V-93. クリミア戦争

[ 1.1853 ] 年,オスマン帝国領内の [ 2.ギリシア正教徒 ] の保護を口実にロシアがオスマン帝国に宣戦し, [ 3.クリミア ] 戦争が始まった。翌年,イギリス・フランスがオスマン帝国側について参戦し,さらにイタリア統一の布石として [ 4.サルデーニャ ] 王国もオスマン帝国側に立って参戦した。[ 3 ]半島のセヴァストーポリ要塞の攻防戦のすえロシアは敗れ, [ 5.1856 ] 年の [ 6.パリ ] 条約で [ 7.ボスフォラス ] [ 8.ダーダネルス ] 両海峡の閉鎖と,黒海の中立化が定められ,ロシアの [ 9.南下政策 ] はまたしても阻止された。[ 3 ]戦争の結果,19世紀前半からイギリスとロシアの両大国によって支えられていたヨーロッパの国際秩序は崩れ,イタリアおよびドイツの統一をめぐり,プロイセン・オーストリア・フランスが戦火を交えることになる。
check_icon619世紀前半のヨーロッパでは勢力均衡に基づくウィーン体制のもと,ナポレオン戦争後の約40年間は大国間の戦争は起きていなかった。[ 3 ]戦争はこの状況を破ったものであり,ウィーン体制の国際秩序の崩壊を意味する。1849年のハンガリー独立運動鎮圧の際にロシアはオーストリアを支援したが,その4年後に勃発した[ 3 ]戦争でオーストリアはロシアを支援せず,中立を保った。ここにそれまでのロシアとオーストリアの提携は崩壊し,イタリアやドイツが統一を目指してオーストリアと戦う環境が整った。