ローマ帝国末期にキリスト教会では,と呼ばれる重要な5つの教会が存在した。ローマ,ビザンツ帝国の首都の,シリアの,パレスチナの,エジプトのの5つの教会であるが,ローマと[ 2 ]以外の教会は7世紀に時代のイスラームに支配された。
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III-19. 首位権
ローマ帝国末期に成立した五本山のうち有力だったのは,ローマ教会とコンスタンティノープル教会の2つであった。イエスにより使徒の筆頭者とされたと,イエスの死を人間の根源的な罪をあがなった贖罪であると説いたの二人が,ネロ帝の迫害によりローマで殉教したことをもって,ローマ教会は他の教会をしのぐ最高位にあるとする首位権を主張した。ローマ教会は,ゲルマン人の布教を行ったことでも知られる6世紀末に選出されたの時からという称号を用い始めた。
III-20. 聖像崇拝論争
偶像崇拝を厳禁するイスラームに対抗して,年にビザンツ皇帝が発布したにより,ローマ教会とコンスタンティノープル教会の対立と分裂が深まった。ゲルマン人への布教に聖像()を用いていたローマ教会は,聖像は偶像にはあたらないと主張し,聖像禁止令に反発した。この対立は,東西教会の分裂につながっていくこととなった。
聖像禁止令についてはその後も論争が続いたが,聖像禁止令はビザンツ帝国において843年に解除された。
III-21. ローマ=カトリック教会の成立
ローマ教会は,8世紀に起きた聖像()をめぐる問題でコンスタンティノープル教会との対立を深めた。この状況下,ビザンツ皇帝に代わる新たな保護者を求めたローマ教皇はフランク王国の家に接近した。その後,年に東西教会は分裂し,教皇を首長とする西方のローマ=カトリック教会と,ビザンツ皇帝を首長とする東方のに分かれた。ローマ=カトリック教会では,教皇を頂点とし大司教・司教・司祭などからなる階層制組織が作られた。
III-22. 教会刷新運動
大司教や修道院長などは,国王や貴族から荘園を寄進されて大領主となった。教会や修道院が荘園を所有するようになると,聖職と付属の荘園を売買するが横行するようになった。また,カトリックにおいては禁じられていた,聖職者のなどの弊害も見られるようになった。11世紀にフランスの修道院が始めた教会刷新運動は,闘争を闘った教皇の改革へと発展した。
III-23. 叙任権闘争
皇帝や国王は封土の授与権を有しており,それにともなって大司教や修道院長を任命する権限である聖職を皇帝がもっていた。聖職売買などの弊害を改革しようとするフランスの修道院による改革運動をおしすすめた教皇は,[ 1 ]を教会の手に取り戻そうとした。皇帝がそれに反発し,[ 1 ]闘争が起きた。教皇[ 3 ]から破門されて孤立した皇帝[ 4 ]は,年にで教皇に謝罪した。その後,年の協約で,皇帝は封土の授与権は持つが,聖職[ 1 ]は教皇が持つという妥協が成立した。
叙任権闘争が決着していない1096年に十字軍が始まったことに注意!!
III-24. ローマ教皇権の絶頂期
教会共同体からの除外を宣するという手段で皇帝や国王に対して優位に立った教皇権は,12世紀末に選出されたのときに絶頂期を迎えた。彼は,イングランド王を[ 1 ]して屈服させ,フランス王・神聖ローマ皇帝に対しても干渉し,「教皇権は太陽であり,皇帝権は月である」と主張した。また彼は,南フランスのカタリ派系の異端に対して十字軍を行い,第回十字軍を提唱した。さらに,1215年に開催した第4回ラテラノ公会議において,ユダヤ人への差別的扱いを決めた。
カタリ派は,ゾロアスター教をもとにキリスト教と仏教の要素を加えて3世紀にできた教の影響を受けた異端。南フランスでアルビジョワ派と呼ばれた。第4回十字軍はインノケンティウス3世の意に反し,を占領した。
III-25. 西ヨーロッパの修道院
西ヨーロッパの修道院は,6世紀にがイタリアのに開いた修道院に始まる。「」をモットーとする[ 1 ]派の戒律は,労働を奴隷の仕事と考えていた古代の労働観を大きく変えた。11世紀に修道院が始めた教会刷新運動は,叙任権闘争を闘った教皇の改革へと発展した。12~13世紀の西ヨーロッパは大開墾時代であったが,派修道院がその先頭に立った。13世紀には,清貧を重んじて財産所有を否定する修道会として,ドミニコ会や会が創設された。
III-26. ローマ教皇権の衰退(1)
十字軍が失敗に終わると教皇権が傾き始め,各国の王権が伸張すると教皇権はさらに衰えた。13世紀末に教皇となったは問題をめぐって,フランス王と争い,年には[ 3 ]に一時とらえられて屈服した(事件)。[ 3 ]はその後,教皇庁を南フランスのに移転させ,教皇を監視下においた。これを「」(1309-77年)という。その後,教皇庁がローマに戻ると,[ 6 ]に対立教皇が選出され,2人の教皇が相争った。これを(大シスマ)と呼ぶ。
III-27. ローマ教皇権の衰退(2)
14世紀後半に起きたによって教皇と教会の権威は失墜した。これに対して,教会の腐敗や堕落を批判し,改革しようとする動きもおこった。イギリスのは,信仰のよりどころをにのみ求め,[ 3 ]を英訳した。(ボヘミア)のは[ 2 ]の説に共鳴し,教会の世俗化を批判した。神聖ローマ皇帝の提唱で年から開かれた公会議は,[ 2 ]と[ 5 ]を異端とし,[ 5 ]を火刑に処した。また,この公会議で,新教皇が選出されて教会が再統一されて,[ 1 ]は終わった。ベーメンでは,[ 5 ]の火刑後に彼の教説を信じる[ 5 ]派が蜂起し,[ 5 ]戦争が勃発した。
教科書では,「[ 7 ]公会議で[ 2 ]と[ 5 ]が異端とされ,[ 5 ]が火刑に処された」というように書いており,上の記述もそのようにしましたが,実は[ 2 ]も火刑に処されています。ただ,[ 2 ]は1384年に死んでいますので,「[ 2 ]も火刑に処された」と書くと,「何それ?」という疑問が出るのを恐れてでしょうが,教科書ではこのことには触れていません。中世の処刑は,命を奪うことが目的ではなく,その存在自体を消し去ることが目的ですから,[ 2 ]も墓が暴かれ,火刑に処されて灰がテムズ川に流されています。