イスラーム世界の成立

「イスラーム世界の成立」の一問一答問題です。

10件の記事

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X-23. メッカの繁栄

大部分が砂漠地帯のアラビア半島では,アラブ人はオアシスを中心に遊牧や農業を営み,おもにラクダを使った(キャラバン)によってインド洋と地中海を結びつける中継貿易を行っていた。6世紀後半,ササン朝のとビザンツ帝国の帝が抗争を繰り返すと,(シルクロード)が両国の国境で途絶え,さらにビザンツ帝国が支配していた紅海貿易も衰えた。そのため,[ 4 ]や海の道が衰退し,アラビア半島西部を経由するルートが栄えた。イスラームが生まれるは,この中継貿易で繁栄していた。

X-24. イスラームの誕生

アラビア半島西部のヒジャーズ地方に位置するは族の商人が支配していたが,その一人として生まれたは,610年頃に唯一神の言葉をさずけられたであると自覚した。[ 3 ]は,それまでの多神教にかわって厳格な一神教であるイスラーム教を唱えた。だが,多神教と富の独占を批判する[ 3 ]は[ 1 ]の大商人による迫害を受け,年に少数の信者を率いてに移住し,ここにイスラーム教徒(ムスリム)の共同体を建設した。この移住を(聖遷)といい,[ 6 ]年は純粋なであるイスラーム暦の紀元とされる。
check_icon6英語表記にちなんでメッカ・メディナというが,アラビア語の母音は「あ」・「い」・「う」の3つであり,アラビア語ではマッカ,マディーナである。

X-25. メッカ開城とカリフ

イスラーム教を開いたは,630年,無血でを征服し,それまでの多神教の神殿であったをイスラーム教の聖殿に定めた。その後,アラブの諸部族は次々と[ 1 ]と盟約を結び,アラビア半島はイスラーム勢力に統一された。632年に[ 1 ]が亡くなると,イスラームの共同体の指導者として,「後継者」を意味するが選ばれた。といわれる最初の4代は選ばれたが,ウマイヤ朝以降[ 5 ]は世襲化された。

X-26. イスラームとイスラーム社会

イスラームとは「神への絶対的服従」を意味するが,イスラーム教徒のことをアラビア語でという。[ 1 ]は,唯一神の存在を信じることや,聖地に向かっての日に5回の礼拝や,断食月における日中の飲食禁止などを規定したを義務として生きる。イスラーム教の教義は,聖典『』に語で記されている。イスラーム社会では,といわれるイスラーム法が9世紀頃までに整えられ,それは宗教的な戒律にとどまらず,結婚や離婚などの家庭生活や社会・経済,政治までを規制している。[ 8 ]の法源としては,『コーラン(クルアーン)』のほか,といわれる預言者ムハンマドの言行(スンナ)と伝承の記録などがある。

X-27. ユダヤ教・キリスト教との関係

一神教のイスラーム教はユダヤ教・キリスト教の影響を受けている。『旧約聖書』のはイスラームの唯一神と同じ神を指すとされ,ユダヤ教徒やキリスト教徒は同じ神を信仰する「」とみなし,庇護民(ズィンミー)として扱われた。イスラームでは,出エジプトを率いたやキリスト教の開祖も神の言葉をさずかったとされるが,イスラームの開祖が「最後にして,最大の[ 6 ]」とされる。[ 4 ]の十戒にも見られるようにユダヤ教やキリスト教においても,崇拝は禁止されているが,この点においてイスラーム教は非常に厳格であり,[ 7 ]の肖像画さえも認められていない。
check_icon6ズィンミー(ジンミー)とは,ジズヤ(人頭税)の支払いを条件に生命・財産の安全と彼らの信仰が保障されたものを指す。一神教ではないが,ゾロアスター教徒もズィンミー(ジンミー)として扱われた。

