2.ローマ世界

「2.ローマ世界」の一問一答問題です。

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ローマ共和政(2)

II-1. ローマ共和政

ローマは川のほとりに,イタリア人の一派人が建設した都市国家である。ローマははじめ民族系統不明の先住民である人の王に支配されていたが,前6世紀末に王を追放して共和政となった。だが,最高官職である2名の(執政官),非常時におかれる(独裁官),および最高の立法・諮問機関のの議員は貴族()が独占したので,当初の共和政は貴族共和政と呼ばれる。これに対して,中小農民の平民()が身分闘争を行って,徐々に権利を獲得していった。
check_icon6ラテン人のローマ帝国が地中海世界を統一し,ラテン語が広い地域で使われた結果,ロマンス語派(イタリック語派,ラテン語派)と呼ばれる諸語が生まれた。そこには,イタリア語・フランス語・スペイン語・ポルトガル語などが含まれる。

II-2. ローマの身分闘争

武器を自分で買った中小農民の平民()がとして戦争に参加するようになって,平民は貴族による政権独占に不満を抱き,政治的発言権を求めるようになった。前5世紀初めには,元老院や(執政官)の決定に拒否権を行使して平民の権利を守るが設けられた。前5世紀半ばに従来の慣習法を成文化した,最古の成文法であるが制定され,貴族による法の独占が打破された。年の法では2名の[ 3 ]のうち一人を平民から選ぶことを決めた。さらに,年の法では,平民たちの民会であるの決議が元老院の承認なくローマ法となることが決定され,貴族と平民の法的平等が達成された。
check_icon6[ 7 ]法では,貴族による公有地占有も制限された。

ローマの発展(3)

II-3. ローマのイタリア半島支配

ローマは中小農民の平民で構成されるを軍隊の主力として,周辺の都市国家を征服し,前272年には南イタリアにあったギリシア植民市の最後の拠点タレントゥムを陥落させてイタリア半島のすべてを支配した。ローマは支配した諸都市を,ローマ市民権を与える植民市,市民権の一部を与える自治市,市民権を与えないなどに分けた。それらに対して,それぞれ異なる権利と義務を与えて統治し,被支配者が団結してローマに反抗することを防止した,この統治形態をという。

II-4. ローマの地中海進出

全イタリア半島を支配したローマは西地中海の覇権をめぐり,セム系の人がアフリカ北岸に建てた植民市と衝突した。3回にわたる戦争(前264~前146)でローマは[ 2 ]を滅ぼした。[ 2 ]を滅ぼした前146年にローマは貿易上のライバルであったギリシアのコリントスを滅ぼし,地中海の大部分を支配した。その後,前30年に朝エジプトを滅ぼして,ローマは地中海世界を統一した。

II-5. ポエニ戦争

ポエニ戦争(前264-前146)は,人植民市とローマとの西地中海の覇権をめぐる戦争。第1回では島をローマが獲得し,最初の(イタリア半島以外のローマの征服地)とした。第2回ではアルプスを越えて北イタリアに侵入してきたにの戦い(前216年)でローマ軍は大敗したが,がの戦い(前202年)で[ 5 ]を破った。前146年にローマは[ 2 ]を滅ぼして,ポエニ戦争はおわった。
check_icon6ザマの戦いが戦われた前202年の中国では,劉邦が項羽を破って漢王朝を建てた。

ローマ社会の変質(7)

II-6. ローマ社会の変質(1)

前287年の法制定以後に,(執政官)職を経験した上層の(平民)は,(貴族)と一体化して,新しい支配層である(新貴族)を形成した。また,イタリア半島以外のローマの征服地であるの徴税請負や公共土木工事で莫大な財を築いた(エクイテス)が新たな階層として登場した。一方,ローマの地中海進出の過程で戦争に従軍した中小農民の土地は荒廃し,没落した農民の多くがローマに流入し,「パンと見世物」を要求する遊民と化した。

II-7. ローマ社会の変質(2)

