カテゴリー別アーカイブ: イスラーム世界の展開

X-43. ティムール朝(帝国)の繁栄

ティムールは都を置いた [ 1.サマルカンド ] に壮大なモスクなどを建造し,[ 1 ]は中央アジアの商業・学芸の中心として栄えた。また,ティムールがイラン人とトルコ人の世界を統一したことで, [ 2.イル=ハン ] 国で成熟したイラン=イスラーム文化が中央アジアへ伝えられ, [ 3.トルコ=イスラーム ] 文化として発展した。ティムール朝(帝国)の第4代 [ 4.ウルグ=ベク ] は[ 1 ]に天文台を建設し,天文学や暦法も発達した。多数のトルコ語作品が生み出されたほか, [ 5.ミニアチュール ] (細密画)の傑作もつくられた。

X-44. オスマン帝国の成立

西方に進出したトルコ人は, [ 1.1299 ] 年に小アジア(アナトリア)西北部に [ 2.オスマン ] 帝国を建設した。[ 2 ]帝国は小アジアに残った [ 3.ビザンツ ] 帝国領を奪い,さらにバルカン半島に進出して [ 4.アドリアノープル ] (現在のエディルネ)を都とした。1396年に [ 5.バヤジッド1世 ] [ 6.ニコポリス ] の戦いで西欧諸国の連合軍を破ったが,1402年の [ 7.アンカラ ] の戦いで [ 8.ティムール ] に敗れて捕虜となり,[ 2 ]帝国は分裂状態に陥った。その後再統一されたのち,1453年に [ 9.メフメト2世 ] は, [ 10.コンスタンティノープル ] を占領して[ 3 ]帝国を滅ぼし,[ 10 ]を都と定めた。この都市はやがて, [ 11.イスタンブル ] と呼ばれるようになった。
check_icon6[ 3 ]帝国が滅んだ1453年に,西ヨーロッパでは,百年戦争が終結した。

X-45. オスマン帝国の拡大

16世紀初めに即位したオスマン帝国の第9代スルタンの [ 1.セリム1世 ] は,イランにおこった新興の [ 2.サファヴィー ] 朝を撃退し,1517年に [ 3.マムルーク ] 朝を滅ぼしてシリア・エジプトを支配下に置いた。その結果,[ 3 ]朝の管理下にあったイスラーム教の聖地である [ 4.メッカ ] [ 5.メディナ ] を支配下に置き,オスマン帝国は [ 6.スンナ ] 派イスラーム教の中心勢力となった。
check_icon6(1)ドイツでは,1517年にルターが [ 7.九十五カ条の論題 ] を発表した。(2)かつては,[ 3 ]朝を滅ぼした時にアッバース家カリフから禅譲を受け,スルタン=カリフ制が成立したといわれた。しかし,これを裏付ける史料はなく,スルタン=カリフ制の概念は,ヨーロッパ諸国の進出に対抗して内外のムスリムへの影響力を強めるために,18世紀末に主張されるようになったと,今日ではされている。

X-46. オスマン帝国最盛期

オスマン帝国は,第10代スルタンの [ 1.スレイマン1世 ] のもとで最盛期を迎えた。[ 1 ]はイランを支配していた [ 2.サファヴィー ] 朝から南イラクを奪い,北アフリカのチュニジア・アルジェリアも支配した。さらに,1526年のモハーチの戦いで [ 3.ハンガリー ] を破って併合し,1529年には [ 4.ウィーン ] を包囲してヨーロッパに脅威を与えた。 [ 5.1538 ] 年に,[ 1 ]は [ 6.プレヴェザ ] の海戦でローマ教皇・スペイン・ヴェネツィアなどの連合艦隊を破り,地中海の制海権を手にした。また,[ 1 ]は建築家シナンに命じ,首都の [ 7.イスタンブル ] にスレイマン=モスクを建設した。
check_icon6(1)[ 1 ]は,イタリア戦争において神聖ローマ皇帝 [ 8.カール5世 ] と対立していたフランス王 [ 9.フランソワ1世 ] と,対ハプスブルク同盟を結んだ。[ 3 ]への攻撃や,[ 4 ]包囲はフランスに対する支援の意味もあった。苦境に立った[ 8 ]はルター派を一度は承認し,その後再禁止するといった態度を取り,ルターの宗教改革にも影響を与えた。なお,[ 4 ]包囲は2度行われ,[ 1 ]によるものが第1次で,第2次は1683年に行われた。(2)インドでは,1526年に [ 10.ムガル ] 帝国が成立した。