X-28. 正統カリフ

632年にムハンマドが没すると,が初代(後継者の意味)に選出された。第2代ウマルは帝国からシリア・エジプトを奪い,642年にの戦いで朝を破り,イラク・イランを征服した。第3代ウスマーンは聖典『』を編纂した。第4代はムハンマドのいとこで,ムハンマドの娘ファーティマの夫であるが,シリア総督と戦っている最中に,彼に不満を持つハワーリジュ派によって暗殺された。この4人を正統[ 2 ]という。
check_icon6アラブ人は,[ 2 ]のもとで異教徒に対する戦い()を行い,征服地にという軍営都市を建設した。イラクのクーファやバスラ,エジプトのカイロ近郊のフスタートなどが[ 10 ]にあたる。

X-29. ウマイヤ朝の成立

第4代カリフのが彼に不満を持つハワーリジュ派によって暗殺されると,[ 1 ]と対立していたシリア総督は年にを都とする朝を開いた。[ 5 ]朝は征服活動を継続し,東方ではソグディアナとインド西部を征服し,西方では北アフリカからイベリア半島に進出して711年に王国を滅ぼした。[ 5 ]朝はフランク王国へしばしば侵入したが,年にの戦いで敗れ,イベリア半島に押し戻された。
check_icon6[ 5 ]朝は8世紀初めに都の[ 4 ]に現存する最古のモスクである[ 5 ]=モスクを建設した。

X-30. シーア派とスンナ派

661年に朝が成立したのち,ムハンマドのいとこであった第4代カリフのとその子孫のみが共同体()を指導する権利があると主張する人々が,派を結成した。これに対し,ムハンマドの言行()に従うことを重視する多数派のイスラーム教徒を[ 5 ]派と呼ぶ。
check_icon6歴史上のイスラーム王朝の大多数は[ 5 ]派で,現在でも[ 5 ]派が多数を占めている。[ 4 ]派は,現在イランやイラク,レバノンやシリア,バーレーンなどで重要な位置を占めている。現在,イラクやシリアの一部地域を恐怖政治で支配している自称「イスラーム国(IS)」は[ 5 ]派である。標準的な入試対策として覚えるべき[ 4 ]派王朝は,946年にバグダードを占領したイラン人の軍事政権である朝と,909年にチュニジアに建国され,のちにエジプトを支配した朝,1501年にイランにできた朝の三つである。

X-31. アラブ帝国からイスラーム帝国へ

661年に成立した朝では,征服地の先住民にだけ人頭税()と地租()が課せられ,彼らがイスラーム教に改宗しても免除されなかった。聖典『』にはすべての信者は平等であると説かれているため,異民族のイスラーム教徒であるは不満を抱いた。ムハンマドの叔父の子孫は,[ 1 ]朝に不満を抱く派と[ 5 ]を利用し,[ 1 ]朝を倒して年に[ 6 ]朝を建てた。[ 6 ]朝では,[ 5 ]には人頭税([ 2 ])は課せられず,アラブ人でも征服地に土地を持つ場合には地租([ 3 ])が課せられ,税制面における民族間の差別は一応なくなった。公用語は依然として語であったが,イラン人を中心とする[ 5 ]も積極的に登用し,官僚制度が整えられて中央集権化が進んだ。アラブ人が特権を持っていた[ 1 ]朝を,イスラームのもとでの平等を原則とする[ 6 ]をと呼ぶ。
check_icon6(1)[ 6 ]朝は,建国後,[ 7 ]派を弾圧した。(2)751年にアッバース朝が唐を破ったの戦いでがイスラーム世界に伝来した。

X-32. アッバース朝の成立

朝に対して不満を抱いていた派とアラブ人以外のイスラーム教徒であるは,ムハンマドの叔父の子孫である家の革命運動に協力した。この革命運動が成功し,年に[ 1 ]朝は倒されて[ 4 ]朝が開かれた。[ 4 ]朝は,イラン人を中心とするを官僚として登用し,さらに民族間の税制面の不平等を解消してイスラーム帝国となった(参照:X-31)。一方[ 4 ]朝は,多数派の派を採用して,[ 2 ]派を弾圧した。第2代カリフのは,中央集権体制を整備するとともに,ティグリス川西岸に首都を建設した。[ 9 ]は国際交易の中心都市として発展し,最盛期には人口100万を数えた。[ 4 ]朝は,第5代カリフののときに最盛期を迎えた。
check_icon6[ 10 ]は,フランク王国のカール大帝と使節を交換した。