ポエニ戦争などによる急速な領土拡大はローマ社会を変質させていった。イタリア半島以外のローマの征服地であるを統治する元老院議員や,[ 1 ]の徴税請負を行う(エクイテス)は,[ 1 ]の拡大によって広がった公有地を私有地化したり,没落した農民の土地を買い占めて大土地所有者となり,戦争捕虜であるを多数使用して,オリーブ・ブドウなどの商品作物を作るを経営するようになった。
check_icon6シチリア島では,[ 4 ]の奴隷が2度にわたって奴隷反乱を起こした(前135-前132,前104-前100)。

II-8. 大土地所有への抵抗

中小農民が没落して軍事力が低下することに危機感を抱いたは,前2世紀後半にあいついでになり,公有地占有の制限規定がある,前367年に制定された法を復活して,大土地所有者の土地を没収して,無産市民に分配しようと試みた。だが,この改革は元老院の反対にあい,挫折した。この改革以降ローマは,有力者が無産市民を集めて私兵として争う混乱した「」に突入した。

II-9. 「内乱の1世紀」

民会を足がかりに,民衆を支持基盤とする(ポプラレス)の代表であると,元老院中心の体制を維持しようとする(オプティマテス)を代表するがたがいに私兵を率いて争った。また,市民権を与えられていなかったイタリア半島のが市民権を求めて戦争を起こした([ 5 ]戦争:前91-前88)。さらに,見世物として真剣勝負を行っていたがに率いられて反乱(前73-前71)を起こした。
check_icon6(1)グラックス兄弟の改革以降,アウグストゥスによる元首政の成立までの混乱期を「内乱の1世紀」と呼ぶ。(2)[ 2 ]派を破った[ 4 ]は一時独裁を行ったが,自ら引退した。

II-10. 独裁への道(1)

元老院が指導する共和政が機能しなくなってきたのに対して,年に3人の実力者が元老院に対抗して私的な政治同盟を結んで,第1回を実現した。そのうちの一人が東方のとの戦いで戦死すると,が元老院に接近し,遠征で富を築いたと対立するようになった。その後,[ 5 ]を破った[ 7 ]が独裁を行った。

II-11. 独裁への道(2)

を打倒してエジプトから帰国したカエサルは独裁を進め,終身の(独裁官)となった。を無視して独裁を進めるカエサルは,らの共和主義者によって,年に暗殺された。
check_icon6カエサルはエジプトの太陽暦をもとに,暦を制定した。現行の太陽暦は,[ 6 ]暦をもとに16世紀後半に制定されたグレゴリウス暦である。なお,ロシア革命の項で出てくるロシア暦とは,[ 6 ]暦のことである。

II-12. 独裁への道(3)

カエサル暗殺後,カエサルの部下とレピドゥス,カエサルの養子の3人による第2回が行われた。レピドゥスが失脚したのち,朝エジプトの女王と同盟した[ 1 ]を年のの海戦で破った[ 2 ]は,前30年に[ 4 ]朝を滅ぼしてエジプトを属州とし,地中海世界を統一した。

帝政前期(3)

II-13. 帝政前期

アクティウムの海戦に勝利したは,年に元老院から(尊厳者)の称号を与えられ,これがローマ帝政の始まりとされる。[ 1 ]はカエサルのようにならないように,元老院にも属州の一部の統治を任せ,共和政の伝統を尊重し,自分は市民のなかの第一人者()に過ぎないと自称した。そのため,帝政前期はと呼ばれる。

II-14. 「ローマの平和」

年の帝による帝政の開始からまでの約200年間は「ローマの平和()」というローマの最盛期である。ローマ風の都市が各地に造られ,現在まで続く都市もある。現在のロンドンは,パリは,ウィーンはと呼ばれていた。インド洋での季節風貿易も行われ,ローマはアジアから絹・香辛料などを輸入し,ブドウ酒・金貨などを輸出した。当時の貿易事情は,『』に述べられている。

II-15. 五賢帝

96年に即位したから5人の皇帝をと呼ぶ。この間,各皇帝は自分の子に帝位を継がせることはなく,元老院議員の最も有能な人物を養子として帝位を継がせた。2番目ののときに現在のルーマニアにあたるを属州とし,東方ではメソポタミアを一時征服して最大版図を築いた。その次のは防衛に努め,現在のイギリスに当たる属州に長城を築いた。[ 2 ]最後の皇帝がで派の哲人皇帝としても知られ,『』をギリシア語で著した。また,『後漢書』のは[ 7 ]とされる。

