II-16. 「3世紀の危機」
3世紀のローマは,各属州の軍団が勝手に皇帝を擁立して争う[ 1. ]時代となった。また,北方からは[ 2. ]人が,東方からは[ 3. ]朝が侵入した。[ 1 ]の[ 4. ]が[ 3 ]朝第2代の王[ 5. ]に捕らえられた。この時期に,奴隷を使用する大土地経営([ 6. ])がゆきづまり,小作人([ 7. ])を働かせる小作制([ 8. ])が行われるようになった。
212年に[ 9. ]帝が帝国内の全自由民にローマ市民権を付与した。
「「3世紀の危機」と帝政後期」の一問一答問題です。
3世紀のローマは,各属州の軍団が勝手に皇帝を擁立して争う[ 1. ]時代となった。また,北方からは[ 2. ]人が,東方からは[ 3. ]朝が侵入した。[ 1 ]の[ 4. ]が[ 3 ]朝第2代の王[ 5. ]に捕らえられた。この時期に,奴隷を使用する大土地経営([ 6. ])がゆきづまり,小作人([ 7. ])を働かせる小作制([ 8. ])が行われるようになった。
212年に[ 9. ]帝が帝国内の全自由民にローマ市民権を付与した。
「3世紀の危機」の時代に都市に重税がかけられたため,上層市民は都市を去り田園に大所領を経営する者が現れた。彼らは,それまでの奴隷を使用する大土地経営([ 1. ])に代わり,没落した自由農民や解放奴隷を小作人([ 2. ])として働かせる小作制([ 3. ])を行うようになった。[ 4. ]帝は,徴税をしやすくするために[ 2 ]の移動を禁じて,下層民の身分や職業を固定化した。
奴隷数の減少や奴隷労働の生産性の低さなどがコロヌス制発展の要因である。コロヌス制は,中世の農奴の先駆形態とみなされている。
[ 1. ]年に即位した[ 2. ]帝が帝国を4分し正帝・副帝を2名ずつたてて統治させる[ 3. ]をはじめ,[ 4. ]時代の混乱を収めた。彼は,自らを主人([ 5. ])と呼ばせて,皇帝を礼拝させる専制君主政([ 6. ])を始めた。さらに,[ 7. ]帝は313年にキリスト教を公認することで帝国の統一をはかり,[ 8. ](旧名ビザンティウム)に遷都し,専制政治を強化した。
ディオクレティアヌスは四分統治において東方の正帝となった。また,303年に最後のキリスト教徒の大迫害を行ったことでも知られる。
395年に[ 1. ]帝は死に際して帝国を東西に分けて2子に分け与えたが,これ以後帝国が統一されることはなく,東西分裂が固定化した。[ 2. ]人の大移動に直面した西ローマ帝国は,[ 3. ]年にゲルマン人傭兵隊長[ 4. ]によって滅ぼされた。東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は,貨幣経済や商業の衰退は見られず,[ 5. ]年に[ 6. ]帝国に滅ぼされるまで続いた。