南アジア世界は,現在のインド・パキスタン・バングラデシュ・ネパール・ブータン・スリランカ・モルジブの7か国からなる地域である。インド洋からの(季節風)が雨をもたらす湿潤な気候である。民族は大きく二つに分かれる。先住の民族が系で,前1500年頃に西北インドに侵入したのがインド=ヨーロッパ語族の系である。宗教は非常に多様である。現在のインドの約8割近くを占める教,現在のパキスタンの国教となっている教,ほかにシク教・仏教・ジャイナ教・キリスト教など多くの宗教が信仰されている。
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XI-2. インダス文明
インド亜大陸の最も古い文明は,前2500年頃におこったインダス文明である。代表的な遺跡には,インダス川下流域のシンド地方にある,インダス川中流域の地方にある,1990年にインド西部のカッチ湿原で発掘されたなどがある。それらの遺跡は,沐浴場・穀物倉庫・排水溝などをともなった,綿密に設計された都市であった。印章に刻まれた象形文字であるが発見されているが,未解読である。そのため,インダス文明を築いた民族については,先住の系とする説もあるが,まだ定説はない。インダス文明は,前1800年頃から衰退したが,その理由については分かっていない。
[ 2 ]と[ 3 ]の組合せは,「ハラッパーのパンジャーブ」と「パ」の字が続くと覚えよう。
XI-3. アーリヤ人の侵入
インドと中央アジアを結ぶ交通の要衝である峠を越えて,前1500年頃からインド=ヨーロッパ語系の牧畜民である人が西北インドの地方に侵入するようになり,農耕に従事する先住民を征服した。前1000年頃に[ 2 ]人はより肥沃な川流域に移動し,牧畜社会から定住農耕社会へ移行した。青銅器に代わり鉄器を用い,広大な稲作地帯を形成した。この結果,王侯・武士や司祭といった生産にたずさわらない階層が生まれ,王が人々を支配するようになった。[ 2 ]人は,雷などの自然神を崇拝し,神々をたたえる賛歌集であるインド最古の聖典『』をはじめ,4つのを生み出し,バラモン教の聖典となった。前1500年から前600年頃までは,[ 6 ]時代と呼ばれる。
XI-4. カースト制
インド=ヨーロッパ語系の人は,移動した土地の先住民とまじわって,四つの(種姓)からなる身分的上下関係を作り上げた。支配身分は(司祭)と(武士),従属身分は(農民・牧畜民・商人など)と(隷属民)という四つの身分からなっていた。その後,「生まれ」を意味する何千にもおよぶが形成され,[ 2 ]と融合して,インド独自の社会制度として知られる制が成立した。なお,「[ 8 ]」という語は「血統」を意味するポルトガル語の「カスタ」に由来するもので,インドでは[ 7 ]という言葉が使われる。
四つの[ 2 ]の下には,[ 2 ]制の枠外に置かれるとされる被差別民が存在する。
XI-5. 宗教の新たな展開
前5世紀頃に,シャカ族の王子(尊称はブッダ)は,形式化した教の儀礼や教義を批判して,仏教をおこした。それは,徹底した無常観に立ち,八正道の実践によるを説くものであった。クシャトリヤ出身の(尊称はマハーヴィーラ)がおこした教は,禁欲・苦行と極端な不殺生主義を強調するもので,特に商人に受け入れられた。仏教と[ 5 ]教は[ 2 ]の権威を否定し,カースト制を否定するものであった。こうした動きに対して,[ 2 ]教の中からもそれまでの祭式至上主義を見直す動きが出て,哲学書『』(奥義書)が編纂され,宇宙の根本原理(ブラーフマナ)と個人の我(アートマン)を合一することによる輪廻転生からの[ 3 ]を説いた。
ゾロアスター教の暗黒の神・悪の神は,『[ 6 ]』の我はアートマン。ペルシア人とアーリヤ人はどちらもインド=ヨーロッパ語族で,似ているので注意!!
