ティムールは都を置いたに壮大なモスクなどを建造し,[ 1 ]は中央アジアの商業・学芸の中心として栄えた。また,ティムールがイラン人とトルコ人の世界を統一したことで,国で成熟したイラン=イスラーム文化が中央アジアへ伝えられ,文化として発展した。ティムール朝(帝国)の第4代は[ 1 ]に天文台を建設し,天文学や暦法も発達した。多数のトルコ語作品が生み出されたほか,(細密画)の傑作もつくられた。
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X-44. オスマン帝国の成立
西方に進出したトルコ人は,年に小アジア(アナトリア)西北部に帝国を建設した。[ 2 ]帝国は小アジアに残った帝国領を奪い,さらにバルカン半島に進出して(現在のエディルネ)を都とした。1396年にはの戦いで西欧諸国の連合軍を破ったが,1402年のの戦いでに敗れて捕虜となり,[ 2 ]帝国は分裂状態に陥った。その後再統一されたのち,1453年には,を占領して[ 3 ]帝国を滅ぼし,[ 10 ]を都と定めた。この都市はやがて,と呼ばれるようになった。
[ 3 ]帝国が滅んだ1453年に,西ヨーロッパでは,百年戦争が終結した。
X-45. オスマン帝国の拡大
16世紀初めに即位したオスマン帝国の第9代スルタンのは,イランにおこった新興の朝を撃退し,1517年に朝を滅ぼしてシリア・エジプトを支配下に置いた。その結果,[ 3 ]朝の管理下にあったイスラーム教の聖地であるとを支配下に置き,オスマン帝国は派イスラーム教の中心勢力となった。
(1)ドイツでは,1517年にルターがを発表した。(2)かつては,[ 3 ]朝を滅ぼした時にアッバース家カリフから禅譲を受け,スルタン=カリフ制が成立したといわれた。しかし,これを裏付ける史料はなく,スルタン=カリフ制の概念は,ヨーロッパ諸国の進出に対抗して内外のムスリムへの影響力を強めるために,18世紀末に主張されるようになったと,今日ではされている。
X-46. オスマン帝国最盛期
オスマン帝国は,第10代スルタンののもとで最盛期を迎えた。[ 1 ]はイランを支配していた朝から南イラクを奪い,北アフリカのチュニジア・アルジェリアも支配した。さらに,1526年のモハーチの戦いでを破って併合し,1529年にはを包囲してヨーロッパに脅威を与えた。年に,[ 1 ]はの海戦でローマ教皇・スペイン・ヴェネツィアなどの連合艦隊を破り,地中海の制海権を手にした。また,[ 1 ]は建築家シナンに命じ,首都のにスレイマン=モスクを建設した。
(1)[ 1 ]は,イタリア戦争において神聖ローマ皇帝と対立していたフランス王と,対ハプスブルク同盟を結んだ。[ 3 ]への攻撃や,[ 4 ]包囲はフランスに対する支援の意味もあった。苦境に立った[ 8 ]はルター派を一度は承認し,その後再禁止するといった態度を取り,ルターの宗教改革にも影響を与えた。なお,[ 4 ]包囲は2度行われ,[ 1 ]によるものが第1次で,第2次は1683年に行われた。(2)インドでは,1526年に帝国が成立した。
X-47. カピチュレーションとレパントの海戦
オスマン帝国の最盛期を築いたの子のセリム2世は,[ 1 ]が同盟を結んだフランスの商人に居住・通商の自由や治外法権などを認める通商特権()を認めた。セリム2世統治下の年,の海戦がおこり,スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇などの連合艦隊にオスマン海軍は敗れた。しかし,オスマン帝国の地中海における制海権に大きな変化はなく,その後もオスマン帝国はヨーロッパに対し優位を保った。1683年に行われた第2次包囲の失敗がオスマン帝国衰退のきっかけとなり,オスマン帝国とヨーロッパとの力関係は逆転した。オスマン帝国は,1699年の条約での大半をオーストリアに奪われ,さらに18世紀後半にはロシアに敗れて黒海北岸を失った。
