部のの政権がその中で生き残った。その後16世紀初めに,[ 2 ]朝(帝国)はトルコ系遊牧民人に滅ぼされた。[ 13 ]人は,中央アジアに,ブハラ=ハン国・・コーカンド=ハン国の3ハン国を建てた。
check_icon6中国では,[ 8 ]年に靖難の役に勝利した永楽帝が即位した。

X-43. ティムール朝(帝国)の繁栄

ティムールは都を置いたに壮大なモスクなどを建造し,[ 1 ]は中央アジアの商業・学芸の中心として栄えた。また,ティムールがイラン人とトルコ人の世界を統一したことで,国で成熟したイラン=イスラーム文化が中央アジアへ伝えられ,文化として発展した。ティムール朝(帝国)の第4代は[ 1 ]に天文台を建設し,天文学や暦法も発達した。多数のトルコ語作品が生み出されたほか,(細密画)の傑作もつくられた。

X-44. オスマン帝国の成立

西方に進出したトルコ人は,年に小アジア(アナトリア)西北部に帝国を建設した。[ 2 ]帝国は小アジアに残った帝国領を奪い,さらにバルカン半島に進出して(現在のエディルネ)を都とした。1396年にはの戦いで西欧諸国の連合軍を破ったが,1402年のの戦いでに敗れて捕虜となり,[ 2 ]帝国は分裂状態に陥った。その後再統一されたのち,1453年には,を占領して[ 3 ]帝国を滅ぼし,[ 10 ]を都と定めた。この都市はやがて,と呼ばれるようになった。
check_icon6[ 3 ]帝国が滅んだ1453年に,西ヨーロッパでは,百年戦争が終結した。

X-45. オスマン帝国の拡大

16世紀初めに即位したオスマン帝国の第9代スルタンのは,イランにおこった新興の朝を撃退し,1517年に朝を滅ぼしてシリア・エジプトを支配下に置いた。その結果,[ 3 ]朝の管理下にあったイスラーム教の聖地であるとを支配下に置き,オスマン帝国は派イスラーム教の中心勢力となった。
check_icon6(1)ドイツでは,1517年にルターがを発表した。(2)かつては,[ 3 ]朝を滅ぼした時にアッバース家カリフから禅譲を受け,スルタン=カリフ制が成立したといわれた。しかし,これを裏付ける史料はなく,スルタン=カリフ制の概念は,ヨーロッパ諸国の進出に対抗して内外のムスリムへの影響力を強めるために,18世紀末に主張されるようになったと,今日ではされている。

X-46. オスマン帝国最盛期

オスマン帝国は,第10代スルタンののもとで最盛期を迎えた。[ 1 ]はイランを支配していた朝から南イラクを奪い,北アフリカのチュニジア・アルジェリアも支配した。さらに,1526年のモハーチの戦いでを破って併合し,1529年にはを包囲してヨーロッパに脅威を与えた。年に,[ 1 ]はの海戦でローマ教皇・スペイン・ヴェネツィアなどの連合艦隊を破り,地中海の制海権を手にした。また,[ 1 ]は建築家シナンに命じ,首都のにスレイマン=モスクを建設した。
check_icon6(1)[ 1 ]は,イタリア戦争において神聖ローマ皇帝と対立していたフランス王と,対ハプスブルク同盟を結んだ。[ 3 ]への攻撃や,[ 4 ]包囲はフランスに対する支援の意味もあった。苦境に立った[ 8 ]はルター派を一度は承認し,その後再禁止するといった態度を取り,ルターの宗教改革にも影響を与えた。なお,[ 4 ]包囲は2度行われ,[ 1 ]によるものが第1次で,第2次は1683年に行われた。(2)インドでは,1526年に帝国が成立した。