XI-6. 最初の統一王朝
前6世紀頃に形成された城壁を持った都市国家群は,コーサラ国と国の二大国にまとまり,前5世紀には[ 1 ]国がコーサラ国を併合した。[ 1 ]国は,インダス川西岸に進出してきた朝ペルシアと接していた。前4世紀後半にマケドニアの大王が[ 2 ]朝を倒して西北インドにまで進出したが,この事件はインドの政治状況に大きな影響を与え,[ 1 ]国の武将が,前317年頃にを都とする朝を建てた。[ 6 ]朝は,インド最初の統一王朝で,西はアフガニスタン南部,東はガンジス川下流域,南は高原を支配する大帝国となった。
中国では古代の時代から多くの歴史書が著されてきたが,輪廻転生の世界観をもっているインドの人々は歴史を書き残すことはしていない。そのため,インド史においては年代の特定が困難で,6世紀までの事件については「何年頃」というように表記される。
XI-7. マウリヤ朝最盛期
前317年頃に成立した朝の最盛期を築いたのは,第3代王であった。[ 2 ]王の時に[ 1 ]朝の領域は最大となり,南端部を除くほぼ全インドを支配した。[ 2 ]王は,インド東部にあったカリンガ国を征服する際の惨状を後悔し,仏教に帰依するようになった。[ 2 ]王は,武力による征服活動を放棄し,(法,社会倫理)による統治をめざし,各地に[ 3 ]を説いた詔勅を刻んだ磨崖碑やを建てた。また,や,(セイロン島)への布教を行った。しかし,[ 2 ]王死後,バラモンなどの非仏教勢力の反発と,国家財政の破綻によって衰退した。
(1)[ 5 ]は,ブッダの死直後に第1回が行われ,その約100年後に第2回が行われているため,[ 2 ]王のものは第3回である。(2)アショーカ王はブッダの遺骨(仏舎利)を納める(仏塔)を各地に建てた。
XI-8. クシャーナ朝
マウリヤ朝が衰退すると,北西インドにギリシア系のやイラン系のサカ族などが侵入してきた。後1世紀になると,大月氏の支配下にあったイラン系のクシャーン人が西北インドに入って朝を建てた。[ 2 ]朝は,2世紀半ばの王の時に最盛期を迎え,中央アジアからガンジス川中流域に及ぶ地域を支配し,を都に定めた。[ 2 ]朝は,東西交易路の要衝にあり,中継貿易で栄えた。[ 3 ]王は仏教を保護し,(第4回)を行った。3世紀,[ 2 ]朝は西アジアに成立した朝の攻撃を受け,衰退した。
XI-9. 仏教の新展開
紀元前後に仏教に新たな動きが見られた。それまでの仏教は,出家者が厳しい修行を行って自らの救済を求めるものであった。これに対して,あらゆる人々の救済を求めて修行するを信仰するがおこった。[ 2 ]は,それまでの仏教は自身の救済のみを求める利己的なものであると批判し,と呼んだ。2世紀頃,が[ 2 ]の教理を体系化した。[ 2 ]はクシャーナ朝の保護を受けたが,中央アジアを経て,中国・朝鮮・日本に伝来し,北伝仏教と呼ばれる。このころ,文化の影響を受けて仏像がつくられるようになった。美術と呼ばれる仏教美術は,[ 2 ]とともに中国・日本にも影響を与えた。一方,それまでの仏教は,教団が多数に分裂しと呼ばれるが,そのうちの一派であるがスリランカに伝わって東南アジアの仏教のもととなったため,南伝仏教といわれる。
以前は[ 6 ]でギリシア人が「初めて」仏像を造ったといわれていた。だが現在では,インド北部の都市マトゥラーで造られた純インド風の仏像の方が[ 6 ]より古いとみなされるようになった。マトゥラーの仏像はグプタ様式へつながる。
XI-10. 南インドの王朝
1世紀頃,モンスーン(季節風)を利用してアラビア海を横断する航海法が開発され,海の東西交渉がさかんとなった。特に,ローマとの貿易は重要で,ギリシア人航海者が著した『』によると,・絹がローマに輸出され,ローマからはやガラス器などがもたらされた。こうした海の道を通じた交易の発展に応じて,南インドの諸王朝が建設された。前1世紀頃,高原に成立した系アーンドラ族の(前1世紀~後3世紀)は海上交易で栄えた。さらに,南インドに成立した[ 5 ]系人の朝(前3~後13世紀)も海上交易で栄え,最盛期の10~11世紀にはスマトラ島のまで遠征した。南インドの最南端にあったドラヴィダ系のパーンディヤ朝(前3世紀頃~後14世紀)は,独自のタミル文化を発達させ,ローマとの交易でも知られる。