「3世紀の危機」と帝政後期(4)

II-16. 「3世紀の危機」

3世紀のローマは,各属州の軍団が勝手に皇帝を擁立して争う時代となった。また,北方からは人が,東方からは朝が侵入した。[ 1 ]のが[ 3 ]朝第2代の王に捕らえられた。この時期に,奴隷を使用する大土地経営()がゆきづまり,小作人()を働かせる小作制()が行われるようになった。
check_icon6212年に帝が帝国内の全自由民にローマ市民権を付与した。

II-17. 土地制度の変化

「3世紀の危機」の時代に都市に重税がかけられたため,上層市民は都市を去り田園に大所領を経営する者が現れた。彼らは,それまでの奴隷を使用する大土地経営()に代わり,没落した自由農民や解放奴隷を小作人()として働かせる小作制()を行うようになった。帝は,徴税をしやすくするために[ 2 ]の移動を禁じて,下層民の身分や職業を固定化した。
check_icon6奴隷数の減少や奴隷労働の生産性の低さなどがコロヌス制発展の要因である。コロヌス制は,中世の農奴の先駆形態とみなされている。

II-18. 帝政後期

年に即位した帝が帝国を4分し正帝・副帝を2名ずつたてて統治させるをはじめ,時代の混乱を収めた。彼は,自らを主人()と呼ばせて,皇帝を礼拝させる専制君主政()を始めた。さらに,帝は313年にキリスト教を公認することで帝国の統一をはかり,(旧名ビザンティウム)に遷都し,専制政治を強化した。
check_icon6ディオクレティアヌスは四分統治において東方の正帝となった。また,303年に最後のキリスト教徒の大迫害を行ったことでも知られる。

II-19. ローマ帝国の分裂

395年に帝は死に際して帝国を東西に分けて2子に分け与えたが,これ以後帝国が統一されることはなく,東西分裂が固定化した。人の大移動に直面した西ローマ帝国は,年にゲルマン人傭兵隊長によって滅ぼされた。東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は,貨幣経済や商業の衰退は見られず,年に帝国に滅ぼされるまで続いた。

キリスト教の成立と発展(3)

II-20. キリスト教の成立

パレスチナに生まれたイエスは,律法を遵守して形式主義に陥ったユダヤ教の派を批判し,と隣人愛を説いた。民衆はイエスを救世主(ヘブライ語で,ギリシア語でキリスト)と信じたが,反発したユダヤ人支配層がローマへの反逆者として告発し,総督がイエスを十字架刑に処した。その後,イエスが復活したという信仰が生まれ,キリスト教が成立した。
check_icon6(1)ユダヤ教の聖典を『旧約聖書』と呼び,イエスや使徒の言行をまとめたものが『』である。『[ 5 ]』はギリシア語の共通語であるで記された。『[ 5 ]』中のマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネによるイエスの言行録を『』,ペテロ・パウロの伝道を中心に記述した書を『使徒行伝』という。なお,新約・旧約の「約」とは,神との契約・約束の意味である。(2)ユダヤ教には自らが神から選ばれた民族であるという,があった。そのためユダヤ教はユダヤ人の民族宗教にとどまった。これに対し,[ 2 ]と隣人愛を説いたキリスト教は世界宗教となることができた。

II-21. キリスト教の伝道

キリスト教はイエスが選んだ直弟子であるによって広められた。ガリラヤの漁夫出身で初代ローマ教皇とされると,もとパリサイ派でキリスト教徒を迫害したのちに改宗したがローマ帝国各地に伝道活動を行った。キリスト教は3世紀頃までに奴隷や下層民に広まり,のちに上層市民にも広まるようになった。キリスト教徒は,国家祭祀や皇帝崇拝を拒んだので迫害された。そのため,地下墓所()を避難所・礼拝所として利用した。
check_icon6ペテロ,パウロはネロ帝の時の迫害で殉死した。また,四帝分治制を始めた帝は303年からキリスト教徒を大迫害した。