(1)[ 2 ]は,のちにイギリスやオランダにも与えられた。もともとこの特権は,ヨーロッパを圧倒するオスマン帝国が恩恵として与えたものであったが,18世紀以降に力関係が逆転すると,ヨーロッパ諸国はオスマン帝国への侵略に利用するようになった。なおかつては,スレイマン1世がフランスに与えたのが最初であるとされていた。(2)[ 4 ]の海戦には,のちに『ドン=キホーテ』を書くスペインのが参加していた。
X-48. オスマン帝国による統治
オスマン帝国の軍事力は騎士(シパーヒー)と,スルタン直属の常備軍であるとからなっていた。騎士(シパーヒー)には,軍事奉仕の代償として土地の徴税権()を与えた。[ 1 ]は,バルカン半島進出後に,キリスト教子弟を強制徴用し,イスラームに改宗させて編成した歩兵集団である。1517年に朝を滅ぼしてメッカ・の保護権を得たオスマン帝国は,派イスラーム教の擁護者として,イスラーム法であるにもとづく政治を行った。オスマン帝国では,直轄領は州・県・郡にわけられ,官僚制度が整備されてスルタンによる専制と中央集権が行われた。一方,キリスト教徒やユダヤ教徒の共同体()は「」として保護され,自治が認められていた。
(1)[ 2 ]制は,朝が創始したイクター制を継承したものである。(2)キリスト教子弟を強制徴用する制度をデヴシルメというが,すべてが[ 1 ]になったわけではなく,スルタン直属の高級官僚となったものもいる。(3)1492年の(国土回復運動)完了後,スペインはユダヤ教徒を追放したが,追放されたユダヤ人の多くはオスマン帝国に移住した。(4)シュメール人の聖塔は,モスクに付属する尖塔は。[ 7 ]に似てるので注意!!
X-49. サファヴィー朝
ティムール帝国が衰えたのち,イランでは神秘主義教団の教主が,1501年にを都として朝を開いた。建国後,[ 3 ]朝は過激思想からの脱却を図り,派の中でも穏健な派を国教とし,派のオスマン帝国と対抗した。この後,イランでは[ 4 ]派が主流となった。また[ 3 ]朝は,イランで古代以来王を意味するの称号を用い,イラン人の民族意識の高揚に努めた。
X-50. アッバース1世
サファヴィー朝は,(位1587~1629)のもとで最盛期を迎えた。[ 1 ]は帝国からアゼルバイジャンとイラクの一部を奪還し,ポルトガル人を島から追放した。さらに,新首都を建設して,「王のモスク(イマームのモスク)」をはじめとする壮麗な建築物を建てた。[ 1 ]統治下では,アルメニア商人の活躍によって国際商業が活性化し,「[ 4 ]は世界の半分」といわれるほど繁栄した。しかし,[ 1 ]死後,王朝は衰え,[ 2 ]にイラクを奪われた。
サファヴィー朝は,18世紀前半にアフガン人の侵入により滅亡した。
X-51. アフリカ東海岸
アフリカの東海岸部は,8世紀頃からインド洋交易に従事するムスリム商人が渡来するようになり,北から順に・モンバサ・ザンジバル・などの海港都市が交易の拠点として発達した。これらの海岸地帯では,アラビア語と現地の語が混交して出来た共通語語が生みだされ,イスラームとアラビア半島やインドの文化の影響を受けた[ 4 ]文化も形成された。さらに南方の現在のジンバブエを中心に,11世紀頃に王国がおこり,金や象牙を輸出し綿布を輸入するインド洋交易で栄えた。この地域には,巨大な石造建築であるジンバブエ遺跡群が残されている。
(1)15世紀前半に明のの艦隊は[ 1 ]を訪れた。また15世紀末に,ポルトガルのは[ 1 ]でムスリムの水先案内人を雇い,インドへ向かった。(2)ジンバブエとは,「石の家」の意味。