オリエント

「オリエント」の一問一答問題です。

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X-1. オリエントの自然と都市文明の発生

オリエントとはヨーロッパから見て「日の昇るところ」を意味し,西アジアからアフリカ北東部一帯に広がる地域をさす。大河流域などの農耕に適している地域もあるが,雨が少なく高温乾燥の砂漠気候に属する地域である。。川・ユーフラテス川流域のと,川流域のエジプトでは,早くから灌漑農業が行われ,高度な都市文明が成立し,やがて周辺地域に都市文明が広がっていった。
check_icon6(1)[ 2 ]は「川の間の土地」という意味である。(2)[ 2 ]からシリア・パレスチナにいたる地域を「肥沃な三日月地帯」という。(エジプトを含める説もある。)

X-2. エジプトにおける統一国家の誕生

エジプトの川は,毎年夏になると上流域の降雨によって増水し,肥沃な土壌を上流からエジプトにもたらした。ペルシア戦争の歴史を著したギリシアの歴史家が「」といったように,エジプト文明は[ 1 ]川がもたらす豊かな農業に支えられていた。エジプトでは,早くから政治的単位であるが多数形成されたが,前3000年頃,中流域の上(かみ)エジプトの勢力が河口のデルタ地帯である下(しも)エジプトを征服し,統一国家が成立した。

X-3. 古代エジプトの時代区分

エジプトの王()は,太陽神の子としてあがめられ,神官や書記を官僚としたを行った。前3000年頃に統一国家が出現したエジプトでは,前332年にマケドニアの大王に征服されるまで,約30の王朝が交替したが,そのうちとくに繁栄した時代を(前27~前22世紀)・(前21~前18世紀)・(前16~前11世紀)の3期に区分する。を都とした[ 5 ]は,巨大なピラミッドを建造したことで知られる。[ 6 ]は上エジプトのに都を移したが,その末期にシリアからアジア系の遊牧民の混成集団であるが馬と戦車をもって侵入し,エジプトは一時混乱した。[ 10 ]を撃退した[ 7 ]は,[ 9 ]を都とし,ナイル川上流域やシリアへ進出した。
check_icon6(1)[ 5 ]時代に造られたピラミッドのうち最大のものは,にある王のものである。(2)[ 11 ]のピラミッドの入り口には,王を守護するシンボルである,人間の頭とライオンの胴体をもった石像であるが置かれている。

X-4. 新王国時代のエジプト

と新王国ではが都とされたが,新王国時代には,その守護神が太陽神と結びついて,[ 3 ]=[ 4 ]の信仰が広まった。前14世紀に[ 3 ]=[ 4 ]の神官団と対立した(のちにと改名)は従来の多神教を禁じて,一つの神()だけを信仰させる宗教改革を行い,に都を移した。この時代に古い伝統にとらわれない写実的なが生みだされたが,[ 5 ]の死後,改革は終わった。その後,ラメス(ラメセス)2世が前1286年頃にシリア北部のカデシュでアナトリア(小アジア)を本拠とすると戦うなど,新王国の繁栄は続いた。
check_icon6前13世紀頃,に率いられたヘブライ人は新王国時代のエジプトを脱出した。

X-5. エジプトの文化

エジプト人は霊魂不滅を信じてをつくり,冥界(めいかい)の王の審判にそなえ,一種の紙()にで記したをつくった。[ 4 ]を簡略化してヒエラティック(神官文字)が作られ,さらに簡略化されてデモティック(民用文字)が作られた。エジプトで発達した測地術はギリシアの幾何学に影響を与え,1年を365日とするもエジプトでは使われた。この[ 6 ]はローマののもととなり,それが1582年に改良され,現在使われている西暦であるが成立した。
check_icon6フランスのはロゼッタ=ストーンを用いて[ 4 ]を解読した。

X-6. ナイル川上流の王国

前920年頃にナイル川上流に黒人王国の王国が成立し,前8世紀にはエジプトに進出し,テーベに中心を移した。前7世紀に,オリエントを統一したの攻撃を受け,南方のに都を移したため,それ以降を[ 3 ]王国ともいう。[ 1 ]王国はすぐれた製鉄技術と内陸部との中継貿易で繁栄したが,350年頃にエチオピアの王国の攻撃により滅んだ。
check_icon6[ 4 ]王国は4世紀にキリスト教(コプト派)を受容した。コプト派とは,公会議で異端とされたを唱える一派である。また,[ 4 ]王国はインド洋から紅海を経由する海上交易で繁栄したが,インド洋交易では進出してきたササン朝と争った。