X-47. カピチュレーションとレパントの海戦

オスマン帝国の最盛期を築いた [ 1.スレイマン1世 ] の子のセリム2世は,[ 1 ]が同盟を結んだフランスの商人に居住・通商の自由や治外法権などを認める通商特権( [ 2.カピチュレーション ] )を認めた。セリム2世統治下の [ 3.1571 ] 年, [ 4.レパント ] の海戦がおこり,スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇などの連合艦隊にオスマン海軍は敗れた。しかし,オスマン帝国の地中海における制海権に大きな変化はなく,その後もオスマン帝国はヨーロッパに対し優位を保った。1683年に行われた第2次 [ 5.ウィーン ] 包囲の失敗がオスマン帝国衰退のきっかけとなり,オスマン帝国とヨーロッパとの力関係は逆転した。オスマン帝国は,1699年の [ 6.カルロヴィッツ ] 条約で [ 7.ハンガリー ] の大半をオーストリアに奪われ,さらに18世紀後半にはロシアに敗れて黒海北岸を失った。
check_icon6(1)[ 2 ]は,のちにイギリスやオランダにも与えられた。もともとこの特権は,ヨーロッパを圧倒するオスマン帝国が恩恵として与えたものであったが,18世紀以降に力関係が逆転すると,ヨーロッパ諸国はオスマン帝国への侵略に利用するようになった。なおかつては,スレイマン1世がフランスに与えたのが最初であるとされていた。(2)[ 4 ]の海戦には,のちに『ドン=キホーテ』を書くスペインの [ 8.セルバンテス ] が参加していた。

X-48. オスマン帝国による統治

オスマン帝国の軍事力は騎士(シパーヒー)と,スルタン直属の常備軍である [ 1.イェニチェリ ] とからなっていた。騎士(シパーヒー)には,軍事奉仕の代償として土地の徴税権( [ 2.ティマール ] )を与えた。[ 1 ]は,バルカン半島進出後に,キリスト教子弟を強制徴用し,イスラームに改宗させて編成した歩兵集団である。1517年に [ 3.マムルーク ] 朝を滅ぼしてメッカ・ [ 4.メディナ ] の保護権を得たオスマン帝国は, [ 5.スンナ ] 派イスラーム教の擁護者として,イスラーム法である [ 6.シャリーア ] にもとづく政治を行った。オスマン帝国では,直轄領は州・県・郡にわけられ,官僚制度が整備されてスルタンによる専制と中央集権が行われた。一方,キリスト教徒やユダヤ教徒の共同体( [ 7.ミッレト ] )は「 [ 8.啓典の民 ] 」として保護され,自治が認められていた。
check_icon6(1)[ 2 ]制は, [ 9.ブワイフ ] 朝が創始したイクター制を継承したものである。(2)キリスト教子弟を強制徴用する制度をデヴシルメというが,すべてが[ 1 ]になったわけではなく,スルタン直属の高級官僚となったものもいる。(3)1492年の [ 10.レコンキスタ ] (国土回復運動)完了後,スペインはユダヤ教徒を追放したが,追放されたユダヤ人の多くはオスマン帝国に移住した。(4)シュメール人の聖塔は [ 11.ジッグラト ] ,モスクに付属する尖塔は [ 12.ミナレット ] 。[ 7 ]に似てるので注意!!

X-49. サファヴィー朝

ティムール帝国が衰えたのち,イランでは神秘主義教団の教主 [ 1.イスマーイール1世 ] が,1501年に [ 2.タブリーズ ] を都として [ 3.サファヴィー ] 朝を開いた。建国後,[ 3 ]朝は過激思想からの脱却を図り, [ 4.シーア ] 派の中でも穏健な [ 5.十二イマーム ] 派を国教とし, [ 6.スンナ ] 派のオスマン帝国と対抗した。この後,イランでは[ 4 ]派が主流となった。また[ 3 ]朝は,イランで古代以来王を意味する [ 7.シャー ] の称号を用い,イラン人の民族意識の高揚に努めた。

X-50. アッバース1世

サファヴィー朝は, [ 1.アッバース1世 ] (位1587~1629)のもとで最盛期を迎えた。[ 1 ]は [ 2.オスマン ] 帝国からアゼルバイジャンとイラクの一部を奪還し,ポルトガル人を [ 3.ホルムズ ] 島から追放した。さらに,新首都 [ 4.イスファハーン ] を建設して,「王のモスク(イマームのモスク)」をはじめとする壮麗な建築物を建てた。[ 1 ]統治下では,アルメニア商人の活躍によって国際商業が活性化し,「[ 4 ]は世界の半分」といわれるほど繁栄した。しかし,[ 1 ]死後,王朝は衰え,[ 2 ]にイラクを奪われた。
check_icon6サファヴィー朝は,18世紀前半にアフガン人の侵入により滅亡した。

X-51. アフリカ東海岸

アフリカの東海岸部は,8世紀頃からインド洋交易に従事するムスリム商人が渡来するようになり,北から順に [ 1.マリンディ ] ・モンバサ・ザンジバル・ [ 2.キルワ ] などの海港都市が交易の拠点として発達した。これらの海岸地帯では,アラビア語と現地の [ 3.バントゥー ] 語が混交して出来た共通語 [ 4.スワヒリ ] 語が生みだされ,イスラームとアラビア半島やインドの文化の影響を受けた[ 4 ]文化も形成された。さらに南方の現在のジンバブエを中心に,11世紀頃に [ 5.モノモタパ ] 王国がおこり,金や象牙を輸出し綿布を輸入するインド洋交易で栄えた。この地域には,巨大な石造建築であるジンバブエ遺跡群が残されている。
check_icon6(1)15世紀前半に明の [ 6.鄭和 ] の艦隊は[ 1 ]を訪れた。また15世紀末に,ポルトガルの [ 7.ヴァスコ=ダ=ガマ ] は[ 1 ]でムスリムの水先案内人を雇い,インドへ向かった。(2)ジンバブエとは,「石の家」の意味。