の乱を鎮圧し,を領有した第4代皇帝は,(アムール川)方面に進出してきたロシアと戦い,年に条約を結び,川と(スタノヴォイ山脈)を両国の国境とした。また,オイラト系の部族である部と対決し,[ 3 ]は自ら遠征して外モンゴルを支配した。第5代皇帝は軍事機密を保持する目的でを設けるとともに,八旗制に改変を加えて君主(皇帝)独裁体制を整えた。対外的には,1727年にロシアと条約を結び,モンゴル方面の国境を画定し,交易場の設置などを決めた。第6代皇帝は,[ 9 ]部を滅ぼして東トルキスタン全域を占領し,これを「」(新しい領土)と名付けた。[ 13 ]のもと,18世紀半ばに清朝の領域は最大に達したが,これが今日の中国の領土の原型をなしている。第4代皇帝[ 3 ]から第6代皇帝[ 13 ]までが清の最盛期である。
(1)イギリスでは,[ 5 ]年にが制定された。(2)[ 11 ]はのちに政治の最高決定機関となった。(3)モンゴル・青海・チベット・[ 14 ]はとされ,理藩院によって統轄された。