X-7. シュメール人の都市国家

ティグリス川・川流域のでは灌漑農業が発達して人口が急増し,前3000年頃には民族系統不明の人が・ウルク・ラガシュなどの都市国家をつくった。都市は城壁で囲まれ,中心に壮大な(聖塔)が建設され,その都市の守護神がまつられていた。王は最高の神官として神の権威によって統治するを行い,神官や戦士が支配層を構成していた。[ 3 ]人が考案した,に記すは,オリエント世界の文字の原型となった。数学・占星術・暦法などが発達した。による時間や方法の区分が発達し,また暦法は月の満ち欠けにもとづくがもちいられた。前24世紀,セム語系の人によって[ 3 ]人の都市国家は征服された。
check_icon6『旧約聖書』に見られる「ノアの箱船」の原型とみられる洪水伝説が『ギルガメシュ叙事詩』のなかに含まれているが,ギルガメシュはウルクの王とされる。

X-8. メソポタミア-セム語系民族の活躍-

前24世紀にシュメール人の都市国家を征服したに率いられたセム語系の人は,メソポタミアからシリアにおよぶ広大な領域国家をつくった。その後,シュメール人の都市国家が独立し,ウル第3王朝などをつくり,一時繁栄した。やがて,セム語系の人が押し寄せ,を都とするを建て,前18世紀頃の王の時にメソポタミア全土を支配した。[ 6 ]王は各地の法を集大成して[ 6 ]法典を発布した。法典の刑法は,「目には目を,歯には歯を」のの原則に立っていたが,身分によって刑罰には差がつけられていた。

X-9. メソポタミア-鉄器の開発と諸民族の侵入-

前2000年頃に,インド=ヨーロッパ語系の人がオリエントに侵入し,前17世紀半ば頃にアナトリア(小アジア)に強力な国家を建設した。[ 1 ]は製鉄技術を独占し,鉄製の武器を用い,セム語系の人の国であるを前16世紀初めに滅ぼした。また,民族系統不明の人がザクロス山脈方面からメソポタミア南部に侵入し,[ 3 ]滅亡後に南メソポタミアを支配した。さらに前15世紀にはメソポタミア北部におこった王国が勢力を誇った。前15~前13世紀には,小アジアからメソポタミアの方面にかけて[ 1 ]・[ 5 ]・[ 3 ]が勢力を競い,さらにエジプトがシリアをめぐり[ 1 ]と争った。

X-10. 前13世紀頃のオリエントの変動

前13世紀頃,エーゲ海から東地中海一帯に「」と呼ばれる人々が来襲し,小アジアのを滅亡に追い込み,エジプトを弱体化させた。この地方を支配していた2大強国の勢力が後退したのにともなって,セム語系の3つの民族の活動が活発化した。地中海貿易を独占した,内陸貿易に活躍した,のちにユダヤ教を成立させるの3民族である。
check_icon6(1)ギリシアでは,前12世紀頃にエーゲ文明が滅亡したが,一説には「[ 1 ]」の侵入が関係しているともいわれる。(2)[ 5 ]とは他民族による呼び名で,自らはイスラエル人と称した。バビロン捕囚後にユダヤ教が確立されると,ユダヤ人と呼ばれることが多い。

X-11. フェニキア人の活躍

語系のフェニキア人は,シドン・などの都市国家を拠点に,地中海貿易を独占し,北アフリカからイベリア半島にかけて多くの植民市を建設した。フェニキア人は,交易活動の取り引きを記録するために,カナーン人が使用していた表音文字からフェニキア文字を考案した。これはギリシア人に伝えられ,が成立する。
check_icon6ポエニ戦争(前264~前146年)でローマと戦ったは,[ 2 ]市が建設した植民市である。

X-12. アラム人の活躍

語系のアラム人は,を拠点にラクダによる隊商を組織し,イラン高原から中央アジアまでの内陸都市を結ぶ中継貿易に活躍した。この結果,アラム語が国際商業語として西アジア一帯で用いられた。表音文字である文字をもとにつくられたアラム文字は,多くの文字のもととなった。
check_icon6(1)内陸貿易で活躍したのは[ 1 ]系のアラム人。古バビロニア王国を建てたのは[ 1 ]系の人。似てるので注意!!(2)アラム文字は,ヘブライ文字・アラビア文字・ソグド文字・ウイグル文字・モンゴル文字・満州文字などの母体となっている。