X-47. カピチュレーションとレパントの海戦

オスマン帝国の最盛期を築いたの子のセリム2世は,[ 1 ]が同盟を結んだフランスの商人に居住・通商の自由や治外法権などを認める通商特権()を認めた。セリム2世統治下の年,の海戦がおこり,スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇などの連合艦隊にオスマン海軍は敗れた。しかし,オスマン帝国の地中海における制海権に大きな変化はなく,その後もオスマン帝国はヨーロッパに対し優位を保った。1683年に行われた第2次包囲の失敗がオスマン帝国衰退のきっかけとなり,オスマン帝国とヨーロッパとの力関係は逆転した。オスマン帝国は,1699年の条約での大半をオーストリアに奪われ,さらに18世紀後半にはロシアに敗れて黒海北岸を失った。
check_icon6(1)[ 2 ]は,のちにイギリスやオランダにも与えられた。もともとこの特権は,ヨーロッパを圧倒するオスマン帝国が恩恵として与えたものであったが,18世紀以降に力関係が逆転すると,ヨーロッパ諸国はオスマン帝国への侵略に利用するようになった。なおかつては,スレイマン1世がフランスに与えたのが最初であるとされていた。(2)[ 4 ]の海戦には,のちに『ドン=キホーテ』を書くスペインのが参加していた。

X-48. オスマン帝国による統治

オスマン帝国の軍事力は騎士(シパーヒー)と,スルタン直属の常備軍であるとからなっていた。騎士(シパーヒー)には,軍事奉仕の代償として土地の徴税権()を与えた。[ 1 ]は,バルカン半島進出後に,キリスト教子弟を強制徴用し,イスラームに改宗させて編成した歩兵集団である。1517年に朝を滅ぼしてメッカ・の保護権を得たオスマン帝国は,派イスラーム教の擁護者として,イスラーム法であるにもとづく政治を行った。オスマン帝国では,直轄領は州・県・郡にわけられ,官僚制度が整備されてスルタンによる専制と中央集権が行われた。一方,キリスト教徒やユダヤ教徒の共同体()は「」として保護され,自治が認められていた。
check_icon6(1)[ 2 ]制は,朝が創始したイクター制を継承したものである。(2)キリスト教子弟を強制徴用する制度をデヴシルメというが,すべてが[ 1 ]になったわけではなく,スルタン直属の高級官僚となったものもいる。(3)1492年の(国土回復運動)完了後,スペインはユダヤ教徒を追放したが,追放されたユダヤ人の多くはオスマン帝国に移住した。(4)シュメール人の聖塔は,モスクに付属する尖塔は。[ 7 ]に似てるので注意!!

X-49. サファヴィー朝

ティムール帝国が衰えたのち,イランでは神秘主義教団の教主が,1501年にを都として朝を開いた。建国後,[ 3 ]朝は過激思想からの脱却を図り,派の中でも穏健な派を国教とし,派のオスマン帝国と対抗した。この後,イランでは[ 4 ]派が主流となった。また[ 3 ]朝は,イランで古代以来王を意味するの称号を用い,イラン人の民族意識の高揚に努めた。

X-50. アッバース1世

サファヴィー朝は,(位1587~1629)のもとで最盛期を迎えた。[ 1 ]は帝国からアゼルバイジャンとイラクの一部を奪還し,ポルトガル人を島から追放した。さらに,新首都を建設して,「王のモスク(イマームのモスク)」をはじめとする壮麗な建築物を建てた。[ 1 ]統治下では,アルメニア商人の活躍によって国際商業が活性化し,「[ 4 ]は世界の半分」といわれるほど繁栄した。しかし,[ 1 ]死後,王朝は衰え,[ 2 ]にイラクを奪われた。
check_icon6サファヴィー朝は,18世紀前半にアフガン人の侵入により滅亡した。

X-51. アフリカ東海岸

アフリカの東海岸部は,8世紀頃からインド洋交易に従事するムスリム商人が渡来するようになり,北から順に・モンバサ・ザンジバル・などの海港都市が交易の拠点として発達した。これらの海岸地帯では,アラビア語と現地の語が混交して出来た共通語語が生みだされ,イスラームとアラビア半島やインドの文化の影響を受けた[ 4 ]文化も形成された。さらに南方の現在のジンバブエを中心に,11世紀頃に王国がおこり,金や象牙を輸出し綿布を輸入するインド洋交易で栄えた。この地域には,巨大な石造建築であるジンバブエ遺跡群が残されている。
check_icon6(1)15世紀前半に明のの艦隊は[ 1 ]を訪れた。また15世紀末に,ポルトガルのは[ 1 ]でムスリムの水先案内人を雇い,インドへ向かった。(2)ジンバブエとは,「石の家」の意味。