II-22. キリスト教の発展

キリスト教の広まりを背景に,年,帝が勅令によりキリスト教を公認した。[ 2 ]帝が開催した年の公会議では,神とキリストを同一視する派が正統とされ,キリストを人間であるとする派が異端とされた。4世紀後半には帝が異教の復活を試みたが成功せず,392年に帝は他の宗教を禁じて,[ 6 ]派のキリスト教を国教とした。431年の公会議では,イエスの神性と人性を分離する派が異端とされた。この宗派は唐代の中国に伝えられ,と呼ばれた。さらに,451年の公会議では,イエスに神性のみを認めるが異端とされた。[ 14 ]は,シリア・アルメニア・エジプト・エチオピアなどの教会に受け継がれた。
check_icon6(1)[ 6 ]派の教義は,のちにとして確立された。(2)エジプトの[ 14 ]派の教会は,教会と呼ばれ,エチオピアの教会はこれに深い関係がある。

ローマ文化(5)

II-23. ローマ文化:文学

アウグストゥスの時代に黄金期を迎えたラテン文学では,ホメロスの影響を受けてローマ建国叙事詩『アエネイス』を著したや,『叙情詩集』を著した,『愛の歌』や『転身譜』を著したらがいる。散文では,第2回三頭政治でアントニウスと対立して暗殺された,ローマ最大の雄弁家とされるが有名。ギリシア人のは,ギリシア・ローマの英雄の伝記集である『』を著した。
check_icon6共和政を擁護した[ 4 ]の代表的著作には,『国家論』がある。

II-24. ローマ文化:歴史・地理・自然科学

大移動前の古ゲルマン史料としては,二つの著作が重要である。ガリア遠征の記録であるの『』は,ケルト人・ゲルマン人の重要史料である。タキトゥスが著したゲルマン人の記録が,『』である。政体循環史観を説いたギリシア人歴史家は,第3回ポエニ戦争に従軍し,『歴史』を著した。アウグストゥスに庇護された歴史家はラテン語で『ローマ史』を著した。『地理誌』を著したのは,ギリシア人地理学者である。『』を著した博物学者は,ポンペイの遺跡を生み出したウェスウィウス火山の噴火で殉職した。2世紀のギリシア人天文学者が説いた天動説は,コペルニクスにいたるまで支配的な影響を与えた。
check_icon6帝政に批判的で共和政にあこがれを抱いていたタキトゥスは,アウグストゥスからネロまでの出来事を年ごとに記述した『年代記』を書いた。

II-25. ローマ文化:哲学

哲学では,禁欲を通じて内面的幸福を追求する派が流行した。[ 1 ]派哲学者のはネロの師であったが,ネロに死を強要された。五賢帝最後のは,[ 1 ]派の哲人皇帝として有名で,ギリシア語で『』を著した。奴隷出身のギリシア人[ 1 ]派哲学者であるは精神的に自由な生活を送るべきだと説いた。

II-26. ローマ文化の特色

哲学などの精神文化においては,ローマ人はギリシアの模倣に終わったといわれる。これに対して,土木・建築技術にはすぐれ,ローマに残る(円形闘技場)や,軍道や南フランスにある水道橋,戦勝記念で建設されたなどの遺跡が残されている。また法は,ローマ市民のみに適用される市民法からすべての人に適用されるへと発展していった。6世紀のビザンツ皇帝の命によって編纂された『』は,ローマ法の集大成であるが,ローマ法は後世に大きな影響を与えた。

II-27. ローマ文化:キリスト教思想

教会によって公認された,古代から中世初期にかけて登場した神学者をと呼ぶ。古代キリスト教最大の教父が,『神の国(神国論)』『告白録』を著したである。彼は,青年期には教を信仰しており,回心したのちカトリック教義の確立に努めた。『神の国』は,西ゴート人がローマを占領・略奪した事件に関して,異教徒がキリスト教徒に責めを負わせる非難に対してキリスト教を弁護した著作。『告白録』は,[ 3 ]教からキリスト教にたどり着くまでの自伝である。[ 2 ]は北アフリカのヒッポの司教であったが,ゲルマンの人が包囲する中,430年に亡くなった。