X-13. ヘブライ統一王国

語系の遊牧民であったヘブライ人は,前1500年頃,に定住し,一部はエジプトに移住した。時代のエジプトの圧政に苦しんだヘブライ人は預言者に率いられて[ 2 ]に脱出した(「」)。前11世紀末,ヘブライ人は統一王国を形成し,王と,その子王のとき,を中心に栄えた。
check_icon6(1)ヘブライ人は他民族による呼称で,自らは人と称した。(2)パレスチナは古くはカナーンと呼ばれていた。前1200年頃にこの地域に住みついたペリシテ人がパレスチナの語源である。

X-14. ユダヤ教の成立

通商をさかんにし,イェルサレムに壮大な神殿を建設した王の死後,ヘブライ王国は,北の王国と南の王国に分裂した。[ 2 ]王国は,前722年,帝国に滅ぼされた。[ 3 ]王国は前586年にのに滅ぼされ,住民の多くがバビロンに強制移住させられた()。前538年に[ 5 ]を滅ぼした朝のにより帰国が許され,[ 7 ]は終わった。預言者に率いられてエジプトを脱出した「出エジプト」や[ 7 ]のような受難のなかで,ヘブライ人は唯一神への信仰を深め,ヘブライ人だけが神に選ばれて救われるとするや,救世主()の出現を待望するユダヤ教を成立させた。
check_icon6ユダヤ教の最後の審判や天使・悪魔の二元論などには,イランの教の影響が見られる。

X-15. アッシリア帝国

語系のアッシリア人は,前2000年頃からメソポタミア北部を拠点に小アジア方面との中継貿易によって栄えたが,前15世紀にはメソポタミア北部を支配した王国に一時服属した。その後独立し,鉄製の武器と戦車・騎兵を用いて前7世紀前半に全オリエントを統一し,様々な民族を支配する最初のとなった。アッシリア帝国は,交通・通信網を整備するためにを設けた上で,征服地を州に分け,総督を派遣して中央集権的な統治を行った。前7世紀半ばの王がエジプトとイラン南西部を支配していたエラム人を征服し,最大版図を築いた。しかし,強制移住や重税といった過酷な支配が服属民族の反抗を招き,前612年に都が陥落して滅亡した。
check_icon6[ 5 ]は[ 6 ]に図書館を造ったことでも知られる。

X-16. アッシリア滅亡後の4王国分立

最初の世界帝国となった帝国が前612年に滅亡すると,4王国が分立する時代となった。小アジアに建国された王国は金山開発と交易で栄え,最古のをつくり,ギリシアにも影響を及ぼした(参照:I-8)。セム語系の人は王国をつくり,のときにヘブライ人の王国を滅ぼすなど勢力を誇った。イラン高原では,インド=ヨーロッパ語系の人がエクバタナを都とした王国を築いた。アッシリアからの独立を回復したエジプトは,フェニキア人やギリシア人との交易をさかんに行った。

X-17. アケメネス朝によるオリエント再統一

アッシリアが滅亡して崩壊したオリエント世界を再統一したのは,インド=ヨーロッパ語系のペルシア人であった。イラン高原南西部にいたペルシア人は王国に服属していたが,前550年にが[ 1 ]を倒して朝ペルシアをおこした。[ 2 ]は小アジアのを征服し,さらにメソポタミアのを滅ぼしてヘブライ人をから解放した。第2代のカンビュセス2世が前525年にエジプトを征服し,[ 3 ]朝は再びオリエントを統一した。第3代のの時代には,東は川から西は海沿岸に及ぶ大帝国となった。
check_icon6アケメネス朝は,アレクサンドロス大王に敗れたが暗殺されて,前330年に滅亡した。

X-18. ダレイオス1世による統治

朝の第3代は,最初の世界帝国であった帝国の中央集権的統治を継承した。全土を約20の州に分け,(総督)を任命して徴税や治安維持を担わせる一方,「」「」と呼ばれる監察官を派遣して[ 4 ]を監視させた。行政の中心都市であったから小アジアのサルディスまで「」と呼ばれる国道をつくり,を整備した。また,金貨・銀貨を発行し,税制を整え,海上ではセム語系の人を,陸上ではセム語系の人の交易を保護した。[ 3 ]とは異なり,服属した異民族は寛大に扱われ,軍役や貢納が義務が守られる限り,異民族の宗教や慣習は認められた。[ 2 ]は植民市の反乱をきっかけにギリシアに遠征し,ペルシア戦争を始めた。
check_icon6[ 2 ]が新年の祭礼を執り行うための都として建設したは,東方遠征によって[ 1 ]朝を滅ぼした大王によって破壊された。

