ユーラシア大陸南東部にあたる東南アジアは,半島の大陸部と,半島から現在のやフィリピンの島々までの島嶼(とうしょ)部に分けられる。気候的には,高温多湿の熱帯から亜熱帯に属す。大陸部には稲作に適した平原が広がり,島嶼部では諸島にみられるような香辛料などの国際的商品を生みだした。東南アジアは,古くはインドや中国の影響を受け,ついでイスラームの影響を受けつつ独自の文明を築いていった。16世紀には西欧諸国が進出した。19世紀になると,世界市場に組み込まれ,大陸部では稲を中心とする農業開発が進み,島嶼部の[ 2 ]半島では錫(すず)や,自動車生産にともないなどの資源開発が進んだ。東南アジア諸国は,を除き欧米の植民地とされたのち,第二次世界大戦後に独立した。
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XI-20. 中国文明の影響と海の道
前4世紀頃,中国の青銅器文化の影響のもと,ベトナム北部を中心に文化という金属器文化が生まれた。[ 1 ]文化特有の青銅器であるは中国南部から東南アジア各地で発見されており,当時の交易の広がりが見て取れる。紀元前後,インド洋交易によって栄えた朝(アーンドラ王国)をはじめとする南インド諸王国の船が香辛料などを求めて,東南アジアに来航した。また,前漢の武帝はベトナム北部に,ベトナム中部にを設置して,南海交易の拠点とした。2世紀半ばには,五賢帝最後のローマ皇帝の使者を称するものが[ 5 ]に来航したという記述が『』にあり,海の道による東西交易の様子が見て取れる。
XI-21. 中国支配下のベトナム
前漢の武帝が,南越を倒してベトナム北部に,ベトナム中部にを設置して以来,ベトナムは1000年以上にわたり中国の支配下に置かれた。後漢のの時には,ベトナム北部で徴(チュン)姉妹の反乱という民族的反抗がおきたが,鎮圧された。唐代には,がベトナム北部を統治したが,唐末五代の中国の混乱期にベトナム人は独立を果たした。一方,ベトナムの中部では,2世紀に人が中国の後漢の支配から独立し,を建てた。中国では[ 6 ]を,2~8世紀頃までは,8世紀半ばからは環王,9世紀半ばからはと呼んだ。[ 6 ]は15世紀後半に大越の支配下に入り,17世紀に滅亡した。
宋代の中国に導入された日照りに強い早稲種の[ 8 ]稲は,[ 6 ]原産である。
XI-22. ベトナムの独立王朝-大越国-
中国が唐末五代の混乱期に入ると,ベトナムでも自立の動きが強まった。ベトナムは,10世紀後半に独立し,1009年にが成立し,国号をとし,ハノイに都を置いた。[ 1 ]は侵入してきた中国の軍を撃退し,ベトナム中部にあったを攻撃して南進した。[ 1 ]にかわって1225年に成立した[ 2 ]は,中国のの侵攻を3度撃退し,さらに漢字をもとに考案したと呼ばれるベトナム独自の文字をつくり,民族意識を高揚させた。[ 5 ]は,科挙を導入し,中国風の行政制度を整備した。1400年に[ 5 ]が国内の混乱で滅ぶと,の永楽帝が[ 5 ]復興を口実に軍隊を派遣し,一時ベトナムを支配した。その後,[ 8 ]軍を撃退して1428年に成立した[ 2 ]は,[ 8 ]と朝貢関係を結び,朱子学を導入し,また律令制度を整備し,明にならった中央集権国家を建設した。[ 9 ]はベトナム中部にあったを併合し,現在のベトナムに近い領域を支配した。しかし,16世紀以降,[ 9 ]は名目的存在となり,17世紀以降は北部の鄭氏と中部の阮氏が勢力を二分した。18世紀後半に党の農民反乱が起き,両氏が滅びるとともに,[ 9 ]も滅亡した。
(1)[ 1 ][ 5 ][ 9 ]とも中国の侵攻を撃退していることに注意!!(2)[ 5 ]が成立した1225年は,ゴロで「いつニコチンやめる」と覚えよう!!
