明は,海上交易において民間貿易を禁止し(),貿易のみを認めるという厳しい交易管理をとったが,内陸の交易についても同じでモンゴルや女真には[ 2 ]の形式をとらせ,規模や回数も制限した。モンゴル諸部族は,これに不満を持ち,しばしば中国に侵入した。モンゴル高原では,元の残存勢力が建てたが滅んだのち,東部のと,西部のと呼ばれるモンゴル系諸部族が勢力を競っていた。1449年,[ 5 ]のが土木堡(どぼくほ)で明軍を破り,明のをとらえた()。これ以降,守勢に立った明はを築き,モンゴルの侵入に備えた。16世紀になると,モンゴルを統合した[ 4 ]のが侵入を繰り返し,1550年には明の都を包囲した。
[ 10 ]は,のチベット仏教(ラマ教)の信者となったことから,以降モンゴル人の間にチベット仏教が広まった。