X-19. アケメネス朝の社会・文化

アケメネス朝は,シュメール人が考案したを表音化したペルシア文字をつくる一方,ペルシア語・アッシリア語・アラム語などが公用語として使われた。ペルシア人が信仰した教は,この世を光明神・善神であると,暗黒神・悪神であるとの闘争ととらえ,最後は善神が勝利し,人はを経て救われると説いた。[ 5 ]などの観念はユダヤ教・キリスト教・イスラーム教といった一神教に影響を与えた。[ 2 ]教はアケメネス朝で保護され,ササン朝では国教とされた。
check_icon6(1)[ 1 ]はエジプトのヒエログリフと同じく表意文字だったものを,表音化して利用した。(2)イギリスの学者・軍人であるローリンソンはベヒストゥーン碑文を用いて[ 1 ]を解読した。(3)[ 2 ]教は南北朝のころに中国に伝わり,けん教(漢字:示に天)または拝火教と呼ばれた。

X-20. バクトリアとパルティア

アレクサンドロス大王死後,彼が征服したアジアの領土は朝シリアが受け継いだ。前255年頃,アム川流域のギリシア人が独立してを建てた。[ 2 ]は前139年にスキタイ系トハラ人によって滅ぼされたが,この王国で栄えたヘレニズム文化はのちに西北インドを支配した朝に伝えられ,美術を生みだすことになった。[ 2 ]の成立はイラン系遊牧民を刺激し,カスピ海東南部に族長のが前248年頃に(中国名は)を建国した。前2世紀,[ 6 ]は[ 1 ]朝からメソポタミアを奪い,ティグリス川中流東岸にを建設し,さらにシリアにも進出して東西交易の利益を独占して繁栄した。[ 6 ]は,226年にササン朝のによって滅ぼされた。
check_icon6(1)第1回三頭政治に参加したローマのは[ 6 ]遠征で戦死した。(2)[ 6 ](前248頃~後224)と中国の漢(前202~後220)は,同時代だったことに注意!!

X-21. ササン朝ペルシア

224年,はイラン高原南部の農耕イラン人を勢力基盤として朝ペルシアを建て,イラン系遊牧民が建てたを226年に滅ぼした。[ 1 ]は,[ 3 ]が都としていたに都を置き,教を国教として統一を図った。第2代のは,東方では朝から領土の大半を奪って衰退に追い込み,西方ではシリアに侵入してローマと戦って軍人皇帝を捕らえた。[ 2 ]朝はシリアからインダス川まで支配し,東西交易の利益の独占を図り,インド洋ではエチオピアの商人と争った。[ 2 ]朝は,5世紀後半に中央アジアのトルコ系遊牧民の攻撃を受け,一時弱体化した。しかし,6世紀のはトルコ系遊牧民と結んで[ 10 ]を滅ぼし,また東ローマ帝国の帝との戦いも優勢に進めた。しかし,[ 11 ]死後,[ 2 ]朝は衰え,651年にイスラームのアラブ人によって滅ぼされた。
check_icon6[ 2 ]朝の建国年に関しては,[ 3 ]を倒した226年とする場合もある。

X-22. ササン朝の文化

ササン朝では,教が国教とされ,経典『』が編纂された。ササン朝は諸民族の宗教には寛容であったため,仏教徒やキリスト教徒,ユダヤ教徒が多数いた。3世紀にが,[ 1 ]教・仏教・キリスト教を融合して,[ 3 ]教を創始した。[ 3 ]教はササン朝では異端として弾圧されたが,ローマ帝国や中央アジア・中国に広まった。ササン朝では,精巧なガラス器・銀器・織物などの工芸が発展し,ササン朝美術と呼ばれる。それは,西方ではビザンツ帝国を経て地中海地方へ,東方では中国を経て日本にまで伝えられた。法隆寺のやの漆胡瓶(しっこへい)などにササン朝美術の影響が見られる。
check_icon6[ 3 ]教については,次の3つを覚えておこう!!(1)教父は[ 3 ]教から回心した。(2)南フランスに広まったカタリ派系の異端で,フランス王に討伐された派は[ 3 ]教の影響を受けている。(3)ソグド商人の影響でトルコ系騎馬遊牧民は[ 3 ]教を信仰した。