XI-23. ベトナムの独立王朝-越南国-
ベトナムでは,18世紀後半にの反乱が起き,[ 1 ]朝が一時ベトナム全土を支配した。これに対し,[ 1 ]党に滅ぼされた氏の生き残りのは,フランス人宣教師やタイの援助を受けて,[ 1 ]朝を滅ぼし,1802年にフエ(ユエ)に都をおく[ 2 ]朝を建て,国号をと定めた。1804年,[ 3 ]は清により[ 5 ]国王として冊封を受け,清の制度を導入した。
XI-24. カンボジア
1世紀頃,ベトナム南部からカンボジア南部のメコンデルタに国家であるが建国された。[ 2 ]の港からは,漢の鏡,インドの仏像・神像やローマの金貨などが出土した。6世紀にメコン川中流域に人によって(中国名:)がおこると,[ 2 ]はこれに圧倒されて7世紀に滅んだ。8世紀,[ 5 ]([ 6 ])は北の陸[ 6 ]と南の水(すい)[ 6 ]に分かれて争い国力を消耗させたが,9世紀初めに成立した朝が再統一を果たした。12世紀に最盛期を迎えた[ 7 ]朝は,王都であるやヒンドゥー教寺院であるを建設した。[ 7 ]朝は,14世紀以降,タイの朝に圧迫されて衰退した。
(1)[ 1 ]国家とは,[ 1 ](港町)を中心に中継貿易などで発展した国家。[ 2 ]やスマトラ島の,ベトナム中部のなどがこれにあたる。(2)[ 9 ]は,のちに仏教寺院に改修された。
XI-25. ビルマ(ミャンマー)
イラワディ川流域では,9世紀までチベット=ビルマ(ミャンマー)系の人の国があった。南下したビルマ人が,1044年にイラワディ川中流域にビルマ最初の統一王朝である朝を建てた。[ 2 ]朝は,雲南とベンガル湾を結ぶ交易で繁栄し,スリランカからを導入した。しかし,中国の軍の攻撃を受けて,[ 2 ]朝は13世紀末に滅亡した。その後,ビルマは分裂していたが,16世紀に朝がビルマの統一に成功した。[ 5 ]朝は東南アジア内陸部とベンガル湾を結ぶ交易と農業で繁栄し,タイの朝を攻略し,一時は現在のタイ・ラオスの大半を支配した。しかし,17世紀に[ 6 ]朝の反撃にあい衰退し,18世紀半ばに人のペグ-朝によって滅ぼされた。1752年,ビルマ人のアラウンパヤーが(アラウンパヤー)朝を建てた。[ 8 ]朝はほぼ現在のミャンマーの領域を支配した上,海岸部の[ 7 ]人を征服し,さらにタイの[ 6 ]朝を滅ぼした。しかし,[ 8 ]朝は,19世紀におきた3次におよぶ戦争でイギリスに敗れ,インド帝国に併合された。
[ 8 ]朝が成立した1752年は,ゴロで「イナゴにこんばんは」と覚えよう!!
XI-26. タイ
タイのチャオプラヤ川流域は7世紀から11世紀頃まで人のが支配し,が盛んに行われた。雲南方面から南下してきたタイ人は,13世紀半ばに最初の王朝である朝をタイ北部におこし,[ 3 ]を受容し,タイ文字を制定した。1351年に成立したタイ人の朝は,クメール人がカンボジアに建てた朝を15世紀に滅ぼし,また[ 4 ]朝を併合した。17世紀に[ 5 ]朝は,中国・日本やヨーロッパ諸国との交易の中心として栄え,[ 3 ]を保護した。[ 5 ]朝は,1767年にビルマの朝に滅ぼされた。1782年に[ 5 ]朝の武将であったチャクリがバンコクを都とする朝をおこし,ビルマの[ 7 ]朝の侵入を撃退した。[ 8 ]朝は,現在まで続くタイの王朝である。
(1)「タイ」という国号は1939年からのもので,旧称はヨーロッパ人が[ 5 ]朝を指す呼称として用いた「シャム」である。(2)[ 5 ]朝が成立した1351年は,ゴロで「鮎じゃないよ,父さん鯉だよ」と覚えよう!!
XI-27. インドネシア-海路を支配する仏教王国-
マレー半島とスマトラ島にはさまれたマラッカ海峡が主要な交易ルートになると,7世紀半ばに港市国家群が連合してスマトラ島のを中心に,を建てた。[ 2 ]は,マラッカ海峡を管理し,マレー半島南部やジャワの一部も支配した。[ 2 ]はインドからを導入し,唐に朝貢使節を派遣した。唐の僧は帰国途上で[ 2 ]を訪れ,[ 1 ]で『』を著した。8世紀半ばに,ジャワ島中部に朝が生まれると,[ 2 ]と合邦し,強力な海軍力で東南アジアの海路を支配した。[ 6 ]朝は,ジャワ島中部のに[ 3 ]寺院を建設した。
6世紀までは,「海の道」はマレー半島を横断する陸路を途中で用いるルートが主要な交易ルートで,カンボジア南部にある扶南のはそのルート上に当たり繁栄していた。しかし,7世紀に交易ルートがマラッカ海峡ルートにかわると,扶南が衰退した。
XI-28. インドネシア-ヒンドゥー教国-
仏教遺跡ボロブドゥールを建設した仏教王国朝ののち,ジャワではヒンドゥー王国が続いた。8世紀,中部ジャワにジャワ人が朝を建て,ヒンドゥー教を取り入れ,寺院群を建設した。10世紀に[ 2 ]はジャワ東部に中心を移し,クディリ朝と称した。クディリ朝では,インドの叙事詩『マハーバーラタ』がジャワ語に翻訳され,と呼ばれる影絵芝居が行われた。1222年にクディリ朝はシンガサリ朝に倒された。ジャワ東部に栄えたシンガサリ朝は,元を建てたの朝貢勧告を拒み,元軍のジャワ遠征のきっかけを作った。シンガサリ朝は,元の遠征軍の到着を待たずに内乱で1292年に滅んだ。元の遠征軍を撃退した勢力がジャワ東部に建てたのが,王国である。[ 6 ]王国は海上交易で繁栄し,一時はマラッカ海峡からインドネシア全域の交易を支配したが,15世紀後半からのイスラーム勢力の進出で衰退し,16世紀前半に滅亡した。[ 6 ]王国は,ジャワ島の有力なヒンドゥー教国としては最後のものとなった。
[ 2 ]は,16世紀後半に成立したイスラームのマタラム王国と区別するため,古マタラム朝と呼ばれる。